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人が人を語ること(3):「批判」の怖さ(追加)

新しく「マガジン」を作成し、「時の流れの中で」より移行させた。

本来は不必要なテーマであり、あるべきではない内容。


昨夏よりの“諍い”を振り返るにつれ、徒労と不毛の感だけが残っている。一体、何の意味があったのだろうか。今の状況を見るにつれ、ただ虚しさだけを感じる。

“戦った”から今があるなど、私には到底思えない。ただの“泥仕合”でしかなかった。勝者も敗者もない。しかも未だに同じことを繰り返そうと企む執念深い人間には呆れ果てる。それに便乗しようとする人間もいる。余程に“御祭騒ぎ”が好きなのだろう。

結局、“批判”ではなく“非難”に終始したことが最大のまちがいであったと思う。言動や行為に対する“批判”が、いつしかその人間を“非難”している。結果、自己正当化のために他者を攻撃する“言い争い”に発展する。

ネット上の仮想社会で、他者の人間性や人格などわかるはずもない。臆測でしか判断はできない。その臆測も、その人間の思考の産物であって、想像の域を出ることはない。極論を言えば、「妄想」の“騙し合い”である。それを可能にしているのが、「匿名性と秘匿性」である。つまり、“実像”ではなく、想像によって作られた“虚像”である。ゲーム世界の“アバター”の感覚である。それがわかっているから、リミッターの外れた攻撃性や暴力性が“言葉と表現”で可能となる。


陳腐な正義感で首を突っ込んでかき回すだけの人間、承認目当てで大層な事を言いながら、その実は“下策”に終始する人間、便乗商法まがいで名を売りたいだけの人間、そんな人間は「見て見ぬふり」でいてほしい。

しかし、「見て見ぬふり」によって、どれほどの悲劇が繰り返されてきたか、少しでも“教育”に関係していればわかるはずだ。
“無関心”以上に、「見て見ぬふり」は最悪である。それを「覚悟も力もない人間」であれば、「見て見ぬふり」をしろと言い放つなど、呆れ果てる。

教室の中で“いじめ”があっても、「覚悟も力もない人間」は「見て見ぬふり」をするのか。

社会的弱者は「力」のある強者に対して、「見て見ぬふり」をした方がよいのだろうか。
“いじめ”の場面で、「自分が標的にされるから」という言葉はよく聞く。我が身を理不尽な暴力から守るためには致し方のないことかもしれない。
しかし、「力もない人間」が“勇気”をもって「覚悟」を決めて立ち向かうことこそ称賛されるべきだと私は思う。

ハンセン病問題は、「力」(権力)による“抑圧”に対して、患者たちが立ち上がったからこそ、待遇は改善され、偏見や差別の実態が白日の下に明かされ、多くの賛同を得て、国賠訴訟に勝訴したのである。
彼らは、「力」もなく、逆らえば監禁室に入れられ、食事を制限されるなどの懲戒を受け、さらに草津の「特別病室(重監房)」に送られ、極寒の中で見殺しにされた。

立ち上がった患者すべてが「覚悟」があったわけではない。互いに支え合い、理不尽なことに立ち向かったのだ。

私は、弱い生徒が声を上げて“いじめ”を告発する姿を、幾度も見てきた。彼らは涙を流し、震えながら、友人を助けるために立ち上がった。決して「覚悟も力も」あったわけではない。

「覚悟も力もない人間」であっても、“闘い方”はいろいろとあるのだ。それを安易に「見て見ぬふり」などと軽薄にも程がある。情けない。


過日、書棚の整理をしていて、たまたま目に入った『ネット時代の反論術』(仲正昌樹)に次のような一文があった。

最も危険なのは、自分勝手な思い込みから歴史を解釈することである。独善的な「定義」を設定し、史実や史料を自分(自説)に都合良く解釈したり、都合良く取捨選択したりして歴史を曲解する。さらには、丁寧に史資料を読み込むことも、他者の学説を理解することもせず、ただ自説に反する他説を闇雲に非難する。しかも、他説ではなく、他説を唱える人間を攻撃する。

…ネット上で「〇〇が△△を批判している」という表現を、かなり軽く使っているのをよく見かけます。「論争」して、他人を「批判」するのが、知性の証明だと思っているのでしょう。

…「批判」の語源はギリシア語のクリネインという言葉で、もともとは「分離する」とか「裁く」という意味があることを習いました。物事を自分なりの直観だけでぼんやり見るのではなく、細かく切り分け、どういう内容があるのか反省的にきちんと把握していくということが含意されています。自分の思い込みではないかとまず疑ってみて、冷静に判断しないと「批判」ではありません。そういう反省や吟味の姿勢で、お互いの「意見」を検討し合うのが、「対話」や「論争」における「批判」なのです。

仲正昌樹『ネット時代の反論術』

「批判」と言いながら、単に相手を扱き下ろし愚弄する人間が多い。まともな「論争」も「弁証法」的な「対話」も絶対に無理だと思える相手がいる。
誰からも相手にされず見向きもされない理由は、「著作(論文・作品)」の内容ではなく、厭味や皮肉を多用する論法や捻くれた筆法、(自分と相違する)他説自体ではなく(知りもしない)その著者(作者)の人格や人間性にまで踏み込む、臆測だけの非難にある。このことを書いている本人は気づいてもいない。(気づいていても、自己正当化するだろうけど)

「批判」の本来の意味をわかっていないにもかかわらず、すぐに「批判検証」と言う。そんな偏狭で独善的な人物に対して、誰がまともな「対話」「論争」をしたいと思うだろうか。
他説を正確に理解しようともせず(理解もできないのだろうが…)、曲解・歪曲して自分勝手に解釈する以上、その「批判」が的外れに終始することは歴然としている。だから、「対話」などできるはずもないし、「論争」など噛み合うはずもない。
皆、それがわかっているから、たとえ名指しで一方的に(的外れな、独断と偏見の)非難をされていてもまともには相手に(反論さえ)しないのだ。(面倒くさいから)関わりたくないのだ。

生産性のない「対話」や「論争」などに無駄な時間を費やすことの愚かさを皆知っているのだ。自らの非など決して認めず,相手を愚弄すること,扱き下ろすことで,ちっぽけな虚栄心を満足させている。文章の端々に,認めたくない「コンプレックス(劣等感)」が顔を覗かし,自己防衛のように同じ文言を繰り返して書く。そんな矮小な人間でしかないことを皆知っているのだ。

(決してそうは思っていないにもかかわらず)自分の方が遜っているように見せかけながら,自分より相手の能力が高いように見せかけながら,必ず相手を貶め,自らの方が優れているという優位性や正当性の「結論」(帰結)を書くことで,自己満足を得る。ほぼすべての文章が同じパターンである。自らの優秀さをアピールするか,相手を扱き下ろすか,孤独な自分を自分で慰めている。

最近,このような人間が増えてきたように思うが,実際は昔からいたのだと思う。それがネット社会という,安易に誰もが発信できるようになり,顕在化しているのだ。実に迷惑な話である。


数年前,SNS上の誹謗中傷を悲嘆して自死された女子プロレスラー木村花さんの遺族による刑事告訴によりネット上の投稿が社会問題となった。木村さんの死亡を受け,総務省はオンラインで中傷された人が発信者を特定しやすくする制度の検討を始めたが,遅すぎるとしか思えない。

木村花さんの母親のコメントを転載する。

コロナ禍の中で、捜査機関によるIPアドレスの開示請求に時間がかかってしまっているうちに、SNS事業者が非協力であったこともあり、証拠であるログがどんどん消えていってしまいました。藁(わら)をもすがる気持ちでアメリカのディスカバリー制度で開示を進めてまいりました。
悪質なアカウントの全てではないのが残念ですが、これまで動いてくださった各機関の皆様には感謝いたします。また、木村花のグッズの利益をディスカバリー制度に関わる費用に充てさせていただきました。ご協力してくださった皆様に心から感謝いたします。
私は、無責任な書き込みで追いつめられてしまうことがないよう、SNS事業者の協力、そして長期間にわたりログを保存する必要性を痛感しております。

木村さんへの誹謗中傷を繰り返してきた人物が特定され,起訴に到った。
調べに対し男は容疑を認め,「番組以降,彼女の相手に対する態度が許せず,相手になり代わって復讐のためにやった」と供述している。

専門家の分析によれば,ネット上の誹謗中傷のほとんどが,「正義感」から発せられているという。つまり,自分の言動(誹謗中傷)は「正義感」に基づくものであり,先に(攻撃した)相手の方が「悪い」のだから,自分が代わりに(攻撃・誹謗中傷)してもよいのだという自分勝手な「自己正当化」に基づくものだという。

自分の主張する「自説」が正しいのであって,それに合致しない,あるいは同意見でないものは「まちがっている」として,そのような説は世の中にとって有害であるとして「攻撃」「非難」すべきであり,そのような「学説」を書く人間は「誹謗中傷」してもかまわないと考える。これも「正義感」からの発信である。あるいは,「自説」を「批判」「否定」された自分は被害者であるから相手を「攻撃」「誹謗中傷」してもよい(自己防衛だから許される)と考える。これも「正義感」に基づいた「自己正当化」である。

「目的のためには手段を選ばず」という言葉があるが,私は「目的のために手段を正当化してはならない」と思っている。しかし,「自己正当化」に走る人間に限って,自らの「正義感」を絶対化してしまう。自分のためではなく,他者(万人)のためであるとか,世の中のためであるとか,社会のためであるとかという「大義名分」をこじつけて自らの「正義感」を正当化する。

他者や社会との交わりが少なく,四六時中,ネット世界や書物の中に引き籠もり,頭の中で思考(妄想)中毒に陥っている人間にその傾向が強い。その歳月が長ければ長いほど周囲が見えなくなり自意識過剰と自己正当化が顕著になる。他者の言葉に耳を貸さなくなる頑固者が頑強に自説に固執していくのである。
すべてが自己流に徹している人間は,書物にしてもネット情報にしても自分に都合のよい解釈しかできなくなるのである。その結果,自らの言動が他者を傷つける「誹謗中傷・罵詈雑言」と化していることさえ「正義感」「自己正当化」の手段と思うのである。

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藤田孝志 部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。

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