売られたのか、買われたのか、働いたのか—日本の性売買史を道徳から奪い返す

序章 なぜいま、日本の性売買史を道徳から奪い返すのか

日本の性売買史を前にするとき、私たちはあまりにも早く答えを急ぎすぎる。かわいそうな女たちの話だ、と。あるいは、堕ちた女たちの話だ、と。あるいは、したたかに生き延びた女たちの話だ、と。けれど、そのどの物語も、どこかで歴史の手触りを取り逃がしている。そこにはたしかに、売られた女たちがいた。買われた女たちもいた。だが、それだけではない。歌い、話し、装い、客を読み、交渉し、身体を危険にさらしながら、その日の金をつくっていた女たちがいた。つまり、そこで起きていたのは、ただの悲劇でも堕落でもなく、まずは労働だったのではないか。私はその問いからしか、日本の性売買史を始められない。

にもかかわらず、その労働は長いあいだ、労働として語られることを拒まれてきた。
性売買をめぐって、日本社会が繰り返してきたのは、労働の現実を見ることではなく、それを道徳の言葉に置き換えることだった。女は「働いている人」ではなく、「守るべきか」「矯正すべきか」「排除すべきか」を判断される対象になる。そこでは、誰が買ったのか、誰が儲けたのか、誰が管理したのか、どんな暴力や貧困や仲介があったのか、といった問いは後景に退く。代わりに前面へ出てくるのは、純潔、風紀、善良の風俗、転落、保護といった言葉である。
ここで見えなくされてきたのは、貧困や仲介だけではない。性風俗の現場で起きる性的強要や脅迫、威圧、通報困難もまた、『そういう商売だから』という言葉のもとで、被害として数えられにくくされてきた。性売買を道徳の問題としてしか語らないとき、暴力はしばしば『職業上の当然のリスク』へと言い換えられてしまう。だから必要なのは、性を美化することではなく、そこで起きる暴力を自己責任ではなく権利侵害として見えるようにすることだ。
性売買の歴史を道徳から奪い返すとは、まずこの言葉の置換に抗うことだ。

その置換は、戦後法の中心にまで刻み込まれている。
1956年の売春防止法は、売春を「人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだす」ものとして定義した。ここで問題にされたのは、まず労働条件でも、貧困でも、需要でもない。性道徳である。つまり日本の制度は、性売買を最初から、働くことや生き延びることの問題としてではなく、風俗秩序の問題として立法化したのである。ここに、日本の性売買史を読むうえでの大きなねじれがある。
近代国家は、性を市場から追放したわけではない。むしろ、ある性は婚姻の名のもとに扶養・再生産・家事労働と結びつけて正当化し、別の性は売買春として取り締まってきた。婚姻制度と性売買を同一視することはできないにせよ、どちらもまた、性と生活の交換を制度化する仕組みとして連続している。売買春だけを“道徳の外部”に置く視線は、この連続性を見えなくする。そして、この二重基準は、戦時と占領期にもっとも露骨なかたちをとる。慰安所は軍当局の要請によって設営され、その設置・管理・移送に旧日本軍が直接または間接に関与していたことを、日本政府自身が認めている。敗戦直後にはRAAが作られ、女性たちは「一般婦女子を守る防波堤」という名目のもと、ふたたび公的秩序のために差し出された。ここで見えてくるのは、国家の単純な偽善ではない。必要なときには性を動員し、不要になればそれを恥と道徳の側へ返すという、推進と規制を同時に行う統治の技術である。性売買を道徳から奪い返すとは、この国家の自己正当化の言葉からも歴史を奪い返すことにほかならない。

いま、この問いがあらためて必要になっているのは、現在の制度もまた、その揺れのただ中にあるからだ。
2024年4月、女性支援新法が施行され、厚生労働省は「女性の福祉」「人権の尊重や擁護」「男女平等」の視点に立つ包括的支援を掲げた。他方で、2026年3月13日の第6次男女共同参画基本計画は、売買春の「根絶」を掲げ、売春の相手方への対処や、売春防止法の更なる見直しを含む規制の在り方の検討まで明記している。支援の言葉と、根絶と規制の言葉が、いまなお同じ制度空間に同居しているのである。これは、日本の性売買政策がなお、福祉と風紀、権利と道徳のあいだで揺れ続けていることを示している。

だから本稿では、遊女から書き起こす。
花魁を経て、夜鷹へ進み、娼妓解放令、戦時と占領期の国家的性管理、売春防止法、そして女性支援新法までを一本でたどる。そのとき見えてくるのは、性売買の歴史が「売られた女」の歴史であるだけでなく、買われ、働き、管理され、それでも生き延びてきた女たちの歴史でもあったということだ。問題は、彼女たちが働いていなかったことではない。働いていたにもかかわらず、その労働がつねに道徳の語彙によって覆い隠され、権利ではなく恥、主体ではなく保護、生活ではなく風紀の問題として処理されてきたことにある。
日本の性売買史を道徳から奪い返すとは、性を美化することではない。
むしろ、そこにあった労働、搾取、需要、統治の現実を、ようやく正面から言い直すことなのである。

※注1)
本稿に入る前に「性売買」「売春」「性労働」といった言葉の定義について触れておく。
1. 「性売買」
ここでは便宜的に、「金銭・物品・便益を対価として、性的行為や性的サービスを交換すること」という広い意味で使うのがわかりやすい。日本の法律は主に「売春」という語を使い、国際機関の保健・人権文書では「sex work / sex workers」という語を用いて、金銭や物品と引き換えに性的サービスを提供する成人を広く指している。つまり「性売買」は、日本法の厳密な定義語というより、法・運動・研究のあいだをまたいで実態を広く捉えるための整理語として使うと誤解が少ない。

2. 日本法の「売春」
売春防止法2条でいう「売春」は、「対償を受け、または受ける約束で、不特定の相手と性交すること。」ここで大事なのは、法律上の売春はかなり狭く、ポイントが「対価」「不特定の相手」「性交」に絞られていることです。したがって、一般に人々が「性売買」と呼ぶ現象の全部が、日本法上そのまま「売春」と一致するわけではない。

3. 「性労働 / sex work」
UNAIDS や OHCHR が用いる sex work / sex worker という語は、18歳以上の成人が、金銭・物品・サービスと引き換えに性的サービスを提供することを指している。そこには女性だけでなく、男性、トランスジェンダー、ジェンダー多様な人びとも含まれる。重要なのは、ここで前提にされているのが、成人どうしの合意に基づく行為だということである。  
そのうえで、なぜそれを「work=労働」と呼ぶのか。ここは、道徳ではなく、労働の定義に立ち返って考える必要がある。ILO は employment を、報酬または利益のために行われる仕事として整理しており、その報酬は現金だけでなく現物でもよいとしている。つまり、対価を伴ってサービスを提供し、そのために時間を拘束され、条件を交渉し、心身の負荷やリスクを引き受ける活動は、まず労働として把握される。性的サービスの提供も、この点で特別な例外ではない。  

だから「sex work is work」という言葉は、性売買を無条件に美化するための標語ではない。むしろ逆で、長いあいだ「かわいそう」や「ふしだら」といった道徳語でしか語られてこなかった領域を、労働条件、安全衛生、暴力からの保護、人権保障という枠組みでも見えるようにするための言葉である。UNAIDS の2024年ファクトシートも、sex work を合意ある成人間の行為として整理したうえで、スティグマや差別の解消、暴力からの保護、権利保障を重視している。  

第一章 遊女―芸能と性がまだ切り離されていなかった時代

遊女という言葉を聞くと、私たちはすぐに「売春婦」の祖型を思い浮かべてしまう。けれど近年の研究は、その短絡をかなり丁寧に崩している。辻浩和の中世遊女研究をめぐる紹介では、中世の遊女は、後世の近代的な意味での「娼婦」と同一視できる存在ではなく、むしろ芸能を主たる生業とし、営業の自由や女系相続の家業をもち、相互扶助の集団も形成していた存在として捉え直されている。京都大学リポジトリに収められた同研究の要旨も、遊女集団と芸能の関係から中世社会を見通そうとする問題設定を示している。つまり、遊女とは最初から全面的に「穢れ」として存在していたのではなく、歌い、舞い、移動し、接客し、生計を立てる女たちの職能だったのである。 (奈良女子大学リポジトリ)

ここで大切なのは、だから中世は自由だった、という話にしないことだ。自由という言葉で片づけるには、当時の社会はあまりに不均衡で、身分差や土地支配や宗教権力の網の目も濃い。ただ、それでもなお言えるのは、少なくともこの時期の遊女を理解するうえで中心に置かれるべきなのは、近代が後から押しつける「堕ちた女」の像ではなく、芸能とサービスを核にした生業だということだ。性がそこに含まれていたとしても、それはまだ近代のように「性道徳違反」という一語で回収される前の位相にある。遊女の身体は、純潔か穢れかの二択ではなく、歌、舞、移動、交渉、祝祭のなかに置かれていた。 (奈良女子大学リポジトリ)

このことは、現代の議論にとって意外な重みを持つ。なぜなら、日本史のかなり早い段階にすでに、女性が身体と技能と評判を束ねて対人サービスを提供し、その対価で生きるという現実があったことになるからだ。これはまさに、いま「セックスワーク」と呼ばれるものをめぐる争点の核に近い。つまり、性を含むサービスを提供することは、近代が発明した逸脱ではなく、歴史の内部で長く存在してきた労働の一形態でもあった。もちろん、その労働は平等でも安全でもなかった。しかし、平等でないから労働ではない、とは言えない。むしろ不平等のなかで営まれていたからこそ、そこには早くから支配と労働の二重性が刻み込まれていたのである。 (奈良女子大学リポジトリ)

この章で、遊女を近代的な「被害者」概念だけで遡及的に包んでしまうことに慎重でありたい。というのも、その見方はしばしば、遊女たちが実際に持っていた技能、ネットワーク、交渉力、移動性、生計維持の知恵を見えなくしてしまうからだ。中世遊女の研究が示しているのは、女性たちが単に売られていたのではなく、生業の担い手として社会の中に位置を占めていたということである。ここに、日本史の内部から「働く女たち」の系譜を引き出す最初の手がかりがある。 (奈良女子大学リポジトリ)

だが、その職能は近世に入ると別のかたちで囲い込まれていく。都市の発達、統治の集中、風俗管理の強化のなかで、芸能と性の複合的な仕事は、しだいに遊廓という制度の内部へと吸収され、序列化され、利潤のネットワークの中に組み込まれていく。つまり、遊女の歴史はそのまま花魁の歴史へ連続するのではない。そこには断絶もある。しかし同時に、女たちの労働が国家と市場によってより見えやすく、より収奪しやすい形に再編されるという意味では、確かな連続もある。次章の花魁は、その連続と断絶がもっとも華やかに、そしてもっとも残酷に結晶した場所である。 (i-Repository)

第一章の参考文献
・辻浩和『中世の<遊女>』受賞紹介(奈良女子大学学術情報リポジトリ、2018年) (奈良女子大学リポジトリ)
・辻浩和「中世〈遊女〉の身分とその支配」関連要旨(京都大学リポジトリ) (KURENAI)
・UNAIDS, HIV and sex work — Human rights fact sheet series 2024(現代の権利論との接続のため) (UNAIDS)

第二章 花魁―高度な技能を要する労働と、収奪される身体の同居

花魁はしばしば、二つの極端な像のあいだで語られる。ひとつは、豪奢な衣装と作法に包まれた「日本文化」の象徴としての花魁であり、もうひとつは、身売りと拘束の悲惨を背負わされた「哀れな女」としての花魁である。だが、そのどちらだけでも足りない。近世遊廓研究の到達点を整理したレビューは、遊廓社会を、遊女屋をヘゲモニー主体としながら、地代・家賃・金融・親兄弟など多様な寄生と吸着のネットワークを通じて利潤を収奪する社会として捉えている。同時にそのレビューは、遊女に不可分の要素としての芸能があり、それを獲得することが「芸能を職分の核とする身分としての芸者」に到達する可能性をもたらしたとも述べている。つまり花魁の世界とは、高度な技能を要する仕事であると同時に、その仕事が多重の搾取構造に支えられていた世界でもある。 (i-Repository)

ここで「労働か搾取か」という問いを二者択一のまま立ててしまうと、花魁の現実は見えなくなる。高位遊女には、接客、和歌、三味線、衣装の扱い、所作、会話、場の空気を読む力、客に応じて人格を演じ分ける能力が求められた。それは単なる性交の提供ではない。むしろ、性はそうした総体の一部にすぎない。だが同時に、その総体そのものが、本人の自由な専門職として承認されるのではなく、遊女屋、貸金、家族、町場、地主、都市経済の利潤の網のなかに置かれていた。花魁を文化としてだけ眺めれば、この搾取が消える。被害としてだけ眺めれば、労働の具体が消える。花魁という存在は、その両方を拒む。 (i-Repository)

KAKENの総合研究プロジェクトが明示しているように、近世から近代にかけての遊廓社会の構造分析は、社会の周縁に置かれた民衆の実態、性売買をめぐる男女の非対称な関係、そこに立脚した社会的・政治的権力の実態を解明する点に大きな意義をもつという。これは言い換えれば、遊廓が単に「色町」なのではなく、性売買を通じてジェンダー秩序と社会権力が編成される場だったということだ。花魁の華やかさは、その外皮にすぎない。その奥には、誰が利潤を得て、誰が危険を負い、誰の身体が都市の経済と男性の欲望を支えていたのか、という剥き出しの問いがある。 (KAKEN)

だから、花魁を論じるときこそ、「性の道徳」という近代の語彙からいったん離れたい。花魁の問題は、もともと「ふしだら」だったことではない。問題は、これほど複雑で高度な技能を要する女性の仕事が、権利としてではなく、商品と拘束のあいだでのみ成立するよう制度化されていたことにある。ここで見えてくるのは、性売買が労働であることを否定する理由ではない。むしろ逆で、労働であったからこそ、それは制度的に組織され、序列化され、収奪の対象になったのである。花魁は、労働と搾取が矛盾なく同居しうることを示す、日本史のもっとも鮮やかな実例の一つだ。 (i-Repository)

そして、この章で見えてくるもう一つのことは、文化化そのものもまた、ときに政治的であるということだ。後世、花魁はしばしば「伝統文化」や「美の象徴」として消費される。しかし、その美は、誰の負債の上に築かれていたのか。誰の身体の危険と引き換えに成立していたのか。その問いを抜いた「花魁文化」礼賛は、ある意味では近代国家の道徳化とよく似ている。どちらも、働く女の具体から目をそらさせるからだ。一方は彼女を高く飾り、もう一方は彼女を低く裁く。だがどちらの場合も、真ん中にいるはずの労働する主体が消えてしまう。 (i-Repository)

花魁をこのように読むとき、次に出てくる夜鷹の位置も見えやすくなる。花魁が制度の中心で高度にブランド化された性労働だとすれば、夜鷹は制度の外縁で、より露出した危険と貧困のなかに置かれた性労働である。だが、中心と周縁は無関係ではない。むしろ、中心の華やかさは周縁の悲惨によって縁取られている。次章では、その周縁に立たされた女たちを通じて、性売買がそもそも風紀の問題ではなく、生存の問題だったことをはっきりさせたい。 (ジセダイ)

第二章の参考文献
・吉元加奈美「吉田伸之・佐賀朝編『シリーズ遊廓社会(1)(2)』」『市大日本史』17巻 (i-Repository)
・KAKEN「一次史料に基づく近世~近代日本の『遊廓社会』に関する総合的研究」 (KAKEN)
・『〈岡場所〉の女性たちの実態』地位・時代社(夜鷹章への接続のため) (ジセダイ)

第三章 夜鷹―制度の外に押し出された、生存のための性労働

花魁が制度の中心に近いところで、技能と華やかさと拘束を一身に引き受けていた存在だとすれば、夜鷹はその反対側にいた。岡場所研究の概説は、夜鷹を「岡場所の中でも最下層」と呼ばれた女性たちとして位置づけ、性病に罹患した悲惨な状況や、世間からの嘲笑の対象になったことを指摘している。また、成城大学の研究は、弘化二年(一八四五)には深川に「すわり夜鷹」と称する私娼が現れ、両国や木挽町にも夜鷹が広がったと述べている。つまり夜鷹は、遊廓や岡場所の外へさらに押し出され、より露出した危険と貧困のなかで営業した女性たちだった。 (ジセダイ)

ここで重要なのは、夜鷹を単に「最下層の悲惨」としてだけ読むと、逆にその現実が見えなくなることだ。夜鷹はたしかに、花魁よりはるかに不利で、制度的保護からも遠く、嘲笑と暴力の危険にさらされていた。だがそのことは、彼女たちが「働いていなかった」ことを意味しない。むしろ逆で、夜鷹の歴史は、性売買がまず生存のための労働であったことを、もっともむき出しの形で示している。夜の路上に立つということは、道徳を選んだのではなく、その日の金をつくる必要に追われていた、ということに近い。こ 夜鷹をめぐる史料が一貫して示しているのは、性売買が「淫らさ」の問題である前に、貧困と周縁化の問題だったという事実である。 (ジセダイ)

さらに興味深いのは、夜鷹の存在が、近代以前の性売買が単純な「公認/非公認」「上流/下流」の区分だけでは捉えきれないことを教えてくれる点だ。私娼はしばしば公娼制度の外側に置かれるが、大川直美の整理では、近世公娼制のもとで私娼は「隠売女」として取締りの対象でありつつ、現実には公娼と私娼のあいだに行き来や連続性があったことも示されている。つまり、夜鷹は制度の完全な「外」ではなく、むしろ制度が生み出しながら責任を引き受けなかった影の部分だった。制度の中心が華やかであればあるほど、その外縁にはより安く、より危険で、より使い捨てやすい性労働が生まれる。この中心と周縁の分業は、現代にも驚くほどよく似ている。 (明治学院大学社会学部)

夜鷹の歴史から見えてくるのは、性売買を「堕落した女」の問題として扱う視線そのものが、かなり後から作られたものである、ということだ。夜鷹にとって核心だったのは、純潔の喪失より、寒さ、病、暴力、年齢、身なり、客の値切り、仲介者との関係だったはずである。にもかかわらず、後世の語りはしばしば彼女たちを「哀れ」や「醜悪」の側に追いやり、その生活を支えていた労働の次元を忘れてきた。夜鷹は、性売買史のなかでもっとも見捨てられた存在であると同時に、だからこそ、セックスワークがまずサバイバルの技術であったことを教える存在でもある。 (ジセダイ)

そして、この夜鷹の位置を見れば、近代国家が何をしようとしたのかも見えやすくなる。国家は、こうした制度の外縁に放置された性売買を前にして、女性の安全と権利を中心に制度を作り替えたのではなかった。むしろ近代国家は、そこに管理の必要を見た。誰がどこで営業し、誰が利潤を得て、どこまでを許可し、どこからを処罰するのか。夜鷹のような存在を含む雑多な現実を前にして、国家は性売買を「なくす」のではなく、まず「読み替え」「区分し」「登録し」「統制する」方向へ進んでいく。その大きな節目が、一八七二年の娼妓解放令である。 (立命館大学)

第三章の参考文献
・『〈岡場所〉の女性たちの実態』地位・時代社(夜鷹・岡場所の最下層性の整理) (ジセダイ)
・西山松之助「江戸における岡場所の変遷」(成城大学リポジトリ) (成城大学リポジトリ)
・大川直美「私たちにとって『売買春』とは何か―歴史的視点から―」明治学院大学 (明治学院大学社会学部)

第四章 娼妓解放令―「解放」の名で、国家が性を管理しなおした

一八七二年の太政官達二九五号、いわゆる娼妓解放令は、日本の性売買史のなかでしばしば「人身売買を否定した近代化の画期」として語られる。その理解は半分まで正しい。立命館大学の研究によれば、近代公娼制度はこの娼妓解放令を画期として前近代のそれとは隔絶する形で再構成された売春統制政策であり、娼妓が届出を行うことで稼業許可を与えられ、一定の制限区域でのみ営業を認められる制度として整えられていった。そしてこの制度は、戦後の赤線を経て、一九五六年の売春防止法成立まで長く続く。つまり娼妓解放令は、前近代の終わりであると同時に、近代的性管理の始まりでもあった。 (立命館大学)

この法令のレトリック自体が象徴的である。今西一の研究が引く布告文では、娼妓・芸妓は「人身の権利を失う者にて牛馬に異ならず」とされ、前借金を返済させる理屈を否定する方向が示されている。たしかにそこには、女性を売買の対象として扱うことへの近代的な違和感がある。しかし同時に、その「解放」は、女性たちを自由な労働主体として承認する方向へは進まなかった。むしろ解放令のあとに国家が作ったのは、届出、許可、指定地、規則、検査といったより行政的で警察的な公娼制度だった。ここで否定されたのは拘束の古い形式であって、性売買を通じた国家管理そのものではない。 (小樽商科大学学術成果コレクション)

この章で本当に大事なのは、「解放」がそのまま自由を意味しなかった、という点である。眞杉侑里の論文は、近代公娼制度が成立段階で人身売買を禁止しながらも、その後も「人身売買的要素」を内在させていたことを問題にしている。これは非常に重要だ。国家は、建前としては「人身売買を排除する」と言う。しかし実際には、前借金、稼業契約、区域指定、営業許可などを通じて、女性たちの身体を依然として売買と管理の回路に置き続ける。つまりここで起きたのは、拘束の消滅ではなく、拘束の近代化である。 (立命館大学)

このとき、日本の性売買をいよいよややこしくしていくものが入り込む。それが「性道徳」と「文明化」の語彙である。娼妓解放令は、人身売買の否定を通じて一見進歩的に見えるが、その後の近代公娼制の展開を見ると、国家が本当に欲しかったのは女性の性的自己決定ではなく、どの性をどの場所に置き、どこまでを許し、どこからを恥として排除するかを決める権限だったことが見えてくる。つまり近代国家は、性をなくすのではなく、性をより細かく分類し、道徳と衛生と秩序の名で支配可能なものにしたのである。これは私の解釈だが、解放令と近代公娼制の連続性を見れば、十分に妥当な読みだと思う。 (立命館大学)

ここで重要なのは、近代国家が女性たちを「労働者」として見なかったことだ。彼女たちが実際には稼業を行い、収入を生み、客と交渉し、身体と時間を使っていたにもかかわらず、その労働は労働法や権利の問題としては立ち上がらない。代わりに国家が前面に出したのは、風俗、衛生、規律、そして文明である。言い換えれば、娼妓解放令以後の近代国家は、性売買の「労働性」を承認する代わりに、その「危険性」と「恥」を管理する国家になった。これが後の売春防止法、さらに戦時・占領期の国家的性管理へつながっていく。 (立命館大学)

だから、娼妓解放令は日本の性売買史における単純な進歩の一歩ではない。それはむしろ、女性をあからさまに売買する前近代の世界から、女性の身体をより精密に登録し、衛生化し、風紀化し、必要に応じて動員できる近代の世界へ移る入口だった。ここから先、国家は性売買を「恥ずべきもの」と言いながら、必要な場面ではみずからそれを組織し、運用するようになる。そのもっとも露骨な局面が、戦時の慰安所と、敗戦直後のRAAである。 (立命館大学)

第四章の参考文献
・眞杉侑里「『人身売買排除』方針に見る近代公娼制度の様相」立命館大学 (立命館大学)
・今西一「芸娼妓『解放令』に関する一考察」新潟大学リポジトリ (小樽商科大学学術成果コレクション)
・『廃娼運動の歴史』国立国会図書館デジタルコレクション (国立国会図書館デジタルコレクション)
・林葉子『女たち/男たちの廃娼運動』大阪大学リポジトリ(近代の性道徳化・ジェンダー秩序の補助線として) (大阪大学学術情報庫)

第五章 国家が性を必要としたとき―慰安所、RAA、そして「守る」という名の性管理

国家が本当に性売買を嫌っていたのなら、戦時にも敗戦直後にも、自らそれを組織するはずがない。だが日本の近現代史は、まったく逆のことを示している。戦時の慰安所制度について、日本政府は一九九三年の河野談話で、慰安所が「軍当局の要請」によって設営され、その設置、管理、慰安婦の移送について旧日本軍が直接または間接に関与し、募集にも本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあったことを認めている。ここで国家は、性を「風紀を乱すもの」として退けたのではない。むしろ、軍の統治を支える資源として制度化したのである。 (外務省)

この事実は、売春規制の歴史を考えるとき決定的な意味を持つ。なぜなら、国家が一方で性を道徳化し、他方で必要なときには女性の身体を組織的に配分してきたことが、ここで隠しようもなく露呈するからだ。これは単なる「偽善」ではない。私はむしろ、推進と規制が同じ統治技術の両面だったと見るべきだと思う。戦時には兵士の規律、暴発防止、性病管理、軍事継続のために女性の身体を動員する。平時には家族制度、風俗秩序、性道徳のために、同じ女性たちを保護・矯正・排除の対象に置く。どちらも中心にあるのは女性の権利ではなく、男たちの秩序維持である。河野談話が認めた軍の設営・管理関与は、その読みをきわめて強く支えている。 (外務省)

この構図は敗戦で終わらなかった。平井和子の研究によれば、敗戦直後に政府の要請を受けて東京都下の接客業者を糾合して作られたのがRAAであり、募集広告は首都圏外にも広く出され、「経験者」だけでなく「無経験者」も含めて女性が動員されていった。そこには「衣食住高級支給」「旅行配給移動ニ特権アル」といった国の便宜を背景にした好条件が並び、敗戦後の生活難に直撃された貧困層の女性が吸い寄せられていったとされる。つまりRAAは、戦争に敗れた国家が、今度は占領軍との関係維持と治安管理のために、再び女性の身体を配分した制度だった。

しかもここで使われた理屈は、「一般婦女子を守るため」というものであった。平井の要旨は、敗戦直後に日本政府が勝者に向けてRAAや特殊慰安施設を開設したのは「性の防波堤論」に依拠していたと述べている。山梨県立男女共同参画推進センターの講座資料も、政府が女性を「守るべき女性」と「差し出すべき女性」に二分し、「慰安」にあたる女性たちを「性の防波堤」として管理したと整理している。ここで見えてくるのは、性売買をめぐる国家の二枚舌ではなく、女性を選別し、一部を他の女性や社会全体のための犠牲として差し出す発想である。国家は性を禁止したいのではない。必要なときには、より「公益的」な名目のもとで、女性の身体を公的目的に従属させたいのである。 (一橋大学機関リポジトリ)

占領期の管理は、さらに露骨だった。平井の研究によれば、米軍の性政策は売春女性を登録させ、定期性病検診と治療を課し、検診証明を持たない街娼を徹底的に排除するものだった。MPによる「狩り込み」には日本警察も同行し、感染が判明した女性は拘束されて強制治療を受け、場合によっては刑務所に送られることすらあった。藤野豊の研究でも、一九四六年一月末までに各地の「公娼、私娼及特殊慰安施設」の詳細な状況を調査させ、特殊慰安施設としてRAAを含む占領軍向け買売春施設を把握していたことが示されている。ここで守られたのは、女性の健康ではなく、兵士の「安全な買春」と占領秩序だった。

この章で私が言いたいのは、戦時の慰安所も敗戦直後のRAAも、日本の性売買史の例外ではないということだ。それはむしろ、近代国家が性をどう扱ってきたかをもっとも鮮明に見せる局面である。国家は、必要なときには「慰安」「防波堤」「衛生」「秩序」という名で女性の身体を動員する。必要が薄れれば、今度はその同じ身体を「風俗を乱すもの」「保護すべき転落者」「矯正すべき対象」として語り直す。推進と規制は矛盾していない。どちらも、女性の身体を国家目的に従属させる技術なのだ。これは私の解釈だが、河野談話、RAAの募集・運営研究、占領期の性病管理と狩り込みの実態を並べると、その読みはかなり強い説得力を持つ。 (外務省)

だからこそ、この章の次に問われるべきは、現在の「買う側を罰する」議論が、本当に女性の解放に向かうのかということである。国家が歴史的に一貫して、女性の身体を秩序維持の資源として扱ってきたのだとすれば、買う側処罰もまた、設計と運用次第では、女性の安全や権利のためではなく、「望ましい性秩序」を再配置する政策として働きうる。日本の歴史は、その危険に対してあまり楽観的でいられない。 (一橋大学機関リポジトリ)

第五章の参考文献
・慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(外務省) (外務省)
・平井和子「日本占領を問い直す:ジェンダーと地域からの視点」(一橋大学リポジトリ)
・藤野豊「戦後日本の公娼制度廃止における警察の認識」敬和学園大学
・池田恵理子「『慰安婦』問題の真の解決と戦時性暴力の根絶のために」 (立命館国際平和ミュージアム)
・山梨県立男女共同参画推進センター講座資料「占領下の日本における女性と性」 (やまなし文化学習協会)

第六章 買う男を罰するとき、国家は何を守ろうとしているのか

いま日本で進みつつある議論の焦点の一つは、売春の「相手方」、つまり買う側をどう扱うかである。第6次男女共同参画基本計画は、売春の相手方の行為についても各種法令を適用し、児童買春などの刑罰法規に違反する行為に厳正に対処するとともに、売春防止法の更なる見直しを含めて、売買春に係る規制の在り方を検討すると明記した。これを受け、法務大臣は2026年2月の記者会見で、外部有識者が参加する「売買春に係る規制の在り方検討会」を法務省で開催する方針を示している。つまり、買う側処罰はもはや抽象論ではなく、日本の制度改正の現実的な選択肢として前景化している。 (男女共同参画局)

この議論には、もちろん一つの強い理屈がある。スウェーデンのジェンダー平等庁の公式説明では、性購入法は「需要を標的にする」政策であり、責任の焦点を売る側ではなく買う側へ移し、売春を女性に対する暴力や性的搾取と結びついた問題として捉えている。2010年のスウェーデン政府評価の英語要約でも、1999年法は「男女平等社会において、男性が金銭の対価で女性との偶発的な性的関係を得るのは恥ずべきで受け入れがたい」という原理に基づき、需要の抑止と組織的売春の拡大防止を狙ったものだと整理されている。つまり買う側処罰は、理念上は「売る女性を罰するのでなく、需要側の権力を問う」ものとして出てくる。 (NSPM)

だが、ここで立ち止まらなければならない。国連人権関係の2024年ガイドは、セックスワークと人身取引を混同すべきではないとしたうえで、WHOとUNAIDSが、売買・管理・関連活動を含むあらゆる刑罰化の除去を求めてきたことを確認している。さらに同ガイドは、買う側の犯罪化も、セックスワーカーの安全や健康に悪影響を及ぼし、コンドームへのアクセスや使用を減らし、暴力率を上げることが繰り返し示されてきたと明記している。ここで重要なのは、国際機関が単に「売る側は罰するな」と言っているのではなく、買う側を含む取引全体の刑罰化が、現場の安全を損ないうると見ていることだ。 (OHCHR) (※注2)

実証研究も、この懸念をかなり具体的に裏づけている。PLOS One の2020年研究は、クライアントと第三者を処罰する「エンド・デマンド」型の法が、旧来の刑罰化と同じような害を再生産してきたと述べている。BMJ Open の2022年研究も、買う側犯罪化のもとでは、客が匿名性を高めようとするため、性労働者は取引条件や安全条件の交渉時間を失い、金銭やサービス内容、性的健康についての事前交渉が難しくなり、結果として職業上の安全が損なわれると報告している。さらに先行研究をまとめたレビューでは、刑罰化と強圧的取締りは暴力、HIV、性感染症、医療アクセス障害と関連していると整理されている。 (PLOS)

アムネスティも2024年、フランスの「北欧モデル」をめぐる欧州人権裁判所判決に関連して、買う側犯罪化はセックスワーカーにより大きなリスクを負わせ、複数で働いて安全を確保することを難しくし、住居・医療・支援へのアクセスを妨げると批判した。ここで見えてくるのは、買う側処罰が理念としては「男の責任を問う」ように見えながら、運用の局面ではしばしば、交渉の時間を削り、場所を地下化し、支援から遠ざけることで、売る側の女性に危険を押し戻すという逆説である。 (Amnesty International)

日本の文脈でこの逆説は、さらに重くなる。日本は歴史的に、戦時には慰安所を、敗戦直後にはRAAを組織し、必要なときには国家自ら女性の身体を軍事・治安・秩序維持のために動員してきた。その一方で、平時には売春防止法によって性を道徳と風俗の問題として囲い込み、女性を「保護更生」の対象として扱ってきた。この歴史の上に買う側処罰を導入するなら、それが本当に女性の権利と安全のためなのか、それとも「望ましい性秩序」を国家が再配置するためなのかは、厳しく問われなければならない。第6次基本計画の公聴会・意見募集資料には、買春処罰を求める側からも「脱性売買支援(衣食住の支援)は必ずセットで行うべきで、そうでなければ女性側の収入が断ち切られるだけだ」という意見が残されている。これは、公的議論の内部ですら、買う側処罰だけでは女性の安全や生活は守れないという認識が共有されていることを示す。 (男女共同参画局)

だから私は、この論点をこう整理したい。買う側処罰は、それ自体が自動的に「女性の味方」になるわけではない。むしろ、何を守るための法なのかがすべてを決める。もしその法が、現場の安全、住居、医療、在留資格、暴力被害申告、第三者との安全な協働、辞めたいときに辞められる生活保障よりも、「需要を減らす」「根絶する」「望ましい性秩序を作る」という国家目的を優先するなら、その法は結果的に、女性の身体を再び国家目的に従属させることになる。逆に、売る側の非犯罪化と、生活保障と、暴力・人身取引・悪質仲介への厳格対応が現実に整うなら、同じ「規制」でも意味は変わりうる。だが日本の制度史は、その前者に流れやすい。ここで問うべきなのは、男を罰するかどうかそのものではない。国家が、女たちの身体を通じて何を整えようとしているのかである。 (OHCHR)

第六章の参考文献
・第6次男女共同参画基本計画(内閣府、2026年3月13日) (男女共同参画局)
・法務大臣閣議後記者会見の概要(法務省、2026年2月10日) (法務省)
・Swedish Gender Equality Agency, Prostitution policy in Sweden – targeting demand (NSPM)
・Government of Sweden, Evaluation of the Swedish Legislation Criminalising the Purchase of Sexual Services (2010 summary) (Office of Justice Programs)
・UN 2024 March Sex Work Guide / OHCHR materials on decriminalization (OHCHR)
・Amnesty International, Europe: Failure to recognise harm caused by criminalization of sex work… (2024) (Amnesty International)
・Argento et al., “The impact of end-demand legislation on sex workers’ access to health and sex worker-led services” (PLOS One, 2020) (PLOS)
・McDermid et al., “How client criminalisation under end-demand sex work laws shapes the occupational health and safety of sex workers” (BMJ Open, 2022) (PMC)
・Platt et al., “Associations between sex work laws and sex workers’ health” (PLOS Medicine, 2018) (PLOS)

第七章 売春防止法―労働の問題が、性道徳の問題に置き換えられた瞬間

この現在の議論の根にある戦後法へ、一度戻っておきたい。一九五六年の売春防止法は、日本の戦後制度のねじれを最もよく示す法律である。第一条は、売春が「人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだす」ものであることに鑑み、売春を助長する行為等を処罰するとともに、性行為に絡む被害女性の保護更生を図ると定める。第三条は、「何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならない」とする。つまり法律の入口で、売春はまず道徳と風俗の問題として定義されている。 (e-Gov 法令検索)

ところが、この法律の運用構造をよく見ると、行為そのものを一律に罰する仕組みではない。e-Gov掲載の条文要約が示すように、第5条以下で罰則の中心になるのは、勧誘、周旋、困惑等による売春、対償の収受、前貸し、売春をさせる契約、場所の提供、売春をさせる業などである。とくに第5条は、売春をする目的で公衆の目に触れる方法で相手方を勧誘したり客待ちしたりする行為を処罰対象にしている一方、第三条の「相手方となってはならない」には、法文上ただちに対応する直接罰は置かれていない。つまり、理念上は売る側も買う側も禁じながら、実際の処罰と介入は、歴史的により強く売る側女性の側へ向かいやすい構造を持っていた。 (e-Gov 法令検索)

ここに、戦後日本の性売買政策の核心がある。国家は、性売買を労働法や社会保障の問題として扱わなかった。代わりに、売春を「尊厳」「性道徳」「善良の風俗」という言葉で定義し、その現実に出てくる女性たちを「要保護女子」や「保護更生」の対象として見た。初期の男女共同参画基本計画にも、売買春の根絶に向けた取締りと並んで、「売春をするおそれのある女性を早期に発見し、指導する」ことや、売春を行った女性の社会復帰支援が記されている。ここには、女性を権利主体として扱うより前に、転落しうる存在として発見し、補導し、立て直すという発想がはっきり刻まれている。 (男女共同参画局)

もちろん、売春防止法は戦前・戦中の公的性管理に比べれば、国家が正面から売春を組織する制度ではない。だがそのことは、この法が自由や権利の地平に立っていたことを意味しない。むしろ、国家が女性の身体を「使う」局面から、「使わないように見せながら管理する」局面へ移った、と見る方が正確だろう。売春をする女は、もはや帝国のための慰安婦ではない。しかし同時に、自由な労働者でもない。彼女は、道徳に反し、保護され、矯正され、再統合されるべき存在として制度の中に置かれる。この置き方によって、貧困、住居、家族破綻、暴力、仲介搾取、需要側の権力といった問題は後景化し、女の身体だけが風紀の舞台に上げられる。 (e-Gov 法令検索)

この法の長い影は、厚労省自身の説明にも表れている。女性支援新法の背景資料は、従来の女性支援の枠組みが旧売春防止法を制度的根拠としてきたが、女性が抱える困難が複雑・多様化・複合化するなかで、その枠組みでは限界が生じており、法制度上も旧売春防止法ではなく新たな枠組みが必要だと明記している。つまり国自身が、売春防止法を基礎にした支援のあり方には制度的限界があったと認めているのである。ここから逆照射されるのは、売春防止法が長年、支援といいながら、その土台に性道徳的な発想を残してきたということだ。

だから売春防止法をどう読むかは非常に大事である。これを単に「売春をなくそうとした善意の法律」と読むなら、日本の制度はいつも優しかったことになる。逆に、ただ「全部悪だった」とだけ言っても、そこに女性保護の契機を見た当時の人々の問題意識まで平板化してしまう。私が言いたいのは、売春防止法とは、搾取や暴力の現実に向き合おうとしながら、その入口を労働や権利ではなく、性道徳と風俗に置いてしまった法だということだ。そのため、この法は女性を救済しようとしつつ、同時に女性を「転落」の主体として固定化した。助けることと矯正することが、最初から分かちがたく絡み合っていたのである。 (e-Gov 法令検索)

そして今、日本は再びこの法の見直しに向かっている。第6次男女共同参画基本計画は、売春の相手方への対処と売春防止法の更なる見直しを含め、売買春規制の在り方を検討するとした。法務省も2026年に有識者検討会を立ち上げる方針を示している。だが、ここで本当に問うべきなのは、罰する相手を増やすことそのものではない。この法がもともと抱えていた道徳化の発想を超えられるのか、である。もしそこが変わらなければ、買う側処罰を加えても、日本の制度はただ、より多くを取り締まるだけの新しい風紀法になる可能性がある。 (男女共同参画局)

第七章の参考文献
・売春防止法(e-Gov法令検索) (e-Gov 法令検索)
・第1次男女共同参画基本計画「女性に対するあらゆる暴力の根絶」関連箇所 (男女共同参画局)
・第6次男女共同参画基本計画(2026) (男女共同参画局)
・「困難な問題を抱える女性への支援のための施策に関する基本的な方針」および厚労省説明資料
・法務省・2026年の売買春規制検討会に関する発表 (法務省)

第八章 女性支援新法――「保護更生」から「つながり続ける支援」へ、しかし何がまだ残っているのか

2024年4月に施行された女性支援新法は、日本の女性支援制度が売春防止法ベースの枠組みから離れようとする大きな転換である。厚生労働省は、女性支援事業について、「女性の福祉」「人権の尊重や擁護」「男女平等」といった視点に立ち、困難な問題を抱える女性一人ひとりのニーズに応じて、切れ目のない包括的支援を行うものだと説明している。基本方針の解説でも、「人権の擁護を図るとともに、男女平等の実現に資すること」が明記され、地域の関係機関や民間団体と連携しながら、包括的かつ継続的に「つながり続ける」支援を行うことが求められている。これは、売春防止法の「保護更生」とは明らかに語彙が違う。だが、支援が本当に『つながり続ける支援』になるためには、性風俗で働いていた女性が性被害に遭ったときに、まず被害者として扱われることが必要である。現実にはなお、『その仕事をしていたのだから』という視線によって、暴力の訴えが軽く扱われたり、恥として私化されたりしやすい。支援の転換とは、辞めさせることだけではない。被害を被害として受け止め、拒否する権利、安全に働く権利、辞める権利、補償を求める権利を切らさず支えることでなければならない。 (厚生労働省)

この転換が必要になった理由も、厚労省はかなり率直に述べている。女性が抱える困難は近年、複雑・多様化・複合化しており、旧売春防止法を根拠とした従来の枠組みでの対応には限界が生じている、だから新たな法的枠組みを構築する必要がある、というのである。さらに背景資料では、売春防止法の第4章に基づく婦人保護事業の見直しや、それ以外の規定の見直しも本来は必要だが、時間を要するならまず新たな支援枠組みの構築を急ぐべきだと整理されている。ここには、長らく「要保護女子」の保護を核にしてきた制度の限界に対する、行政自身の認識がはっきり見える。

この点は、かなり大きい。なぜなら日本の女性支援制度は長く、売春防止法の延長線上で、売春に至る女性やそのおそれのある女性を「保護」の対象として扱ってきたからだ。だが現在の困難は、性売買だけでは説明できない。DV、性暴力、家族関係の破綻、生活困窮、若年女性の孤立、精神的困難、住まいの不安定さ、外国籍や在留資格の問題などが複雑に重なっている。女性支援新法は、この現実を前にして、もはや「売春をするおそれのある女子」という枠だけでは何も受け止められないと認めたのである。その意味でこの法律は、性の道徳化から、人権と生活の支援へと重心を移すための、遅すぎた第一歩だと言える。

ただし、この章で単純な進歩史観に落ちるべきではない。なぜなら、同じ現在に、第6次男女共同参画基本計画はなお、売買春の「根絶」を掲げ、売春の相手方への対処や売春防止法の更なる見直しを含む規制の在り方の検討を明記しているからである。つまり日本の制度は今、支援へ踏み出しながら、同時に規制と根絶の語彙を手放してはいない。この二重性は、旧い性道徳の発想がまだ完全には退場していないことを示している。 (男女共同参画局)

ここで本当に問われるのは、女性支援新法が、女性を「助けるべき客体」として扱うのか、それとも「権利をもつ主体」として扱うのか、である。もし支援が、売春からの離脱や望ましい生活形態への誘導だけを中心に据え、当事者の意思や現実の安全確保や収入保障を軽く扱うなら、それは旧い保護更生モデルの焼き直しになりうる。逆に、居住、医療、生活費、相談、同行支援、民間団体との継続的関係、辞めたいときに辞められる条件整備、働き続ける人への安全と権利の確保までを視野に入れるなら、この法律は売春防止法の影から少しずつ抜け出すことができる。国連やWHO、UNAIDSが、刑罰化よりも権利・健康・安全への包括的アプローチを求めているのは、まさにそのためである。 (厚生労働省)

だから女性支援新法は、完成ではなく入口である。私はこの法律を、日本の制度がようやく「売春をする女」ではなく、「困難な問題を抱える一人の女性」へと視線を移し始めた証拠として評価したい。けれど同時に、その視線がなお「根絶」や「規制」の語彙と隣り合っている以上、この転換はきわめて不安定でもある。支援が本当に支援になるためには、女性の身体を国家の望む秩序へ戻すための通路ではなく、その人が生き延び、選び直し、拒み、働き、辞め、助けを求められるための基盤でなければならない。ここまで来てようやく、私たちは日本の性売買史を、「性道徳」の物語から少しずつ剥がしはじめることができる。 (厚生労働省)

第八章の参考文献
・厚生労働省「困難な問題を抱える女性への支援」ページ (厚生労働省)
・「困難な問題を抱える女性への支援のための施策に関する基本的な方針」関連資料 (厚生労働省)
・第6次男女共同参画基本計画(2026) (男女共同参画局)
・OHCHR/UN 2024 sex work guide, WHO・UNAIDSの非犯罪化勧告整理 (OHCHR)

終章 「Sex Work is Work」を日本史の内部から言いなおす

日本の性売買史を振り返るとき、私たちはすぐに二つの物語のどちらかに回収したくなる。ひとつは、女たちはつねに売られ、騙され、踏みにじられてきた、という被害の物語。もうひとつは、それでも女たちはたくましく稼ぎ、生き延びてきた、という自立の物語。だが、このどちらだけでも足りない。遊女は芸能と接客と移動を担う働き手であり、花魁は高度な技能をもつ性労働の担い手であり、夜鷹は制度の外で生存のために身体を使った働き手だった。他方で、その労働はつねに、前借金、人身売買、区域管理、家父長制、都市利潤、暴力、仲介、警察権力のなかに置かれていた。つまり日本の性売買史が教えるのは、労働であったことと搾取されていたことは、矛盾しないという事実である。 (nara-wu.repo.nii.ac.jp, i-repository.net, ji-sedai.jp)

この事実を、日本の近代国家は正面から認めなかった。国家がしたのは、働く女たちを労働者として承認することではなく、彼女たちをより管理しやすい対象へと読み替えることだった。娼妓解放令以後、性売買は届出、許可、区域、衛生、警察の言葉で再編され、戦時には慰安所として、敗戦直後にはRAAとして、女性の身体は軍事・治安・秩序維持のために公的に動員された。必要なときには性を推進し、不要なときには性を道徳化する。この国の制度は、その揺れを一貫して繰り返してきた。 (ritsumei.ac.jp, mofa.go.jp, hit-u.repo.nii.ac.jp)

その統治技術を、戦後日本は売春防止法のなかに別のかたちで引き継いだ。売春防止法は、売春をまず性道徳と善良の風俗の問題として位置づけた。ここで問われたのは、労働条件でも、需要でも、暴力の防止でもなく、秩序だった。売春防止法ベースの婦人保護事業が長く続き、厚労省自身がその限界を認めて女性支援新法へ移行したことは、この道徳化された枠組みが現代の複雑な困難に対応できなくなっていたことを示している。だが同時に、支援の語彙と規制の語彙はいまもなお併存している。日本の制度は、いまなお福祉と風紀、権利と統制のあいだで揺れ続けている。 (laws.e-gov.go.jp, mhlw.go.jp, gender.go.jp)

ここまで来ると、「Sex Work is Work」という言葉は、日本では少し緊張を孕んだ言葉として聞こえてくる。これは、性売買を無条件に肯定する標語ではない。搾取や人身取引や暴力を見ないふりをするための便利な言葉でもない。むしろ逆に、それは、性をめぐる営みが現実に労働として存在してきたことを認め、その労働をようやく権利、安全、健康、契約、生活保障、暴力防止の地平へ戻すための言葉である。国際人権文書が一貫して重視しているのも、性を「よい/わるい」で裁くことではなく、当事者の安全、健康、司法アクセス、暴力からの保護をどう確保するかという点である。 (ohchr.org, unaids.org)

ここで、どうしても書き足しておきたいことがある。性風俗の現場では、性暴力が起きやすい。しかもそれは、単に「悪質な客がいる」という話では終わらない。短い時間で相手を選ばされること、拒否や交渉の余地が狭いこと、被害に遭っても「そういう仕事なのだから」と受け流されやすいこと、警察や支援機関に行っても恥や自己責任として処理されやすいこと。その重なりのなかで、暴力はしばしば被害として数えられず、沈黙のうちに押し込められる。WHO提出文書は、性労働者への暴力の生涯有病割合が45〜75%、過去1年でも32〜55%に及ぶとし、法的地位、とりわけ売る側だけでなく買う側を含む犯罪化が暴力のパターンを左右する重要因子だと述べている。 (OHCHR)
だから、「Work」と言うことは、暴力を軽くすることではない。むしろ逆である。仕事として認めるとは、そこで起きた暴力を「そういう商売だから」で済ませないということだ。拒否権の侵害を侵害として、強要を強要として、脅迫を脅迫として、公に言えるようにすることである。仕事ではないことにされてきたからこそ、性風俗で働く人びとは長く、安全配慮、補償、契約、保険、医療アクセス、司法的救済の外側へ追いやられてきた。
「Sex Work is Work」とは、その外側へ追いやられてきた人びとを、権利の言葉の中へ戻すための言葉なのである。OHCHRの2024年ガイドも、セックスワーカーの人権の中心に、平等、身体的自律、健康、暴力からの自由を置いている。 (OHCHR)
もちろん、この言葉に痛みを覚える当事者がいることも忘れてはならない。性風俗の現場で性被害に遭った人にとって、「Work」という語は、自分が受けたことの暴力性を薄め、正当化する言い訳のように響くことがある。その感覚自体は、否定されるべきではない。自分にとってそれは仕事ではなく、暴力でしかなかった、と感じる人がいるのは当然である。だが同時に、制度の側がそれを「仕事ではない」と言い続けてきたことは、拒否権や安全条件や補償へのアクセスを弱め、被害を私的な不運や恥へと押し戻してもきた。だから必要なのは、当事者の痛みを訂正することではなく、その痛みが二度と「そんなものだ」と処理されない制度をつくることだ。 (OHCHR)

この視点から見ると、日本の議論で買う側処罰が浮上していることも、単純には評価できない。需要側の責任を問うこと自体には一定の理がある。だが、もしその法が、現場の安全、住居、収入、医療、暴力からの保護、辞めたいときに辞められる支援よりも、「需要を減らす」「根絶する」「望ましい性秩序をつくる」という国家目的を優先するなら、その法は結果的に、女性の身体を再び国家目的に従属させる危険がある。OHCHRの2024年ガイドや関連研究が、買う側を含む刑罰化が交渉を危険化し、安全を損なうと指摘しているのは、そのためである。 (ohchr.org, journals.plos.org, pmc.ncbi.nlm.nih.gov)

だから私は、最後にこう言いたい。日本の性売買史に必要なのは、遊女や花魁や夜鷹を「哀れな被害者」に閉じ込めることでも、「たくましい自立の象徴」として持ち上げることでもない。必要なのは、彼女たちがたしかに働き、稼ぎ、交渉し、危険を引き受け、生き延びてきたことを認めることである。そして同時に、その労働がつねに国家と男性秩序によって利用され、道徳化され、ときには「守る」という名で再び支配されてきたことを見逃さないことである。

さらに言えば、そこにあった暴力を、例外的な逸脱としてではなく、構造の問題として見ることだと思う。性風俗の現場で起きる性暴力は、被害者の恥でも、職業上の当然のリスクでもない。それは拒否権の侵害であり、安全の欠如であり、制度が長く放置してきた権利侵害である。「Sex Work is Work」とは、そのことを言うための言葉でもある。労働であることを認めるからこそ、搾取も暴力も見えるようにできる。搾取と暴力を見えるようにするためには、まず労働を労働として認めなければならない。そこからしか、日本の性売買をめぐる議論は、風紀でも慈善でもない場所へ進めない。 (OHCHR)

終章の参考文献
・辻浩和『中世の〈遊女〉』関連資料(奈良女子大学学術情報リポジトリ) (nara-wu.repo.nii.ac.jp)
・吉元加奈美「シリーズ遊廓社会」書評(大阪市立大学) (i-repository.net)
・『〈岡場所〉の女性たちの実態』地位・時代社 (ji-sedai.jp)
・眞杉侑里「『人身売買排除』方針に見る近代公娼制度の様相」立命館大学 (ritsumei.ac.jp)
・河野談話(外務省) (mofa.go.jp)
・平井和子「日本占領を問い直す」関連論文(一橋大学リポジトリ) (hit-u.repo.nii.ac.jp)
・売春防止法(e-Gov法令検索) (laws.e-gov.go.jp)
・厚生労働省「困難な問題を抱える女性への支援」関連資料 (mhlw.go.jp)
・第6次男女共同参画基本計画(2026) (gender.go.jp)
・OHCHR, A Guide on the Human Rights of Sex Workers (2024) (ohchr.org)
・UNAIDS, HIV and sex work — Human rights fact sheet series 2024 (unaids.org)
・OHCHR short guide / decriminalization materials (2024) (ohchr.org)
・Argento et al., PLOS One (2020) (journals.plos.org)
・McDermid et al., BMJ Open (2022) (pmc.ncbi.nlm.nih.gov)

追記
長文を読んでいただき、ありがとうございます。
この文章は、性売買や性風俗をめぐる法改正が議論されるいま、その法律がどのような社会背景と国家の論理のなかで作られてきたのかを、自分なりに整理したくて書いたものです。

論旨の骨格や問題意識は私自身のものですが、参考文献の整理や引用、史実確認にはAIも補助的に使っています。専門家の方には不十分な点もあると思いますが、まずはこのテーマを考えるための入口として、あるいは最低限の見取り図として読んでいただければ幸いです。
もし気になる点があれば、本文中の参考文献やリンク先をぜひ直接読んでみてください。そこから先は、それぞれの関心に応じて深めていただけたらと思います。

(※注2:2024年6月の人権理事会で、リーム・アサレムは、売買春を「女性・少女への暴力の形態・原因・結果」と位置づけ、彼女自身が「prostitution could not be described as work; it was a human rights crisis(売買春は仕事と記述できない。人権危機だ)」と述べています。

一方で、OHCHRが2024年3月に掲載したガイドは、sex work を “consensual sex between adults(成人同士の合意ある性行為)”と定義し、論点としてagency(主体性)・bodily autonomy(身体的自律)・privacy(私生活)・free decision-making(自由な意思決定)を重視しています。しかもこの文書は、健康への権利に関する特別報告者、SOGI独立専門家、女性差別作業部会の連名系のガイドで、そこではcriminalization of sex work is a human rights violation(セックスワークの犯罪化は人権侵害)、**full decriminalization(全面的非犯罪化)**が最も保護に資する、とかなり明確に述べています。 (OHCHR)

さらに、UNAIDS の2024年文書はもっとはっきりしていて、重要な行動として、売買・購入・マネジメントを含む sex work のあらゆる側面の犯罪化を終わらせること労働保護を拡張することを挙げています。加えて、“Not recognizing sex work as legitimate work denies sex workers the basic health and social safety nets provided to other workers”、つまり「セックスワークを正当な仕事として認めないことは、他の労働者に与えられる基本的な保健・社会保障の安全網をセックスワーカーから奪う」と明記しています。6月のUNAIDS声明でも、セックスワーカーの健康と人権を守るにはdecriminalization が必要だとしています。 (UNAIDS)

しかも2024年7月には、健康への権利に関する特別報告者タレン・モフォケンが、OHCHRの公式リリースで“Sex work is real work”とまで述べています。彼女は同じ文脈で、sex work should not be conflated with trafficking、つまりセックスワークを人身取引と混同すべきではない、とも言っています。 (OHCHR)
なので、整理するとこうです。
2024年の国連には少なくとも二つの強い流れがあった、と考えられます。)

性売買の世界に生きる人々はどんな思いでそこで生きるのか?そんなことを具体的に想像するために、文学・映画・漫画などで描かれる作品をまとめてみました。合わせて参考にしていただけますと幸いです。

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売られたのか、買われたのか、働いたのか—日本の性売買史を道徳から奪い返す|皐風青
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