- 新潮社 (2021年12月23日発売)
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Amazon.co.jp ・電子書籍 (409ページ)
みんなの感想まとめ
哲学を深く考察することを促す本で、特に「退屈」というテーマに焦点を当てています。読者は、快適な部屋にいることの安心感とその先にある興奮を求める葛藤を感じながら、著者の独自の視点を通じて退屈の本質を探求...
感想・レビュー・書評
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読み終わった。哲学入門というより哲学するという方向による本であった。部屋にいる。安全で快適な部屋に。そこにいれば少なくとも死なない、死ぬ確率は限りなく少ない。でも、部屋を出ていくだろう。自分自身の興奮を求めて。たとえ死がその先に待ち受けていても。
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名前だけは前から知っていた。
スピノザ研究の最前線を追っていれば、上野修と並んで必ず行き当たる著者名だからだ。
けれども著書との巡り合わせには恵まれず、たまたま目にした電子書籍版のこちらを読了。
倫理学とあるが『エチカ』を著したスピノザはほぼ出てこず、ハイデッガーによる分析の批判的検討を主軸に、様々な方面から〈退屈〉の何たるかを描き出さんとする。
「カリン様の超聖水かよ」と突っ込みたくなる結論の一つはさて置き、一番面白かった(退屈しなかった)のは増補新版に付された「傷と運命」。
やはり最新の知見は刺激的だ。
そういやちょっと前に茂木健一郎のFMラジオに出てたな。
もうそういうレベルの著名人なのかと驚かされた。 -
多くの人にとって避けては通れない、「暇と退屈の問題への取り組みの記録」として興された著作。多くの哲学者の言葉を参照しながらも読み手に専門性を要求するではなく、「自分で考えようという気持ちさえもっていれば、最後まできちんと読み通せる本として書かれている」ものとして企図されている。全体は500ページ近くあるが、巻末に60ページほどある手厚い注釈はよほど興味がある読者以外はさしあたって読み飛ばすことを著者自身が推奨している。増補新版のためのまえがき、付録、文庫版あとがきも付属する。
第一章ではパスカルがあげる狩りの例などをもとに、退屈のなかにある人間がなにを欲望するかを検証する。「ひと言で言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である」、だからそれが人間にとっての不幸であっても構わないという分析には、この時点ですでに退屈の問題がはらむ危険性を窺わせる。
第二章から四章までは「歴史的な見地から暇と退屈の問題を扱う」としているとおり、ここでは哲学よりも社会学的な視座からの考察に重点が置かれる。なかでも第二章にある、定住生活への移行によってそれまで発揮されていた能力の行き場がなくなったことが人間が退屈することになった原因だという仮説が重要で、現代に生きるほとんどの人々にとって退屈は不可避だという前提が決まる。また、第四章で対照的に比較されるルソーとホッブズによる人間観は明解で、個人的にもルソーによる主張のほうに共感できる。なお、ここでルソーが提起した抽象的な存在である「自然人」は、最終章でも重要な概念として再登場する。ルソーの主張と並んで、マルクスが述べたという、「自由の王国」の条件の具体性も面白い。
第五章から七章までは「哲学的に暇と退屈の問題を扱う」として、主にハイデッガーの退屈論をめぐる論考となっている。この最後の三章の構成としては、ハイデッガーの主張に対する「テーゼ」「アンチテーゼ」「ジンテーゼ」が各章に対応しており、弁証法的に議論を発展させていく形をとる。この三章で何度も引き合いに出されるのがハイデッガーによる「退屈の三つの形式」であり、とりわけ著者による「退屈の第三形式」に対する批判的な捉え方がポイントだろう。そのうえで、ハイデッガーによって顧みられなかった「退屈の第二形式」の重要性が掘り下げられ、本書の結論を導くカギとなっている。同時に、ハイデッガー(ならびにヘーゲル、コジェーヴ)が同様に重視した「退屈の第三形式」が「テロリストに憧れる人びとの欲望を煽る」ような危険な思考であるという警鐘も印象的であり、「退屈の反対は不幸でありうる」といった第一章の定義にもつながる。
これまでの全章を受けたうえで、「結論」の約20ページで本書としての三つの結論をきちんと提示したうえで締めくくる。そのため時間短縮のために結論だけを読んでも本書による主張を得ることができるということもできるが、それまでの本文がなければ余り読み手の腹に落ちることはない気がする。ちなみに結論の一部はエピグラフに結びついており、「勉強をする」という行為を積極的に評価してくれる内容にもなっているため、「なぜ勉強しなくてはいけないのか?」という問いをもつ読者にもお薦めすることができる。また、消費社会において奴隷にならないためにはどうあるべきかという問題提起とそれへの回答も興味深く、昨年読んだ『武器としての「資本論」』と通じるものを読み取ることができた。
巻末に収められた「付録 傷と運命」では補足として、「なぜ人は退屈するのか?」という問いに取り組む。"サリエンシー"という精神医学的な概念と、ルソーによる"自然人"によって説明される、人間の運命(生きている限り必ず傷を負う)と本性(退屈を感じない)の違いに納得することができた。加えて、人間が傷を負うものであるという観点から示唆される、人間が他者を求める理由についても同様である。
著者が冒頭で宣言するとおり、通読することで「退屈」の問題と向きあう機会を与えてくれる著書だった。本書は読んだからといって即座に退屈を解消できるような結論を教えてくれる類いのものではない。(もし、そのような教えがあるとすれば、まさに本書で著者が批判の対象としている「退屈の第三形式」の解消にあたるだろう。)それを了解したうえで退屈の問題を改めて考えてみたいという方には、手に取ってほしいと思える。著名な哲学者の考えの一端に、無理なく少しずつ触れられる点にも好感をもてる。質・量ともに満足のいく著作だった。 -
さすが深い!哲学にはほとんど触れてこなかったが、「考える」ことがどういうことかを改めて気付かされた。
逆説的ではあるが「思考停止している人」は、自分が思考停止していることに気が付くことが出来ない。
これは当然であるが、「自分は物事をきちんと考えているだろうか?それとも考えていないだろうか?」と自身に問いかける時点で思考しているからだ。
つまり「思考停止している人」は、その時点で、自身に問いかけることすらしていない。
日常生活を送っていると、考えることを放棄している自分がいることに気が付いてしまった。
これは恐ろしいことだ。
考えて生きているつもりでいたが、それこそが幻想。
本書を読むと分かるが、「考えること」とは、「ここまで深く考える」ということなのだ。
これからはAIの時代だ。
ほとんどの答えはAIが示してくれる。
おそらく「暇と退屈の違いは何か?」とAIに問いかければ、それなりの答えを用意してくれるのだろう。
果たしてそれでよいのだろうか?
AIの答えを鵜呑みにしているだけでは、それは自分の考えが無いことになる。
対話の壁打ち相手としてAIを使うのはよいと思うが、自分できちんと考えられなくなるのは、人間としての思考力が低下していることではないか。
たとえAIの回答にヒントをもらっても、考えることを止めたらいけない。
せっかくの人間の優位性である「思考」を使っていないことになってしまう。
だからこそ、深く考えていくことを意識する必要がある。
本書の論理展開は見事としか言いようがない。
「暇」とは何か?
「退屈」とは何か?
普段意識すらしない、これらの問いの帰結がどうなるのか興味を持ったが、実は壮大なミステリー小説のような物語性を感じてしまった。
それだけストーリー展開が見事。
時間的にやることがなく「暇」な時に「退屈する」のは理解できる。
しかし人間は、やることがあって「暇ではない」状態に関わらず「退屈している」状態がある。
これは普段働いているサラリーマンのほとんどがこういう状態かもしれない。
毎日忙しく満員電車に乗って会社に向かう。
使われることがない資料を、一生懸命に作ったりしている。
上司の思いつきに振り回され、部下のわがままに振り回される。
会社ではいつも忙しく、バタバタしている。
そして、ふと考える。
「オレの人生ってこれでいいのだっけ?」
彼は決して暇ではない。
しかし、彼はそんな日々の生活に退屈している。
そしてさらに第3の退屈も存在しているという。
「なんとなく退屈」という状態。
ここから、「時間」という概念の話に展開していく。
科学的には相対性理論によって、時間と空間の関係が解き明かされた訳だが、逆に言えば、時間とはあくまでも主観だというのが本書の説。(様々な引用をして説明してくれている)
その人にしか感じられていない「環世界」という概念は、空間の認識だけに留まらない。
時間の概念も、あくまでもその人だけのもので、客観的にどうとか、宇宙の法則としてどうとか、そういうことは関係がない。
ダニの話やミツバチの話は個人的には衝撃的だった。
ダニの話とは、子孫をどう残すかと、餌をどう摂取するかの、生存に関する話である。
本書によれば、
「先に生殖しておく
→木の上に登り、獲物を待つ
→動物の発する臭いがする
→飛び降りる
→飛び降りた場所の温度が約37度の場合
→吸血する
→受精する」ということらしい。
最初の動物の発する臭いが起きなければ、延々と木の上で冬眠のように固まって待ち続けるのだ。
相手が哺乳類だからとか、何かとか理由がある訳ではない。
目も見えないダニにとって、飛び降りるトリガーになるのは、単なる「臭い」だけだ。
そして、飛び降りた場所が間違っていたら、また木に登り獲物を延々と待つのだという。
つまり、メカニズムとして、システムとして、こういう行動を取っているだけ、というのである。
ダニは本能のままずっと獲物を待ち続け、餌を摂取しないまま18年間も生きた例があったという。
見えている世界がダニと人間とでは違う、という話でもない。
ダニはダニの世界があり、それ以外は存在していないに等しい、というのだ。
ここでなるほどと唸ったが、改めて人間という存在を客観的に見直した時に、人間として、自分としての「環世界」とは何だろうかと考えてしまった。
人間として普通に暮らしていると、「一続きの連続した自分」として認識してしまうが、それも実は変な話だ。
たとえば、夜に眠っていれば、そこに意識はない。
時間の感覚もない。
もちろん眠っていれば空間だって認識しない。
夢くらいは見るかもしれないが、そもそも覚醒した意識がないのだから「一続きの連続した自分」とは言えないだろう。
人間はたまたま1日24時間の周期の中で、8時間程度を睡眠に費やしているが、他の動物にとっては1日が24時間だろうがなんだろうが関係がない。
たとえば、カタツムリから見れば、人間が異様に早く動いているように見えるかもしれないが、1時間という時間感覚が人間とカタツムリが同じなのか違うのかは、カタツムリにとってはどうでもいい話だ。
人間はこの「環世界」を行き来できる器用さがある。
他の動物では、犬なども環世界の行き来が出来るというが、相当な訓練が必要となるようだ。
そこは人間の豊かな想像力のお陰なのか、特別な訓練無しに乗り越えていける。
だから「退屈」が生じるのだという。
特に現代の人間は行動を制限されていない。
つまり自由だからこそ、「退屈」なのである。
時間という概念を知っていて、空間の広さも認識できている。
見たことがなくても、地球が太陽の周りを回っていることも、月が地球の周りを回っていることも知っている。
1日が24時間であり、朝が来ればまた日々が繰り返されることを知っている。
ダニもミツバチもカタツムリも、そんなことはどうでもいい。
彼らは退屈さすら感じない。
餌を摂取できずに18年間生き続けたダニも、決して退屈さを感じていない。
行動を制限されていない現代人にとって、実は「退屈な時間がある」というのは素晴らしいことではないだろうか。
もちろん、退屈さを感じずに、時間を忘れて熱中していることがあれば、その方がいい。
人生の時間は限られている。
暇と退屈の正体を理解できれば、その対処の仕方が分かりそうだ。
退屈を感じたら、その状態を観察して、有意義な時間に切り替えればいい。
考えることは山ほどある。
そういう風に生きていこうと思う。
(2024/7/28日) -
考える土台にしなければならない、読んで満足、というのは國分さんも求めてないんやと思います。
退屈かあ暇かあ、そうかあ -
とっつき辛い「倫理学」が「暇と退屈」を連れてきた結果…大ボリュームながら"駆動力"を感じた良著でした。読み進めさせる力だけではなく、まだ序盤を読んだだけだったのに会社の飲み会で「人間、暇には耐えられないんだよ」というしょーもない話をしてしまうくらいには(笑
哲学書ながら軽妙な語り口で、ちょいちょい毒も吐く(カッコ書きで(こういうところがラッセルという哲学者の限界である)とかw)。全ての読者を、何とかゴールまで引っ張っていこうという強い意思を感じました。
さて本著、素晴らしい先行レビューが多く存在する中で、自分が一定の分量内で書くコトとしては以下2点かなと思いました。
①日々、「暇と退屈」に対峙している自覚
②「楽しむための訓練」=匠の目を養う
①日々、「暇と退屈」に対峙している自覚
朝から晩までただ予定埋めてりゃ良いって訳じゃないぞ、というのを感じたのは、ハイデガーの退屈の第二形式。
コレを言い始めると、顧客の前でプレゼン本番!って最中でも空虚さや退屈さを感じるコトもある訳で。形だけ予定埋めるんじゃなくて、その予定の中でも自分なりの充足感を得る必要がある…人間ってのは本当に厄介な生き物ですね。
②「楽しむための訓練」=匠の目を養う
著者は結論で、「ハイデッガーが退屈したのは、(略)物を楽しむことができなかったから」「それらを楽しむための訓練を受けていなかったから」と断じます。
↑で「自分なりの充足感を得る」とも書きましたが、そのためにも訓練が必要な訳です。
その訓練は、きっと日本的な「匠の目」で、器の形を何かになぞらえて面白がったりするコトなんだろうなと。
高杉晋作の辞世の句じゃないですが、何かを面白がるための意思や努力はあっても良いのではないかと思います。
本著、ボリュームもあって長い読書の旅はそれなりに楽しく過ごせるものの、読み終わってみると「…で、自分は、何が変わる?」っていう感覚を抱きがちなので、まずは上の2点を意識していこうかなと思いました。
(実は、書き貯めた読書メモをうっかり消しちゃったんですが…(笑) -
Amazonオーディブルにて。
暇と退屈について、哲学や生物学、人類史などさまざまなアプローチで語られていて面白かった。
哲学すぎるところとか、まえがきの女学生の話はイマイチだった。
・数百万年単位の人類史を見ると移動生活が普通で、定住生活をし始めたこの一万年の方が不自然。
・トカゲやノミの世界と、天文学者、鉱物学者、自然愛好家のそれぞれの世界。
・増補新版付録の、習慣化する前の傷ついた状態こそが普通で、退屈が耐えられないのはそれを思い出すから。
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必要十分なモノが手に入ると人は暇になる
消費は物を受け取らない、記号、概念を受け取る だから限界がなく、永遠に続く、満足に辿り着くことはない
環世界、人間同士、動物などは、それぞれ時間、感覚の異なる世界に住んでいる
など、言葉にされるとハッとする内容がありいろいろ考えるきっかけになった -
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すごく面白かった…
・仕事が忙しいのになんか暇
・ようやく取れた休日なのに暇
(やりたい事はあるけどやる気になれない)
という虚無が前触れなく定期的にやってくることに若干悩んでいましたが、まさにピンポイントでこの感覚を分解してもらえてとても気持ちよかった。
こうすれば解決!!!!というタイプの本ではなく、この感覚を分解して、考えてみましょう。という内容。
著者も書いてるけど、結論よりもそこにたどり着くまでこの本を読み進めていく過程が大事なんだと思った。
自分的に分かったことは、私に足りないのは「楽しもう」とする気概が足りないんだなということ…
暇だからゲームしよ〜と思っても、(消費してるだけで何も無いなぁ…)と考え、
久しぶりに絵描こ〜と思っても、(描いたものをSNSに上げるという行為って何なんだろう…)などと考えたり…
この本曰く消費ではなく浪費(贅沢)の先に人間的自由があるとの事だったけど、それを理解するのはまだ難しそう…
けど、上二つの私の虚無は明らかに「いぇーい!楽しも〜!!」という気持ちが欠けてるよなぁ…
何か有意義なことをしたいっていう考えが「楽しもう!」という気持ちを封じ込めてる…
これは確かに訓練が必要だなぁ…
過去一読んでよかったと思える哲学系の本でした。
私の虚無は私だけのものじゃなく、人間誰しもが1度は持つものだと思えたのも安心した笑
紙で買い直してずっと手元に置いておきたいレベル… -
・退屈には2種類(第1.3形態と第2形態)
・どちらも「なんとなく退屈だ」から逃げたい!
・第1.3形態は「何かによって退屈させられること」奴隷になってしまう
→※議論余地※ならないためにはどうすれば良いか?
・人らしく生きるのは、退屈に向き合える第2形態「何かに際して退屈すること」
・第2形態で望まれるのは「楽しむ」ことだが、楽しむには訓練が要る
・楽しむことは、思考することと繋がっている
・だが人は思考することを嫌う
・故に習慣への「不法侵入」を嫌う
→が、退屈に向き合えるようになればむしろ不法侵入を歓迎するのでは?少なくとも自分は、自分にとって“快である(になる可能性がある)不法侵入”は大歓迎
・「楽しんで思考する」状態は「とりさわられること」であり動物的=退屈を感じない、つまり楽しい、が先行すると思考も容易になる
→※楽しむ訓練とは具体的に?意識をすることが第1歩?教養の有無、生まれた環境が強く影響しそう
・その先(退屈に向き合えるようになった先)、人は自分ではなく「皆が暇になれる=楽しめるようにする社会」に向けて動き出すのではないか
たまたまだけど「今日、誰のために生きる?」と通じるところがあり、セットで読むと面白かった。 -
暇、退屈にどう対応していけば良いのかのヒントを得られた。決して明確な答えは提示されていないが、こうすれば少しは生きるの楽しくなるかもね?という考え方を人間の本質から説明されるので、納得感が高い。
残る疑問、答えが得られなかった問いは、提示された暇、退屈への対策を継続的に実施していくためにはどうすれば良いか?だ。個人的にはそれこそが難しいと思っている。 -
人はパンがなければ生きられない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることは、バラで飾られねばならない。
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前半はいろいろな人が紹介され、各々考え方の違いを説明せれており、なかなか難しいのですが、後半はわかりやすくなんとか読了できました。暇と退屈という命題に真剣に取り組んでいる人たちがいたことに驚き、今後は今までとは違う暇と退屈との付き合い方ができるような気がします。
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「何となく退屈」、「裁量と時間があり過ぎると困る」というような経験をしたことがある人は意外と多いのではないでしょうか。特に大学生活では履修科目を自分で選択できることや、2か月にも及ぶ長期休業が設けられているため、大学生にとってはある種共通の悩みかもしれません。
さらにこのような状況に置かれていても、現状に満足している人もまた多くはないように思えます。邪推ですが、多く人は何となく時間を過ごしているため、その時間の過ごし方の評価に戸惑うのではないでしょうか。
評価等は別としても、自分の置かれている状況を把握することは、何か問題へ対処する際には有用な一手となります。その手助けとなるのがこの本です。「暇と退屈」を多面的に考察している本書に触れることで、なんとなくかもしれませんが自身の置かれている状況が見えてくると思います。
この1年間を振り返ったときに、「惰性で過ごしてしまったな」と思う人にこそ手に取ってもらいたい1冊です。
なお、本レビューは同書の文庫版(新潮文庫、2022年)を基に作成しています。著作の加筆・訂正などにより、図書館の蔵書と異なる部分もあるかもしれません。そのため、本書が気になった方は初版本ではなく、文庫版の購入もよければ検討してみてください。一度初版本を読んだことがある方でも、「付録 傷と運命:『暇と退屈の倫理学』増補版によせて」や「文庫版あとがき」を読んでみたければ購入してみるのもおすすめです。
目次は以下の通りです。
序章 「好きなこと」とは何か?
第1章 暇と退屈の原理論:ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第2章 暇と退屈の系譜学:人間はいつから退屈しているのか?
第3章 暇と退屈の経済史:なぜ”ひまじん”が尊敬されてきたのか?
第4章 暇と退屈の疎外論:贅沢とは何か?
第5章 暇と退屈の哲学:そもそも退屈とは何か?
第6章 暇と退屈の人間学:トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第7章 暇と退屈の倫理学:決断することは人間の証しか?
結論
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國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)
所在:図書館3F、請求記号:104//Ko45
【https://opac.lib.niigata-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB07177213?caller=xc-search】 -
凄く感銘を受けた。これまでに経験していない観点・論点が示されており、とても勉強になったし、読んでいて楽しかった
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たしかに楽しいはずの飲み会でも退屈なときがある。自分が溶けるように感じる。
自己の喪失と、何かの奴隷になることを繰り返してしまうのが人間。
消費じゃなくて、自分が受け取れるモノの範囲を浪費していきたいと思った。