出撃機に伝えられなかった「神風など吹かない」、反戦・非核の気象学者が101歳までつらぬいた言葉通りの人生 原爆「黒い雨」を再調査し、学術会議の任命拒否でも署名運動

戦時中の思い出を話す海軍気象士官だった増田善信さん=2016年5月

 太平洋戦争では海軍の気象担当士官を務め、戦後は気象庁に勤務。研究のかたわら、反戦や非核を訴えて行動し、年齢を重ねてからもSNSで発信を続けた1人の学者が2025年6月、101歳の生涯を閉じた。 
 学者の名前は、増田善信さん。語っていたのは「天気予報は平和のシンボル」という言葉だ。その言葉は、終戦間際に沖縄に向かう爆撃機を見送った苦い思い出と深く結びついている。(共同通信=川村敦) 

会合で講演する増田善信さん=2019年7月、東京都練馬区(田中史子さん提供)

▽「気象管制」の始まりを目の当たりに

  増田さんは1923年生まれ。今の京都府京丹後市の出身だ。著書によると「貧しい農家の二男」だった。1941年に中学を卒業し、京都・宮津にあった気象の観測所に勤務した。

 後に、増田さんが繰り返し語っていたのは、太平洋戦争が始まった1941年12月8日のことだ。

 その日、増田さんは当番だった。夕方になって、モールス信号で送られてくる各地の観測結果を受信して天気図に記入しようしていた。ところが、送られてきたのは意味不明な数字の羅列だった。
近くにある所長官舎に行き「変な電報が来た」と伝えると、所長は「おお、そうか、来たか」。そして、慌てた様子もなく金庫から暗号解読のための本を取り出したという。天気予報が制限される「気象報道管制」だった。気象情報は軍事機密とされた。

 それからは顔見知りの漁師が来て、天気が荒れると思っていても教えられない。聞かれても「さあどうですかねえ。今日はいい天気ですがねえ」と返すのが精いっぱいだったという。

▽沖縄へ向かう爆撃機の乗員に天気を説明 

 その後、増田さんは海軍に入る。海軍気象学校で学び、少尉に任官された。1945年、つまり終戦の年は島根県にあった大社基地で天気の予想をしていた。
 8月6~8日。基地から爆撃機「銀河」が沖縄へ向かった。夕刻の出撃前、飛行服にマフラー姿の乗員に、上官が「目標は那覇港の敵艦船だ」というような命令を出す。増田さんは天気図を使い航路や沖縄の天気を説明した。

 沖縄の日本軍の組織的抵抗は6月下旬に終わったとされる。だから、8月になってからのこの出撃について、増田さんは「特攻だった」と語っている。
 乗員たちは水杯を交わして機まで駆けていく。きれいな夕焼けで、南西に向かって飛び立っていく爆撃機を、増田さんは帽子を振って見送った。夜中過ぎ、通信が途絶えると「ああ、やられた」と感じたという。

 天気に大きな荒れはないはずなのに「前方に積乱雲あり」と、引き返してくる機があった。上官は「なけなしの油を使っての出撃だ。まともな予報を出せ」。
 増田さんは南西諸島の観測結果を調べ、そんなはずはないと反論したが、上官は「そうか」と言うだけだった。「なぜ帰ってきたのか、上官も追及はできなかったのでは。こんなことはやらなきゃ良かった」

 増田さんは後年、次のように振り返っている。「特に不合理と思ったのは、『神風が吹くから必ず勝つ』という標語。気象の専門家として神風など吹くはずはないと確信していたが、口に出すことはできなかった」
 こうした経験から「天気予報は平和のシンボル」「二度とあのような戦争を起こしてはならない」と訴えていた。

気候変動関連の研究でノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎さんの著作と真鍋さんから送られたカードを手にする増田善信さん。増田さんは真鍋さんと古くから交流があった=2021年10月、東京都狛江市

 ▽コンピューターによる予報を研究、労組委員長も

  増田さんは戦後の1949年、気象大学校の前身を卒業し、後の気象庁気象研究所に入った。戦後の気象庁は、コンピューターを使った天気の予測手法「数値予報」を開始。増田さんは、数値予報の研究を長く担った。

 著書によると、初めて台風移動の予報を行ったコンピューターは「メモリーの数わずか256個」「大きな扇風機で冷やしながら、故障するとあちこちたたいて故障箇所を発見するというようなもの」だったという。

 気象庁では、職員労働組合の委員長も計6年務めた。伊豆諸島・鳥島や、高知・室戸岬など遠隔地の職場にも積極的に足を運び、職場や生活環境の改善を当局に訴えた。
 著書では、こうした体験や、組合運動論についても語っている。委員長就任時のあいさつでは次のように話したという。抽象的なスローガンより、身近で具体的な要求を大切にする姿勢が見て取れる。 

―「平和」「独立」「統一と団結」などの言葉を何回も繰り返して何か分かったような気になっている面がないでしょうか。

どんな小さなことでも取り上げ、みんなで闘いとることを基本にしなければならないと思います。周りをよく見てください。ボロボロのカーテンが下がってはいませんか、作業服はみんなに行き渡っていますか、洗濯はよくできていますか、宿直室の布団はどうですか。みんなで考え、みんなで要求しましょう。

増田善信『気象と科学』

原爆の「黒い雨」の影響を再検証する有識者検討会で、あいさつする増田善信さん=2020年11月、東京都千代田区

▽退職後、「黒い雨」研究へ

 増田さんは核兵器廃絶を信念とし、繰り返し訴えていた。そんな増田さんを有名にしたのが、広島原爆で降った「黒い雨」の範囲の研究だ。黒い雨は、原爆投下直後に降った放射性物質を含む降水のこと。研究を始めたきっかけは、気象庁退職後の1985年に広島市で開かれた原水爆禁止世界大会だ。

 それまでの研究では、地図で見たときに、爆心地から北寄りに鶏卵のような形の範囲に降ったとされていた。それによって行政による被爆者援護の対象が線引きされており、対象外になる人が出るという問題があった。増田さんが講演で雨の範囲を紹介したところ、被爆者から問題点を次のように指摘された。

 「あなたは気象の専門家ですよね。激しい雷雨があんなきれいな卵形に降ると思いますか」

 増田さんは再調査の必要性を感じ、さまざまな資料を集めた。当時の気象台の資料、住民への聞き取り、新聞記事や体験記録集などだ。その結果、黒い雨の範囲は従来の4倍に広がっていたことが分かり、1989年に論文を発表した。

「黒い雨」訴訟で岡山地裁へ提訴に向かう代理人弁護士や支援者ら=2024年11月

▽市長選に立候補

 増田さんの行動力はこれだけにとどまらない。1988年には、自宅のある東京都狛江市の市長選に立候補している。当時、狛江市議で、後に市長を務めた矢野裕さん(79)によると、増田さんは地元の市民運動グループに入っていた。矢野さんたちは「この人だったら面白い選挙になるんじゃないか」ということで出馬を要請した。

 増田さんは「政治を変えないといけないとずっと思っていた。皆さんがやろうというならお受けします」と話し、立候補を決意。保守系現職との一騎打ちで、敗れたものの有効投票数2万4111票のうち9131票を獲得した。

 増田さんは、名前の音読みから「ゼンシンさん」と周囲から呼ばれ、親しまれていた。矢野さんは「ゼンシンさんは頭脳明晰で、物事を理論的に整理できる。自分の主張もするが、相手の意見を聞いて、違う見方をする人も尊重していた」「自分の枠の中に収まろうとしない。もっとやれることはあるんじゃないかとやってしまう人」と話し、人柄を偲んだ。

増田善信さん=2025年3月、東京都狛江市の自宅(関係者提供)

▽衰えない行動力 

 増田さんは、高齢となってもメールやX(旧ツイッター)を使いこなし、社会問題に関して発信を続けた。日本学術会議の元会員でもあったため、政府による任命拒否問題では2021年、撤回を求める署名をインターネットで集め、政府に提出した。

 おちゃめな一面もあった。環境調査の非政府組織(NGO)などで長年活動を共にした権上かおるさん(76)が語る。
 ある時、家族旅行で暴風雨にたたられた増田さんに「雨男だね」と言うと「私は気象学を専攻しているから、そういうことは言わない」と返ってきた。ところが翌年の旅行でも大雨が降ると、もう否定しなくなったという。
 また、テレビで天気予報の解説をしていた時期もあった。気温と肉まんの売れ行きについて調べ、放送で話した。ところが、調べた肉まんのメーカーは番組スポンサーの競合企業だったため、スポンサーから大変な不興を買ったというオチ。増田さんは「そんなの気付かなかったよ~」と笑いながら話してくれたそうだ。

 権上さんはその人柄を「物理、数学が大好き。理にかなったものが好きだった」と振り返る。「趣味は研究。アイデアは常にぽこぽこ湧くわけ。ほぼ毎日電話があって、アイデアの話とか、資料を探してほしいとか」
 権上さんによると、増田さんは「年取ったとか、弱ったとかは言わなかった」。ただ、亡くなる前年に「自叙伝を出したい」と言うのを聞いた時、権上さんは「あっ」と思ったという。

 「普通、『核兵器をなくす』なんて諦める。でも増田さんはちょっとでも行動すれば道は開けるかもしれない、という感じ。あちらの世でも何しようか、アイデアを温めていると思う」(権上さん)

2025年10月には「しのぶ会」が開かれ、多くの関係者が集まった=東京都狛江市

【取材後記】

 この記事を書いた私は気象予報士で、これまで気象や災害について取材を重ねてきた。太平洋戦争にも興味を持ち、体験者の話を記事にしてきた。そんな中で、気象業界の大先輩であり戦争体験者でもある増田さんの存在を知り、取材を申し込むと快く引き受けてくださった。
 初めて会ったのは2016年、増田さんは当時92歳だったが昔の体験をはっきりとした言葉で語った。
 印象に残っているのは2019年5月にあった日本気象学会の大会だ。発表者の中に増田さんの名前を見つけ、会場で取材した。発表するのは現役の研究者や学生がほとんどだから、増田さんの姿はやはり目立つ。内容は前年にあった西日本豪雨と地球温暖化の関連について。直近の災害にも関心を持ち、研究を続ける姿勢に驚嘆した。
 折々に送られてくるメールには、社会問題に対する憤りとご自身の意見が書いてあった。2025年1月、私が受け取ったメールには、核兵器廃絶を訴えた上で「本年も命の限り、世の中のさまざまな問題に向き合っていきたい」と記した。その言葉通りに生きた人だった。

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