他者論を乗り越えて⑯ ベルクソン
今回はベルクソンの哲学である、「持続」「笑い」について見ていきたいと思います。
一、持続とは何か
持続とは何でしょうか。どういうときに持続という語を用いるでしょうか。その運動を持続させなさい、とコーチが言うとき、その運動パターンであるのがスクワットであれば、スクワットを続けるのが持続的行為であります。また、運動を続けなさい、というとき、腕立て伏せや腹筋トレーニングをするという風に、運動ではあるけれども運動的変更が懸念されます。運動を続けなさい、というのはあらゆる運動を含意しうる概念であって、さきほどのその運動持続というのはひとつの運動を続けることでありましょう。持続というのは「ひとつの持続を続けること」という女子語的意味内容を内包します。また、持続というのは「ベルクソン神 」「ベルクソン神神」という女子語的意味内容を内包します。
砂糖水を作るには、砂糖が溶けるのを待たなければならない、とベルクソンは言います。砂糖が溶けていく一定の量があるのが一時的だとかあるいは水にまじまじと砂糖が溶け込むさまを解糖的持続と称する。たしかに水に砂糖が溶けるのは待たなければならない、でも多少は待つのは当然といえば当然である。砂糖が早く、あるいは一瞬で溶けるために水に工夫をこなすことも考えてみたいですね。また、熱湯であれば、水より速く溶けてしまう可能性もあります。これはお湯が砂糖を解消する効果を発揮する可能性があるからであります。この熱湯が砂糖を溶かすときというのは解消的持続と称することが懸念されます。解糖的事態というのは、砂糖が水と合成するさまであって、解消的事態というのはほぼすべての砂糖が消えていくさまを表しています。いわば持続は事態と解釈することできます。感情的になっているとき、すなわち怒っているときに、一分経っても十分経っても怒りが収まらないとき、これを感情的な持続と称することができます。怒りが収まらないときは、一旦落ち着いて深呼吸してみましょう。
見ていきたいと思います (ベルクソンいい)
感情的になっているとき (ベルクソンいい)
一分経っても十分経っても (ベルクソンいい)
怒りが収まらない (ベルクソン神)
この砂糖から砂糖水へと質的変化をもたらす現象を持続性の働きと称することができよう。この持続性の働きを純粋持続として把握することを純粋直観と称することができよう。
二、ビビット性とは何か
ビビット性とは身体的衝動性あるいは間身体的衝動性(共同身体的衝動性)であって、覚っているという状態を表す概念である。 朝、目が覚めて光の粒子群という幻想を観たときに身体的ビビット性が全身を貫くかもしれない。この身体的ビビット性としての衝動をベルクソンは大事にするのである。
衝動 (ベルクソンいい)
身体的衝動 (ベルクソン神) (ベルクソンいい)
身体的衝動性 (ベルクソンいい) (ベルクソン神)
共同身体的衝動 (ベルクソン神神神神)
共同身体的衝動性 (ベルクソン神)
第一身体的衝動性としては、頭上から足のつま先まで貫くビビット性である。第一ビビット性は第一身体的衝動性であって、第一身体的ビビット性とも言える。第二身体的ビビット性としては、心あるいは意識態が円満になって拡がっていくような流れを衝動へと昇華することである。
三、笑い
ベルクソンは著書である『笑い』において、「おかしさ」が発生するからわれわれは笑う、とされています。しかし猫や犬は笑うことがありえないと規定されている。「面白い」から笑うという理由も充足理由になります。あらゆるジャンルで「笑い」は生み出せる。これは裏を返せば"とよみ"を生み出せるということであります。
とよみ (面白い)(おかしさ)
とよみを生み出すには、ポスターでも広告記事でもできる可能性がある。テレビ番組で見る漫才でもひとりコントでもとよみを生み出せる可能性はある。このおかしさというのは意図的なおかしさと自然で純粋なおかしさに分類される。漫才は計画しているのであるから意図的なおかしさを生み出すと思われる。意図的なおかしさというのは自分が開拓した面白いと思う分野をネタとして披露して共有することに見出される。一度ネタを聞いて面白くても、二度目も面白いとは限らないが、二度目も一度目のときのように面白い場合がある。とある面白さに慣れてくると面白いと思わなくなっていく。真に面白いというのは、いつまでも面白いネタではないだろうか。自然で純粋なおかしさというのは、日常生活で起きる現象であることが多い。ボケて変なことを言ったり動画ではシャンパンを何らかの形で零したりすることが自然に発生した根源的なおかしさである。おかしさの連鎖性というものもありえないわけではない。あらゆるジャンルでおかしさの連鎖性があることは、読者も経験していって欲しい。


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