「愉快犯」について (2) (編集再掲)
「正義の味方」や「正義の代理人」を気取って、まったく“逆効果”な記事を書き続ける“愚か者”がいるかぎり、「愉快犯」はますます増長していく。なぜそのような“自己満足”でしかない対応をするのか、理解に苦しむ。「愉快犯」を喜ばせるだけだと気づいてほしい。
未だに懲りもせず、愚かな“下策”を弄して、“逆効果”を生んでいる人間がいるので、前回の続きを、かつて書いた拙文を編集・追加して再掲する。
前回、「愉快犯」の特徴と手口(手法)、目的について述べた。今回は対処法について考えてみたい。
まず、「愉快犯」は絶対になくならない。それは、「愉快犯」はその人間そのものに根ざしているからである。人間性、人格と言ってもいいだろう。くだけた言い方だと、性根、心根、価値観、人間観、人生観とも言えるだろう。前回、私が「生来」のものだと言ったのもそれゆえである。
こう書くと、身も蓋もないと思うかもしれない。だが、<人間は変わることができる>という考えに立てば、どうということもない。だが、変わろうとする気もなく、他者に迷惑をかけようが、困らせようが、知ったことではないという人間も多い。まして、“顔を見えない無責任社会”であるネット世界では、「身バレ」しなければ、「匿名性と秘匿性」に守られている以上、社会常識や良識、倫理観などは、「愉快犯」にとっては歯止めにさえならない。
「愉快犯」においては、その自覚を持ち、明確な意図を持って「迷惑行為」を行っている人間もいるが、始末におけないのは<無自覚の「愉快犯」>である。特に、自らの言動は「正義」であり「正当性」があると信じている場合である。
自らの言動に「正義」「正論」「正当性」を持つことはよい。問題は、他者に伝える場合の「手法(手段)」であり「表現方法」である。
私の持論に、<目的のために手段を正当化してはならない>がある。
よく聞くのは「目的のためには手段を選ばず」であるが、それは自覚した上で「手段を選ばず」である。私は、「目的」と「手段」は別に考えるべきだと言っているのだ。多くの場合、「目的」を達成するために最も効率的な、有効な「手段」を選択する。果たしてそれでいいのかと私は思う。戦争などその最たる例であるが、「愉快犯」にも同じことが言える。相手を攻撃する場合、その人物が「誹謗中傷」ないし「揶揄・愚弄」が最も効果的と考えれば、それを実行するだろう。
「愉快犯」にとっては、相手(対象)を困らせること、苛立たせること、迷惑と思わせることが「目的」であり、相手が困ること、苛立つこと、迷惑に思うこと、怒らすこと等々が効果的・効率的な「手段」なのである。
そのように考えれば、「愉快犯」にとって、その相手に対して「手段」がまったく“効果”がなければ、目的は達せられないことになる。それゆえ、より過激な「手段」を行ったり、別の相手を探したりと、“対象”を移行せざるを得ない。
つまり、「愉快犯」に対しては、いかなる挑発的な言動であろうと、さらに過激化・過剰化しようとも、まったく「反応」しないことが最良の対応策である。
前回も述べたが、「愉快犯」にとっては相手が応答することが前提であって、反応させようとあらゆる「手段」(言葉、表現など)を工夫するのだ。
だが、結局はそれだけのことである。感情的には許しがたいかもしれないが、「愉快犯」は“からかって”遊んでいる(愉しんでいる)だけである。遊びの相手にならなければいいのだ。
正論を駆使して、まちがいを糾そうと論戦を仕掛けても、「愉快犯」はもとよりわかってやっているのだから、それこそ術中にはまって、さらに“からかわれる”だけだ。泥沼にはまり込む。「愉快犯」の“思う壺”である。
「愉快犯」はいくつもの「顔(仮面)」を持っている。複数のアカウントをうまく使い分ける場合もあれば、仲間内には「正義(正論)の顔」を見せ、よそでは「悪意の顔(愉快犯)」を演じることができる。
「正義」「正当性」を信じ込ませる方法は、実は簡単だ。
「敵」を作ればいいのだ。「敵」からの攻撃を過大化・誇張化して、さも事実であるかのように虚偽を並べ、その被害が仲間内にも及ぶように装い、それらを一手に引き受けて戦っているかのように、仲間を守るヒーローを演じれば、仲間内は信じ込むだろう。
そう思い込ませれば、自らの「愉快犯」としての言動も「正当化」できるのだ。「正当化」など仲間内に信じ込ませればよいだけであるから、いかようにも“虚偽”“でまかせ”をつくることができる。嘘つきなど、ネット上ではわかりはしないのだから。
居心地のよいコミュニティを管理運営しているように演じることで、仲間内を支配・コントロールし、承認欲求も満たされる。「皆さん~」「コミュニティの平和」等々の耳障りのよい言葉に仲間を酔いしれさせることで、自己満足を得ることもできる。協力者を作ることもできる。絶対服従者へと洗脳することもできる。それが“仮想世界”であるネット社会の恐ろしいところだ。
では、どうすればよいか。どうすれば、このような無法の「愉快犯」を排除できるのか。
それは、「匿名性と秘匿性」の解除である。
noteは、会員になることが簡単すぎる。実名など個人を証明する必要がない。複数アカウントも推奨されている。つまり、個人の特定ができない設定になっている。偽名でもニックネームでも登録でき、捨てメールアドレス(Gmailなど)で登録できる。情報開示請求をnote事務局に依頼しても、現状では事務局にはできないだろう。警察など公的機関に依頼する他はない。もちろん、専門家はできるだろう。
note事務局が会員登録に際して個人情報の提出を求め、厳重に管理して、なりすましや悪質な誹謗中傷等の案件、コメント欄荒らしなどの「愉快犯」対応をとることができる、規約の改正と処分の厳罰化を行う以外にはないだろう。
noteよりも、個人情報の提出と確認を行っているプロバイダーが運営するブログやSNSであっても、誹謗中傷・罵詈雑言やコメント欄荒らしなどは起こっている。だが、イタチごっこであっても適切に対処しようとする動きは認められる。
noteにも通報機能はあるが、ルールの厳密化と厳罰化はまだまだ十分とは思えない。「愉快犯」はそれを知っているから、微妙なボーダーラインに入り込んで暗躍する。
その相手(対象)には効果的な言葉や表現、ネタを書くが、それは無関係の人間にとっては何のことかわからない、あるいは普通のコメントに読めるように書く。つまり、相手以外にはわかりにくい、短文で、紋切り型の表現で、一見すれば当たり前のような内容を選んで書く、あるいは被害者を演じるような内容、明らかな虚偽を書く。第三者は真偽を判断できないが、相手にとっては明らかな虚偽を書く。
それゆえ、事務局に通報しても、前後の関係性がわかりにくく、文脈も分断された言葉の羅列で判断できず、真偽などはさらに解明できないため、事務局も困惑するだろう。
それが狡猾な「愉快犯」の手法である。
前回も書いた結論であるが、今まで書いた私の分析と考察を参考にして、「愉快犯」の手口を見抜き、何の利害にもならないこと、騒げば「愉快犯」の“思う壺”であると判断して、まったく相手にしないことである。現時点ではそれが最良の方法である。
noteには「ブロック」機能がある。コメントを書くことができない以上、「愉快犯」は目的を達することができない。そして、見に行かないことだ。気にはなるだろうが、それこそ術中にはまることになる。一切の反応をしないことである。
「愉快犯」相手に、正論を投げても、見もしない。まったく堪えないだろう。何を言っても通じない。それが「愉快犯」たる所以である。
結論は、「愉快犯」の目的と手段に動じないことである。反応する素振りさえ見せない。つまり、「愉快犯」に、こちらの動静も心の裡も悟らせないように、“平然”と無視することだ。コメントであろうと記事であろうと、反応することが「愉快犯」の目的であるのだから、反応しないことだ。それがわからず、「正義の味方」を気取って「反応」するのは“逆効果”でしかない。これに気づかない愚か者がいるから、いつまでも続くのだ。
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部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。


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