第2話:常葉先生と真希ちゃん

 総合病院の東棟にある、とある個室部屋。そこに、女性医師の氏神常葉は足を運んでいた。

 様々な業務が立てこんでしまい、面会時間はとうに過ぎてしまってたが、担当医である常葉が訪れることを咎める者はいなかった。

 看護師たちも心得たもので、常葉が東棟の廊下を歩く足音を聞いただけで、軽く会釈して通してくれた。

 そして、部屋の前に到着した常葉は、中にいる『患者』を驚かさないようそっとドアを開いた。


「真希ちゃん、入るわよ」


 窓のブラインドが半分だけ下り、外から漏れる光が床に落ちている。

 サイドテーブルに並ぶのは、数冊の子供向けの本と、患者の容態を示すかのように置かれたプラスチック製の吸い飲み。

 モニターには心拍と血中酸素濃度が常に表示され続けている。


 そんな、無機質で殺風景な部屋の中にある大きなベッドの上に、1人の少女が横たわっていた。

 近くには、『薄手うすで真希まき』という名前が書かれたプレートが、その存在を証明するかのように置かれていた。


 年齢にしては小柄な体形の彼女がこの病院に入院したのは、もう随分前の事だった。

 幼い頃から体が弱く、幾つもの病院を転々とした結果、この総合病院に辿り着いたのだ。

 そして、彼女を待っていた診断結果は、あまりにも残酷なものだった。

 症名は間違いなくあり、症例も世界各地で僅かだが確実に報告されている。

 だが、有効な治療法は未だに確立されておらず、ただ命尽きるまでの苦しみを和らげるしか救う方法はない――俗に言う『不治の病』を、彼女は抱えていたのだ。


 それからずっと、彼女はこのベッドの上で暮らし続けていた。

 入院当初は頬にも血色があり、元気そうに微笑む余裕もあったが、今ではまるで灯篭の灯や線香花火の炎のように、今にも消えてしまいそうな色しか残っていない。

 肉体も日に日に衰弱していき、今では自力で起き上がる事すらできず、声を出すのもやっとの状況になっていた。

 それでも、彼女は毎日生き続けていた。薄手真希は、病魔と必死に戦いながら、この世に命を繋ぎ留め続けていたのだ。


 そんな彼女がいる部屋を訪れた常葉はベッドの傍に丸椅子を引き寄せ、静かに腰を下ろした。


「真希ちゃん。起きてる?」


 驚かさないよう、そっと声をかけた。

 真希の瞼がゆっくりと持ち上がり、瞳が常葉の顔を認めた瞬間、薄い唇がふわりと弧を描いた。

 それが彼女の精一杯の満面の『笑み』である事を、常葉はしっかりと認識していた。


 やがて、真希は口から音を発し始めた。自身の担当医である常葉に、声をかけようとしていたのだ。

 しかし、唇を何度動かしても、喉に力を込めても、そこから漏れるのは吐息よりも頼りない音の欠片だけで、言葉にはならなかった。

 それでも彼女は諦めずに口を動かし続け、やがて小さく咳き込んだ。


「無理しなくていいのよ」


 常葉は穏やかに微笑み、ベッドサイドのに置かれた、患者向けの水飲み用の道具、俗に言う『吸い飲み』を手に取った。

 彼女の手助けで一口だけ水を飲んだ真希は、ようやく自分の声をしっかりとした『形』にする事が出来た。


「……せん、せ……」

「ええ。いるわ」


 その事に嬉しさを感じつつ、常葉はカルテを確認しながら、いつも通り、会話を始めた。

 いつもの、とは言っても、会話の大部分を占めるのは常葉の声。真希が言葉を返せる機会はごく限られている。

 それでも彼女は、真希に語りかけることをやめなかった。


「今日もよく頑張ったわね、真希ちゃん」


 看護記録に目を通しながら、常葉は彼女を褒め称えた。今日も『元気』で居続けている。それだけでも嬉しい、と。 

 しかし、記録には明らかに『元気』の基準になりうる様々な数値が危うくなっている事が記されていた。彼女の命がいつ尽きるか分からない事を示すかのように。

 それでも、常葉は決してそれを顔に出さず、ただ優しい表情だけを見せ続けた。


「今日はね、手術があったの。ちょっと難しい手術だったんだけど、上手くいったわ。患者さんの『生きたい』っていう思いに……って、こういう話はつまらないかしら?」


 しかし、真希はゆっくりと首を横に振り、もっと聞きたい、という意志をその瞳で示した。


「そう?じゃあもう少しだけ。ええと……」


 彼女にせがまれた、常葉は手術の話をした。

 勿論難しい専門用語はなるべく噛み砕きながらも、けれど子供扱いはしないようにした。

 例え病魔に苛まれても、真希は賢く優しく、そしてどこまでも前向きな『人』だと、常葉は知っていた。

 病に蝕まれた身体に閉じ込められながらも、真希の瞳はその心を示すかのように、いつも真剣に常葉の方を見つめていたからだ。

 

「それでね、手術が終わった後、ご家族がいらしたの。奥様や娘さんが泣きながらお礼を言ってくれて。ああ、やっぱりお医者さんをやっていて良かったなって……えっ……?」


 そんな中、常葉はある事に気づき、一旦言葉を止めた。

 真希の唇が、ゆっくりと、でも確実に動いていた。

 だが、その口から声が発せられる事は無かった。長い時間、音として空気を震わせるだけの力は、もうこの小さな身体には残されていなかったのである。


 身を乗り出し、常葉は真希の言葉を何とか聞き取ろうとした。

 しかし、幾ら『天才医師』でも、唇の僅かな動きだけで彼女の言葉を完全に読み取る事は難しかった。


「……ごめんなさい。真希ちゃん、上手く聞き取れなかった」


 申し訳なさそうに眉を下げる常葉に、真希は、心配しないで、と言いたげに首を振った。

 でもその目の奥に、ほんの少しだけ切なさが滲んでいるのを、常葉は見逃さなかった。


「……いつか、真希ちゃんの声がちゃんと聞ける日が来るわ。私、絶対に諦めないから」


 そう言って、常葉は真希の手にそっと触れた。

 その手は驚くほど軽く、指も骨と皮だけで痩せ細っていたが、それでも確かに温かかった。

 まるで彼女が懸命に生きている証を、常葉に伝えているようだった。


「さて、もう遅いから、今日はこのくらいにするわね」


 丸椅子から立ち上がった常葉が真希に軽く手を振り、ドアへ向かおうと身体を回した、その時だった。

 常葉は、白衣の裾に何かが触れている事に気づいた。


「……真希……ちゃん?」


 それは、真希の手だった。

 ベッドの縁から懸命に伸ばした指先が、常葉の白衣の裾を、薄い紙を摘まむようにして掴んでいたのである。

 あれほど衰弱した身体で、それがどれほどの努力を要したのか、常葉にははっきりと分かった。

 そして、真希は、全身全霊を込め、懸命に声を発した。今度こそ、自分自身の思いが伝わるように。


「せん、せ……む、り……しない、で……」


 それは、かすれた、一語一語を絞り出すかのような、途切れ途切れの声だった。

 吐息が形を成すのに、何秒もかかった。


「じ……ぶん……にも……やさしく、して……あげて……」


 最後の音が消えた後も、真希の唇はしばらく震えていた。

 長文を紡ぐだけで、肩が上下するほど息が荒くなるほど、必死だったからである。

 それでも、彼女は安心したかのように微笑んでいた。伝えたかったことを伝えられた安堵が、その白い頬にほんのりとした赤みを灯していた。


 常葉はしばらくの間、真希を見つめたまま動けなかった。

 こんなに病魔に苛まれ、今にも命の炎が尽きようとしているのに、『お医者さん』の心配をし続けているという彼女の健気さが、胸に刺さるような感触だった。

 目頭が熱くなるのを何とか耐えながら、常葉は普段通り優しく微笑んだ。


「……ありがとう、真希ちゃん」


 そして彼女は、骨と皮だけになりかけた少女の手の温もりをしっかり感じ取れるよう、自身の両手でそっと包み込んだ。


「私は大丈夫。だから真希ちゃんも、自分の身体のことだけ考えて」


 真希の指が、常葉の掌の中でほんの少しだけ動いた。

 まるで、感謝の言葉を『自らの動き』で伝えるかのように。

 やがて、力を使い果たしたかのように、真希の瞼がゆっくりと落ちていった。

 彼女の呼吸が少しずつ穏やかになり、寝息のリズムに変わっていった。


「……おやすみなさい」


 それを確認した常葉は、真希の手を離して立ち上がった。


『自分にも優しくしてあげて欲しい』


 精一杯の力を込めて語ったその言葉を胸に、常葉は一礼をして、病室を後にした。

 

(真希ちゃん……本当に優しいのね)


 また明日も、次の日も、彼女に会いたい。会って、色々な『話』をしたい。

 勿論、心優しい彼女を泣かせないよう、無理をしない範囲で。


 その思いが、予想だにしない形で砕かれる事になるのを、その時の常葉は知る由もなかった……。

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