「愉快犯」について(編集再掲)
昨夏の騒動において、私はいくつかの「記事」を書いた。直接に相手に対する批判も書いたが、むしろ「誹謗中傷」そのものに関して書いたつもりだが、「悪口記事」と横槍を入れられたり、「敵前逃亡」と謗られたり、その挙句に、名指しの「暴言」を吐かれ、メッセージ(メールではない)を晒されるという「プライバシー侵害」を受けた。
あらためてネット上の問題、「匿名性と秘匿性」について考えさせられた。また、仮想現実の信頼関係など“砂上の楼閣”に等しいと痛感もした。「匿名」だからこそ、その人間の“本性”が露わになる。所詮、人間なんてそんなものよと思いながら、底知れぬ怖ろしさを実感した。
その上で、未だに懲りもせず「コメント荒し」を行っている人間がいるようなので、注意喚起のつもりで、当時書いた拙文を編集して再掲することにした。
当の本人は、心得たもので、まず読まないだろう。読んだとしても何とも感じないだろう。そういう人間だからこそ、人の家に勝手に土足で入り、人の大切なものを踏みにじっても、平気なのだ。自己中心的な人間の特質である。
以前、私は「誹謗中傷の背景」に、煽動者は3類型に分類できると書いた。
上記において、「愉快犯」については多くを言及しなかった。昔は「2チャンネル」など掲示板によく見られたが、最近はネットニュースやブログのコメント欄などで問題化して、鎮静化の傾向にあると思っていたからだ。何より、その手口の稚拙さ、幼稚さで、だれもがまともに取り合わないだろうと思っていた。
だが、残念ながら、未だに天然記念物まがいの手法を駆使して、コメント欄を荒らしまくっている輩がいる。注意喚起のつもりで書いておくのも、何かの役に立つだろう。
「愉快犯」の目的は、相手の反応を見て喜ぶに尽きる。つまり、相手にしてもらう(見てもらう)ことが前提である。そのために、相手が反応するであろう「ネタ」を書く。しかも、自分の「記事」やページ、サイトには一切書かない。仲間内に対しては「善人」を装うのだ。
相手にしてもらうこと、反応してもらうことが楽しい。からかうことが目的だからだ。
手口(手法)の特徴は、次のようなものだ。
・短文、紋切り型
・質問形式(~思いませんか、なぜ~、~ですね、など)
・相手が反応するだろう「ネタ」を繰り返す。
・「同じ言葉や語句、問いかけ」を繰り返す。
・相手の応答や質問には一切答えなさい。反論もしない。逆手に取って返す。
・対話を避け、一方的に意見(私見)のみを書く。
・挑発、揶揄、愚弄、皮肉、イヤミ、脅しを繰り返す。
・さも事実であるかのように虚偽を書く。
・心にもないことを、そうらしく書く。
・執拗に、繰り返し、つきまとう。
つまり、相手が挑発に乗って、怒り、苛立ち、過剰反応をすることが「楽しい」のだ。
だから、相手の反応を見ながら、相手が怒れば怒るほど、苛立てば苛立つほど、策略は成功して、彼は喜ぶのだ。からかっていることがバレないように、短文で、「ネタ」だけを投げかけ、説明などはせず、一方的に、断定的に書く。
だから、どれほど誠意を持って、意見や理由をわかりやすく説明しようとしても、どれほど長文で思いや考えを伝えようとしても、彼にしてみれば、そんなことはどうでもよいことで、読みさえもしないし、理解しようともしない。からかうことが目的であり楽しいのだから、過剰に反応してくれれば、からかい甲斐があるのだ。
だから、相手がイヤがること、ムキになること、怒ること、苛立つことを繰り返すのだ。
相手は、反応を見てよろこんでいるだけである。相手の反応によって、これは使える、この反応はおもしろい、こう書けば怒るなどを探っているのだ。そして見つけた“ツボ”を何度も押してくるのだ。
なぜ、彼らのコメントが、短文で、紋切り型で、単語を並べただけなのか。
わざと混乱させるように、わかりにくそうに、相手を苛立たせるように書いているのかの理由もわかるだろう。すべてが計算高く、巧妙に仕組んでいるのだ。ただし、多分、これは考えてやっているのではなく、生来、そういう“ひねくれた”“歪んだ”“偏屈”が染みついているのだろう。
相手を怒らせて楽しむことが何よりの“快楽”なのかもしれない。
「ひっかかってやがる」と、無上の喜びに浸っているのかもしれない。普通の感覚では考えられないが、「愉快犯」にとっては、やめられない“快楽”なのだろう。それは、痴漢行為や下着泥棒、盗撮行為などと同様に、自分を制御しきれないほどの“性癖”なのだろう。
「愉快犯」は、自分がからかって楽しめそうな相手を見つけて、仕掛けていっているのだ。
だから、自分のサイトやページでは「正体」を隠して、「善い人」を演じる。中には、「誹謗中傷は許さない」などと「正義論」を堂々と書く。常連の仲間や閲覧者の手前では、真逆の姿を演じる。
場合によっては、「被害者」を演じ、敵でもない人間を自分を攻撃する「敵」に仕立て上げる。本性を探られないように、ひたすら「善い人」を演じ、カムフラージュを怠らない。相手を褒めたり(褒め殺し)、心配したりしているかのように装う。だが、内心は嘲り笑っている。
繰り返すが、「愉快犯」の目的は「からかい」であり、「おちょくる」ことだ。
相手にとって応えなければならないような「ネタ」を繰り返し、小出しにして、短い言葉で、しかも「問いかける」手法で、最も相手がイヤがる、気に障る、腹を立てる、苛立つ、そのような書き方をして、その反応を見て、悦に入る。喜ぶ。楽しむ。それが「愉快犯」のやり口なのだ。
「バカ」「アホ」等々の誹謗中傷・罵詈雑言・揶揄・愚弄に直結する表現や言葉は決して使わない。むしろ、煽ることで、逆に相手にそれら直截的な言葉を使わせようとする。実に姑息で、ずる賢い。
相手の反応を見るには、「過激な挑発」が最も効果的である。だから、刑事告訴、サイバー警察、訴える、などの刺激的な表現を使う。
仲間へのアピールも欠かさない。「愉快犯」は、一方で「承認欲求」が強い。
自分の主張の正当性(正義)を常にアピールする。つまり、「僕は悪くない。悪いのはやつらだ」と、周囲に思わせる。だから、「正義のために」「コミュニティの平和を守るために」「サイトの健全な運用のために」「皆さんが平和に過ごせるために」の言葉を連呼することで、自分の「コメント荒し」を正当化する。
「敵」を作り上げて、彼らの「罪行」を捏造して、その「悪人」と戦っている「正義の味方」を演出することで、また「大変だけど…」等々の言葉で自分の窮地を誇張し、それでも皆さんを守るために、がんばりますというアピールを演出する。
そのための道具が「デマ」「攻撃」「被害」「誹謗中傷」などの言葉であり、それらを使って「被害」を演出すると同時に、「愉快犯」としての本性を隠蔽する。
なぜ「愉快犯」が存在するのか。それはネット社会が匿名性と秘匿性によって守られている世界だからである。「顔の見えない無責任社会」の申し子が「愉快犯」である。
表示名(ハンドルネーム、クリエーター名)をイニシャルでも何でも、素性(実名)を隠すことができ、場合によっては複数の表示名を使い分けることで、「別人」にも「なりすまし」にもなることができる。
私のように実名(本名)で「愉快犯」など絶対にできない。実名の「愉快犯」など見たこともないだろう。「愉快犯」でないなら、実名を名乗れば証明になるが、そんな愚かさはないだろう。
「愉快犯」は匿名性を巧妙に使うことで、“ネット社会の闇”に隠れて暗躍するのだ。
PCやスマホの画面の向こうで、獲物を探し、ネタを探り、餌を投げて、食いつくのを見ながら、その反応に、嘲り笑っている。想像すれば、何ともやりきれない姿が見えるだろう。人間の最も醜悪な顔がそこにある。鏡を見れば、異様に歪んだ顔が映っているだろう。
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部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。


全くもって、同感。 彼の裏表、被害に受けた者にしか分かりません。 実名ならば、彼処まで粘着、嫌がらせしないでしょう。 臆病者、卑劣な仮面被った人間まがい。
私は、昨夏の件を“再熱”させるつもりは一切ありません。あの徒労感と焦燥感を二度と味わいたくはない。それは皆さん、同じだと思います。その要因は何か、ここに書いたように彼が「愉快犯」だからです。 聡明なあなたですから、もうおわかりのことと思いますが、相手にするだけムダであり、まうます…