1996年 中日ドラゴンズ(2位)
あけましておめでとうございます。
本年も当アカウントの記事をよろしくお願いいたします。
今年は私も大学4年生になるということもあっていろいろ立て込んでおり記事更新の間隔が空くこともあると思いますがよろしくお願いいたします。
さて2026年は中日ドラゴンズ創設90周年の節目であります。
ここ2年では球団90周年記念の年に巨人・阪神が優勝しており、中日もそれに続けるかというところも注目されるポイントですね。
ということで今回の記事では中日創設60周年である1996年について取り上げたいと思います(※リメイク)。
この年は現2軍球場のナゴヤ球場の1軍本拠地最終年でもあり、最近ではナゴヤ球場から2軍が移転するかも?という話も出ているのでちょうどいいタイミングだと思います。中日創設60周年のシーズンはどのようなものだったのでしょうか。
「闘将」カムバック
1994年、この年高木守道監督率いる中日は巨人と熾烈な優勝争いを繰り広げるも最後には直対(10.8決戦)で力尽き僅差で2位で終わってしまうという悔しいシーズンでした。
その雪辱を果たすべく、臨んだ1995年シーズンは序盤から低迷。さらに6月には高木監督が辞任。その後は徳武定祐が監督代行になりますがなんと1ヶ月ほど経った後に解任。監督代行の代行には2軍監督の島野育夫が就任するなどこの年2度の監督交代があったチームは5位低迷。
こんなぐだぐだな感じで60周年イヤーを迎えた中日は1987~1991まで監督を務めた星野仙一を監督に再就任させることにしました。
2期目の星野中日のオフはやはり低迷を打破するべく動きます。個人的には星野仙一は低迷している球団を強くするチームビルディングに長けた監督だと思っているのですが、オフにはロッテの愛甲猛を金銭トレードで獲得。またロッテとは仁村徹、酒井忠晴、山本保司を放出し前田幸長、樋口一紀、平沼定晴を獲得する3対3のトレードも成立。
また90年オフに広島にトレード放出した音重鎮、山田和利を若林隆信とのトレードで呼び戻しました。
外国人では2年連続首位打者のアロンゾ・パウエルが残留、新外国人野手ではダネル・コールズを獲得。
また投手では韓国の至宝・宣銅烈を巨人との熾烈な獲得競争を制し獲得。当時は巨人入りが有力視されていましたが中日が巨人を上回る後から3億円(1.5億×2年)の大型契約を提示し獲得に至ったそう。星野監督の反巨人への強い思いが出てます。さらに球団のエースナンバーである20も用意しているほどの好待遇。
ただ中日のオフの話題はあまり良いわけではなかったんですよね。
特にドラフトではPL学園・福留孝介のクジを当てられず、外れ1位指名の東海大相模高・原俊介のクジも外し、「もう勝手にせえ」と星野監督が憤慨。競合を避けたい中日は熊本工業高の荒木雅博を外れ外れ1位指名で獲得しました。後に2000本安打を達成したり守備の名手として知られる荒木ですがこのような経緯から期待度はかなり低いものでした。
2位以下は逆指名で東北福祉大の門倉健を獲得したりするなど荒木以外全員が大学・社会人出身者という即戦力ドラフトでした。
野手陣
今は改修が入っているので幾分か広くなったナゴヤ球場ですが当時は結構狭い球場でした。そのため中日打線はこの年かなり打ちまくります。
まず1番打者からして凄いですよね。この年115試合でスタメン1番だったのがコールズだったのですが、のっけから3割30HR近い成績の選手が1番にいます。相場は走れるリードオフマンがいる位置ですが盗塁をしない1番というあまりにもインパクトがありすぎるバッターです。コールズは得点圏でも.383と高い打率を記録しています。
中軸では主に3番を立浪和義が打ち、リーグ3位の打率.323、10HRながらOPSは.870と中距離打者らしい成績を残し自身初のベストナインを獲得しています。BB/Kも1超えですし出塁率.404あるのは良いですね。
そして4番を打つパウエルも自身3年連続の首位打者となる.340を記録。これは外国人史上初ですし、NPBでも長嶋茂雄以来2人目です。パウエルも14HRなので長距離砲ではないのですがOPSは.900超えですし中軸に座る中距離打者の活躍は凄いところ。
ここを過ぎればあとは下位打線…と油断できないのがこの中日打線の恐ろしさ。なんてったって6番7番には山﨑武司と大豊泰昭がいますからね。
前年16HRと初の2桁HRを放った山﨑ですがこの年は長打力が一気に開花。なんと39HRを放ちHR王を獲得。しかもHRだけではなく打率も.322とリーグ4位。OPSは1超えです。またクラッチヒッターぶりも見事で打点も107を記録しており山﨑が大砲として覚醒した年でした。
また大豊も負けていません。大豊は山﨑に次ぐリーグ2位のHR数である38HRを記録。打点も89でチーム内2位です。序盤は絶好調だった大豊に対して終盤に伸びた山﨑とどっちかが不調でもどっちかは調子が良かったのも躍進に繋がったのかもしれません。
捕手では中村武志が規定到達。中村も当時はかなりの打てる捕手で打率.271 12HRとパンチ力がある打撃を見せつけました。中村以外でも2番手には28歳の矢野輝弘がいて56試合の出場ながら.346 7HRとこちらも強打の捕手として存在感を示していたので捕手の層は厚かったようです。
規定未達ですが鳥越裕介は正遊撃手の座を掴み、若干他の打撃陣に比べたら劣るものの繋ぎの2番として良い活躍を見せました。ちなみに鳥越の8盗塁はチームトップです。またトレード復帰の音も2桁HRを記録していますし大きな穴ではないでしょう。
控えメンバーでも川又米利・彦野利勝のような頼れる代打陣がおりチームの野手陣のレベルが高かったことが伺い知れます。
リーグ得点数は641で2位。HR数はリーグ1位の179本と打撃力は上位だった中日。しかし走塁面では難ありでチーム盗塁数はわずか36個。また失策数もリーグワースト。コールズが20%にあたる20失策を喫するなど守乱も目立ちました。
3HR→16HR→39HRと倍々でHRが増えていった山﨑。
地元が名古屋ということもあり愛されたフランチャイズプレーヤーだった。
投手陣
投手陣では左のWエースが規定到達。
まず25歳の今中慎二は大きく曲がるカーブで打者を打ち取り、25登板で防御率3.31、14勝8敗の成績を残しました。K%は20%を超えていますし、狭いナゴヤ球場と考えれば良い成績でしょう。
もう1人は山本昌。山本は開幕は間に合わなかったものの最終的には規定到達を2年ぶりに達成。勝ち星にこそ恵まれず最終的には7勝9敗と負け越しましたがそれでもK-BB%は今中とほぼ同値なのでそこまで悪いわけではありません。
そんな左のWエースに加わろうとする若手もいました。22歳の野口茂樹です。野口は前年3勝10敗と結構打たれていて四球で自滅するケースも多く、実際この年も4月にローテから外され2軍降格もありましたが8月にはプロ初完封勝利をノーノーで飾る場面も。まだまだ荒いですがかなりの有望株でした。
他にも落合英二が4勝6敗、防御率3.74、ロッテからトレード移籍した前田幸長は7勝4敗で制球力の高さを見せて好成績を残します。逆指名2位の門倉は72イニングながら1年目からK%20%超えを記録。最終的には7勝を挙げる活躍を見せました。
救援陣では宣銅烈が守護神として期待されていました。しかし宣はかなり救援失敗が目立ち守護神から配置転換せざるを得ない状況に。その代わりに守護神になったのが中山裕章です。中山は36登板で防御率2.88、14Sを挙げる活躍を見せました。星野監督も「あいつがいなかったら、今ごろ最下位争いをしておった」と絶賛していました。
その他救援では遠藤政隆が1軍定着して49登板。元先発ということもあって谷間の先発もやりました。チーム最多登板は北野勝則で54登板。中日移籍後最多の登板数でした。
中日の投手陣は防御率4.01でリーグ3位。だいたいリーグ中位のレベルです。完投数は30とリーグトップなのですがQSはリーグワーストです。
救援陣も宣の不調もありながらも奮闘していましたがリーグ4位と普通くらい。安定して投げていたのが今中・山本くらいなので救援の出番は比較的多めでした。
14勝を挙げた今中だが実は終盤は怪我をしながらも投げていた。
これが後々の不調に繋がることになる…
火を噴く強竜打線
開幕戦となる広島戦は落としますがその後2連勝して開幕カードは勝ち越し。10日阪神戦からは2試合連続の2桁得点で大勝するなどさすが強竜打線、早速火を噴きます。
その後はなかなか連勝できない時期が続きましたが23日ヤクルト戦から4連勝。4月は13勝8敗で勝ち越しスタートを切ります。
5月1日の巨人戦。前の回に中日先発の古池拓一が落合博満に死球を与えてしまいます。そして5回先頭打者は山﨑、相手投手は暴れん坊のバルビーノ・ガルベス。山﨑は先ほどのこともあって報復が来ることは分かっていました。そしてガルベスが投じた初球が頭部付近に来たのです。これに山﨑が激怒、当然報復でやってるのでガルベスもこれに応戦。ナゴヤ球場は両軍入り乱れての大乱闘に発展しました。中日・星野監督も巨人戦ということもあってヒートアップしていました。結局山﨑・ガルベスは退場処分を受けています。
また26日横浜戦では中日先発・佐藤秀樹が2回までに6失点を失う大炎上。試合は7回にストライク判定に抗議したコールズとそれに加勢する形で抗議した星野監督が今季2度目の退場。そのときは5点ビハインドの状況下でしたが8回に横浜先発・斎藤隆と2番手佐々木主浩から2点を返すと、9回にはパウエル・音のタイムリーにエラー・暴投が絡み5得点。8-7で勝利しました。
5月は12勝9敗だった中日ですが、横浜を抜き一時首位に立つなど調子は良く、終盤は広島に抜かれ2位転落も良い位置につけています。
一転6月は不調に陥ってしまいます。当時首位争いに入っていたのは広島と巨人でしたが、広島には月間で5戦5敗、巨人には5戦で2勝3敗と食い込めず、さらにシーズン初の月間負け越しを記録。ちなみに10日にはまたもやロッテと内藤尚行+森廣二⇔与田剛+吉鶴憲治のトレードが成立。95年オフから数えてこれで3度目のロッテとのトレードです。
7月前半も勝率5割推移で終了。中日は貯金7、首位広島とは5ゲーム差離れた状態で前半戦を終えることになりました。
オールスターには立浪、パウエル、山﨑、大豊、中村、中山が選出されました。
後半戦開幕最初の試合はヤクルト戦。この試合では4点ビハインドの9回に川又、矢野、金村義明がヒットで出塁。しかしその後鳥越のゴロを上手く捌かれ無死満塁のチャンスを作っておきながらなんと最後はトリプルプレーで試合終了してしまうというNPB史上初の珍展開で終わりました。星野監督はそれまで守乱や自滅する場面が見られたこともあってか「信じられんことはないよ。今日のウチを象徴する場面だったから」と静かな怒りを表しました。
このように書くと悪いことが続いているようなイメージを与えてしまいますが、実際この頃になると野口や門倉がローテ定着。28日ヤクルト戦では2番手登板をした門倉がプロ初勝利。そして30日横浜戦では野口が初の完投勝利を記録。
そして8月11日巨人戦では敵地で野口が先発。この日の野口は好調で、巨人打線を相次いで打ち取っていきます。前に書いた通り制球難があるので6四球は出していましたが7奪三振を記録。投手戦は7回に大豊の2ラン、8回のパウエルのタイムリーと大豊の2打席連続HRで5点を先制。野口は最後まで投げ切り自身初完封でノーノーを記録したのでした。(↓大西崇之の守備も光ります。)
このノーノーから5連勝を記録した中日ですが後半は2度の3連敗もあって3位転落。
8月を4連敗で終えた中日ですが9月1日の巨人戦から4連勝を記録。ちょうどこのときのセ戦線といえば巨人が首位を独走していた広島の喉首にまで迫り熾烈な優勝争いを展開していたのですがこれに割って入る形にもなりました。これもあって9月が11勝5敗で大きく勝ち越しに成功した中日。この後広島が一気に下降するとこれを抜き2位浮上。
24日には巨人にマジック5が点灯。対象チームは当時2位の中日だったのですが中日はここから粘りを見せます。24日から怒涛の6連勝で巨人に胴上げさせない展開がしばらく続きました。
そして10月6日。この試合はナゴヤ球場からの本拠地移転が決定しており、この試合がナゴヤ球場最後の試合でした。対戦相手は1位の巨人。この試合で負けてしまうとこの球場で巨人の胴上げを許してしまいます。ただ中日は残り3試合全勝すれば引き分けとなり巨人とのプレーオフにもつれこませることもできたので非常に大事な試合です。
中日先発は門倉、巨人先発は宮本和知で始まった試合ですが、2回に大森剛のソロ、同点の3回にはシェーン・マックの3ランを被弾し門倉は4回途中で降板。打線も3回に1番センター(←!?)矢野にHRが出ましたが反撃はここまで。2-5で敗戦してしまい巨人の優勝が決定。1軍本拠地としてのナゴヤ球場最終戦は2年前のように巨人に歓喜の輪を作られて終わってしまいました。
ちなみにこの2日後となるシーズン最終戦の甲子園での阪神戦では新庄剛志と塩谷和彦に1イニングで2本の満塁弾を被弾したあの試合がありました(詳細は阪神側の視点でまたいつか)。
シーズン最終成績は72勝58敗(貯金14)、勝率.554、首位巨人とは5ゲーム差の2位、3位広島にはわずかに1ゲーム差付けていました。
ただ当時の中日にとって良かったのは阪神戦での勝ち越しでしょう。当時阪神は暗黒時代でしたが中日はなかなか阪神に勝てず実に1992年から4年連続でシーズン負け越しをしていました。
加えてこの年の貯金は全てBクラス、4位ヤクルト、5位横浜、6位阪神から稼いだものでAクラスの巨人・広島にはいずれも負け越しでした。
新本拠地へ
こうして長らく1軍本拠地として使ってきたナゴヤ球場に別れを告げ、中日はナゴヤドームに移転します。
1994年に三菱重工業の工場跡地に建設されたナゴヤドーム。当時の日本はまさにドーム球場建設ラッシュで1989年には巨人・日本ハムの本拠地である東京ドーム、1993年にはダイエーの本拠地である福岡ドームが開場していましたしナゴヤドームもこのラッシュに乗った形でした。おまけに近鉄の本拠地の大阪ドームも同年に完成していますしね。
ドーム球場は風が入ってこなかったり気候に左右されないという利点がありましたが実は裏では打低化が進むという結構デカいデメリットもありました。実際1993年のダイエー(福岡ドーム初年度)は深刻な打低に悩まされました。狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームへ、この環境の大幅な変化はその後の中日の野球にどのような影響を与えたのでしょうか。



コメント