誹謗中傷の背景(13) …自己正当化は自己満足か(編集再掲)
この拙文も、昨夏の騒動に関連して書いたものだ。編集して再掲する。
「誹謗中傷」に関係しての拙文であり、内容はほとんど同じである。私の主張も提言も変わってはいない。
現状において、法整備も不十分であり、管理会社も法律に準じているため、また管理体制そのものの不備も大きく、「誹謗中傷」や「人権侵害」への対応は非常に遅れている。それ以上に、ネットリテラシーを熟知しない(しようとしない)人間があまりにも多い。
スマホの普及など利便性の追求が無秩序な現状を生み出している。だが、この現状が明らかにしたのは、人間の倫理観の欠如であり、攻撃性であり、敵愾心であり、感情制御の困難さなどである。「やられたら、やり返す」「このくらいはいいだろう」「相手が悪いのだから」等々が、簡単に“自己正当化”され、「言葉の暴力」と化して、ネット上で発散される。
かつて「手紙は一晩おいて読み返して投函せよ」と教えられた。スマホやパソコンの投稿にはそれがない。感情のままに頭に思い浮かぶ言葉や文章が、そのまま指先がキーを押す。投稿したら読み返すこともない。
結局は、その人間の“意識”“人間性”の問題なのかもしれない。
前回、私は“今回の件”には関与する気はないと明言した。その気持ちは今も変わらない。
それはネット上のトラブルに第三者が介入しても解決には至らないと思うからである。
その理由は、前回にも書いたが、「匿名性」と「抽象性」という<壁>が「事実(真実)」を隠蔽するから、決して解決には辿り着かないということ。さらに、ネット社会は「仮想社会」であり、「現実社会」ではない以上、事実か虚偽か、実在か非実在か、現実か架空あるいは虚構か、想像上の産物か、事実や実態は確認しようがないからである。
それでも不確かなことは言えないと思い、可能な限りの関係する方々の記事とコメントに目を通した。正直、途中で幾度もやめようと思うほどの、内容のない、同じ文面、互いに質問し合い、答にならないオウム返し、堂堂巡が続き、肝心なことは互いにスルーしてごまかす。第三者にはそのようにしか思えなかった。
さりとて、「記事」には「誹謗中傷はやめましょう(許せない)」という、至極真っ当な内容が書かれている。だが、そのように書いている当人が守っていない。自らが書いていることを自らが実行していない。私にはそうとしか思えなかった。
その上で前回、私は次のように書いた。抜粋して一部を再掲する。
ネット社会は無責任な仮想世界である。これが大前提である。
匿名性の世界であり、一切の個人情報はプロバイダー(管理者)以外は自ら公開しない限り秘匿が担保される。ハンドルネームで、“検閲”もなく、いつでも自由に私見を書き込むことができる。
つまり、一切の“検閲”“校正”を経ず、思うがままに書くことができる。一切は、書き手のモラルに委ねられるということだ。当然、感情のままに、思いつきで、その場限りで、好きなことを書くことができる。言葉も表現も筆法も“自由”である。すべて、その人間の“判断”に任せられてしまう。
匿名性は、書き手の存在すら隠すことが可能である。
実在しない人間を存在させてしまうことも、他の誰かに“成り済ます”こともできる。
虚偽を事実のように書くことができる。
ネット上では「真偽」を明らかにすることは、非常にむずかしい。
特に第三者にとっては至難の業である。言った、言わないの「水掛け論」に陥る。「真意」を言葉で伝えようとしても、表現や言葉の使い方、言葉足らず等のために、誤解や曲解が生まれやすい。まして感情が先行する場合、またどちらが「正しい」と判断しようとすれば、疑念も生じるし、顔が見えない以上、推測での判断となるため、つい「勘ぐってしまう」ことにもなる。
ネット社会の秘匿性を悪用すれば、書き方一つで騙すことも貶めることもできる。だから、ネット犯罪として「詐欺」が横行しているのだ。
「顔の見えない無責任社会」である。性別、年齢、住所、職業、家族構成など、いくらでも「創作」できる。記事であろうがコメントであろうが、「真偽」などわかりはしない。言葉、表現、文章だけしか判断材料はないのだから。
「正義の仮面の下で平気で嘘がつける」のだ。
信用を得るため(騙すため)には、「被害者」を装うことが最も効果的である。
「被害」だけは大袈裟に過大に書く。こんな「攻撃」を受けたことで、こんなにも「被害」を受けた。だが、はたしてそれが「事実」だったかどうかは誰にもわからない。
具体性のない文章ほど信用できないものはない。誰もが納得できる「客観的事実の説明」がなければ、その記事もコメントも疑わざるを得ないと私は思っている。しかし、それさえも「創作」できるのがネット社会である。「被害妄想」であっても、書き方によっては真実味をもたせた「作文」はできる。
今、ネット社会の最大の問題が「言いたい放題の無責任な投稿やコメント」である。
匿名性を楯に、身バレがしないことを悪用して、「言論の自由」を自己正当化の後ろ楯にして、“誹謗中傷”合戦を繰り広げている。言ったー言わない、事実を言っているだけ、証拠を出せ、虚偽だ、思ったことを述べただけ…互いに「誹謗中傷は許されない」「誹謗中傷はいけない」と言いながら、延々と繰り返される詰り合い。具体的かつ客観的な事実は何一つ語られることはない。
「自分は悪くない、悪いのは相手である」と互いに自己弁明と正当化を述べるだけで、相手の立場や人権尊重の言葉はない。それは第三者に向けての発言も然りである。
繰り返すが、私はどちらの味方でも立場でもない。バカバカしい“誹謗中傷”合戦に辟易しているだけである。そのバカバカしさに少しでも気づいてほしくて、「誹謗中傷の背景」について書いたが、その「記事」を読んだかどうかわからないが、読んでいれば書けないと思うような「コメント」が書き込まれた。同じ文面(内容)が書かれた。
それを読んで思ったのは、今回のテーマに挙げた「自己正当化は自己満足か」である。ひたすら「自己満足」としか思えない「自己正当化」を書き、その「自己正当化」を私が承認することで「自己満足」を得ようとする、そのように思えた。もちろん、これは私の受けた正直な個人的な感想でしかないが。
相互の「コメント」を読みながら、結局は互いに「相手が悪い」「言った言わない」「証拠を出せ」さらには「読んで嫌な気持ちになったから誰か謝ってくれるのか」から誰か、さらには「真実が知りたい」から教えろ、等々の第三者(私もでしょうが…)も登場してくる。
まず当事者をよく知らず、記事とコメントしか知らない(読むことができない)人間、当事者と直接に連絡が取れない人間、そう私も含めてですが、介与すべきではないと思います。意見を述べるのはよいでしょうが、「真実(事情)を教えろ」などは論外でしょう。なぜなら、相互から「仲介役」も頼まれていない人間が出しゃばるべきではない。冷静に考えればわかるはずです。まして、先ほどから繰り返しているように、ネット社会は無責任な仮想社会です。匿名で語る人間の何を信じろと言うのでしょうか?それなりのリスクを負う覚悟で、仲介できる自信があれば、堂々と身バレを承知で実名で介入すべきです。それができないのに、「真実が知りたいから教えろ」などと烏滸がましい!
では、私は何が言いたいのかというと、ネット社会という仮想社会において「匿名性」を後ろ楯に他者に対して人権を侵害する言葉や表現をしないことである。それが意識的あるいは故意であれば、当然「誹謗中傷」として公に告発すればよいし、その責任を管理者あるいは法的措置によって問えばよい。また、無意識・無自覚に発してものであれば、その是非を公開して問えばよい。
ただし、傷ついても口に出しにくかったり怖じ気づいてしまったり、深く傷つきすぎて何も言えなくなってしまったり、そういう人間もいる。私も長く教師の端くれとして学校現場においてそのような生徒を見てきた。深く心に傷を持ってしまうと、言葉にできないほどの恐怖感を抱いて不登校になったり自殺に至る場合もある。それほどに、人の心は人それぞれである。そして「脆く」壊れやすいものだ。閉じ籠もって、必死で自分の心の修復を図っている人間に「真実を語れ、教えろ」などと安易に言えるものではない。そうしたまちがいを、どれほど多くの教師が「解決をはかる」という名目でおかしてきたか。それは「追いつめること」でしかない。
もちろん、ネット社会は「虚構」「虚偽」が横行している。だが、それを見抜くことは至難の業である。本人が隠せば、隠し通せてしまう。真偽が不明の第三者には声の大きい者に偏るしかない。だが、そこにも大きな陥穽がある。ネット上で人を騙すことは簡単なことであるが、見抜くことはむずかしい。
結論は、ウィトゲンシュタインの言葉「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」でしかないのだ。唯一語りえるものとは何か、それは自分自身である。つまり、自分のこと、自分の為したこと、自分自身を冷静に振り返り、内省することである。それが自分を成長させてくれる。
私はそう思う。
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部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。


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