法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『はいぱーぽりす』

 妖魔が人類よりすぐれた存在として社会に生きつつ、力に劣った人類も共存している世界。民間警察に所属する人間と猫又のハーフ少女の夏姫と、九尾になるため夏姫の妖力をつけねらいつつ仕事のパートナーにおさまる妖狐の女性の桜をはじめ、さまざまなバウンティハンターが妖魔による犯罪にたちあう……


 1997年のTVアニメ。後藤圭二がキャラクターデザインをつとめ、スタジオぴえろが制作した。当時の角川書店のメディアミックス作品らしい座組。

 MEEによる原作漫画は単行本2巻までは買っているはず。アニメは約二十年前に今はなきヤフー動画で無料配信していた前半1クールまでは視聴した。
 だが、現在は漫画もアニメもいっさい電子配信はされていないようだ。検索すると、どうやら原作者の消息がわからないようだが……


 さて物語は、良い意味で当時の米国の警察ドラマのように、多様な人々が存在する社会のメタファーとして魔物と人間が共存する都市が描かれていく。
 たとえ凶悪犯であっても射殺せず逮捕しようとする主人公の夏姫をライトタッチで描いている。社会の苦しみのなかで犯罪に走ってしまうことを前提とした主人公側の台詞がさらっと登場するところも、20世紀末の日本社会の進歩性が感じられる。もちろんこれは米国の警察ドラマの引用でもあるだろうが、それをてらいなく日本のアニメに落としこめているところが現在からすると興味深い。
 現在に視聴すると特に興味深い描写が多いのが第4話。2001年の911同時多発テロからテロリズムが否定されるようになったというクリシェの反例のように、まったく同情も共感もできなければ大物とも感じさせない小悪党として無差別爆破「テロリスト」が登場する。これまでの凶悪犯にも対話してきたような主人公の描写もない。中盤で大手の警察会社の人間に見くだされて桜が反発した台詞が、「人種差別」になってしまうと夏姫が気にして注意する描写もいい。この表現を冷笑や揶揄でなければ糾弾でもなく、あくまで日常会話として出すところが、むしろそういう意識が根づいている社会と感じさせる。桜が路地裏のホームレスのひとりと改めて描く終盤を前振りするように、大捕物の部隊となる公園にもホームレスが何の説明もなく寝ている。そして同棲することになった桜は夏姫との三角関係を否定するために、「レズ」ではないと言い張って終わる。おそらく当時でも偏見を感じさせる略称だが、先に桜が差別的な発言もしてしまうキャラクターと示しているため、一周まわって違和感がない。
 また前半で主人公がつとめる私設警察が倒産したため、非正規のバウンティハンターとして糊口をしのぐ局面があるところも面白い。社会秩序や警察機構が実際はけっこう恣意的な境界線でつくられているわけで、それゆえの不安定な立場におかれた状況での生活の難しさが描かれるところが珍しい。
 やがて1クール目の終盤でタイムスリップした男が現れ、主人公コンビの一方の桜を恋人と勘違いするラブコメ展開が面白い。もともと『ダーティペア』と比べても女性コンビ作品にしては異性恋愛が強めだが、そこから3話で関係を進めて子供まで作る早さが珍しすぎて日本アニメでは特異と感じさせる。そこで生まれた3人の子供が動物じみた幼い状態のままで、主人公が苦労をかけられつづけて、そのエピソードの最後まで子供はやっぱり可愛いと見返すことが一度もなく、桜が一家で夜逃げして終わる。そのため次の回で夏姫が先輩と同棲する展開につながるわけで、珍しい描写がドラマの味わいを生むだけでなく普通に見たい展開に連結する機能ももっていることに感心する。もちろんこれは原作由来の良さかもしれないが。
 第19話も義賊物を正面から映像化して、実際は義賊を演じただけの悪党という安易などんでん返しもせず、1話いっぱいつかって主人公を葛藤させる。数的マイノリティとして保護対象となっている人間と違って魔物の貧困は福祉から除外されている状況設定が、ちゃんと事件終了後に法制度の変更で一定の解決をみるところが、ミクロに見える問題でもマクロに解決する必要があることを作り手が認識していて良い。それで税金があがることに子育て中の桜がぼやくアクセント描写も、弱者へ怒りの矛先を向けないところに今となっては良さを感じる。
 最終回をむかえたのは原作の連載途中だが、原作のタイムスリップ関係エピソードをピックアップした後半で桜のキャラクターをほりさげつつ、そこから桜の祖先に人間がいた可能性を提示して、人間と魔物の衝突というテーマに移行。世界を分断する力で人種隔離をおこなわせようとする敵に、魔物と人間の子供として生まれた夏姫が抵抗する最終回をむかえる。多様な人々が衝突しながらも生きる世界で、民間の仕事として秩序を守る主人公という、立場の再確認ドラマが社会派ドラマになる。ライトな娯楽作品でこのような社会へ向きあう実直さをつらぬいたのは、今の日本のメジャーアニメから失われた良さだと思った。


 映像は、当時の深夜アニメとしては相当に安定。中盤で武器の刷新にあわせて主人公の服装を変えたり、拠点や戦いの舞台を移しながら、コンテ演出も作画も楽しめる水準を維持している。
 ひとつの話数の映像化工程をまるまる引きうける、いわゆるグロス請けをおこなう会社として評価を高めていた京都アニメーションも定期的に参加。第10話は主人公が監獄にとらわれた圧迫感ある物語を、人や物の隙間から覗くような閉塞感あるカットを多用して映像化。第18話は後半に入って制作が苦しくなりそうなタイミングで、中心的な小道具の風鈴をクローズアップでくりかえし映し、その作画に力を入れることで目を引きつつ、背景や人物を省略して使いまわして省力する。主人公が魔物ではなく人間になった世界での出来事を幻視する最終回も、京都アニメーションらしい職人技的な表現主義でわかりやすく見せた。終盤では当時でも珍しいほど連続して京都アニメーションのアニメーターが参加し、作品全体の絵作りを底支えしている。
 すでにキャラクターデザイナーとして評価を固めていた後藤圭二は作画監督としても中盤と最終回で2回参加。作品の平均的なキャラクター作画よりもデザイナーの絵柄の個性が出ているパターンで、むしろ違和感すらあるくらいだが、美麗で動きも良くて見ごたえはあった。

  • Oh such

    すごいな。今時こんなもんやったらキモオタ共の「キャンセルカルチャー」キャンペーンが荒れ狂うぞ。アニメ版ぼざろとか、仮面ライダーBLACK SUNとか、アサシンクリード·シャドウズとかみたいに。
    ギャバン·インフィニティ見て「やっぱ移民入れるのは危ないってなるよね」とか言い出す連中が、「プロパガンダ~!」「政治描写が稚拙~!」「日本へのリスペクトが~!」とか発狂するだろうよ。(そういうのは「政治」にも「思想」にも「正義の押し付け」にもならない。政治描写の模範はシン·ゴジラw)
    ほんと幼稚にも程がある世の中だわ。

  • hokke-ookami

    >アニメ版ぼざろとか、仮面ライダーBLACK SUNとか、アサシンクリード·シャドウズとかみたいに。

    まあそこまではいかなくても、『呪術廻戦』第51話くらいの不評意見は飛び出しそうだな、とは思いました。
    https://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20260127/1769525973
    ただ、ノリはSFコメディでも外国の警察ドラマを思わせる雰囲気の作品でもあるので、現代ならネットフリックスあたりが出資して独占配信した結果、あまり日本のアニメ愛好家からは注目されないまま終わるパターンが一番近いかなあ。
    その意味では、よく『BLACK SUN』はそういうのを嫌う層が不評を語るところまでで視聴したものだ、と感心する気分もありますね。

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