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立川小春志さんインタビュー(構成 沼次郎・常森裕介)

 第三批評ウェブ企画「笑いと批評」の一つとして、立川流初の女性真打である立川小春志さんのインタビューをお届けします。落語の解釈から発声、お客さんと演者の関係、そして落語と現代の社会のあり方までたっぷりとお話を伺いました。

〇落語の解釈


沼次郎

僕、本当に最近小春志さんの落語は、正直な話聴けてはいなくて。大阪だと吉田食堂さんとかに来られてることありますよね。

小春志
そうですね。大阪は吉田食堂さん、リバティコンサートさんで公演やらせてもらってます。

沼次郎
それこそ襲名披露の時はお伺いさせていただいて、当時は学生だったので一回しか行けてないんですけど。なのでばばん場とかでやられてた、こはるDASH!の時代も伺わせていただきまして。

小春志
ありがとうございます。

沼次郎
この「ストーリーワイズ」(『群像』)っていうものを読ませていただいていて、第一回のところからネタのテーマって話をされるじゃないですか。勝手ながら立川流だなって思ってしまいまして。立川流の方々って基本的にこのネタはこうっていうその解釈を持ってくるじゃないですか。

小春志
えーと、まず大前提として、落語家が解釈を表に出すということは野暮だと言われていまして。みんな思ってても言わないんですよ。これがまず前提です。落語家、プレイヤーとして。

ただ、談志師匠がもういろんなことを文筆だったり、高座の上でもそうですけど、考えてることをその立川談志として、お客さんの前に全部さらけ出してるんですよね。 で、そういうことがあるので、立川一門の場合は我々も似たような形で解釈っていう言葉を使わせてもらっているんですが、本来落語家はみんな意識していようと無意識であろうと、この話って何に注目するんだろうというのは考えていて。

でもそれを他者に言うのは、芸人としてプライドが許さない、野暮だというのでみんな言わないだけだと思っといてください。

沼次郎
では、野暮を承知でお伺いしますが、志らく師匠は結構そのシネマ落語とかをやられているように、ある意味自己流ではなくて、外側をどんどん解釈していって演出を付け足していくみたいなパターンかなと思っていて。

談春師匠の方は一方で結構主観的な解釈をあえて落語の中に持っていって、王道とかからは逸れていくようなところあると思うんですけど、小春志さんがその落語を解釈して、自分で公演するってなった時は、どういった方向性を目指してやっているのか。はたまたその方向性は自然に決まっていくものなのか。

小春志
志らく師匠もうちの師匠も根本は同じで。一番大きく根本に流れているのは談志師匠が出した『現代落語論』。

この中でいわゆる古典の継承だけを続けていくと、これは能と同じ道をたどってしまうと。要は現代に生きていない落語、古典になってしまうという危機感というのがあって、何かしようという時にその解釈ってものが出てきて、それは人それぞれのやり方なんですが、志らく師匠のシネマ落語にしても、うちの師匠の落語にしても、必ずお客さんがいるんですね。

共感の芸って落語をよく言うんですけれども、聞いてる人が「あ、あるよね、こういうこと、日常生活で」って感情だったり、シチュエーションだったり、共感するものを、いかに落語の中で、似たような部分を抽出して表現するか。

その時にうちの師匠は主観です。感情表現とかを深めて、プレイヤーとして、まあ音だったり間だったり、あるいは迫力、息継ぎ、そういった技術でもってお客さんを取り込んでいく。

その時にお客さんがその世界の中で一緒に共感しながら、その世界に入り込んで感情を動かされていくっていう体験をしていて。

志らく師匠のシネマ落語も対象とする映画があるわけですよね。この作品だったらこの映画使いますとか、この落語をやる時には、この『天国から帰ってきたチャンピオン』だったらこうだとか、それも共感なんですよ。

同じ人間が心が動かされている、この落語のシチュエーションとこの映画のシーンって、「あ、やっぱ人間って同じだよね」っていうところに根本があると思いますので。あの上下関係の厳しい落語界で、私ごときが自分の師匠クラスの人を今このように言語で評価するっていうのは非常におこがましいことを承知で言いますけれども、今言ったみたいにみんな同じこと考えてるんですよ。

落語をやる時に、表に現れた形が違うだけで、根っこは落語の中に出てくる人たちも、今いる我々も人間ってこうだよねっていう。談志師匠が業の肯定と言ってますけれども、それをどうつなげていくかっていうものだと思います。

なので作品主義じゃないんですよね、ライブなんです。江戸時代っていう舞台を演じていますが、喋っている我々も、落語の中の人物も、お客さんも、みんな今この瞬間、リアルタイムで感情を動かして共感し、あるいは違和感を感じながらも笑ったり泣いたりしているっていうのが特徴的なので、今おっしゃっていただいた談春なのか志らくなのか、立川流なのか寄席の落語家なのかみたいなのは、置かれている条件の違い。

でも目的はみんなほぼ同じだと思います。人間を描くということで。大雑把な言い方ですみません。

〇落語の技術


沼次郎

いえ、いきなり結構深い話が聞けて、ちょっと嬉しく思ってるんですけど。

僕が襲名披露へ伺った時に、談春師匠が楽器に例えられてたと思うんです。それこそ談春さん、こういう落語家だっていうところで、技術でも取りに行くっていうことがあったじゃないですか。その技術の面に関して継承したいと思っての弟子入りだったんですか。

小春志
まあ弟子入りする時、そこまで考えて入ってないですし。最初すごいなと思ったんですよ。

迫力、説得力。これ何だろうと思って。で、弟子になりたいと思ったんですね。だから落語家になりたいではないんですよ、最初のスタートラインが、私の場合は。それがまあ入って今になってわかりますけれども、その楽器としての音楽性の高さですね。そこだったと思うんですよ。

ただ、いかんせん男の人の体格、その人の喉の形、顎の形で声も違えば、トーンっていうんですかね、全部違うわけですよね。肺活量もそうです。腹筋もそうですし。

私は小柄な女性ですから、全く違うんですけれども、ただそこの音楽的な表現のアンテナというか、視点を持って落語に取り組んだ方が、例えば受けるギャグを言う前に一回ブレーキを引くだとか、ちょっと待ってから言ったりする、その0コンマ何秒の間みたいなものが、お客さんとしては理解してなくても体が笑うんですよね。

それは技術で、私ももっとできるようになりたいっていうのはありますね。 まだまだそれは人生かけてやり続けなきゃいけないものなので、自分に合うその音の技術みたいなものは。

で、それは技術の話。

もう一個は古典落語しかやってませんので、落語を見た時に、客で聞いてた時とプレイヤーになってからと、あと二十代の時と四十代の時で、同じ噺に対しても感情移入のポイントだったり、自分が大人になっていく過程での気づきみたいなものも違うので、その解釈といっても、この落語はこうですって、「ストーリーワイズ」では書いちゃったんですが、それが全てではないですよね。

本当に日によって、自分の気分もありますけど、今日は、例えば「粗忽長屋」って落語をやる時に、行き倒れを見つけたやつが勘違いして、みたいな変わった落語なんですけれども、そこを大きく出すよりも、そいつらを見ながら笑って、ちょっとまあいいじゃん、やらせておこうぜっていう周りの人たちの方に感情移入をやってみようとか、いくらでもできるんですよ。

で、その周りの人たちが、まあこういうちょっとおかしい人いるよね。でもいいよ、いいよ。だから無理に止めないでやらしときましょう、この人のやりたいように。っていう人、お客さんの部分を重点的に演じることで、その主人公がとっさに浮き出てくるっていう、それは演出みたいな方に繋がるので、そこまできちっとですね、プレゼンみたいに今日はこの人について注目しましょうみたいなことは考えないです。答えになってるかわかんないですけど。 

沼次郎
こうやろうとしたみたいな狙いが透けるのも、多分こっち側としてもあんまり面白くはないというか。

〇落語の空間


小春志

あと全ての判断はお客さんに委ねてますので、こっちがいくらこうしようったって、お客さんはそう簡単にみんながみんな同じ方向を向くとは限りませんので。

やっぱお客さん、読み手、あるいは私たちにとっては聞き手がいないと成立しないんですよ。いくら一方的に何かを言っても、受け取る人がいない限りは、その空間も時間も落語の世界は存在しませんので。

例えばじゃあ学校寄席に行ったら聴き手は子供じゃないですか。その時に「金明竹」っていう、最初おじさんが甥っ子に小言を言うシーンがあった時に、どうやったって学校寄席の子供は怒られる甥っ子側の立場でしかもう落語を受け取ることができないわけですね。でも普段の落語会っていうのは、ご年配の方が比較的多いので、最近の若いもん、そうそう、本当さ、言ってもできないよね、みたいな方に感情移入するわけですよ。

プレイヤーとしては、今日のお客さんどっちだろう。その時にあのおじさんの小言って老害でうざいよね、を全面的に出しても客は聞かないし、子供の前ではそのおじさんたちうるさいよねって言いながら、年寄りの客の前では、いや若い人ってさっていう、どっちにでも取れるのが落語のいいとこなんですよ。

なので、必ずお客さんを見ないと落語ができないんですよね。そこがさっき言った作品主義ではないライブだっていうところとつながってくると思うんですが。曲がりなりに二十年やらせていただいているので、私、この落語はここにすごく共感できんだけどみたいな気持ちを演じながら探って、お客さんどうですか?みたいな。なんでそれも結構うちの師匠に近いところはあるかもしれないですね。

沼次郎
談春師匠もその場で落語を作ってるというのを聞いたことがあります。

大筋はもちろんあるんですけど、その場で出てくる言葉で基本的に構成するみたいな。

小春志
私もポロっと出ますね。

ずっとその登場人物を演じて、生きてるんですけど、でもどっちも私で、どっちもお客さんと今一緒に共有している空間の中にいる。例えば皆さんが会社の中で、今日このメンバーだとこんな笑いが生まれるとかありません?

常森
ありますね。

小春志
例えば上司がいると成立しないけど、自分たちの同期で集まってくだらない話をしている時に、このリアクション笑ったとか、みんな出るセリフって違うじゃないですか。セリフって言っちゃいけないけど。

そういう共有している瞬間にしか出てこないものってあるので、ポロッとセリフになったりするのはありますね。

あと、同時にお客さんの反応を見ながらも、自分の感情、気分もそうですし、そのプレイヤーのセリフはあるんですけれども、それをメタ的にずっと監督として見てて、今こんなことを言ってるけど、もう終演時間過ぎてんだよねみたいなメタ作りもできますし。

そういうのはもう全部できるんですよ、落語って。なので、確かに評論する側の人からするととても捉えようのない世界だと思います。

〇古典のアレンジと生き様


常森

大筋があって、小春志さんがその場で変えていくっていうことだったんですけど、どれぐらいまでアレンジしていいとか、ダメだっていうのは、それぞれの落語家の方が決められるものなんですか?なにか不文律みたいなものがあるものなんですか?

小春志
それを我々だとセンスって言いますね。センスがいい、センスが悪い。やるのは自由なんですよ。ただ、芸人として何を大事にしてるんだ君はとか、その、了見って言葉をよく使うんですが、矜持みたいなものを測られてしまいますね、同業者からすると。

その場でお客さんに受けていても、同業者が眉をひそめるということは多々あります。これは崩しちゃいけないよねみたいなものはあって。でもそれが例えば改作派とか新作の人からするとそんなに大事にしてなかったり、もっと違うところを大事にしてたりするんですよね。

古典やる人間は、言葉にしたら細かくなっちゃうんですけど、ありますね。これは変えちゃいけないとか。だってみんな昔の平成、昭和、大正、明治と、音源が残っているものもあれば、もう残ってないものもありますけれども、そういった人たちが伝えてきたものを受け継いでいるわけ、やらしてもらっているわけで、じゃあダメだよねみたいなものはあります。

でも前座修業っていうのがありますから。そのお稽古とかも含めて、その修業期間の間にどれだけ土台があるか。で、二つ目になってから、真打になってからは、表向きそんな枷みたいなものはもう無いんです。

いくらでも壊していいし、そこから新しい落語になるかもしれないし。でも、そうですね、自分のやりたいことと、自分がいつかそのポジションでやらなきゃいけないことみたいなのを含めると、さっき言ったセンスみたいなものが問われてきますね。

常森
小春志さんは結構変える方だっていう風にご自身で思いますか?それとも結構変えない方だっていう風に思いますか?

小春志
私だいぶ変えてる方なんですけども、周りからすると本寸法とか言われてて、なんか齟齬ありますね。

でも本寸法って言われたっていうのは、周りがもう変わってっちゃっているっていうのが当たり前なんでしょうね。今の人って現代語で落語を聞いてますから、私たちの落語もより現代語っぽい喋り方も結構ありますので、そう思われているんでしょう。身近なものと思われている分、私が学生の頃に聞いてた古典落語好きの世界からは一つ時代がもう変わっちゃってるので。

だから私みたいなものですら古典本寸法だよねとか言われちゃうんだと思います。私としてはこんな崩してるのにって思ってますけど。

沼次郎
僕、談春師匠がやる「文七元結」が好きで。確かで確か一之輔さんが「団子屋政談」かけられてて、で、後半に小春志さんが「文七元結」をやられた回があって。

小春志
はい。セシオン杉並の。

沼次郎
そうです、そうです。その時は(談春師匠のものとは)全然違うものを見た印象はあったんですよね。

解釈の面っていうのはあんまり意図的に継がないようにされたんですか?

小春志
というか教われないです、そんなことは。で、進化してるじゃないですか。談志師匠もそうだし、うちの師匠もどんどん進化しているわけですよね。私だって最初にもちろんお稽古を教わったところからスタートですけど、解釈というよりも、例えば A さん、 B さん、 C さんといたら、人生のバックグラウンドも違えば、付き合っている彼女も違えば、今のおかみさんも人それぞれ違うじゃないですか。

飲み屋の常連とか、自分の生きてきた人間関係、バックグラウンドが全て A、B、C さん違うのに、同じ解釈ってできないと思うんですよ。
まず自分ありきで喋らなきゃいけない時に出てくるものって、結局自分の生き様ですので、芸人っていうのは仕事ではなくて生き様ですので、そういう自分が生きてきた世界をもとに捉えるしかないと思うんですよ。

お客さんもそうだと思うんです。「文七」なら、じゃあ「文七」って落語があって、その作品をある程度あらすじも含めて聞いた時に、昔の名人たちの「文七元結」を聞いて感動した自分がいる。でも自分が生きてきて、いざやると言った時に、これが本当にじゃあ五十両悩んで渡すのか。

でも東京生まれ東京育ちの私からすると、意外ともうあげちゃうんですよね。ポンって。そういう風にやってる人もいますし。でもそれが博打打ちだったり、本当にずっとギャンブル好きでやってきた人はまた違うことを考えるかもしれないし、その人の生き様、バックグラウンドが違う以上、解釈を自ら学ぶことはできても、心から受け継いで同化するってことはないんじゃないですかね。

〇女性と落語


沼次郎

ええ。まあそうですね、それでいうと、志の輔師匠が「文七」できないのは、その五十両を上げる了見がわからないというのを確かおっしゃってたと思うんですけど。

小春志
よくありますね。大阪の人は特に言いますね。なんであげちゃったんだって。それはみんな人それぞれのバックグラウンドですよね。生き様。どこで生まれ、どういう環境で、どういう常識で育ってきたのかだと思います。

私はもともと特殊なんですが、落語界というのが男性社会で、男性の人が当たり前に考えてきて、言葉にしなくても通じるよねっていうものがたくさんあったわけですよね。で、私は女性なので、体育会系の経験もなければ、上下関係の言わなくてもわかるよねみたいなのとか、本音と建前とか、男の人が言わなくてたどり着くギャグって大体下ネタなんですけど、理解できなかったりとかいっぱいあったんですね。

で、理系出身で特殊な性格なのか、それをいかに明文化していくかを考えていたので、落語の登場人物で五十両を渡す長兵衛さん、自殺を図る文七くんとかに関しても、どっかしら客観的にその人たちのバックグラウンドを考えれば、こういう行動になるんだよねとか。

あとは江戸の商人なのか、職人なのか、しかも職人でも売れてるのか、売れてない職人なのかとかも考えて、そこの人の感情をずっとなぞっていくみたいなことをしているんだと思うんですよ。だから、ちょっと他の落語家さんと私が違うのはあります。

常森
今のお話だと、多くの人の場合には、その人の生き様っていうのが反映されるけれども、小春志さんの場合には、男女っていう、性別の壁があったので、むしろ観察するようにというか、小春志さん自身ではなくて、こういう人だったらこうだろうっていう、分析をされるっていう風に理解したんですけど。

小春志
そうですね、男の人は多分古典落語を主観で捉えられるんですよ。でも私の場合は主観で捉えても捉えきれない部分があると思うので、だから観察っていう視点が入っているんだと思います。

常森
落語に出てくる女性っていうのは、おそらく時代を反映して、男性目線の女性なり、あるいは女性自身が生き生きとしていたとしても、ある社会構造の中の女性像だと思うんですけど。

小春志さんの生き様が反映できそうな登場人物はいるんですか?

小春志
例えば、そうですね、好きな話でいうと、大勢がわちゃわちゃ騒ぐ話ですね。男子中学生とか高校生が群れてキャッキャしているみたいなシーンに似ているんですけれども、やっぱり落語の舞台って狭い当時の江戸で長屋の町内とか、もう狭いコミュニティな閉鎖空間ですよね。

なので、そういうところでわちゃわちゃするのってすごい好きなんですよ。サークルの部室みたいで。対等だし、みんな仲間だし。わちゃわちゃできる、心を開いて安心して過ごせるコミュニティだっていうのが前提なので、すごく私好きで。

社会に出ると、人間関係が上司と部下、お客さんと売る側、頼んで来てくれたクライアントと引き受け手とか、もう全て関係性でしか人と話せないわけですから。落語の中のあの長屋の八さん熊さんのわちゃわちゃは、やっぱ学生の頃が一番いい思い出なので、好きですね。

常森
例えば歌舞伎でも、女形の人っていうのは、本当の女性とはちょっと違うイメージで、遊郭が出てきたりする時には、それに沿った、男性の視線に沿って役作りをされるって聞いたりするんですけど、逆に小春志さんがもし男性目線の女性を演じるときには、そういう話だとして受け取るか、あるいは小春志さんの生き様に沿った視点を加味して、修正していくこともあるんでしょうか?

小春志
ありますね。

例えば、普通に花魁の出てくる話はたくさんやってまして、「お見立て」っていう、花魁が何人もお客さんがいて、自分の好きな客もいれば嫌いな客もいますよね。で、花魁がお見立ての最初だと、嫌な客が来ちゃった時に嘘ついて、「私出られないからもう帰してくんない?この客」っていう。すごいもうわかるんですよ。

常森
そのお客が嫌な客っていうところがですね。

小春志
そうです、そうです。我々はいつも笑顔で「ご来場ありがとうございます」って言うけど、「なんで来ちゃったかな、この人」っていうのもあるわけですよ。

で、その時に本音は言えませんけども、その花魁はいわゆる黒服スタッフ、喜助ってやつに向かって、「あのさ、本当に嫌だからさ、返してよ、あの人」って言うわけですよ。「風邪引いたから」とか「死んじゃったから」って最後言うんですけど、「ちょっと断っといて」みたいな。「お願い」っていう感じがすごく女流落語家としてはあるあるみたいな世界で。

でもそれって私は共感しますし、演じやすいけども、それ出しちゃうと落語会の客が引くんですよね。「俺も落語家のお前にそう思われてんじゃない?」って。アイドルの追っかけが夢から覚める瞬間みたいな。もう「俺の推し、俺の推し」って思ってたのが、なんか「え、本音はそう思ってたんだ。違うんだよ。おれはこはるが見たいのに、なんで廣瀬(注:本名)さんの本音聞かなきゃいけないの?」虚しくなってつらいとか。それもわかるので、男性のお客さんの夢は壊さないように程よくやろうというのはあります。

あと、今は女性のお客さんが難しくて。花魁って、もう別世界の生き物よっていう認識だから、みんな他人事だと思って聞ける。歌舞伎がなんであれだけ受け入れられるかって言ったら、別世界の話だと思って見てるからなんですよ。ただ、落語は根本的に共感する芸。今、自分がその場に一緒にいて、同じ世界を体感して想像して楽しむ芸能だから、身近に置き換えちゃうわけですね。 で、大変なのが今お妾さんを演じるのが難しくてですね。今でいう愛人みたいなのに耐えられないって人が一定数いるわけです、女性の中で。

でもお妾さんという形でしか生きられなかった女性もいる。豊田四郎監督の『雁』っていう昔の映画があります。お妾さんが主人公の。籠の中の鳥っていうぐらい自由がないんですよね。

お金で買われて囲われて、自分はもうそこでしか生きていけないと決めた女性が、自由に恋愛することもできなければ、好きに出歩くこともできない。ただ、その旦那に世話になっているっていう、今の人からすれば考えられないような。精神的束縛も含めて。

でも女の人が自由に職業を選択できない時代に、そこで生きていくしかなかったっていう哀しみもあるわけですよ。本妻と妾の嫉妬だけ、そこはギャグとして笑えるように落語は作られているんですが、そこだけ抽出して演じると、もうなんかありえないとか言われちゃうんですよね。現代の女性の感覚だと。じゃあお前ら全員勉強してこいよって私は言いますけど、本当は言えないじゃないですか。提示する側として。あ、この商品気に入らなかったんですね、クレーム商品でしたねみたいになっちゃう。

落語っていうのは市井を残しているので、書物には残ってないわけです。歴史上には武士の記録しか残っていない、庶民の歴史を落語が残している分、私はそれはちゃんとやんなきゃいけないなと思っているんですよね。

想像する時にどこまでバックグラウンドの条件を統一するかっていうのは非常に難しいです。だから一方的にこれが解釈ですって押し付けても、今は受け手が同じ解釈の土俵に上がってこれない可能性も非常に高いので。でもそういうことを落語家が言うのはサービス業としてはアウトですっていうのもあるんですよ。

沼次郎
例えばその花魁の方には共感できるっていうのはわかるんですけど、確か「居残り佐平次」だったと思うんですよ。志らく師匠がゲストの襲名披露の時されたのって。ああいう時ってもう観察で作ってくんですか?すごい多分距離感があると思うんですよ、登場人物との間に。

小春志
ここまでの話が演技論に入ってたと思うんですよ。演劇に近い解釈とかね。もう一つは、楽器がっていう音楽的な部分。両輪みたいな感じになるんですが、「居残り」に関して言うと、もうあれは、うーん、ものすごいスピードで駆け抜ける音楽なんですよね、私の捉え方は。

一個一個感情移入して演技していくと、もう五十分超えちゃうぐらい大変なことになるんですよ、あの落語は。で、ある程度の解釈の深掘りよりかは、もうリズムでどんどんどんっていう方が、佐平次という人をね、騙してることすら気づかないみたいな感じの、ああいうキャラクターを演じるには、もうリズムでポンポン行くっていう認識でやってるんで。

全員に共感しながらやってたら、もう間延びしちゃってしょうがないんですよ。なのでこれに関しては一つ一つ話によって、両輪のどっちに重きを置くかって話ですね。だって後のこと考えてないですもんね、そこに出てくる人たちって。最初とりあえず付き合いで遊びに行った人も、後になってえーみたいな感じだけど、じゃあ約束通りつって帰っちゃうじゃないですか。

あいつら何とかしてやれよ、とか思うんですけどね。あれはやっぱり間に挟まって、担当変われずにずっとね、店回さなきゃいけない、あの中の男が一番かわいそうっていうのを私は出したいので、もう寝かしてくださいよとか。その板挟みですね。

客とプレイヤーの間でいつも制作会社の人が板挟みで泣いている姿をよく見ますので、なんかもう勘弁してくださいよみたいな。でもお客さんが来てくれる、お金払ってくれるんでしたら、もう一晩頑張りますけどみたいなのが一番私は好きなので、そこに重きを置いて。

で、あの騙すやつはもうわーって、いかに噛まずにリズムだけでいくかっていう演出ですね。

沼次郎
それでいうと、廓噺の「明烏」とかはどうなんですとか。

小春志
「明烏」は源兵衛と太助が、若旦那を吉原に連れていくじゃないですか。あの大人二人がもう厄介を引き受けちゃったなっていうところ、よくあると思うんですよね。男の子が二人で遊んでる時に、どっちかの妹が私も遊びに行くつって、ちょっと連れて行きづらくなるみたいな気持ちあるじゃないですか。

若旦那を頼まれたから連れてくけど、吉原のルールも知らないし、自分たちが馴染みで通ってる店の女将さんとの会話にしても、この童貞のものを知らない、大事にしなきゃいけない若旦那の前で、俺たちいつもみたいにはっちゃけらんないじゃんみたいなのがまずあると思うんですよ。

そういう感情ってわかるわけですよ。吉原だから、花魁とセックスしに行きますみたいなのを前面に出して言うから、みんなあれ?って思うんですけれども、そうじゃなくて、その遊び場へ行く感覚って別の設定でもいいじゃないですか。

男だけで秘密基地の山へ登りに行こうって約束してんのに、みんな遊びに行くんならうちの子も連れてってよって言って、ちっちゃい女の子連れてったら、いや、俺たちの遊び場には連れてけねえんだよなみたいな、そういうのと同じような気分で私はやってますね。

だから私も(「ストーリーワイズ」で)野球の話を書きましたけど、いつも仕事帰りに野球場で好きな野球選手を応援するのが日常で、酒飲んで楽しいねって人からすれば、野球場っていつも行くとこじゃないですか。でも私みたいに人生で野球場に行ったことない人間は、入り方もわかんないみたいな。これどうやったら座席にたどり着けるのかとか、ビールの頼み方一つ取ってもドキドキしちゃうわけで。

でも源兵衛と太助はもうね、悪い奴らで、毎晩のように通ってて、馴染みの花魁がいて、馴染みのおばさんがいて、行きつけのスナックだろうとバーだろうとソープだろうと一緒なんですよ。新米のやつ行く?うわ、ちょっとめんどくせーなみたいなところがスタートだと思うんで。皆さんね、現代と違うもの、要は自分の知らない世界に対して何か一つ置きすぎなんですよ。日常ですから。

あと、演じているわけで。私はそりゃソープ行ったことないし、でもそれを日常にしている、そういう男の人たちとかが客でワイワイしてたりするわけですよね。つまりその人たちにとっては当たり前の場所だと。ということは、私の中で吉原でも何でも解釈して、今日もあれば昨日も明日もある人たちを演じているわけですから、その人たちのセリフはその瞬間出た言葉だと思っています。だからこっちが背景さえ認識していれば、今の人たちと同じなのにって思うんですよね。

〇落語家のイメージづくり


常森

さっきのあのアイドルっていうお話があって、私、小春志さんと同じ年なんですけど。

小春志
そうなんですね。いい感じにこじらせてる世代ですね。

常森
そうです。女性の受け止め方っていうお話もあったんですけど、さっきの話って何重にもなってる気がして。つまり落語家としてのイメージを保ったまま、その話を演じてほしいっていうことだと思うんです。さっきの落語家の生き方、生き様っていう点からすると、そういう小春志さんのイメージ、その役とはちょっと違うイメージみたいなのは、やっぱりキープしておかなきゃいけないのかなっていう部分が気になって。

もう少し話を広げると、談志師匠のあの破天荒な感じとか、志らく師匠でいうと、炎上する感じとか、落語家のパブリックイメージとその落語みたいな関係についてお伺いしたいです。

小春志
(志らく師匠は)落語は全然そうじゃないです。落語を見に来たんだけど、みんなが投影してるイメージみたいなのはあると思う。

まあ究極のサービス業なので、根本は。なんで修行するのかっていうと、落語をするための修行じゃなくて、いかにお客さんに馴染めるか、合わせられるか、あるいはその落語業界の中で生き抜いていくかっていうのを教わっているのが修行なんですね。

僭越ながら私もそうでしたが、上下関係がわかってないとかだと、この先、お仕事先の方をしくじったりとか、人の気持ちって本当に些細なところ、あいつのあの言い方が嫌だからもう仕事をやらないとか、あいつのあの態度が気に入らないから落語聞かないとかいっぱいあるわけですよ。

修行っていうのは自分をなくしてそういうのを全部ゼロにする作業なんですけれども、無になって。いいところにいたね、痒いところに手が届くねとか、そういうことを体で覚えて、その結果、落語やってる時も瞬間的にお客さんが今日はどういうのを求めているんだろう、どういう目線で私を今見ているんだろうとずっと客観的に見ている。

観察して判断して、それに合わせてこういう商品どうですかっていうのを提供するみたいなことを無意識にみんなやってるんですけれども、やっぱり俺はこう思うんです、こういうことをやりたいんですっていうのを一方的に押しつけるものっていうのは、最初はお客さんは来ないです。

だから修行制度っていうのはよくできてますね。考えなくても、ちゃんと体がその世界で生きるためにできていく。

個を捨てなさい、我を捨てなさいっていうから、落語を演じながらどのキャラクターにもなれる。ゼロだからこそ何でもできる下地にもなりますし。そういうところですかね。落語やってる時はすごいいろいろ考えてるんですよ。自分がこの落語をやりながら、今日このセリフ、自分の気分に合うなとか。同時に、今日のお客さん、そうか、女の子の落語家みたいな目線で見に来てるのかなとか。あとは昔の古典落語ファンがいるから、ちゃんとここのセリフは変えずにちゃんとやんないと、昔の志ん朝師匠、圓生師匠に申し訳が立たないとか。うちの師匠のお客さん今日いたな、うちの師匠の落語聞いてるから、ここの演出あんま変えない方がいいのかなとか、ずっと同時多発的にやってるんですよ。

笑い声が返ってきてんのか、あれ反応ないなとか、もうちょっとゆっくり喋んなきゃいけないのかなとか。あ、違うな、これ客席がエアコン効きすぎて暑いからみんなぼーっとしてるだけだとか、全部考えなきゃいけないので、究極のサービス業だと思うんですよね。

いかにそのお客さんが快適で、その世界に没入して楽しむかどうかだけなので。だからあるんですよ、鑑賞会みたいな、歌舞伎と同じで作品を鑑賞するみたいなのもあるっちゃあるんですけども、お客さんが落語を聞きに来てるのか、立川小春志を聞きに来てるかで、やり方なんて全部変わっちゃうんですよ。

小春志さん見たいですっていう時には、まくらといって落語の本編に入る前の部分のフリートークを結構長めに、自分の最近あったこととかを話したりする方が好きみたいな。だから私はブログとかもやらないし、 X でも日常を発信しないんですよ。

ライブに来れば、私が何を考えて何を楽しんでいるのかがわかる。そういうホームの会もありますし、全然知らずに落語会だねって来たお客さんには、分かりやすい小噺を振って笑っていただいて、落語に入りましょうみたいに順序立てたりとか、そういうこともしますんで。

でもやっぱり修行も含めてゼロになる経験をしていないと、俺はこうですとやるとお客さんって聞かないんですよね。ニュースを読むアナウンサーが、私は政治的にこう思いますって言い出すと引くじゃないですか。そういうのも増えましたけど。昔って、事実を伝えるのがアナウンサーさんのお仕事で、ニュースを読む時にそこにあなたの主観は要りませんみたいなのあったと思うんですよ。

落語も基本的にはそれが成り立ちに近いものなので、そこからこの人が言うとなんとなく笑っちゃうんだよねとか、フラって言うんですけれども、そう言って皆さんが好きになってくれるところからです。解釈みたいなものは実は後ろからちっちゃくちっちゃく出すみたいな感じでやってます。そのバランス感覚みたいなのはあります。

〇落語と客


沼次郎

どういう風に客層を捉えているのかがすごい気になって。(柳家)喬太郎師匠とかまくらで測ってるのかなと思う時あるんですけど。

小春志
基本、まくらですね。

公民館が主催の会とかあるじゃないですか。有名人呼んだりとか。よく地方の公共施設で落語会があるんですけど、そういうところに来るお客さんは「あ、あの人笑点で見た」ぐらいしか知らない。「この人誰だろう」みたいな感じなので、めちゃくちゃまくら振ります。

「あ、そうか、私を知らない真っ新なお客さんだな」と思って、いざ喋り出したら「あ、すごいファンの人いた」みたいな時あるんですよ。熱烈な追っかけがいたりとかして。そういう人って笑い声で返ってくるんで、そしたら「あ、そうですよね。あの、知ってらっしゃる方いるみたいですけど、実は私女性で」とか。初めて見たお客さん、私を男の子だと思うことが多いので、「えっ女の落語家さんなのね」から、引きずり込むというか、入ってくるみたいな。

つかみですね。つかみはやらないとホームラン打てません。大外しの時もあります。

沼次郎
その感覚って立川流だと結構養うの大変だと思ってしまうんですけど、寄席がないじゃないですか。

それは師匠の会とかで身につけるものなんですか?

小春志
舞台に出ないとできない感覚ですから、もちろんそうなんですが、寄席に出てるからみんなが今言った視点で、自分がウケるために考えてるかって言ったら、寄席に出る人は寄席が日常なので、今言語化したことを落語家みんなが考えているわけではないです。

何事もそうですが、一回でも意識をして舞台に立つのと、もらった仕事だから、とりあえず落語やればいいやと思って舞台に立つ人では、一回の舞台で得られる体感、収穫、成長は全く違いますから。もう人それぞれとしか言えません。立川の場合は、さっき言った寄席に出ていないのもありますから、一回の舞台に対する集中力、あるいは思いみたいなもの、ここでものにする、今日のお客を全部自分の客にするという欲みたいなものでギラついてる人は多いと思います。

〇落語における笑い


常森

前々回の独演会の最初にホテルでの新春落語会のお話をされてて、その時に他の方だったらお正月だからまくらの延長というか、漫談で終わるけど、立川流だとみんな古典をやってしまうみたいなことおっしゃっていたんですけど、そこはやっぱり落語を聴かせるっていうのがあるってことですかね?

小春志
そうですね。落語を、知ってもらいたいですね。シチュエーションとしてお正月の新春初笑いという大きな枠があって、初笑いに来てるから落語を聞きたいわけじゃないと私も判断したんですね。笑いたいわけですよ、お笑いで。

でもせっかく出してもらったんなら、しかもそんな一生に一度みたいな機会で出していただけるようなところだったら、笑いながら落語楽しんでっていうのが私の中で強く出ちゃったんですよね。だから頭でっかちのサービス業ですな、私は。

完全にウケを取りに行くことに徹する究極の人、桂宮治さんみたいな人もいます。

常森
最後はお客さんが決めるっていうことだったんですけど、今のお話も踏まえると、落語っていろんなお話、人情噺もあるなかで、やっぱり笑ってもらうっていうことが、最も重要なことであったりとか、笑い声っていうのがその評価として一番先にあるということなんでしょうか?

小春志
そうですね。わかりやすいのは笑い声の反応で、私がどんなお客さんかマーケットを調査している基準の一つ、指標として聞いているだけで、落語の内容によっては、まあ別に笑い声を出さないで、ものすごく引き込まれていることもあるわけじゃないですか。

だから最終的にお客さんが良かったとか、この人好きだ、この落語家さんが好きだ、推しにするとか、そういうふうに思ってもらうのが最終目標です。あと、最大公約数を取りに行くと、その場の笑いは取れても、誰も私に私を好きになってくれる人はいないわけです。

よく昔言われたのは、大勢いるなら大勢を笑わすよりも、その中に一人あなたにとって大事な人がいると考える。彼氏でもいいし、彼女でもいいし、年老いた親でもいいし、自分にとって一番大事な人が座っていると思ったら、あとの人はいいから、その一人のために心を込めてやりますよねっていう。そうすれば残りの人を把握してなくても伝わるんだと、そういう教わり方をしたことはあります。この人のために捧げますみたいなものって、多分言葉とか笑いとか空間とかを超えて、人を何かこうグッとさせるものがある。

ライブっていうのはそういうもんだと信じている部分があるので、最終的に困ったらそこへ行きます。

沼次郎
それって常に大切な人がいるわけじゃないじゃないですか、もちろん。

どういう風に狙いを決めていくのかなと思って。笑わない人とか、笑ってないで腕組んでなんかこうやってやってる人とか。

小春志
いっぱいいましたね、そういう人は。やりながら受け入れてもらってないなみたいな時は、どっかでもう全員を救うことをせずに一点集中でやるネタを二席目でやったりします。だから逆にこれだけがモデルケースってものがないので、あの手この手でとにかくやってますってことですね。レジェンドたちが場数を踏んで、それでも苦労しているわけですよね。それぐらい人間っていうのは一筋縄ではいかないので、ライブに関して言えば、ずっと試行錯誤です。

〇落語のファンの作り方


常森

今の世の中、ファンダムの強さがどのジャンルでも重要で、逆に言うと、ファンダムの外にアクセスするというのは結構大変なことであるように思うんです。

ファンや落語好きな人へ見方とか、あるいはそういうコミュニティの広げ方みたいなことについて、教えていただけますか。

小春志
そうですね。体感として、昔と違って一人の突出したトップスターはもう出ないと思ってるんですね。みんなが好きな推しをそれぞれ好きに推す。だから複数人のグループものがすごく人気があるじゃないですか。

おそ松さんから乃木坂までそうですけど、みんなが好きな人をいっぱい誰でも推せるっていうのが今のいいとこだと思うんですね。だから、落語家といえばこの人を見とかなきゃみたいなことよりも、好きな人わかんなかったら十人見てっ言うんですよね。

十人見れば誰か自分の推しがいるからみたいな感じで。そこに関して言うと、自分ももちろん頑張って売れなきゃいけないですし、一番早いのはメディア出れるとか、タレントとかが一番早いんですけれども。最終的に落語全体が、もっと認知されればいい。ファンに支えられている、非常に狭い世界なんですよね、それは「ストーリーズワイズ」で書いたクラフトビールの世界と同じ。ジャズとクラフトビールと落語は、マニアのファンが新規を潰すってよく言われてるんですけども。

でもこれって母体数を大きくすれば解消される案件なんですよね。昔のアニメオタクっていうのはそうだったかもしれないけれども、今全然普通の子もいる。オタクとかアニメ好きとかが一般に認知されたわけですよ。世間から恥ずかしいと思われている俺が好きみたいなコアなファンが普通に見られるようになったのと同じで、落語も正直言うと、私が入門する前から比べれば、普通に若い子が落語好きなんですって言うんですよ。

私たちの時代は恥ずかしくて言えなかったんですね。あんなおじいちゃんとかおばあちゃんが聞くもん、若い人が聞く趣味じゃないよね、みたいなのがあるから、みんな隠してたんですよ。それが今は自分あの人聞きます、 YouTubeで見ますとか言えるので、その点でまずすごく良くなってきてるんですよ。

我々がもっと、まあテレビ出るのもそうだし、声優やらしてもらうのもそうだし、前に VTuber やれば?って言われましたけど。VTuberは VTuber で母体数多いから獲得にはいいかもしんないんですが、 VTuber のイメージを持った人が実際の私の落語を聞くかといったら、そこはあまりに乖離しているので、最終的に落語会に来たくなるような、これだけいろんなマスの媒体がありますから、それを自分で選びながら、そこで頑張っていくしかないなと思ってるんですよ。

文字っていうのは、談志師匠がものすごくたくさん書物を書いてますから。この「現代落語論」もそうですけど、これでやっぱ落語の底上げがされたこともありますし、うちの師匠の『赤めだか』だってそうです。そこから落語に入る人もいるわけで。

あとラジオはやっぱ強いですね。ラジオリスナーっていうのは声を聞くので、すごくものを聞くことに慣れているから落語と親和性が高いんですよ。だからとても落語を聴いてくれます。今の若い人が怖いなと思うのは、映像媒体を見る方が多いので、音流さないでリール動画とか YouTube もサムネだけとかで、文字と絵面だけを消化している人が多くなってくると、ちょっと戦いづらいなと思ってます。

新しい層に落語を届けるっていうのを考えると、結構難しいことはありますね。でもそれも試行錯誤です。

常森
音声コンテンツでパッと発信するよりも、やっぱり生の価値を維持していきたいっていうのは小春志さんの一つの方針なんでしょうか。

小春志
例えば YouTube でタダで落語流したりとか、そういうことはしない。そこ難しいですよね。それってもう自己ブランドの売り方なので、落語というよりかは、ものをどうやって売りますかっていう話ですよね。

で、私はあまり配信とかも落語自体は流さない。今日も昼間、ラジオNIKKEIのゲストインタビュー行ってきたんですけれども、 YOUTUBE のように無料で消費するものではなく、チャンネルをつける、あるいはラジオでチューニングする、radikoで聞くとか、そういったものを通じて結構喋ってはいます。

私、去年出させてもらった寄席で、配信って言われた瞬間にダメですって言いました。来てなんぼだからと。満席なら配信いいですよっていうことですね。満席なら配信は有効だと思います。期間限定で。人間って入れないものに対してお金を使いたくなるので。これ売れてますとか、これ満席でもう買えませんっていうと、急に人は行列を作って物を買う心理があるじゃないですか。ガラガラでやっているところを穴埋めで少し収入を稼ぐために配信でやっても、結果的に客は減る一方です。

お客の入らない会っていうのは、配信で見るなら家で見れて楽だからいいやっていう方に流れますんで。こうすればっていう成功譚があるならば、みんなもっと成功してますね。

常森
「ストーリーワイズ」の中で、行った先で基本宴席があるっていうお話がありましたけど、ファンの方と直に交流するというのは、落語のファンの作り方としては一つの可能性ではあるんですか?

小春志
これはですね、「ストーリーワイズ」で書いてるのが二つ目の頃の話なんですよ。まだまだペーペーの時なので、インディーズみたいな感じなんですよね。結構若手の落語会ってレストランとか地方とか呼ばれて、地元の人に支えられて交流しながら、みんなが真打になるまで応援するよっていう、そういう形でお客さんを引っ張って支えてもらうのが多いんですね。

インディーズバンドって結構みんなその後飲み会やったりすると思うんですよ。そういう時代ももちろんありまして。で、さっきその配信とかの話から売り方の話をしていたのは、メジャーになってからの話なんですよね。

まずインディーズからメジャーに行くのも大変ですし、真打っていうものがあって、たまたま私がメジャーの視点で今ものを語れるようになっているんですが、やっぱり思い出はインディーズが多いんですよ。

今はそんなファンミーティングみたいなことはほぼしません。それやっちゃうと新規が来なくなりますね。難しいです。だからホールでやれば薄まるんですよね。濃いファンミーティング感は薄まるけど、三百のファンと一緒に空間を共有できるようにしていけばいいですよね。

そうなってくると、あいつ小春志と飲んだらしいぜとかコアなファン同士の噂はもうなくなるわけです。揉めるから。だから私が今話しているのは三百のお客さんとの話です。

常森
そのお客さんが三十人の時の距離感っていうのはどれぐらいのものなんですか?

小春志
明確にお客さんですね。顔なじみのお客さん。えーと、居酒屋で言えばカウンターの常連みたいなもんです。だからその時間は打ち上げの席は話しますけれども、それきりです。

スナックのママが一人で回しているカウンターだと思ってください。入れ替わりももちろんありますし、そういやあの人来ないねとかもありますし。私はあんまりなかったですけど、こっちはお客さんだと思ってお酌の一つもして、「また来てくださいね」ぐらいのことは言うわけですけど、やっぱね、勘違いされるお客様も。

まあ居酒屋でもスナックでも勘違いするお客さんいますから。私は結構塩対応で。複数人いれば皆さんがね、楽しまなきゃいけないと思ってるんで、いやちょっとお客さんの話長いから今自分の話いいんだよとか普通に突っ込むんですよ。

そうするとバランス良くなるんですけど、塩対応好きのお客さんが増えましてね。男のお客さんっていうのは、ストライクゾーンの広い方が多いので、面白かったですね。私からすればそういう男の人がいるんだって、人間観察でめんどくさい感じの人を演じる時に役に立つので、まあいいかな。露骨だな。

沼次郎
例えばやっぱ観察的な要素があるっておっしゃってたじゃないですか。三十人の時にいた変に距離詰めてくる人とかって結構参考になったりしないですか?男性目線的な。

小春志
そんな何度も何度も同じことをやることないですよね。十何年やってもうわかりましたし。今は今のステージで、例えば向こうのご主催の方々と、あるいは別の業界の、音楽やってる人ですとか、いろんな方々と新しい社交の場を頂いているので、そうすれば別の観察もできるわけなので。

あと、私はすごい行きつけの飲み屋が山のようにあって、サードオポチュニティを持っているので、落語家と落語ファンしか世の中いないみたいな生き方はしてないんですよね。だから全然なくて大丈夫です。

沼次郎
あ、じゃあ真打になってより世界は広がって。

小春志
もちろんです。とにかく落語家という肩書きを真打は背負っているので、歌舞伎役者だったり、お笑い芸人さんだったり、あるいはクラシックのチェロの奏者だったり、指揮者だったり、いろんな仕事の肩書きのついた方たちと会うことができますので、あとは逆にそこから学んでいかなきゃいけないわけですよね。

舞台表現であり、サービス業であり、お客ありきでやるライブである、みたいな複数の側面を持っているので、いろんな業種の方と会う方が今は勉強になりますね。

〇落語の批評


常森
落語の感想、ファンの方からもあると思うんですよ。

批評っていうとちょっと大げさですけど、ご自身の落語に関する感想はどういう風に受け止められるんですか?

小春志
私は結構嫌いじゃなくて、だから必ずアンケート用紙置いてあるんですよ。これ面白いなと思ったのが、三十の規模の時代。応援しているファンに支えられている時代って、みんなものすごい熱心にぶわーってアンケート書いてくれたんですよ。内容はその人の主観だから、私はあんまり気にしないし、それで落ち込んだり喜んだりもしないんですが。

今、三百の規模になると書かないですよ、皆さん。一つはSNS がこんだけ広がったっていう。昔はね、みんな隠れてブログとかでこっそりいっぱい書いてる人いましたけど、今はそうじゃなくて、全員がネット上で吐け口を持っていることも、アンケートを書かない理由だと思うんですが。あとはあれだけの大きな小屋になると、直接思いを伝えに来る人は少なくなりますね。お客さんとも距離感できるので。

どう言われるかっていうのは、さっき言った通り、見当違いのことだろうと何だろうと、その人はそう思ったんですから、ありがとうございます。それによって私が変えようとかは何も思わないです。それがプロなんじゃないですかね。そこで揺らぐのはアマチュアだと思いますね。自己承認欲求を埋めたいわけじゃないんですよ。落語やって認められたいっていうことが先立ってるわけじゃないっていう。

でも舞台に上がる人っていうのは、意外と自己承認欲求の強い方が多いので、それが売れたいって原動力になる人もいるから否定はしないんですが。落語界は特に修行で自分をゼロにする、人のために尽くすっていう立ち位置から進んできた人間が今やっているから、お客が喜べばいいので、自分を認めてもらいたいみたいなのはあんまないんですよね。

落語家っていうせっかく好き勝手喋っていい商売やってんのに、毎日 X でお客さんのコメントとかいいねをもらわないとやっていけなくなっている人たちっていうのは大丈夫かなと思うんですがね。

ただ先輩筋なり師匠筋の方からこうじゃないかっていうのは、全部言うこと聞きます。同業者が言ってくれることほど怖くて勉強になることはありませんから。それは同じ落語家として、もう頭を下げて上だろうと下だろうと言ってくださる方の意見はみんな聞きます。で、自分としては「あ、そっか、自分がこう考えてたのは独りよがりだったな」って修正します。

常森
批評家っていうのは、作り手でもないし、ただの消費者でもないと考えた時、落語を批評するってどういうことなんでしょうか。

小春志
先に言っちゃうと、あまり落語ご存じないということで、ちょっとどうしようかと思ったんですが、これは言わなきゃいけないなというのは、落語評論っていうのはちゃんとジャンルがあります。で、落語評論家っていう方もいらっしゃいます。プロっていうか、落語評論しながらいろんな仕事してるんでしょうけれども。

堀井憲一郎さんの『落語論』。私としては、これがいろんな評論の中では一番落語家の了見に近い。あ、この人言ってることを外してないなって、私がプレイヤーとして思う本なんですね。で、ここに書いてあるんですよ。落語の評論は難しいですってことが。これはもう私もその通りだと思っていて。

お客さんとして、まずライブ会場に行って、その人の落語を聴いて、で、評論したいと思うには、まあ好きじゃなきゃできないじゃないですか。嫌いでやるっていうのは仕事でしかやらないと思いますけど。ってなると、堀井さんも書いてるんですけど、お客さんと演者が一緒に作り上げるライブなんですよね。その日、その空間、そこにいた人たちでしか成し得ないものの中で、今までに得たことのない感動だったり、衝撃だったり。

で、堀井さんは身体性について書いてあるんですけれども、体ごと持っていかれるという、あるいは感情、気持ちを全て持っていかれる。これを文字にすることにより、いろんなものがこぼれ落ちてしまって、結局評論はできないんだと書いている。まずなんでこの人を評論したくなるかというと、嫉妬が必ずあると。自分はプレイヤーじゃない。客ではあるけれども、評論家というポジションを使って何か言わなきゃいけない。そこからすると、自分だったらこうなのには言えないわけですよね、プレイヤーでない以上。こうやるのに、俺だったらこう思うのにっていうのはできない。だから談志師匠も実は現代落語論の一番後ろに書いているんですけれども、落語をどうのこうの言う人は全て嫉妬から来ているっていうのが一つの、落語評論のまとめ方なんですよね。

常森
自分が本当にはできない、落語家としてできないっていう嫉妬。

小春志
そうです、そうです。お笑いもそうですけど、大阪のおばちゃんだって芸人より自分の方が面白いと思ってますしね。で、落語ってみんなおしゃべりしてるだけだって思ってるんですよ、知らない人ほど。今日は技術の話から入らせてもらったんでいいと思うんですが、ただくだらないこと喋ってお金もらっていいわねって思ってる人が九割いる中で、本当に好きでやる、落語を評論しようって人は、やっぱり曲がりなりにも落語への愛が強いので、落語への愛情ゆえの嫉妬みたいなところが評論するときの難しさであるっていうのと、その落語家というものを評論すればするほど、自分の感情と向かい合うだけの文章になっちゃうと。

常森
批評する方の感情ってことですか。

小春志
はい、そうです。なんで俺はこの人好きなんだと。この人にはなれない。だから自分の個人的な恋愛観を文章化してるようなもんになっちゃうんじゃないですかね。この分析をしても落語の良さは伝わらないみたいな。

常森
小春志自身さんはアマチュアからプロまでの立場を経験してらっしゃって、他人の落語をみるときの、何か感じ方の変化っていうのはあるんですか。

小春志
そうですね。アマチュアで学生落語やって、入門前まですごい好きでいっぱい聞いてて楽しかったあの師匠のあそこでやったあの瞬間のあのネタのあの感動ってもうしばらく体感してないなとか、いい思い出として残ってます。それは今も記憶として私の中にはありますが、修行を経て、二十年プロとしてやってきた以上、あの感覚でもう衝撃を体感することはないんだろうなとは思ってます。

私たちは客席に座って誰かの落語を見ることが許されないんです。落語家になると客席に座ることは NG なので、よっぽど許可を得ない限りはできなくて。

だからあのころと同じ環境で客としての感覚は味わえない。ただ、映画見に行ったり、演劇見に行ったり、他のお芝居見に行ったりしたときは座って観ますから。客席座るとやっぱああそうだったなって懐かしい気分にはなりますね。

でも自分はもう修行をしてしまっているので、昔の自分の話です。そこは一つ大きく断絶してますね。だからいろんなことを皆さん言ってくれたりするんですけど、落語家ってみんな「でもお前修行してないじゃん」って言うんですよ。それは今言った話に近いのかもしれない。

常森
評論する人は修行してないってことですよね。

小春志
はい。みんなよく言うのは上手い下手はお客に言われるとカチンとくると。

常森
上手いもカチンとくるんですか。

小春志
一方、好きです、あんま好きじゃないな、は全然OK です。ありがとうございますって言うんですよ。わかりますかね。上手いっていうのは、わかってないくせに褒めてるというか、なんか上から評価してるだろうっていう。

我々の上手い下手の基準とお客さんの上手い下手の基準は歴然と違いますよと。上手い下手って言うならば入ってこい。落語家になってからものを言えっていうのがあるんですよ、絶対に。でも好きです、嫌いです、は全然お客さんとして一番いい答えなんですよ。だってお客さんだもん、っていうことですね。

常森
でも上手い、下手を言う人は結構たくさんいますよね。

小春志
言いたい人はね。半分は本当に感動を伝えに来ているのもありますよ、長い言葉を尽くして。「僕のなかで昔聞いた先代の名人文楽の時のあそこのトーンのあの言い方がよみがえってきました」とか、「師匠のあの感動した時の顎の形がすごい似てるんです」とか、ものすごい言葉を尽くして書いてくれる、感動を伝えてくれる人はいる。それに対しては全然、あ、そうですか、ありがとうございますと、私も一応大人なので普通に受け止めるんですけども。何ですかね、俺はこんなに見てるんだぞみたいな自慢に感じられる方って結構多いんです。

今度はプレイヤーの自己承認欲求じゃなくて、客の自己承認欲求。俺のことを好きになってって。話の内容を自分が超えちゃってる時があるわけですよね、承認欲求が。最終的にあなたなんて言われたいんですか?っていう答えを考えると分かりやすいと思います。

すごく長いアンケートでバーって書いてくれて、「あ、ありがとうございます。そんなに聞いてくれて」「ああいや、とんでもないです。いや、本当勝手なこと言ってすいません。でもどうしても伝えたくて」って言うんだったら全然いいんですよ。けど、ありがとうございますって言った時に、不服そうな顔する人いるんですよ。

私に「あなたそんなに聞いてたんですね。いやすごいですね」って言われたい。それを自己承認欲求と言うんですが、そういう人に関してはガン無視です。まあもちろんね、やりとりがあった上でですが。

何だろうな、作品が好きなんじゃなくて、自分が好きって文章を書く人、たまにいるじゃないですか。

常森
多いですね。批評にもたくさんいますし。

小春志
無理です。読めないです、私。俺すごいんだぞが言いたいんかいみたいな人はもう飛ばしますね。

〇落語と声


常森

逆に落語家同士のピアレビューっていうのは互いに有効だってことなんですけど、小春志さんが同業の方にポイントを伝える時にはどんな点を重視するんですか。

小春志
まずセリフが客席に伝わってない人が多いんですね。内容が良くても滑舌が悪かったり、そんなレベルの話です。舌がちょっと短い人って舌足らずな喋り方になったりして、音として聞いてて心地よくない人っているじゃないですか。

大学の先生でもすごくいい研究してるのに、プレゼンがあまりに舌足らずで頭入ってこないみたいな先生いるじゃないですか。だから人間ってまず耳に音が心地よく入らないとそもそも聞く体勢になりませんので、それができてない人には言います。

声ちっちゃくない?とか。口回ってないからさ、大きい声で練習すればとか。あと、あまりに自分の口調になっちゃってる人は、若い人は昔の音とか名人上手のコピーをしてからだとか。そういう技術的なことは言いますかね。まず相手に聞いてもらわないといけないので。

常森
さっきの男性、女性の話とも少し重なるようにも思うんですけど、男性を演じる時のその声の出し方みたいな、小春志さんなりの声を作ろうっていうようなのはあるんですか?

小春志
声を作るとか、何かを合わせようっていうのは今はあんまりなくて、むしろ一番ちゃんと通る声を出す。女の落語家を聞いたらわかるんですが、ご隠居さんとかおじいさん、侍とかドスを聞かせるみたいな低い声ができないですよね。

だから喉絞っちゃうんですよ。アニメ声っぽくなっちゃうというか。隠居っぽい演じ方を意識してそうなるんですけど、やっていくうちにわかったのは、この人演じてるなって思うと、客ってそんなに感情移入しないんですよね。

いかに自然か。それをテーマに「ストーリーワイズ」に書いちゃってるんですけれども、お客にとって自然に聞けて、自然に頭に入ってきて、体で受け止められるをまず前提条件にしないと、落語の内容とか解釈までいかないとわかってきたんで、無理して喋ることをやめたんですよ。

その代わりに喉を開いて、なるべくお腹から低い声を出すっていうのをやっていけば、そこは多少訓練で浪曲とかもね、女性でとても太い低い声出せる方いますから。

旦那とおかみさんとかっていう演じ分けを頭だけきちっとやると、お客さんは想像の中でもそう思うので、無理に声を作らなくても全然入っていけるというか、最初の素地をちゃんと作ればっていうのをわかってきたので。八人声とか言って声色を変えるっていうのは、落語家は、あんまり良しとされてないんですよね。声優さんと違って。(五代目)小さん師匠なんかもずっと変わんないじゃないですか。

私が喋っているのに、そこに男の人が見えたり、花魁が見えたり、侍が見えたり、お客さんが想像できるっていうのが、究極の技術だと思うんですよね。だからいつかそのまま私が喋りながら、勝手にお客さんが壺を買っていくみたいなのが理想なんじゃないですかね。布団とか壺を売る人と同じ理論だと思います。

沼次郎
さっきの楽器の話に近いような印象をそのまま受けたんですけれど。

小春志
その人によって形があるので、最終的に自分が一番自然で、お客さんにとっても耳心地のいい音が出せるところに落ち着いてきたってことですね。

いろいろ試行錯誤はあったんですけど。ずっと怒鳴ってて、息が続かなくなって苦しい時とかももちろんありましたし、喉にポリープできましたしね。すごい数のポリープできちゃって。まあコロナの間喋らなくて治ったんですけど。

常森
そういうものなんですね。

小春志
そうですね、本当楽器です。身体的な技術論だと思います。男の人は皆喉で喋る。前に、耳鼻咽喉学会さんの仕事で耳鼻咽喉科の先生の前で落語やったんですよ。

そしたらあの君、喉で喋ってないねと。ずっとここ開きっぱなしだから、人として喋り方が特殊って言われました。落語やってたらそうなっちゃったんで。最初はね、無理しましたけれども、無理しない方がお客は聞くということが分かりました。それぐらいお客さんって違和感に敏感なんだなって思いますね。

〇落語と現代社会


常森

さっきの妾のお話もそうですけども、落語って今の世の中でどういう風に捉えられてると感じてらっしゃるのかをちょっとお聞きしたくて。落語家は今の世の中でどういう風に活躍できるとお考えですか?

小春志
談志師匠がおっしゃっているんですが、落語の題材というのが講談とかと違って、本質的にダメなとこがあったりとか、サボる癖があったりとか、業の肯定って言ってますけれども、消そうと思っても消せない常識だとか、あるいは社会規範とか、ルール、みんなで一緒に生きていく共同体のための決まりがあるじゃないですか、社会というのは。

ただ人間としてダメなやつって言われちゃうかもしれないけれど、それに合わせられない非常識な人たちが結構落語にはいっぱいいますので。今が生きづらいって人は落語を聞くと、あ、こんな奴らがいて、後先考えずにめちゃくちゃやってて、しかもちょっと笑えてっていうところに、心の逃げ場がある。お客さんに言われたりして、確かにそういうのは感じるんですね。

別に落語を救いにしてはしょうがないですし、根本的にダメな人を描いてますから、あれなんですけれども。でも皆さん、特に今だとメディアに出る人とか、人の目にふれる人っていうのは、品行方正さや倫理観を求められがちですよね。

他人に規範を押し付けがちだと思うんですよ。じゃあ自分はって言いたいんですけど。人間って聖人君子ができるわけではないっていうのを、今の人って何ですかね、他人になると急にそこの想像が働かなくなっちゃうのかな。

お互い人間でね。今日は何食べよう、ラーメン食おうか、寿司食おうか、今日食べるもんねえなとか、お腹痛いからうんこ行ってくるわとか、みんな一緒なわけですよ、誰だってね。だから『寄席芸人伝』っていう落語家を扱った漫画に、人間なんて偉い政治家だろうが芸人だろうが、みんなクソ袋だ、うんこするだけの存在じゃねえかっていういいセリフがありますけれども。ちょっとね、皆さんの想像力が他人に対してなくなって、厳しくなっているのも、落語を知るともうちょっと優しくなれるんじゃないかなと思うんですよね。

落語家ですら、品行方正であれと。いや、別に私たちダメになろうとしてるわけじゃないんですよ。普通に生きてるだけですけれども、たまには結果的に締め切りをサボったり、ダブルブッキングしたりするじゃないですか。

生きてるだけでごめんなさいって、他者を許さない社会が苦しいんだったら、一人でそっと落語会に来て、心のサードプレイスで楽しんで、みんなにちょっとだけ優しくなって帰ってくれればいい。そういうお客さんを増やしたいですね。

常森
例えば破天荒とか、こんな生き方に憧れるみたいなのはあるんですか?

小春志
私が入門するぐらいまではありましたよ。アウトローを気取って就職もせず。 お金もないのに道端の草食いながらただただ落語やるんだ、裸一貫でみたいな。

女だてらに夜勤のバイトで工場のおじさんたちと競馬行ったりとか、そんなことばかりしてましたが、今になると別にしなくてもよかったなと。やったから言えるのかもしれないですけどね。成功するのには理由がないから、何でもやっていいと思うんですよ。

成功のルールってないから。ただ失敗するには理由が絶対にありますから、失敗をしないように気をつけるみたいなのはありますね。

常森
かつてのような破天荒な落語家はもう生まれない?

小春志
昔はみんなもうちょっと常識的に暮らしてる中だから、破天荒っていう存在がいたわけですよね。だけど今全員が破天荒みたいな人たちですから。職業選択の自由がこんなに乱用される世の中ですよね。

みんな芸人ばっかりになっていくじゃないですか。子供減ってるのに。好きなことやって、俺は就職しないで YouTuber になるって公然と言える、個人の時代だから。いい会社行きなさいとかね、あったと思うんですよ、昔は。

今は好きなことやるならやってもいいしっていう人が割合的に増えてきたので、常識が芸人とあんま変わんなくなってる。上下関係気にしない、俺様が一番みたいなタイプの。もしかしたら破天荒じゃなくて、逆にものすごく頭が良くて品行方正な芸人の方が新しいニッチを築けると思うんですけどね。世の中が学級崩壊してるなら、私が教祖とかになろうかなと思ってるんですよ。

常森
教祖ですか?

小春志
宗教的なやつ。人と違うことをやるっていうのはそういうことじゃないですか。全員が破天荒な世の中だったら、政治的規範じゃないですけど、リーダーが必要なわけで。

この間の選挙もそうだし、世の中って大体そうじゃないですか。みんながちゃんとしてたら変な奴になるし、みんなが変だったらちゃんとしてる奴が世間で変な奴になるわけです。だからずっとそういうことは考えてます。

もうこの人に聞けば、全ての答えがわかるみたいなぐらい頭良くなってやろうとか思うんですけど。積極的に発信する機会があれば、そういうのもありかなっていう。

今のところまだ息を潜めてます。

常森
今日のお話を聞いたり「ストーリーワイズ」を読んでいると、おっしゃりたいことがたくさんおありなのかなと。

小春志
随筆なので、本当はもっと随筆っぽく書かなきゃいけないんですが、ついどうしても今言ったみたいな、世間がちょっと大丈夫かみたいなところが出てきちゃうのと、あと、なんか浅いなっていうのを感じることが多くて。

相手を想像せずに決めつけて叩く行為もそうですけれども、例えばじゃあこの間の選挙で言えば、急にこうなったら戦争になっちゃうんだよとか、なんか敵だ味方だみたいな。昔の町内会の会議みたいな感覚で選挙に行く人が多くて。あと、なんで人類は令和まで絶滅せずに、そして落語は二百年続いてきたかといえば、考える仕事も含めて、人間が一応社会的に成長してたからじゃないですか。みんな選挙行く前に『ソフィーの世界』一回読んでから行くとか、哲学科出てる人なら『チ。』読めよとかねっていうのがどっかあるんですよ。ただそれを言うと叩かれますから、落語聴きながら、一人でも、あ、そっか、昔はそうだよな、人間の捉え方ってこうだったよねみたいに気づいてもらえれば、戻ってくる人はいるんじゃないかと思うんですよ。

そういうことを実はちょっと思いながら「ストーリーワイズ」書いちゃってるので、うちの編集の方もそうですけど、物語随筆としてね、皆さんに消費していただければいいっていう書き切りなんですが、意外とね、本当にこうやって、今回の仕事のオファーみたいに一番言いたいことを言わせてくれるところの界隈の人が目をつけてきたんだっていうのはなんかいいですね。百人に一人くらいはやっぱりかかるんだなって思いました。

常森
今お伺いすると、小春志さんはコメンテーターにすごくぴったりというか。

小春志
やらない方がいいです。怪我すんの嫌です。

常森
本日は落語のことから、今の日本社会のことまで、いろいろな視点からお話いただき、ありがとうございました。

*2026年9月~2027年3月で立川小春志芸歴二十周年記念独演会全国ツアー開催
*今秋、講談社より「ストーリーワイズ」単行本刊行予定

立川小春志
1982年東京生まれ。2006年、立川談春に入門。二つ目(2012年)を経て、2023年に真打に昇進。ラジオ、メディアなど多数出演。

公式HP  https://kosyunji.com/
画像は公式HPより

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立川小春志さんインタビュー(構成 沼次郎・常森裕介)|第三批評 2号『わたしたちの百年』@文フリ東京2026/5/4&創刊号&別冊Booth販売中
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