「一緒に帰ろう。お母さんが待ってる」戦闘機で飛び立った弟は墜落死していた 現場が判明したのは約50年後、近くでB29も墜落…きっかけは山中で偶然見つかった金属片

宮崎県高千穂町での平和祈年祭で手を合わせる工藤寛さん=2025年8月29日

 1987年9月、宮崎県高千穂町の工藤寛さん(72)は、友人と地元の山を登っていた。当時は県職員。九州では絶滅したと言われてきたツキノワグマの生息調査で山道を歩いていると、つま先にコツンと何かがぶつかった。
 土から金属片が突き出ている。引っこ抜くと、50センチ大の金属。数字やアルファベットが刻まれていた。
 「航空機の部品のようだと直感した。でもなんでこんな山の中に…」
 気になって調べ始めると、想像を超える展開が待っていた。(共同通信=今枝礼華)

墜落現場に残る文字の書かれたB29爆撃機の残骸=2025年12月24日、宮崎県高千穂町

 ▽「空からアメリカが降ってきた」
 工藤さんはまず、周辺の地域に住む年配の人々に話を聞いて回った。分かった話をまとめると、こんな感じになった。
 「終戦からしばらくたった雨の日に、山にアメリカ軍機が墜落した。アメリカ兵が死んでいた」
 その話は本当なのか。地元の人々は「現場を見た」という。理由は、墜落地点に散乱した缶詰や石けんなどの物資を拾いに、山へ入っていたため。終戦直後は、この地域だけでなく日本中が困窮にあえいでいた。
 老人の1人は、工藤さんにその時の気持ちをこう表現した。
 「空からアメリカが降ってきた」
 真実を確かめようと地元の図書館へ行き、当時の新聞や自治体の記録を当たったが、それらしい記述はない。途方に暮れていたところ、古本屋で手に取った本で、高千穂の人が書いたこんな内容の手記を見つけた。

墜落したB29爆撃機の残骸を持つ工藤寛さん=2025年12月24日、宮崎県高千穂町

 「終戦の日から数日後の午前7時頃、爆音が聞こえた。B29が墜落し、現場は辺り一面焼け野原。米兵10人ぐらいの死体や、缶詰が転がっていた。村人総出で物資を拾いにいった」
 手記は地元の人々の話と合致する。やっと腑に落ちたという。「やっぱりあの金属片は飛行機だったんだ」
 寄稿者の男性に連絡を取り、会うことができた。手記以上の内容は分からなかったが、男性はこう振り返った。
 「今思えばかわいそうだった。日本まで来て、山の中で死ぬなんて」
 今からでも慰霊碑のようなものをつくれたら、とも話し合った。
 工藤さんは、アメリカ軍であれば正確な情報を持っていると考えた。

米軍のB29墜落に関する資料

 英語に堪能な友人に相談すると、問い合わせ先を調べ出してくれた上、手紙も代筆して郵送してくれた。
 約2カ月後、アメリカ軍は詳細な報告書を開示。B29が終戦直後の1945年8月30日、福岡の捕虜収容所に物資を届ける途中に墜落し、12人が亡くなったことが確認できた。

山の斜面がえぐれているB29爆撃機の墜落現場=2025年12月24日

 ▽墜落したのはもう一機、戦闘機「隼」
 この頃、工藤さんの元には別の墜落情報も届いていた。教えてくれたのは、調査に協力してくれていたある村役場の元職員。「同じような時期に、日本軍の戦闘機も落ちたのよ。ひょっとしたら遺族も知らないのじゃないかな」
 話を聞いた工藤さんは、一瞬「この2機が戦って墜落したのではないか」とも考えたが、調べていくとそうではないらしい。防衛庁(当時)や厚生省(当時)、戦友会などに問い合わせ、判明した情報を総合するとこうなる。
 ・墜落したのは日本軍の戦闘機『隼』。終戦前の8月7日、夜間飛行訓練で佐賀県の目達原飛行場から長崎県の壱岐に飛び立ったが、帰還しなかった。
 ・搭乗していたのは東京都出身の徳義仁軍曹。防衛庁の記録では、朝鮮海峡で死亡したことになっていた。
 ・高千穂河内の山中に隼が墜落しているのが見つかり、その遺体が河内の軍人墓地に埋葬された。遺族が墓参りに訪れたことはない。
 工藤さんは思った。
 「徳軍曹の遺族は、高千穂で亡くなったことを知らないのではないか」

墜落現場に残るB29爆撃機の残骸=2025年12月24日午後0時53分、宮崎県高千穂町

 故郷から遠く離れた山で命を散らした兵士と、どこで亡くなったか知らないであろう遺族の心情を考えた。
 「遺族に連絡を取ろう」
 ただ、防衛庁の記録では終戦当時の住所しか分からない。無駄かもしれないとは思ったが、その住所に手紙を郵送。すると数日後、徳軍曹の姉という人から電話があった。高千穂で亡くなっていたことは知らなかったという。
 「やっぱりそうだった。調べて良かった、役に立てて良かった」
 1992年3月、徳軍曹の姉妹3人は高千穂を訪問した。工藤さんの案内で、埋葬された軍人墓地に立つと、姉の光枝さんはこう語りかけた。
 「ここにいたのね。一緒に帰ろう。お母さんが待ってるよ」

B29爆撃機の墜落現場に建てられた看板=2025年12月24日午後0時53分、宮崎県高千穂町

 ▽「静かな山の中に兄の魂が眠っている」
 戦後50年となる1995年が近づいていた。工藤さんは日米両兵合同の祈念碑を建てたいと考え、調査で関わった人々に相談。するとみな賛同してくれた。募金や寄付で資金を集め、完成にこぎつけた。
 除幕式にはアメリカ軍の遺族も招待しようと考えた。話を聞いた当時のNHKの職員が退役軍人局に問い合わせた結果、遺族2人から「参加する」という連絡が届いた。

旧日本軍の戦闘機と米軍爆撃機が墜落した事故の平和祈念碑と工藤寛さん

 1995年8月26日。平和祈念碑の除幕式・完成披露式典に、墜落したB29に乗っていた伍長の弟と、別の伍長の妻、それに徳軍曹の姉光枝さんら姉妹が参加。あいさつした光枝さんはこう語った。
 「遺族にとって、戦争に終わりはありません」
 翌日、伍長の弟は工藤さんらに案内され慰霊の登山をした。B29の墜落地点を指し示すと、こう答えた。
 「ありがとう。こんな静かな山の中に兄の魂が眠っているかと思うと、ありがたいよ」
そして、兄に呼びかけるように続けた。
 「ゴー・ホーム」
 傍らで聞いていた工藤さんは、光枝さんの言葉を思い出した。最初の訪問時に「一緒に帰ろう」と言っていた。日米双方の遺族が、同じ意味の言葉を口にする。戦争に関わって家族を失った悲しみは共通なのだと感じた。

宮崎県高千穂町での平和祈年祭に出席したB29パイロットの遺族=2025年8月29日

 その後も毎年8月に平和祈年祭を開催。昨年は、B29のパイロットだった少尉の遺族が参加し、あいさつした。
 「平和な日々に生きていると戦争がどれだけ酷いものだったか忘れることは簡単だ。私たちのほとんどはその時代のことを知らない。平和を守っていくためにより強く働いていかなければならない」
 地元小学校の児童ら約30人も参列した。山で金属片を偶然、見つけたことから始まった日米双方の遺族の交流。生きて家族の元に帰れず、山に眠ることになった兵士たちの歴史を、未来につないでほしいと願った。

宮崎県高千穂町での平和祈年祭で思いを語る工藤寛さん=2025年8月

 ▽戦争を知らない世代の役割
 一連の調査を始めた当初、地元の人々にこう尋ねられたという。
 「なぜあなたがそこまでやるのか。身内に戦死した人でもいるのか?」
 自問し続けた工藤さんは、取材の最後にこう語った。
 「近いうちに戦争を体験した人はいなくなるよね。私は戦争で身内をなくしてないし戦争を知らない世代だけど、この調査をしていたころは、まだ戦争の体験者が元気で、臨場感のある話を聞くことができた。私の役割はやっぱり語り継いでいくことかなと。私の世代は戦争を知らないけど、語り継いでいくことができる世代かなと。具体的な資料も集めることができたけれど、同じことを今しようとしても難しいだろうし、語り継ぐ役割が私にはあるんじゃないかと。戦争は遠い昔の話になっているからこそ語り継いでいきたい」

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