元明天皇から元正天皇への譲位は「女系」継承なのか?──女系・双系派の高森明勅、義江明子両氏に学び、かつ批判する(令和8年4月7日)
(画像は継嗣令@日本思想大系)
元明天皇から元正天皇への皇位継承を「女系」継承と断定する女系・双系派の識者がいる。
たとえば、女系派の論客・高森明勅氏である。nippon.comには、同氏への取材をもとにした「日本本来の皇位継承は男系も女系も容認の『双系』」(斉藤勝久・元読売新聞記者)と題する記事が載っている。
「女帝の母から継いだから女系天皇も存在した」
「奈良時代、女帝・元明天皇の後に長女の元正天皇が即位した。元正天皇は母親だけが天皇で、父親は皇族だが即位していないので、当時の律令の規定にある『女帝の子』に該当し、母親の血筋で内親王とされた」
元正天皇は、「女系」継承による「女系天皇」である。継嗣令皇兄弟条の本註「女帝の子」に該当する、という主張である。根拠は継嗣令ということである。「女帝の子」という規定があるからには、女系継承、女系天皇が認められていたという推論である。
なるほど元明天皇から元正天皇への皇位継承は、「母」から「娘」への継承で、少なくとも外形上、「女系継承」と解釈し得る。継嗣令第1条本註の「女帝の子」のケースに見える。一見、話の筋は通っているように見える。
同様に、継嗣令を根拠に、古代律令が女帝の即位と女帝の子の即位を認めており、両女帝の即位は合法的に行われたと主張する研究者は少なくない。高森氏だけではない。しかしその主張は妥当なのか?
すでに書いたように、皇室典範有識者会議のメンバーだった笹山晴生・東京大学名誉教授(日本古代史)は継嗣令の本註を「女帝の子も亦同じ」ではなくて、「女(ひめみこ)も帝の子、また同じ」と読む。これだと、継嗣令が女帝継承の根拠とはならない。
◇1 「皇室典範有識者会議」報告書の定義
問題のひとつは、皇統史の枠組みで、「女系継承」「女系天皇」という場合の「女系」の定義かと思われる。何をもって「女系」と呼ぶのか、である。「女系の継承」を指すのか、「女系の天皇」を指すのか? 母から子への継承はすべて「女系」なのか?
「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」と結論づけた、平成17年11月の「皇室典範有識者会議」報告書の冒頭に「基本的用語の説明」があり、「男系・女系」の定義が載っている。
これによると、「天皇と男性のみでつながる子孫」を「男系子孫」とし、男系子孫以外のつながりを「女系」と呼んでいる。「女系天皇」についてはとくに説明はない。
〈https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3531374_po_houkoku.pdf?contentNo=1〉
この定義に従えば、元正天皇は「男系の天皇」なのか、それとも「女系の天皇」なのか? 元明天皇から元正天皇への継承は「女系の継承」なのか?
元正天皇の母・元明天皇は、父が天智天皇で、母は蘇我石川麻呂の娘である。父方の祖父は舒明天皇、祖母は皇極天皇であるから、男系女子ということになる。男系の天皇ということになる。
元正天皇は父が草壁皇子である。草壁皇子は天武天皇の皇子で、皇太子とはなったが、早世し、即位には至らなかった。皇統に連なる男系男子であった。元正天皇は、男系男子の父と男系女子の母との間に生まれたのであり、父方から見れば、男系女子ということになる。「女系」ではない。「女系継承」ではないといえる。
ただ、興味深いことに、報告書の定義は、「男系女系を問わず、女子の子孫は女系となる」と補足している。この定義が微妙で、母方から見れば、女性天皇である元明天皇の皇女子で、母から皇位を継承した元正天皇は「女系」ということになる。高森氏の主張の根拠はこれだろうか?
そして、独身・寡婦の女帝による「中継ぎ」論が生まれる理由もここにあるのだろう。
続日本紀に記載される元明天皇の詔には、天皇は政治への心労がおありで、皇太子への譲位を願ったが、首皇子は年歯も行かず、幼い。それで、「皇帝の位を内親王に伝える」とある。
先述した笹山氏を校註者のひとりとする『続日本紀1』(新日本古典文学大系)の補注(笹山氏を含む四人の共同校註)は、背景には氏族間の激しい政争があった。元明天皇や藤原不比等らは、藤原氏を母とする首皇子の即位に対する皇族や官人の反発を考慮し、皇子の即位を延ばして、元正天皇に皇位を中継ぎさせたものかと思われる、と説明している。
しかし高森氏はこの「中継ぎ」説を否定する。むしろ正当な「女系継承」と見ている。
元正天皇は約8年後、首皇太子に譲位されたが、そののちも、独身を貫かれた。つまり、元正天皇即位のケースは、子孫への「皇位継承」を予定しない「皇位継承」であった。これは「女系継承」というべきかどうか?
◇2 義江明子・帝京大学名誉教授の皇位継承論
既述したように、元正天皇が、律令の定めに従って、元明天皇の「女帝の子」だから皇位継承した、という理解が妥当なのかという疑問もある。
むろん元正天皇は「女帝の子」である。けれども、律令は「女帝の子」を規定していないからである。すでに書いたように、継嗣令の本註「女帝子亦同」は「女帝の子」と読むべきではないと指摘されるからである。
「女(ひめみこ)も帝の子」と読み、「皇女も天皇の子女だから、親王と同様、『内親王』として待遇せよ」と解釈すべきだと指摘されるからである。本来、継嗣令は皇位継承規定ではなく、皇族の範囲を定めた規定である。
既述したように、『続日本紀』に載る元明天皇の譲位の詔には、「位を内親王に」と記録されている。元正天皇は、天武天皇9(680)年に草壁皇子の皇女子として生まれた時点で、内親王として遇されていたらしい。元明天皇が即位し、その時点で「女帝の子」となり、だから内親王とされたのではないことになる。
元明天皇の即位は慶雲4(707)年で、元正天皇に譲位されたのは霊亀元(715)年である。大宝律令が完成したのは大宝元(701)年だが、これを継承したとされる養老律令の撰集作業が続き、養老律令は天平宝字元(757)年に施行される。律令の原文は伝えられていない。大宝律令に「女帝の子」の「規定」があり、元正天皇はその「規定」に基づいて皇位継承したといえるのかどうか?
当時、「男系継承」の原則はなかったとする学問研究もある。それによると、古代律令以前は、男系ではなく、双系であり、古代中国の影響を受けて、男系に変わったと理解されている。
たとえば、義江明子・帝京大学名誉教授(古代日本史)である。
やはりnippon.comに、板倉君枝・編集部スタッフによる「古代女性史から解き明かす皇位継承のジェンダーバイアス」と題する記事が載っている。
板倉氏の記事によると、「2000年に入るころから、古代日本の女性首長や女性天皇に関する多くの本が刊行されるようになった」。2000年といえば平成12年、「皇統の危機」を背景に、女帝を容認する皇室典範改正がメディアに掲載されるようになっていたころである。
◇3 古代日本は「双系制社会」だった!?
記事のなかで、義江氏は、当時の皇位継承研究の高まりを説明している。
「女性史研究の成果で古代の女性の在り方が少しずつ見えてきて、男性研究者の中にも、その成果を組み入れる人たちが少数ながら出てきました。同時に、このまま『男系男子』の皇室(ママ)継承では行き詰まるという問題意識から、古代の王権継承の在り方に一般メディアの関心が高まったことも背景にあります」
そして、板倉氏は「かつて歴史学では『父系』『母系』の考え方しかなかった。今では文化人類学の研究成果を取り入れ、古代日本は父系にも母系にも偏らない『双系的社会』だったという見方が広がっている」と解説し、義江氏は次のように述べている。
「7世紀末、中国にならった律令国家樹立の際に初めて公式に父系原則が打ち立てられました。8世紀あたりまでは、支配層も含め、実質的にはまだ双系性の原理で動いていたと私は考えます」
板倉氏の記事には、元明天皇から元正天皇への継承については言及がない。だが、義江氏は著書の『女帝の古代王権史』(2021年)で、とくに1章を設けて論じている。
それによると、義江氏は、継嗣令の皇兄弟条の本註「女帝の子もまた同じ」に言及し、成清弘和・神戸学院大学、園田学園女子大学非常勤講師の著書を参照しつつ、本註が書き加えられた背景に唐令の存在があると説明している。義江氏の皇位継承論の根拠もまた、継嗣令の本註「女帝の子」だった。
「『女帝の子もまた同じ』ということは、女帝の子も『親王』として皇位継承資格を持つことを意味する。すなわち、日本令の本註は、女帝の子の即位を容認する規定なのである。本文に加えられた本註なので、一見すると、女帝の子の継承は例外不可規定のようにみえるが、それは、手本とした唐令の条文が中国の父系出自/男系継承を前提として成り立っているからである。全く異なる双系的原理を土台とする日本の皇位継承はそれではカバーできないため、父系原理に反する本註を敢えて書き加えねばならなかったのである(成清弘和『日本古代の家族と親族』)」。
しかし古代日本に双系制があったとする説それ自体への疑問も指摘される。ここでは詳述はしないが、語源学、方言学からは、双系制社会説は支持されない。
義江氏はさらに続けている。
「日本令における『親王』は、原則として天皇の男女子の総称である」
「7世紀末に『皇子』『皇女』という男女別の称号が成立した後も、倭語ではともに『みこ』であり続け、女子も木簡等では『皇子』と書かれた」
「元明は娘の氷高(元正)に譲位し、もう1人の娘で長屋王の妻となった吉備の子は、父系では三世王(天武の曾孫)であるにもかかわらず、母系によって数えて二世王(元明の孫)の扱いとされた」
つまり、義江氏は継嗣令の本註を「女帝の子」と読み、その前提で皇位継承論を展開している。だが、そもそも「女帝の子」と読むべきなのか? 「女も帝の子」ではダメなのか? 継嗣令は皇親の範囲を定めているのであり、皇位継承の規定ではないはずである。
義江氏がいうように、「親王」にはもともと男女の区別がなく、律令制確立の際、唐令と区別する必要があったのなら、継嗣令第1条「天皇の兄弟・皇子をみな親王とせよ」は、「親王」の男女別を明確化させ、唐令と区別するためには、「女帝の子」ではなく、「皇女子も内親王とせよ」、つまり「女も帝の子」と本中に書き加えなければならなかったということではないだろうか? 義江氏もしくは成清氏の説明は論理的ではない。
また、畏友・佐藤雉鳴氏が指摘したように、律令には「内親王」「女王」についての定めがいくつかある。たとえば、「家令職員令」第一条は「親王(内親王も此に准えよ)」であるが、継嗣令第1条の原註を「女も帝の子、また同じ」と読まないかぎり、これらの規定は意味をなさないはずだ。
◇4 古代律令時代のはるか以前から続く「祭祀王」天皇
板倉氏のnippon.comの記事で、義江氏は、明治の皇位継承制度確立にも言及している。
「それまでは慣習に従って決めてきた皇位継承を、初めて『大日本国憲法』と『皇室典範』によって法的に定めました。最後まで議論は紛糾しましたが、最終的に女性の即位は認めない、父から息子への男系男子継承とすると決まったのです」
記事では言及がないが、明治の皇室典範は制定過程でヨーロッパ王制のさまざまな影響を受けている。国憲起草の詔には「海外各国ノ成法ヲ斟酌」とあり、「女統女帝」肯定論が席巻することとなったが、最終的には否認された。
〈https://www.digital.archives.go.jp/img/1387396〉
義江氏は、古代研究を根拠に、皇位継承の「歴史と伝統」を問い直すべきだと訴える。
「天皇は古代から男系男子継承が伝統だったのだから、それを変えてはいけないと思い込んでいる人が多いのではないでしょうか。その思い込みから脱して “伝統” を問い直し、現行の憲法の下での『象徴』としての天皇・皇室の在り方を、国民が皆で考えていく必要があります」
高森氏も同様の考えで、nippon.comの記事では次のように強調されている。
「皇室存続が危ぶまれる中で、中国の影響を受けた男尊女卑の考えを基にした男系男子継承が、日本古来の伝統だと錯覚して、いつまでもこだわり続けるべきではない」
皇位継承法は、律令の時代には古代中国の影響を受け、近代においてはヨーロッパ王制の影響を受け、変革を受けてきた。そして現代はジェンダー平等が世界の趨勢だが、それは古代日本の双系制に通じる。皇位継承は古代日本に立ち返り、女系を容認すべきだと主張されているように聞こえる。
しかしどうだろうか? 「思い込み」はむしろ女系・双系派の方ではないのか? なぜ「女帝の子」に固執するのか、理解に苦しむ。私には「はじめに『女帝』ありき」「はじめに『女帝の子』ありき」の議論にしか見えない。
女系容認派は時代による変化を強調しているが、逆に、律令の時代よりさらに古くから、いまも変わらず引き継がれていることがある。それは「国中平らかに、民安かれ」と祈り、国と民を統合するスメラミコト=天皇の祭祀である。「はつくにしらすみこと」の和名で呼ばれる第10代崇神天皇は皇室祭祀の確立者といわれる。律令制度成立のはるか以前のことである。
元明天皇や元正天皇の時代がまさにそうだったように、外戚同士が対立し、権謀術数が渦巻く民の世界から超然とした立場に、公正かつ無私なる「祭祀王」天皇があり続けるには、女系は認められるべきなのか、そこがいま問われているように思われる。天皇とは何をなさる存在なのかを見きわめたうえで、皇位継承について考えなければ、本末転倒になるのではないか?
[追記]義江氏の著書を読んで、気になったことがあるので、補足したい。
義江氏は、文武天皇の即位宣命を引用し、「現御神(あきつみかみ)と大八嶋国(おおやしまぐに)知らしめす倭根子天皇命(やまとねこすめらみこと、持統天皇)」を「『現御神』=持統天皇」と説明している。つまり、現御神=天皇という解釈である。この解釈は正しいのだろうか?
問題は、「現御神と」の「と」である。結論的にいえば、「態様・状態の格助詞」もしくは「形式名詞化の機能を持つ『と』」と呼ばれる。「山と積まれた薪」は「山のように」の意味となる。山=薪ではない。「現御神である天皇」ではなくて、「現御神のように統治される」と解釈されるべきものである。
公式令に宣命の書式が例示されている。冒頭はたとえば「明神(あきつかみ)と御宇(しろしめす)日本(やまと)の天皇(すめら)」であるが、これがしばしば「現人神」天皇論の根拠のように解釈される。だが、それが誤りなのである。
義江氏は、歴史研究者ではあるが、「女帝の子」解釈といい、国語学的アプローチが甘いように思われる。



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