他者論を乗り越えて⑩ アリストテレス
今回は、ギリシャ時代で活躍した偉大な哲学者、アリストテレスに学びたいと思います
アリストテレスは形相と質料を唱え、その両者の結合体を考案しました。結合したらその結合した存在を結合体と呼べる、というところもおさえていました。脳と心が結合するわけではないが、脳と心を自身の中に内包する存在を両者の内包態と呼べると考慮していました。
形相 (アリストテレスいい)
質料 (アリストテレスいい)
結合体 (アリストテレスいい)
この両者を内包する内包態 (アリストテレスいい)
アリストテレスは友愛という概念について文章として起こさなかったが、ひじょうに馴染み深い言葉として気に入っていたという。アリストテレスは友愛という概念について、わたくしと宮本武蔵に対して抱いていたと受け止めている。アリストテレスはわたくしとは友愛関係にあると受け止めるのである。アリストテレスが二千年ちょうど経ってから幽霊としてこの世に復命したのは、偶然的か奇遇かどちらであるであろうか。令和8年3月26日金曜日に宮本は幽霊として復命したと考えられる。宮本は一番記憶力が高く、一番強い存在者であった。幽霊として復命したときにも、これらのエレメントは受け継いでいた。誰かが宮本を見て一番強い剣豪と思うのは、その伝統的な言い伝えから影響を受けていたのであると思われる。たしかに巌流島で佐々木小次郎を制したということは、現代的時代においても有名な言い伝えであり、佐々木小次郎が一番調子のわるい日であったことも増上縁である。佐々木小次郎との決闘は、宮本に対して「戦いましょう」と申し込んだことがきっかけとされる。
現代的時代 (宮本いい)
戦いましょう (小次郎いい) (小次郎神) (小次郎神)
友愛を復命した宮本と結べることは、アリストテレスにとって感激であり、また、イエス・キリストの生まれ変わりであるわたくしと友愛を結べることは、面白い出来事であった。わたくしもアリストテレスと宮本と友愛を結べることを面白いとさえ感じている。
友愛というのは、間柄的存在者の共同複数系の愛の心[1]であって、間柄的同一性[2]を両者に組することである。両者がお互いに友愛を持つことを友愛関係と評することで、友愛は自己だけの愛では成り立たないという位置付けを見出すアリストテレスは、友愛はお互いに愛が属すること、すなわち両者の組み合わせによって語りうると考える。
一、結合可能で語りうるもの
アリストテレスは著書である『カテゴリー論』[3]第二章冒頭で次のように述べている。
「語りうるものには、組み合わせて語られるものと組み合わせなしで語られるものとがある」[4]
これは、結合によって──語られるもの。結合なしで──語られるもの。と類する表記ではないか。
友愛は、両者のその結合することにおける結び付きとは言えまいか。友愛同士の存在者は、愛の交換、すなわち何らかの結合[5]があるという省察をアリストテレスは考慮していた。言葉の表記としての結合だけが結合という感のあり方ではない。人間が産まれてくる前に母親と胎内でへその緒が結合しているように[6]、結合という語の真のあり方が何らかの形で現れているはずである。
可能態と現実態が彼の武勇伝であろう。木材は家を建てるために使用されうるが、燃やすためにも使用される。この木材を可能性があるがゆえに可能態と呼ぶ。この木材を家を建てるために使用したときに可能態が実現しているゆえに現実態と呼ぶ。現実態がすべて完全に揃ったときに、完全な現実態、すなわち完全現実態と彼は残さなかったが一案としてある。また、可能態を存在可能態と称され、現実態を存在実現態と称されることも懸念されうる。
あとがき
[1]愛心とも。
[2]友愛を両者に組するエレメントの同一性。
[3]アリストテレスの十のカテゴリーが述べてある。
[4]例えば、「人が走る」などの文が組み合わせて語られるものであり、それを構成する要素、すなわち「人」「走る」というものは組み合わせなしで語られるものである。
[5]何らかの形で結合があると思考しておく価値があると楽観的になることも選べうる。
[6]母親は、へその緒を大事にしている場合がある。今度母親にへその緒について質問してみる手がある。好感度が持たれることを期待してやまない。


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