昭和天皇の“肉声”で読み解く戦争 「下剋上が…」軍を統制できず 「敗戦にいたる禍根の発端」と悔いた事件とは『every.特集』
拝謁記の中で、昭和天皇がこの事件への対応の誤りがその後の戦争のきっかけになったと考えていることが分かる記述が見つかりました。
「張作霖事件のさばき方が不徹底であつた事が 今日の敗戦に至る禍根の抑々(そもそも)の発端故(ゆえ)」
この張作霖爆殺事件の3年後には関東軍が満州事変を起こし、日本は国際的に孤立を深めました。さらに日中戦争(1937年)や日米開戦(1941年)と突き進み、敗戦への道をたどります。
なぜ昭和天皇は、張作霖爆殺事件がその後の戦争から敗戦に至るきっかけと考えていたのでしょうか。
事件当時、昭和天皇に仕えていた人物のインタビューが日本テレビに残されていました。元侍従の岡本愛祐さんです(1981年当時の発言)。
岡本さん
「(当時の田中首相が)陛下の御前に出ましてね、張作霖の爆死事件をご報告したんですよ。『誠に残念な事ではあるけれども、これは日本の軍人がやった事で誠に申し訳ない事だと』」
ところが、事態はこれで収まりません。
岡本さん
「今度は陸軍大臣が出てきたんです。『あれは日本の軍人でなくて、支那側(中国側)のやった事でございます』と申し上げたんですよ」
当時陸軍は関与を認めず、張作霖を爆殺したとして処分された者はいませんでした。拝謁記の中で昭和天皇は、この事件への対応をこうも振り返っています。
「張作霖事件の処罰を曖昧にした事が後年陸軍の紀綱(きこう)のゆるむ始めになつた。信賞必罰はしなければならぬ」(1951年)
「張作霖爆死を厳罰にすればよかつたのだ」(1952年)
事件を起こした陸軍の独断専行をゆるした事への後悔を、赤裸々に述べています。
事件当時、昭和天皇は即位後間もない27歳。側近だった岡本侍従は1981年、取材に対して「(その頃から軍部に押し切られる形が)始まったと思いますね」と事件当時を振り返っています。
張作霖爆殺事件をきっかけに、軍をコントロールすることができなくなっていったといいます。
それを示すかのように、拝謁記の中で昭和天皇は「下剋上(げこくじょう)」という言葉をしきりに口にします。
「何といつても『下剋上』の勢がいつの間にか出来たから」(1953年)
天皇は陸海軍を統帥する立場でしたが、軍を統制できなかったのはなぜなのでしょうか。
「私がもつとはつきりした態度がとれた筈(はず)だといふ様な意味をいつてるけれども それは事実と相違するので 下剋上でどうする事もできぬ 軍部大臣にいつてもどうとも動かぬ」(1951年)
「私など戦争を止めようと思つてもどうしても勢に引づられて了つた(しまった)」(1953年)
天皇であっても、「下剋上」と「勢(いきおい)」によって軍の意向に抗えなくなったといいます。