誹謗中傷の背景(12) …“言葉”の伝わりにくさ(編集再掲)
昨夏の騒動に関連して、書き込まれた「コメント」を削除するために、関連する「記事」そのものを消したが、未だに懲りもせず同じ「迷惑行為」を繰り返す人間がいる。呆れ果てて、「愉快犯」についての「記事」を編集して再掲した。
同様の趣旨で、本記事も「コメント」を削除して、あらためて編集・再掲する。
もし昨夏から繰り返されてきた応酬に“効果”があれば、くだらない「コメント」が今も続くことはなかっただろう。むしろ「コメント合戦」がエスカレートして「暴言」にまで至ることなどなかったはずである。
また、ネット上における「誹謗中傷」を管理者が判断する際、むずかしいのは、“誰に対する”ものかである。つまり「匿名」であれば、同じHN(noteではクリエーターネーム)が複数存在すれば、誰に対してであるかを“特定”することがむずかしいのだ。
管理者を動かすには、相当の根拠や理由、被害の実状が明確に必要である。「匿名性と秘匿性」に隠れて暗躍する狡猾な人間は、簡単には“シッポ”は見せない。悪知恵の働く人間である。
教訓とするならば、本記事を読み、冷静に判断してほしい。
かつて、私は『言論の中の「悪口」と「批判」』という拙文を投稿した。今も「記事」として掲載されている。あらためて読み返して、少し“補足”して投稿しようと思う。
その最たる理由は、意に反して、一方の“擁護者”と見なされ、私の「記事」を誤読・曲解されたような「コメント」を繰り返し書かれたことである。その際、「コメント」という少ない文字で意を伝えようとする場合、「言葉」「表現」「語句」等によって、伝わりにくさが増幅していくことを痛感した。
私は、ネット社会を「顔の見えない無責任社会」と思っている。「匿名性」と「秘匿性」によって、虚偽も誤謬も、独善も偽善も、何でもありの世界である。信用も信憑性もないと思っている。何より個人(本人)を特定できない仮想空間である。そこでは、自己の主張が絵画や小説、詩、評論、論文等によって「創作」された「作品」として提示される。あるいは、まったくの主観的な「私見」を述べることができる。
最大のメリットは「表現の自由」である。最低限のルールとモラルが守られれば、たとえストレス発散のはけ口であろうと、感情の爆発であろうと構わない。だれに制約・制限を受けることもない。逆に、それゆえ「ルール」「モラル」に対する「理解」と「自戒」が唯一求められる。当たり前なことである。だが、その「当たり前」が人によってさまざまであることが、ネット上のトラブルを引き起こしている。
その最大の要因を、私は「表現の手法(筆法)」にあると思っている。なぜなら、相互の主張も私見も「文字(言葉)」による伝達表示で行われるからだ。
池田晶子さんの著書は昔から好きで,特に哲学エッセーは思考のヒントが鏤められている。早すぎる死を惜しむ。もし彼女が生きていれば,もっと多くの示唆を若者にあたえたことだろう。彼女の『考える日々』に,次の一文がある。
週刊誌上におけるタレントの悪口と、オピニオン誌上における言論戦とは違うと、言論の人々は思っているかもしれないが、場外からみれば、ほとんど同じである。「批評」と「悪口」の違いを、わかっていない。ていよくは「批判」と言われたりもするが、もしもそれが正当な批判であるなら、批判の基準は客観性にあるはずである。
ところで、客観性とは、主観性ではないから客観性というのであって、いつどこで誰が考えてもそのようであるというその基準は、したがって、批判しているその人には、その意味では無関係である。また、批判されるその人にも、同じ意味で無関係である。そこで正当に批判されるべきなのは、つねに、「考え」、誰のものでもなく、したがって誰のものでもあるその「考え」だけのはずである。なぜ、誰であるかが問題か。
誰であるか、が問題である人が多いように思う。「考え」と「人」とを、うまく分けられないのだろう。分けられないから、その人の「考え」を批判しているうちに、「その人」が気に入らなくなってくる。気に入らないなら、ほっときやいいのに、ほっておけずに悪く言う。言論の人々、これを「批判」というのらしい。悪口とは違うと思うのらしい。
自分では「批判」と言いながら,その実は単なる「悪口」でしかない。しかも「論文」や「意見」に対する「批判」が,いつしか著者自身に対する「悪口」へとすり替わって,よく知りもしない著者の人間性や人格までも否定するように激しさを増していく。
興奮してくると見境のなくなる人間がいるが,たぶん「批判」しているうちに興奮し,自己高揚感が高まってより過激な言葉を書き連ねてしまうのだろう。読み返せば,あまりの滑稽さと浅はかさに気づくだろうが,そのままに発表(投稿)してしまう。そんなバカバカしい自分勝手な文章がネット上には溢れている。
本や雑誌とちがって校閲,つまり発表前に他者に読んでもらう行為がないネット上だからこそ,正当な「批判」に値しない「悪口」の類いが蔓延してしまうのだ。最悪なのは,当の本人がそのことに気づいていないことだ。
わざわざ自分の人生の時間を割いて、他人の考えを批判するからには、それが世のため人のためでなければウソであろう。その人を叩きたいがために叩いているような意見を、世の人はまず聞いていない。みんなそんなに暇ではないのである。
ところが,ここが面白いのだが,言論の人々,自分たちの論戦の雌雄を決することが,世界と歴史を決することだと,深く思い込んでいる。だんだんと思い込むようになるのだろう。すでに感情の泥仕合と化しているもの,アイツを叩くことが世界と歴史を決することでなければ,公である手前,引っ込みがつかないとやはり感じるのだろう。
しかし,そんなことは,ないのである。アイツは世界ではないのである。井のなかの言論戦とは無関係に,世界と歴史は本日も滞りなく,その歩みを進めている。
彼女が今のネット社会を知れば,どう言っただろうか。彼女の言葉どおりの状況である。読むに値しない,聞くに堪えない「批判」など,相手にするだけ人生の喪失である。
今、読み返してみても、池田晶子の主張は正鵠を射ている。繰り返される“不毛な言い合い”からは何も生まれはしない。
どちらが先に言い出したかも、どちらが(深く)傷ついたかも、ましてどちらが“悪い”とか、そんな“言った、言わない”の泥仕合に何の意味があるのだろうか。
確かに、腹も立っただろうし、怒りも湧いただろう。それこそ、「批判」のつもりが「非難」「悪口」と受け取られ、返す刀で更に「非難」「悪口」を言われ、「被害」をデッチ上げられ、尾鰭を付けて大袈裟に言いふらされれば気分の良いものではない。
私も、同様の「手法」で、より「狡猾に」言い続けられている(今も)。決して「具体的に」は言わず、遠回しに、曖昧に、しかし確実に私を標的にして「悪いのは(犯人は)私である」とわかるように書く。私も反論したが、肝心の部分は「見ていない」と白を切り、誤魔化して逃げる。
人間は“言葉”(ネット上では「書き言葉」になるが)によって、他者に意見を伝え、意見を理解する。それゆえ、“言葉”がいかに重要かは皆が知っている。だが、自分の意を託した“言葉”が、はたして正確に(的確に)相手に伝わっているかは大いに疑問である。より正しく伝えようと言葉を重ねれば、逆に「文意」が伝わらないことも多々ある。まして、論戦になれば、一層“言葉”一つで誤解を招いて、より泥沼の様相を呈していくこともよくある。
また、人は理解の前提に“解釈”という作業(フィルター)が必要である。相手の意見や主張を正確に把握し理解するためである。だが、“解釈”もまた“言葉”の理解が前提となる。
「思う」と「思われる」だけでも感じ方は大きく違ってくる。断定的な言い方と推察的な言い方でも受ける印象は異なる。
“言葉”の問題にもどる。
<料理とワイン(酒)>の関係は、様々な比喩に用いられている。料理を生かすワイン、ワインを引き立てる料理、要するに絶妙なバランスが至福の味と時間を提供する。思いや考えと“言葉”も同じだと私は思っている。思いを正確に伝えるために、最も合う“言葉(表現)”が必要である。
逆に、料理の味を壊してしまうこともワインにはある。最高級なワインも主張が強すぎれば、せっかくの料理が霞んでしまう。「こちらのワインは、その料理には合いません」と、かつてソムリエに言われた経験がある。
感情に流されて、あるいは、つい日常的に使っている言葉で伝えようとして、その結果、誤解を招いてしまった経験がある。相手から返ってきた言葉を見た瞬間に、意が伝わっていないと感じた経験がある。くどくどと回りまわった言い方をしたために、文意が十分に伝わらず、変な誤解を与えてしまった経験がある。メールの言葉一つで決裂したこともある。真意を伝えることのむずかしさを幾度となく経験してきた。
また主張自体は至極もっともなことを書いてはいるが、文章表現や“言葉”が粗野で乱暴な方もいる。そんな方に限って、「言いたいことがあればどうぞ」「批判は受けますよ」とばかりに開き直って挑発的な表現をするが、それこそ本末転倒だと思う。誹謗中傷をやめさせたいのか、それとも煽っているのか。独りよがりの正義論を書いても伝わりはしない。
また、いくら正論を述べても、現実離れしていて、絵空事にしか思えないことを書く方もいる。特にネット社会において、“事実関係”を明らかにせよ、双方に事実を確認して…等々はまず不可能だろう。だれが“事実(真実)”と証明できるのか、どうやって…それこそが聞きたい。
自分は「誹謗中傷などしていない」という人は、相手に「誹謗中傷を証明せよ」と言い、相手が言わない限り、「やってないことを証明するのは“悪魔の証明”だ」という。この論法は正しい。だが、第三者には、どちらが「正しい」、どちらが「悪い」などと言えるだろうか。どちらが“嘘”を言っていると判断できるだろうか。それこそ、“言葉”や“表現”でいくらでもごまかすことはできる。
ネット上の“二元論”を“公平・公正に裁く”など絶対に無理だと私は思っている。
各人がまるで裁判官のように主観的に判断して、好きなことを勝手に言うことができるネット上の対立関係において、まず中立などありえない。だから、関与・介入すれば、どちらかに偏ったと思われて“擁護者”と断罪されるのだ。どう思うのも、その方の勝手だから、これさえも致し方のないことではある。
真面目に“正義論”を語りながら、論理が破綻して感情論に終始していった「記事」も、特に具体例として持ち出した事例が主張と合致していなかったり、無理な三段論法で結論がズレていたり、結局は何を提起したいのだろうかと首を傾げたくなる「記事」もあった。
それらに共通するのは、自己満足の“言葉”を使うことで、その意図が相手に伝わっていないということだ。だから、言葉尻や文章の一部を捉えての“揚げ足取り”や、質問に見せかけて無理に同意を得ようとする筆法や、相手の質問には答えず自分の主張だけを羅列するから、いつまでたっても理解に到達しない。まるで意図的に平行線を選んでいるようにさえ感じる。
理解と合意を目指す“言葉”ではなく、相手を“論破”“攻撃”すること目的とした“言葉”では、伝わることはないと思う。結局は、自己正当化のための自己主張に終始しているだけである。
悪いか悪くないか、加害者か被害者か、加害者が悪くて被害者が悪くないか、等々を価値基準においての言い争いは、“言葉”を重ねても結論など出はしない。繰り返すが、現実世界のような裁判所がないネット社会である以上、真偽の判断など無理である。
それを、私も含めた、第三者(あるいは当事者も)があれこれと“私見”を述べ合って、またそこで考え方の相違や“言葉”“文章の一部”から反発が生まれ、新たな“論争”が生まれ、泥仕合が拡がっていく。それは“論破”という、自分の意見で相手を屈服させたい感情が働くからかもしれない。愚かしいことだと私は思う。“論破”などちっともカッコいいとは思っていない。対立と分断を生むだけである。
いいなと思ったら応援しよう!
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。


コメント