すごく興味深い記事があった。
山下泰平氏の主張する、戦争が人間の思考や判断力に悪影響を及ぼすという論説は一般論としては正しいと感じた。しかし、これが藤森清一朗海軍少将という個人を説明するのに適切なのかは若干の疑問を感じた。
とは言え私も、不勉強ながら藤森清一朗海軍少将という人を全く知らなかった。初耳であった。
そこで、とりあえずAI検索してみたら、山下氏が触れていない情報を含む近年の研究がヒットした。たぶん普通にネット検索するだけでもヒットすると思う。これを含めると、藤森清一朗海軍少将という人物の複雑な文脈が見えてくる。
ちょっとまだ未踏査の歴史迷宮、という印象。
- ■ 山下泰平氏の主張(Perplexity要約)
- ■ AI検索でヒットした小磯隆広先生による新資料発見とその分析
- ■ 補足されるべき藤森少将の経歴
- ■ 戦争の中枢から離れた米国占領期の日本と朝鮮戦争を俯瞰したであろう藤森少将
- ■ 朝鮮戦争と日本の再軍備を背景とした檄文「青年よ起て」
- 【おまけ】藤森清一朗少将のご尊顔
■ 山下泰平氏の主張(Perplexity要約)
この文章は、元海軍将官の藤森淸一朗という人物の足跡を辿りながら、戦争が人間の知性に及ぼす悪影響を考察したものです。藤森は戦前から優れた先見性を持ち、戦後も一貫して自立した思想を掲げましたが、一方で「人口が半減するまで本土決戦を継続すべきだった」という極端な主張も残しています。著者はこの矛盾に着目し、長期的な極限状態やストレスが、いかに個人の合理的判断力や大局的な視点を奪い去るかを指摘しています。特定の分野で能力が研ぎ澄まされても、全体的な思考のバランスが崩壊してしまう現象を、著者は「戦争によって頭が悪くなる」と定義しました。最終的に、戦争による精神的な変質は不可逆的な損失であり、国家の独立や平和を損なう根本的な原因になり得ると結論付けています。
Wikipedia記事から読み取れる藤森少将の略歴を参照する限りは違和感が無い論説だと思う。
■ AI検索でヒットした小磯隆広先生による新資料発見とその分析
Wikipediaの記事(2026/03/22閲覧)には記載されていない情報として、ネットから閲覧できる重要な情報の一つを山下氏はその記事に反映できていない。
PerplexityのAI検索では、藤森少将が初代所長を務めた1940年に設立された「民間の国策研究機関」で、南方進出と国家総力戦体制の構想を担った海軍系シンクタンク「海洋政策研究所」を取り扱った史料紹介論文(PDFあり)を紹介してくれた。
近年の研究(海洋政策研究所関係文書紹介など)では、1940年前後の海洋政策・資源戦略の議論における彼の役割が史料として取り上げられており、今後は「開戦過程」「大東亜共栄圏構想」といった文脈で再検討される余地のある人物と評価できます。
防衛大学校の小磯隆広 准教授は、戦後、資料が散逸した海洋政策研究所について、永年にわたり独自に文書を収集し、その分析成果を集成している。
2010年代に入り、数千点にもおよぶ藤森旧蔵史料がインターネットオークションや古書店から出品された。そのなかに海洋政策研究所に関する一次史料が多数含まれていたのである。幸いにも監修者は海洋政策研究所関連のものを中心に約六百点の藤森旧蔵史料を入手できた。そこで今回、監修者が所有する海洋政策研究所関連の史料約350点を『海洋政策研究所史料集成—南方進出・国家総力戦関係—』と題して刊行する。
■ 補足されるべき藤森少将の経歴
山下氏のブログで描かれる藤森少将の経歴は、おおよそ以下の通り。
戦前は、北京駐在武官として中国情勢を把握し対中戦略の誤りと対米戦不可避を早期に予見・上申するも採用されず。そして1940年に予備役編入。対米戦が始まってしまう。戦時中も戦争遂行の矛盾(防空壕の不平等・保険制度など)を批判し続ける。そして終戦期には鈴木貫太郎のブレーンとして終戦工作に関与し終戦。 戦後は一時的に民主公民教育に転じる。海軍将官出身でありながら天皇の戦争責任を追及。1953年「青年よ起て」で「本土決戦を続け人口半減していれば独立条件を得られた」と主張。
ここに小磯先生の研究を加えると、ちょっと違う文脈が見えてくる。
1940年、51歳で予備役編入され、翌月には海軍と石原産業の連携により設立された民間国策研究機関である海洋政策研究所の初代所長に就任。南方進出政策や国家総力戦体制の理論構築・政策提言を指導している。
単なる元軍人に留まらず、日本の海洋戦略に深く関与した理論的指導者として再評価されようとしている人物のようだ。
対米開戦が迫る1941年9月には再招集。各地の司令官を歴任。1942年12月54歳の時に再び予備役として退く。
しかし、注目したいのは半年後、1943年7月の長野県諏訪市長就任だ。
戦時下であるから選挙ではなく政府からの任命だ。たしかに長野県出身の藤森少将の長年の軍務に応える名誉職の意味合いもあったかもしれないが、諏訪市の北には松代大本営がある。つまり、もし本土決戦となり、松代がシン・東京市として皇居となれば、皇居の南を護る地の市長なのだ。と言っても1945年7月10日には諏訪市市長を退任している。
しかしここで更に驚くべき経歴が加わる。市長退任の後の1ヶ月間ほどの短い終戦期において藤森少将は、鈴木貫太郎内閣における綜合計画局参与として日本政府の中枢へと異動し、日本の無条件降伏に立ち会っている。
■ 戦争の中枢から離れた米国占領期の日本と朝鮮戦争を俯瞰したであろう藤森少将
1940年に51歳で軍務を離れた後、どのような政治力学で上記のような経歴を辿ったのかはよく分からないが、太平洋戦争の開戦前から終戦に至るまで、ほぼ切れ目なく戦争を計画し遂行する日本の戦争指導体制の側に藤森少将は居た人物と言えるだろう。
そして、終戦後、公職追放となりついに戦争中枢から脱した藤森少将は、米軍によって占領された日本を、1950年から始まる米ソ代理戦争的な朝鮮戦争を在野で見る。戦争を軍人や政府側ではなく、俯瞰的に眺める立場にやっと立てた時期と言えるだろう。
そういう文脈の上に、山下氏のブログが紹介した文章「青年よ起て」がある。その時、64歳。
■ 朝鮮戦争と日本の再軍備を背景とした檄文「青年よ起て」
『日本及日本人』4(1),J&Jコーポレーション,1953-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3368143 (参照 2026-03-19)
この日本の若者たちへの向けた檄文、1951年のサンフランシスコ平和条約後の1952年11月10日の明仁親王(現上皇さま)の立太子礼の日における米国側による再軍備強要・属国扱いの現実と、その現実から乖離した吉田首相の「皇基愈鞏ク国本更ニ固シ」といった脳天気な寿詞への怒りから始まり、自分自身を含めた旧指導者・戦争指導の全面批判へと展開する。
そのような属国扱いの現状に至った無条件降伏という選択を否定する流れで山下氏のブログで切り抜かれた「本土決戦=人口半減論」が出てくるのだが、そもそもこの檄文全体の思考が歪んでいる。
この檄文は最後に「青年諸君はこの世界政府樹立に向つて邁進すべきである」と呼びかけて終わる。やがて世界は一つの政府に統合されるという非常に革新的な展望だ。
一方で、その結論に至るまでの文章は終始として保守的な思考だ。日本の民族・国家の自立・独立はどんな犠牲を払ってでも実現すべきという主張には強く拘りを見せる。結果ではなく過程、プロセスに異常に強く拘る。
もちろん、上記したような藤森少将の数奇な経歴を見れば、少し察するものもあるが。
これを「戦争をすると人間は頭が悪くなる」論で片付けて良いのか。単に戦争というより、当時の政治思想の影響も当然ながら考慮すべきだし、藤森少将が初代所長を務めた「海洋政策研究所」がどのような政策を提出していたのか、など今後の研究成果も見てから評価すべき人物に思える。
1940年の海洋政策研究所所長時代から一貫して、現代の日本人から見れば違和感のある国際情勢分析や総力戦分析をしていたのではないか、という予感がする。仮に対米戦は必敗と分析しても、それが対米戦反対という主張に結びついていたのか?など。
同時期には既に有名な『総力戦研究所』の例もあるし。
ともあれ、「青年よ起て」については、もう少し精読が必要と思うので、それはまた別記事で。
| 年月日 | 年齢 | 事項・任官・異動内容 |
|---|---|---|
| 1888年11月10日 | 長野県に生まれる。 | |
| 1921年12月1日 | 33歳 | 海軍少佐に昇進、呉防備隊分隊長就任。 |
| 1923〜1920年代半ば | 35〜37歳前後 | 葵駆逐艦長、皇族附武官(博忠王附)、金剛水雷長などを歴任。(個々の日付は公表年譜では省略) |
| 1926年11月1日 | 38歳 | 軍令部参謀(第2班第3課)。 |
| 1920年代末 | 40歳前後 | 第二艦隊参謀、軍令部参謀、資源局事務官など歴任。 |
| 1929年11月30日 | 41歳 | 戦艦「伊勢」副長。 |
| 1930年11月15日 | 42歳 | 補給艦「間宮」特務艦長。 |
| 1931年12月1日 | 43歳 | 特務艦「朝日」艦長。 |
| 1932年5月10日 | 43歳 | 「平戸」艦長に転ず。 |
| 1933年4月1日頃 | 44歳 | 駐満海軍部参謀長・兼在満洲国大使館附武官に就任(おおよその時期)。 |
| 1934年7月 | 45歳 | 駐満海軍部参謀長・在満大使館附武官を離任。 |
| 1934年9月1日 | 45歳 | 「磐手」艦長に就任。|1933年4月1日頃|44歳|駐満海軍部参謀長・兼在満洲国大使館附武官に就任(おおよその時期)。 |
| 1934年7月 | 45歳 | 駐満海軍部参謀長・在満大使館附武官を離任。 |
| 1934年9月1日 | 45歳 | 「磐手」艦長に就任。 |
| 1935年11月15日 | 47歳 | 横須賀防備隊司令。 |
| 1936年12月1日 | 48歳 | 海軍少将に昇進、呉防備戦隊司令官に就任。 |
| 1937年12月1日 | 49歳 | 第十戦隊司令官に転任。 |
| 1938〜1939年 | 50〜51歳 | 呉鎮守府出仕、軍令部出仕、北京在勤武官などを歴任(年譜に年次のみ記載)。 |
| 1940年3月15日 | 51歳 | 待命となる。 |
| 1940年3月21日 | 51歳 | 予備役編入。 |
| 1940年4月3日 | 51歳 | 海洋政策研究所開所、初代所長に就任(民間国策研究機関、海軍・石原産業の合作)。2 |
| 1941年9月 | 52歳 | 充員召集により現役復帰。 |
| 1941年10月15日 | 52歳 | 呉警備戦隊司令官。 |
| 1942年1月10日 | 53歳 | 横須賀警備戦隊司令官。 |
| 1942年4月10日 | 53歳 | 第7海軍根拠地隊司令官。 |
| 1942年6月15日 | 53歳 | 父島方面特別根拠地隊司令官。 |
| 1942年12月21日 | 54歳 | 召集解除(再び予備役として退く)。 |
| 1943年7月19日 | 54歳 | 諏訪市長に就任(戦時下の市政を担当)。 |
| 1945年7月10日 | 56歳 | 諏訪市長退任。 |
| 終戦期 | 56歳 | 鈴木貫太郎内閣における綜合計画局参与 |
| 戦後(1940年代後半) | 50代後半 | 公職追放対象となる。 |
| 1953年1月 | 64歳 | 檄文「青年よ起て」 『日本及日本人』4(1) |
| 1975年5月20日 | 86歳 | 死去。 |
【おまけ】藤森清一朗少将のご尊顔
Wikipediaに掲載されている藤森清一朗海軍少将のご尊顔。なかなかの美男子だと思う。
昭和の俳優で言えば、三國連太郎などを連想させる。
三國連太郎と言えば映画『皇帝のいない八月』で反乱を起こそうとするクーデター部隊を抑えようと容疑者を苛烈に拷問し、最後はロボトミー手術で廃人にされ口封じされる(ヒドイ…)自衛隊の陸上自衛隊幕僚監部警務部長:江見の役が印象深い。
整った顔の軍人が時代に翻弄され、次第に狂気に顔を歪ませていくというのも、たしかに映画の中では絵になるシーンではあるのだよ。