ムゲン病院なんでも科奮戦記 ~転職先は、全てが無限大の病院でした~
腹筋崩壊参謀
【遭遇編】
第1話:名医・氏神常葉
「それでは、開始します」
その一言と共に、手術室は緊張に包まれた。
無影灯の白い光が救うべき箇所をしっかりと照らし、心電図モニターが規則正しいリズムを刻み、人工呼吸器が一定のテンポで膨張と収縮を繰り返す。
機械の音だけが響く張り詰めた空間の中で、女性の声が響いた。
「
その声に応じ、手元に用意していたピンセット、医療用語で『
それを受け取った存在は、真剣な眼差しを患部へ向け続けながら、次の動作へ移行し始めた。
彼女の名前は『
この総合病院で一番の腕前を持つと称される女性医師である。
「……ここの部分ね。事前の検査よりも範囲が広いわ」
状況を全体で再度確認するかのように、常葉は患部の現状を述べた。
手術室にいる全員の耳にはっきりと届くその響きに、助手を務める男性医師も、看護師たちも、息をのんだ。
この状況での手術は困難ではないか。もしかしたら――そんな思いが、手術室を呑み込もうとした時、常葉はそれを押さえつけるかのように言葉を発した。
「……大丈夫、予定されている時間の範囲内で終わらせる」
「先生……」
自分は今、ずっと憧れていた『お医者さん』という夢をかなえ、この場に立っている。
目の前に苦しんでいる人がいるのに、諦めてなるものか。
そんな思いを込めて言い切った言葉には、苛立ちや気負いの気持ちなど一寸もなかった。
やがて、常葉は慎重に、しかし迅速に手を動かし始めた。
手袋腰の指先が、ミリ単位の精度で患者の組織を剥離していく。
やがて、術野の奥で、病巣がその輪郭を露わにした。その瞬間、彼女の瞳が微かに細まった。
「メッツェンバウムを」
指示に従った看護師によって差し出された、手術に使われる医療用のハサミを手にした常葉は、そっと刃先を滑り込ませた。
それから数秒後、小さな音が、手術室の中から聞こえた。患者を苦しめ続けた元凶の切除が完了した合図だ。
心電図のリズムも安定し続けており、出血量も許容範囲内。部屋の中を覆っていた緊張が和らいでいくのが、常葉自身も分かった。
だが、手術はまだ完了していない。患部を元の状態に戻し、患者が何事もなく目覚める時まで、終わらないのだから。
「先生……お見事です」
「まだ終わっていないわ。みんな、集中を切らさないで」
とはいえ、そう言いながら看護師や助手たちを諫めながらも、常葉は心の中で小さな安堵の息を吐いていた。
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午後から始まった手術を終えた時には、すでに時計は夕暮れの時間を指していた。
丹念に手を洗った後、白衣に袖を通しながら、彼女は更衣室の鏡に映った自分自身の顔を覗いた。
そこには、前髪が乱れ、顔色からも予想以上の疲労を滲みだしていた、『氏神常葉』の姿があった。
だが、その疲れは決して無駄で辛いなものではない事を、彼女は承知していた。
そして、部屋を後にした彼女に、この総合病院に務める別の医師が声をかけてきた。
お疲れ様、というねぎらいの言葉と共に渡された缶コーヒーを、常葉は会釈と共に頂戴した。
「……美味しさが身に染みるわ。ありがとう」
「どういたしまして。正直、今日の患者さんの手術は難しいと思っていたよ。他の先生も無理だって言っていたのに。でも、氏神先生は軽々とやってのけた。やっぱり凄いなぁ」
「そんな事ないわよ。私は患者さんのために頑張っているだけ。今日の手術が成功したのも、患者さんの『生きたい』『頑張りたい』って言う気持ちが、背中を押してくれたからよ」
「……そっか……流石、天才医師だね」
とある有名な公立大学の医学部を首席で卒業し、これまで幾多もの患者と向かい合い、困難な手術を幾度と成功させてきた『天才医師』――それが、氏神常葉という人物の評価だった。
しかし、彼女が『天才』と呼ばれ、多くの人から慕われていたのは、それだけの理由ではなかった。
「これからどうするの?」
「ええ。電子カルテの確認が終わったら、帰宅時間まで書籍を確認しておくわ。明日以降の手術のためにね」
「大変だね」
「平気よ。慣れてるから。それに、これが私の選んだ道だから」
「そうか……頑張ってね」
自分の身を削ってでも、患者の事を第一に考え続ける方針。
寝る暇も惜しんでカルテや文献に目を通し、朝早くから病院を訪れ、長時間の手術を終えても患者と向かい合う。
そんな献身的な努力が、『氏神常葉』と言う存在の評価を高めるもう1つの要因となっていた。
その証拠に、この総合病院で若き彼女を慕う医師や看護師は多く、退院した患者が菓子折りを持って訪ねてくることも珍しくなかった。
彼女さえいれば、この病院は安泰である、と考える人もいた。
だが、何事も例外はある。
この病院に関わる人物の全員が、常葉を歓迎しているわけではなかった。
「おい、氏神」
ナースステーション前の廊下を歩いていた彼女の足を、背後から聞こえた声が止めた。
その主を、常葉は嫌というほど認識していた。
「……先輩。何かご用ですか」
白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、壁に寄りかかっていたのは、この総合病院に務める医師の中で最も高い地位にある、常葉の大先輩とも言うべき男性だった。
年齢は四十代後半と、常葉よりも年上だが、医師としての腕前は彼女に遠く及ばない。
だからこそ、彼はいつも常葉と出会う度に、こうやって言葉をかけてきた——。
「今回の手術、随分と時間がかかったそうじゃないか」
「いえ、予定の範囲内です」
「そうか……全く、何が範囲内だ。そっけなく言いやがって。主席で有名大学の医学部を卒業したからって、調子に乗るな」
——嫉妬の心よりも粘っこくねちっこい、自分の立場を脅かす存在を排除せんとする思いを乗せながら。
「他の先生方がお手上げだった症例を引っ張り出してきて、自分があっさり解決して見せる。ったく、格好いいよなぁ、氏神?まるで自分だけが特別だとでも言いたげだ」
「そ、そんなつもりは……」
「なら、もう少し周りと足並みを揃えたらどうだ?誰もお前にヒーローになってくれとは頼んでない」
出る杭はいつか打たれる、それがこの世の常だ。覚えておけ。
先輩医師はそれだけ言うと、興味を失ったように踵を返した。
彼の白衣の裾が廊下の角に消えてからしばらく経った後、ずっと立ちすくんでいた常葉は、ゆっくりと首を振った。
確かに、先輩は『足並みを揃えろ』『出る杭はやがて打たれる』と言った。それは、目の上のタンコブとも言える自分自身の心に釘を刺すような行為だった。
でも、それは目の前で苦しむ患者さんから手を引け、手術をするな、と指示するのと同じじゃないか。
そんな事、自分には到底できない。手が届く可能性があるのなら、どこまでもその手を伸ばし、助けたい。
その気持ちを抑える事なんて、出来る訳がない。
「……そうよ……『医者』は、患者さんのためにいるんだから」
ここで立ち止まっちゃいけない。私は、皆から期待されている『天才医師』なんだから。
自分に言い聞かせるように、小さく、しかし力強く彼女は呟いた。
それに、明日も早い。学会に提出する症例報告の原稿も仕上げなければならないし、新しい医療雑誌の内容の確認も必要だ。そして――。
「……ああ、そうだわ……」
――常葉の表情が、少しだけ和らいだ。
もし可能ならば、『あの子』の病室にも顔を出したい、という願望が、心の中に沸いてきたからである。
たったひとりで病魔と懸命に戦い続けている、勇敢な少女のもとへ……。
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