第4話:ムゲンからの招待状
『
「……」
命を救うべき者としてあってはならない行為を強要され、我慢の限界を迎えた日から、季節はあっという間に過ぎた。
だが、家に飛び込むように帰宅して以降、部屋のカーテンをずっと閉め切ったまま一度も明けていない彼女が、その変化を感じる事は出来なかった。
六畳一間と狭いながらも、病院で暮らす時間の方が長い身としてはそれなりに快適であったはずの部屋は、すっかり変わり果てていた。
部屋の中はコンビニで何とか購入できた弁当の容器が捨てられもせず大量に放置され、その横には同じように空っぽになったペットボトルが幾つも並んでいた。
シンクには洗い物が溜まり、冷蔵庫の中身もどれも消費期限が切れたものばかり。
少し前まで病院でエリート街道をひた走っていた人の部屋とは思えない様相であった。
テレビのリモコンは、ぐちゃぐちゃになったベッドの下のどこかに埋もれ、もう何週間も操作されていない。
それに、スマートフォンも充電は1週間に1度だけ。例え充電が切れていても、誰からも連絡は来ないし、こちらからするつもりもなかった。
もう何も見たくないし、誰にも会いたくない、今の氏神常葉は、そんな状態だったのである。
「……」
今日も彼女は、家の中でただ時間が過ぎるのを待っていた。
やる事と言えば、近くのコンビニへ夜間に飲食物を買いに行ったり、トイレに向かう事ぐらい。
それ以外は、ただ天井に薄っすら見える染みを眺めるだけしか出来なかった。
まるで電池が切れた安物の壁掛け時計のように、彼女の中の時間はあの日からずっと止まっていた。
「……はぁ……」
そんな日々の中、常葉の心に時折浮かぶ思いがあった。
『真希ちゃん』は、どうなったのだろうか、と。
しかし、その事を考えてしまう度、彼女は枕の中に顔を埋め、布団の中で身を悶えさせた。
彼女の事を頭から忘れるため、必死にもがき続けた。
退職届を事務所のカウンターに置き、病院から走って逃げだした日から、彼女は一度も『総合病院』を訪れた事は無かった。
当然だろう、院長の命令を拒否した挙句、自らの意志で全てを投げだした医者失格の存在がもう一度顔を出す事など、とてもできるはずがなかったのだから。
それでも、彼女はどうしても頭の中にその後の事が気になってしまった。
不治の病を抱えながらも懸命に命を繋ごうとしていた勇敢な少女・薄手真希から、『医療ミス』を装う形で行われる予定だった臓器摘出は、本当に実施されたのだろうか。
もし実施されたとしたら、今頃『真希ちゃん』は――。
「……やめて……考えるのは、やめて……」
――そんな事を考える自分自身を拒絶するように、常葉は独り言を発した。声を出す機会は、本当に久しぶりだった。
「私に……真希ちゃんの事を考える資格なんか、無いのよ……」
そう言いながら、彼女は何度目か分からない涙を流した。
無数のゴミに囲まれながらただ暮らし続ける今の『氏神常葉』と言う存在に、あの『天才医師』の面影を見つけるのは非常に困難だった。
しかし、どれだけ泣こうが、どれだけ後悔しようが、彼女は生きなければならなかった。腹は大きく鳴り、栄養が不足している事を示していた。
「……もう、嫌……」
このまま自分は、『生き続ける』しかないのだろうか。ただひたすら生きる事が、逃げ出した自分に与えられた罪なのだろうか。
そのような思いが脳裏をよぎった時、玄関の方から、郵便受けに何かが落ちる音が聞こえた。
それが何なのか、常葉はある程度予想していた。
電気代、ガス代、水道代、家賃。どうせ、それらの督促状だろう、と。
退職してからというもの、引きこもり続けていた彼女にまともな収入はなかった。
総合病院で働きながら溜めていた貯金も底を突きかけており、家賃も光熱費も未払いの状態が続いていた。
どうせ、今回もそうなのだろう、と彼女が考えた瞬間だった。
「……?」
もう一度、玄関受けに何かが落ちる音が聞こえたのは。
どうせまた『請求書』だろう、と考えながらも、彼女はそれでも今までにあまりない事態に、僅かながら興味を示していた。
「2通……?」
しばらく布団の中で格闘した後、ようやく常葉はベッドから這い出た。
身体の重さに加え、何日も風呂に入っていないせいで、自分自身の香りが漂うのが辛かった。
そして、よろめきながらも何とか彼女玄関の郵便受けの蓋を開けた。
案の定、中に入っていたのは未払い料金の請求書や催促状の山だった。
ため息をつきながらも、辛い現実と何とか向かい合おうと、それらの封筒を1つ1つ開けようとしていた、その時だった。
「……?」
大量の請求書の中に、1通だけ妙な物体が混ざっている事に気が付いたのは。
それは、他の茶色の事務的なものとは全く異なる、上質の紙で作られたであろう白い封筒だった。
その封筒には、まるで子供が一生懸命書いたような筆跡で、『氏神常葉さまへ』と書かれていた。
文字のバランスも微妙で、そもそも「○○様」というちゃんとした漢字すら使っていない有様だった。
続いて差出人の欄に目を移した常葉は、更に怪訝そうな表情を見せた。
「『
『ムゲン』とは何だろうか。『無限』なのか、それとも『夢幻』なのか。
どちらにしろ、医者として活動していた時代、それなりに様々な病院と関係を持った事を自負していた彼女でも、聞き覚えが無い名前だった。
そして、丁寧に封筒を破ると、中から丁寧に折り畳まれた便せんと、何かが書かれた紙がもう1枚出てきた。
ゆっくりと便箋を広げた彼女は、その内容に目を通した。
--------------------------------------
氏神常葉さまへ。
はじめまして、私はムゲン病院の院長です。
私はあなたの事をしっています。あなたがとってもすごい先生だって事を。
今、私たちの病院は先生が足りません。
あなたの力が欲しいのです。
ぜひ、私たちの病院ではたらいてくれませんか?
もちろん、お給料も出します。いっぱいいっぱい出します。
そして、わたしたちの病院はとってもホワイトな所です。安心してください。
いつきてもだいじょうぶです。
私はいつでもあなたを待っています。
ムゲン病院 院長より
--------------------------------------
「……なにこれ」
それが、『院長』からの手紙を読んだ、氏神常葉の第一印象だった。
どこからどう見ても、怪しさしかなかったからだ。
まず、「あなたの事をしっています」の「しっています」が平仮名だ。「知っています」と漢字で書けないのだろうか。
「すごい先生」という表現も、医療関係者が使う言葉としてはあまりにも幼いし、「いっぱいいっぱい給料を出す」と言う書き方も奇妙だ。
と言うか、そもそも、まともな病院がこのような手紙で1つで医師をスカウトする事なんてあるだろうか。
普通は正式な書面か、人材紹介会社を通すはずだ。
(……イタズラにしては、あまりにも出来過ぎてるわね……)
続けて、常葉はもう一枚の紙を確認した。それは、病院の場所を記した『手書き』の地図だった。
『えきからバスにのってください』『△△行きバスの○○というバス停でおりてください』『おりたらすぐ見える白いたてものがムゲン病院です』と、平仮名を多用しつつ、やけに丁寧にルートが記されている。
っして、最寄りのバス停の名前には丸いシールが貼ってあり、その上に「ここ!↓」と矢印が描かれている。
それは、どこからどう見ても、子供が授業の一環か何かで頑張って書いたとしか思えない地図だった。
「……はぁ……」
それらを見た常葉は、奇妙な便箋と地図を布団の上に放り投げた。
あまりにも馬鹿馬鹿しい。こんな授業で作るような子供騙しの悪戯に乗るわけがない。
そもそも、私はもう二度と医者にはならないと決めた。医者として生きる資格なんて、とっくの昔に失ったのだから――そう思おうとした彼女の目に留まったのは、テーブルの上に溜まった、請求書の山だった。
あと少しで、電気も水道も、そして家賃も、全てが止まる未来を示すかのようなこれらの現実。
例え『生き続ける』事を辞める決意をしたとしても、結局は『その時』が訪れるまで、これらの様々なインフラのお世話にならないといけない。
家族に頼ろうにも、両親とは喧嘩して飛び出した過去を持つ身だし、友人ともここ数年一切連絡を取っていない。
「……」
そして、常葉はもう一度あの便せんを手に取った。
そこには『給料をいっぱい出す』という、どこか現実的で生々しい言葉が間違いなく、しっかりと書かれていた。
しばらくの間じっとその文面を見つめていた彼女は、やがて自分を
「もう二度と医者にはならないって、決めたのに……」
でも、このままでは死ぬ。比喩ではなく、物理的に。
餓死するか、病気か、あるいは家賃滞納で追い出されて路上で野垂れ死にになるか、そんな未来しか考えられない。
「……今の私は、泥船に乗るしか道が無いのね……」
そう呟きながら、常葉は重い身体をゆっくりと起こした。
久しぶりにシャワーを浴びて身を清め、外出用の服を探すために。
「あなたの力が欲しい、か……」
子供が一所懸命に執筆したであろう手紙に込められた様々な言葉が、常葉の心の中に響き続けた……。
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