継嗣令の本注「女帝子亦同」をどう読み、どう解釈するか?──宮部香織「律令法における皇位継承」に学ぶ(令和8年3月31日)
(画像は継嗣令。日本思想大系『律令』から)
竹田恒泰氏と高野あつし氏の「継嗣令」X論争に刺激されて、継嗣令に関する最近の研究を読んでみることにする。
ネットで簡単に手に入るのは、齋藤公太・北九州市立大学文学部准教授の「『女帝』の言説史:神功皇后論と継嗣令第一条の解釈を中心に」(「神戸大学文学部紀要」2023年)〈https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/0100481155/0100481155.pdf〉と宮部香織・國學院大学日本文化研究所専任講師の「律令法における皇位継承」(「明治聖徳」復刊第46号、平成21年11月)〈http://meijiseitoku.org/pdf/f46-8.pdf〉の2本である。
今回は、後者を読むことににする。
〈http://meijiseitoku.org/pdf/f46-8.pdf〉
◇1 「女帝の子」と読む立場で一貫している
宮部氏の論攷は、「古代律令において、女帝制はどのように捉えられていたか」がテーマである。女帝に関する規定は継嗣令の1箇条のみで、女帝の子を親王待遇とする内容だった。諸註釈による解釈を手がかりに探っていきたい──というのが趣旨である。
補足すると、宮部氏は「女帝子亦同」を「女帝の子」と読み、解釈する立場で一貫している。したがって、この記事はその当否を検証することになる。
宮部氏の論攷は、「一 律法法と皇位継承」「二 継嗣令1皇兄弟条について」「三 同条の本注『女帝子亦同』について─諸註釈による見解─」「四 本注『女帝子亦同』が設けられた理由─むすびにかえて─」の4章から構成されている。
「一 律令法と皇位継承」では、律令について歴史的、網羅的に概観し、以下の諸点が指摘されている。
1、律令の条文には皇位継承に関する明文規定がないこと、
2、そもそも律令には天皇に関する条項がほとんどないこと、
3、したがって皇位継承など天皇に関することは古い記録からうかがい知るしかないこと、
4、家の継承については継嗣令2継嗣条に規定されているが、諸臣が対象で、皇族は対象外であること、
5、皇位継承については、六国史などを参照すれば、大宝律令が施行されたころ、すなわち文武天皇から孝謙天皇のころは、天武天皇の皇子・草壁皇子の嫡系であることが重視されていたものの、必ずしも嫡系が貫かれたわけではないこと、
6、明治憲法・旧皇室典範の制定に携わった井上毅は、皇嗣は天皇の生前の意思によって決まるのが原則と考えていたこと、
7、その後、井上は、皇位継承法の制定には西欧法を参照せざるを得ないと強く認識したが、その受容に際しては、日本の伝統法に仮託して立法化することとされ、しばしば古代律令に言及していたこと、
8、伊藤博文の私著として刊行された『皇室典範義解』にも律法法や六国史の引用が多く記載されていること
だとすれば、皇位継承について明確に言及する規定のない古代律令において、唯一、「女帝」について記述しているとされる継嗣令1条が俄然、注目されることになる、
◇2 皇親の範囲論から皇位継承論に飛躍する
「二 継嗣令1皇兄弟条について」で宮部氏は、まず、古代律令には皇位継承について言及する条文はないものの、継嗣令1皇兄弟条で親王・諸王の範囲について規定されているとあらためて指摘し、条文を掲げて、「女帝子亦同」について「女帝の子についても同様に親王の身分とする」という解釈を続けている。
宮部氏は、律令には皇位継承に関する明文規定がない、継嗣令1条は皇親の範囲を規定している、と理解しながら、ここで皇位継承論に飛躍させている。「通常は諸親王の中より立太子がなされて、次代の天皇として即位するという手続きが踏まれる場合が多いであろうけれども、時に諸王等によって皇位が継承されることもあり得る」というわけである。
皇親の範囲論から飛躍するのは、「女帝の子」と読むがゆえであろうか? なぜそう読むのかが問われるのである。
宮部氏はそのあと、三世王が天皇に即位した歴史の事例として、大炊王が即位した事例(淳仁天皇)などを挙げている。
この章で、とくに興味深い指摘は、継嗣令1条の立法趣旨が明治の皇室典範に引き継がれていることである。すなわち、第31条には次のように定められている。
そして、『皇室典範義解』は、継嗣令1条を引用して、趣旨説明している。
興味深いのは次である。
宮部氏によると、典範制定に関わった国学者・小中村清矩の『皇室典範講義』では、本注の「女帝子」が削られている。すでに女帝制の不採用が決定されており、意図的に削ったと宮部氏は推察している。
要するに、「女帝子亦同」こそは女帝制の根拠とされているのである。ますます宮部論の妥当性が問われる。
◇3 「女帝の子」と読む「古記」以来の解釈
さて、いよいよ論攷の中心である「三 同条の本注『女帝子亦同』について─諸註釈による見解─」である。本文全体で16頁あまりの論攷で、半分弱を占めている。
宮部氏は冒頭で、継嗣令1条が唐の封爵令1条を参照しているとされながら、「女帝子亦同」は唐令にはないこと、「女帝」については古代律令ではここにしか規定がないことなどを指摘したうえで、日本独自のこの規定が、古代の明法家以下、近世・近代の学者たちがどのように解釈したのか、『令集解』をはじめとして、河村秀根、薗田守良、近藤芳樹、栗原信允、小中村清矩の解釈を取り上げ、比較検討している。
まず「古記」であるが、「父親(女帝の配偶者)が諸王であったとしても、所生の子は親王とする。女帝の兄弟についても親王とする」。
「穴記」では、「女帝の兄弟も親王とすることが含まれるのは当然で、それゆえ本注はただ『子』のみを記しているのであり、女帝の孫王以下もみな皇親とする」。
「朱説」は、「女帝の所生の子は親王とするのか否か、問いを発するのみで、答えを示していない」。
「義解」では、「女帝の子は、四世以上の者に嫁して生まれた子をいう。なぜなら継嗣令4条では5世王が親王を娶ることを禁じている」。
この部分の解説で面白いのは、次である。宮部氏によると、「義解」の註釈は、先行註釈のうちから正説とすべきものが採用されるのだが、ここではそうはなっていない。当時、もっとも権威があるとされた令釈も言及がない。
尾張藩の国学者・河村秀根らの『講令備考』では、「皇極天皇が即位以前に、高向王に嫁して、漢皇子を生んだのが『女帝の子』に当たる。『女帝の子』は即位以前に所生のこのことである」。
ここまではすべて、「女帝の子」である。異なるのは次である。
◇4 「女も帝の子はまた同じ」と読んだ薗田守良
伊勢内宮の祠官一族の薗田守良による『新釈令義解』だが、宮部氏の解説に注目したい。薗田は次のように書いている。
「皇兄弟皇子は皇帝の兄弟また皇帝所生の子にて、男の限りを挙げたり。(皇祖皇考伯叔を載せぬは継嗣あらぬ故なり)按ずるに、皇子皇女を親王内親王と申す例なれば、兄弟に姉妹、子に男女を兼ねて言える文ながら、皇姉妹皇女は継嗣にあらざれば省きたるものならむ…」
()は細注で、読点を補うなど、適宜、斎藤が編集した(以下同じ)。
これに対して、宮部氏の解説では、薗田は「継嗣は男子に限られ、皇姉妹皇女等の女子は継嗣とはされないと解している」とされる。しかしそうではないように、私には読める。
薗田は、「およそ皇の兄弟、皇子をば、みな親王とせよ」の解釈について、「皇兄弟皇子」とは男に限定して表現したのであって、皇子・皇女を親王・内親王と申し上げる例があるのだから、「兄弟」には「姉妹」、「子」には「男女」の意味を兼ねて、言っているのだと現代語的には解釈できるのではないだろうか? しかし、だとすると、分からないのは、そのあとである。「皇の姉妹・皇女は継嗣(跡継ぎ)ではないので、省略したのだろう」では意味がつながりにくい。皇嗣(皇太子)の存在が前提とされているため、継承者とならないという意味だろうか?
宮部氏の解説はさらに続き、いよいよ「女帝子亦同」に言及している。まず「新釈令義解」である。
「女帝子亦同と本注を加えたるは、心得がたきを註説もいうなり。脱たる文などあるにやあらむ。女は皇帝の皇子にて、また同じく親王との義ならむの子は男女にわたりいえり。されども女帝子の三字いと拙し。(皇女亦同また女皇帝子となど記さざりけん。不審なり)唐令に内親王の号なければ、さかしらに記せるも知りがたし。(令文に皇女の子となきをあかす。おもいて女も帝の子は同じというよしにきこえたり。唐百官志に皇兄弟皇子皆封国為親王姉為長公主女為公主と記して姉妹皇女みな親王の号なければ女帝子とは記しけむ)」
これに対して宮部氏は、薗田は、字義どおりに「女帝の子もまた同じ」と素直に読むことに躊躇している、脱文の可能性を指摘し、「女も帝の子はまた同じ」と読んで、「皇女も皇帝の子だから内親王とする」と解釈する案を提示している、だが、薗田自身、「女帝子の三字いと拙し」として、解釈に無理があることを認めている、と解説している。
しかし、「女帝の子もまた同じ」と読むことが、字義どおり、素直な読みと理解する根拠は何だろうか? 宮部氏自身が指摘しているように、「女帝」という表現は継嗣令にしかないのである。当時の公式用語には「女帝」はないのである。なぜ「女帝」と読まなければならないのか? 簡単に決め付けるべきではない。私は逆に、「女(ひめみこ)も帝の子、また同じ」と読む方が素直だと思う。
◇5 「女帝の子」と読むのが素直なのか?
続いて宮部氏は、幕末の国学者・近藤芳樹が書いた『標註令義解校本』を取り上げる。
宮部氏によれば、近藤は、「女帝の子」とは、皇極天皇(斉明天皇)が高向王に嫁して漢皇子が生んだ事例であり、元明天皇が草壁皇子に嫁して文武天皇(軽皇子)を生んだ事例だとしている。
次は、国学者・栗原信允の『継嗣令講義』である。栗原は「女帝子亦同というは解しがたし。女皇子亦同というなるべし」と説く。つまり、宮部氏によれば、栗原は「女帝の子」と文言どおりに解釈しない。
ところが、そのように解釈すると、本注に付された義解の「四世以上に嫁して生まれた子のことを謂う」とする註釈が理解できなくなる。そこで栗原は、註釈は義解ではなく、集解の註釈の誤りだろうと推測し、その理由として、持統天皇、皇極天皇、推古天皇の三人の女帝は即位以前は皇后であり、女帝の子=男帝の子であって、義解説に従って、皇女が三世王、四世王に嫁したとしても、その後、即位することはないと述べている、と宮部氏は解説している。
最後に宮部氏は、明治22年に行われた小中村清矩の講演を取り上げている。
宮部氏によれば、小中村は、「女帝の子」とは即位以前に嫁して生まれた子のことだと理解し、皇極天皇の子・漢皇子の事例を挙げている。
一方で、小中村は、「いったい令の本註の文が奇しいので、女帝の子はあるべきわけではないから、令中の難義となっておりました」と述べている。
そこで宮部氏は、したりとばかりに、薗田と栗原の解釈を批判している。すなわち、「女帝の子」と解さない説を提示しようとするのは、薗田の理解が未熟であるというより、本注の規定が不可解で、女帝の子はあり得ないと認識していたからだと宮部氏は考えている。栗原も同様に、「女帝の子」もしくは女帝が子を産むことはあり得ないと栗原は考えていたからだと宮部氏は解説している。
しかし逆にいえば、過去の解釈に基づく宮部氏の継嗣令理解は、「女帝の子」と読むことが疑いのない前提とされている。「女帝の子」と読むことが字義どおり、文言どおりであり、素直な読み方だと理解する理由を、宮部氏は説明していない。
◇6 「皇女も内親王とせよ」ではないのか?
さて、結論である。
なぜ継嗣令1条の本注に「女帝子亦同」が加えられたのか、宮部氏は考察する。
時代は文武天皇の御代ながら、持統天皇が後見役として影響力を発揮していた。大宝律令は日本独自の規定を新たに設けた、継嗣令の本注もその経緯で設けられたと宮部氏は考える。
それなら、なぜ「女帝の子も男帝と同じく親王とする」という規定を設ける必要があったのか? 宮部氏は、当時は内親王が皇位を継承する恒常的な存在とはみなされていなかった。しかし女性天皇がまったくあり得ない存在ではなかった。そのため内親王が即位した場合に待遇の差を是正する必要があった。だから本注が加えられたのだと宮部氏は結論づけている。
私はそうではないと思う。継嗣令はあくまで皇親の範囲を規定している。「およそ皇の兄弟、皇子をば、みな親王とせよ」に対して、「帝の子女である皇女も内親王とせよ」と対句的に定めたと解するのが素直だと思う。
宮部氏の論考は、「古代律令において、女帝制がどう捉えられていたか」だったはずである。皇親の範囲を定める継嗣令を題材にすることがそもそも間違いではないのか? 宮部氏自身が認めているように、律令には皇位継承に関する規定はないのである。
蛇足だが、宮部氏の論攷は明治神宮内に事務局を明治聖徳記念学会の紀要に載っている。事務局は掲載をよく認めたものだと感心する。




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