眠っているトレーナーの薬指を噛んで指輪を付けるドリームジャーニー
前にXで言っていたやつです。同じシチュの話を以前も作ったかもしれませんが、私が覚えていないので初めてということにしておきます。
普通に指輪はめるより重く感じる……これが、愛……?
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「……」
テーブルに置いていた栞を本に挟む。壁にかけられた時計の短針は4に、長針は8と9の間の点に乗っかっていた。あと5分ほどしたら起こさなければ────太腿に頭を乗せ、タオルで目元を隠したトレーナーさんを見て、そう思った。
今日の彼は大忙しだった。見かければ他の生徒に囲まれ、色々なことを尋ねられていた。トレーニングについてはもちろん、試走を見る約束や海外遠征のことなど、とにかく色々。「もしかしたら、海外レースに挑戦したい子を担当するかもしれないから」と、トレーナーさんが海外のことについて学び始めたことを聞きつけたのだろうと、容易に想像がついた。
「全く。貴方という人は……」
おかげで体力を消耗し、普段より仕事が滞ってしまった。そう焦る必要はないが、仕事を溜め込むのは後日に響く。誰にでも真摯に対応してしまうのは、彼の美徳であり欠点と言えるだろう。
私の顔で影を作り、タオルを外す。眠る前の疲れきった顔は幾分マシになり、呼吸音だけが聴取できた。
「…………今日も、付けてくれたんですね」
普段より近いのだ、当然、匂いも強く感じるに決まっている。
彼の誕生日に渡した、グリーンフローラルの香水。バラを主材料にした、普段使いができるもの。
バラの花言葉────それがあの時の私にできた、精一杯の伝え方だった。努力虚しく、伝わることはなかったが。
「……しかし、ほかの匂いも付けるのは感心しませんね」
生徒の中には、スキンシップが激しい子もいる。彼の様子を眺めていた際、数人が彼の背中や腕に抱きついていたのを見た。消臭してくれたら……いや、しても気づくな。一度ならず、何度も身を寄せていたのだ。消臭スプレーくらいでは落ちない。
信頼、されているのだろうか。私なら大丈夫────そんなことで妬いたりしない────私が貴方に見せる姿の中に、そんな素振りを見せたことはなかったな。
「……嗚呼、なるほど」
私は、年相応の姿を見せてこなかった。だから、大丈夫だと思われてしまったんだ。
────ならば、見せてしまおう。私が貴方をどう思っているのか、貴方が他の生徒に囲まれた時にどう思ったのか、貴方への気持ちも全て。
「私も、女の子なんですよ」
初めてできた、家族以外の帰る場所。そこへ他の誰かを招き入れるなど、あり得ない。それが例え、妹だとしても。
ここで唇を奪えれば────なんて、湧き上がった考えを放棄する。
「……綺麗な指だ」
男性とは思えない程、細く綺麗な指。ささくれも毛もなく、爪も整った白い手。この薬指にはまる指輪は、飾られている時の何倍も美しく見えることだろう。
「……」
彼の手の下に私の手を入れて持ち上げる。見れば見るほど綺麗で、穢れを知らないような、そんな手に。
「ちゅ……」
口付けをした。同じくらいの熱が、唇から伝わってくる。手の甲、掌、指、爪────至る所へ、唇を落とした。
「……ここ、か」
左手の薬指、その付け根に触れる。ここに付けるのは、愛や絆を象徴する指輪。
この指には、いつか本物が付けられる。冷たく、美しい指輪が。ならば今は、熱く醜い私の指輪を付けてもらおう。
小指と中指を広げ、触れていた箇所を露出させて、歯を突き立てた。上下から硬いものに挟まれて、皮膚が変形する。もう少し深く突き刺すと、生温かい液体が滲み出た。
「────はっ……」
口を離すと、細長い凹みが2つ並んでいる。じわりと浮き出た血液が、血管を傷つけたことを表していた。
再び、薬指に噛み付く。次は、さっき噛めなかった箇所を。歯で皮膚と血管を裂き、同じ痕を残す。指を抜くと、透明な糸が爪の辺りまで伸びて、プツリと切れた。
「……お似合いですよ、トレーナーさん」
白魚のような肌に、差し込まれた朱。きっとこの指輪はよく目立つことだろう。彼の手を見た瞬間、その意味を理解してしまう程度には。
「……嗚呼、そうだ」
せっかくなら、お揃いにしよう。私のものであると、しっかり教えてあげないと。中には、手癖の悪い方もいらっしゃいますから、ね……?
私は、自身の薬指を口に入れた。
*
「ト……ナーさ……トレー……さん……トレーナーさん……」
上から声がする。濁っていた意識が晴明になっていき、片目ずつゆっくりと開けば、紫から水色へグラデーションのかかった瞳が俺を見ていた。
「……ジャーニー?」
「ええ、そうですよ。おはようございます、トレーナーさん」
枕とは違う、少し硬めの感触……そうか、彼女の膝枕で寝ていたのか。そういえば仮眠を取ると言った時、そんな提案をされたな。
「今、何時……?」
「16時50分。トレーナーさんがおっしゃっていた時間ですよ」
「ありがとう」
頼んでおいた時間通りに起こしてくれたのか。もう少し早めに起こしてくれても良かったんだけどな……生徒の膝枕で寝るの、なんだか申し訳ないし。
ふと見たテーブルの上には、寝る前に目元を隠すために乗せていたはずなタオルが置かれていた。途中、寝返りを打つなどして落としてしまったのだろう。それでも眩しいと思わなかったのは、ジャーニーが影になってくれたからか。
「ごめんね、トレーニングもないのに、長い間拘束しちゃって」
「いえ、私が申し出たのですから、気にしないでください」
眼鏡の奥から、慈愛に満ちた眼差しが送られる。今度、なにかお礼をしないとな。
「ジャーニーのおかげでよく眠れたよ。これなら残った仕事もすぐ終わりそうだ」
「……そうですか」
起きたまま彼女の太腿の上にいるのも悪いので、身体を動かして隣に座る。残っている物を仕上げれば、かなり余裕ができる。
膝に手を付いて立ち上がり、デスクに移動する。キーボードに手を置いた直後、ソレが視界に飛び込んだ。
薬指に赤黒い2つの痕が横に並んでいる。手を裏返すと、同じ痕が2つ、全く同じように付いていた。
「では、私はこれで」
「────なぁ、ジャーニー」
「……なんでしょう?」
「この痕、どうして付いたか分かる?」
「ええ、トレーナーさんご自身が噛んで付けていましたよ」
「…………そうかぁ」
変な夢でも見ていたのか?ここまで強く噛む夢……自分の身体が美味しそうな食べ物になっていた、とか?……まぁいいか。
「ごめんね、引き留めて。また明日」
「はい。失礼します」
「────…………」
彼女がドアの取手に手をかける直前、同じ痕が見えたような気がしたけど、気のせいだったのかな。まさか、ジャーニーの指まで────。
「いや、いやいやいや!ない、流石に……ないよな……?」
夢の中の俺はどれだけ腹ペコだったんだ。
────なにか食べておいた方がいいのか?棚の中から常備しているおやつを取り出し、デスクに置いた。
あの痕が付いてからというもの、他の生徒に囲まれることが無くなった。皆なにかを察して、俺が近づく前に離れていく。そんな俺を、ジャーニーは遠くから眺めていた。
含みのある、笑みを浮かべて。