NAGANOの味噌の歴史
全国味噌生産量の5割を占める「信州味噌」。なぜ長野県で味噌が栄えたのか。そこには味噌に適した気候だけではない、“人”の力がありました。
全国一の味噌生産地「信州味噌」物語。
製糸工場の大規模な手前味噌。
明治時代以降、長野県は日本の近代化を支えた生糸の一大産地でした。繭から生糸を取る製糸工場では工女さんと呼ばれる女性たちがたくましく働いていました。そんな彼女たちの胃袋を支えた日々の食事に毎回出ていたのが「味噌汁」。そしてその味噌は各製糸工場で造られていました。
ボイラーの熱で大豆を煮て、半切り桶に大豆を移し、雪靴を履いてつぶす。工女さんたちも手伝って、味噌玉を造ります。それを繭の倉庫につるし、1か月後大きな桶に仕込むのです。そして3年熟成させおいしい味噌ができあがります。

大正15年度堀川組献立簿:旧川岸村(現岡谷市)にあった製糸工場の献立簿。
写真:岡谷蚕糸博物館提供
関東大震災による東京市場進出。
味噌は地産地消の傾向が強い産業。それは大消費地東京でも同じでした。醤油や酒が地方から製品を取り入れていたのに対し、味噌は東京で造られていました。しかし関東大震災により東京の味噌屋の6割が被災すると、地方から東京へ味噌を送るよう指令が出されました。
これを機に長野県でも多くの味噌屋が東京進出を果たします。そして東京で他の地域の味噌と長野県の味噌が比較された時、長野県の味噌がうまいと話題になり、その評価はじわじわと広がっていきました。

関東大震災以降、昭和12~13年頃の出荷の様子。
写真:『タケヤ味噌百年史』より転載。
製糸から味噌へ。
昭和5年頃、昭和恐慌の影響で経営が立ち行かなくなる製糸工場が続出しました。そこで製糸家たちが思いついたのが味噌醸造業への転業でした。転業の際には既存業者が製造や販売の指導を行うこともあったそうです。関東大震災以降、長野県の味噌が東京で評判になったことも追い風となり、長野県は味噌の産地へと台頭していきます。
そのさなか、太平洋戦争がはじまり生産は落ち込みますが、兵隊さんの食料になった粉味噌の製造を行うなど、歩みは止めず、いよいよ戦後の大発展期を迎えます。
共販制による信州味噌大躍進。
戦後、味噌屋たちは資金・原料の不足、販売先の確保の問題を抱えていました。これに対し、県内の味噌屋は長野県味噌工業組合連合会のもとに団結しました。資金面は八十二銀行が全面協力。その資金をもって組合が原料を一括で購入し、各味噌屋に配分します。
そして生産された味噌は組合がまとめ、東京をはじめとする県外に販売する体制を作りました。さらに「みそ検査条例」を作り、合格品のみを信州味噌として出荷しました。地域、業界が一つにまとまったことで信州味噌は全国一の大産地へと発展していきました。

伝統玉造り製法
麹を混ぜる前のつぶした大豆を丸めて、一定期間置き、麹、塩と混ぜ合わせて熟成させる製法。独特な風味が醸し出されます。

写真:有限会社塩屋醸造提供
味噌の造り方
写真:株式会社竹屋提供

【1】麹造り(洗浄・浸漬・蒸し・冷却・種付け・製麹・出麹)
蒸したお米に麹菌を繁殖させます。

【2】大豆処理(選別・洗浄・浸漬・蒸煮・冷却・擂砕)
蒸した、または煮た大豆を潰します。

【3】混合
米麹と潰した大豆に食塩を加えて混合します。

【4】発酵
一般的に約6ヶ月〜1年発酵・熟成させます。

【5】切り返し
発酵・熟成の途中で桶の中の味噌を均一に混ぜることで、発酵を再度促します。

【6】包装
味噌を容器に詰めます。
● 取材・写真提供協力(五十音順・敬称略)
岡谷蚕糸博物館
有限会社塩屋醸造
株式会社竹屋
● 参考資料
「信州味噌の歴史」編集委員会(1966)『信州味噌の歴史』
長野県味噌工業協同組合連合会公式サイト
株式会社竹屋(1972)『タケヤ味噌百年史』
NAGANOの味噌の歴史