他者論を乗り越えて⑧ ディルタイ
今回紹介する哲学者は、ディルタイという二十世紀のドイツの哲学者であります。彼は、ヴィルヘルム・クリスティアン・ルートヴィヒ・ディルタイという立派な名前を持っている心理学者・思想史家であります。
ディルタイは、生の哲学、および生の解釈学でその名を轟かせました。
ディルタイは「生」を「主観と客観の未分化な関連」として捉えた。
ディルタイは歴史的生命の構造を「意味」、「価値」、「目的」といった「生のカテゴリー」で捉えました。
ディルタイは「生命の第一のカテゴリーは時間性である」と考えました。
生に纏わる出来事、事象、現象というものは、どれも主観と客観の未分化な関連系であることがディルタイの思想であります。例えば、《私》が道路を歩み始めるとき、道路を歩いているのが《私》である、と表記することがあるが、道路を歩いているあの存在、と客観的に表記することもあります。このどちらかを支持して書くことが大変難しいために、主観と客観の未分化な関連系が生じているというのです。心理的には、《私》が道路を歩いている、と<私>という語を最初に持ってきて表記することにバイアスがかかると思われます。しかし、《私》が道路を歩いている、というとき、他者から見れば、『道路を歩いている大人』とみられることもあります。このとき、生の一部である、「道路を歩く行為」の表記の問題が現前してくるのです。
(令和8年3月27日金曜日 追記)
《私》から見た「歩く行為」というのは、一見ひじょうに簡単に語りうるように見える。しかし、科学的知見を以下に引用する。
歩く動作は人体の全身に関わっている。
人体には200以上の骨、100以上の関節、約四百の骨格筋がある。それらがきわめて繊細な連携プレーを行うことによってはじめて歩く動作が可能になるわけだが、……複雑な人体の機構を自分で動かそうと思って動かしているわけではない。 (國分功一郎︰中動態の……)
歩く動作を行うことにおいて、複雑な人体の機構をコントロールすることはひじょうに難しいという。われわれは、歩く動作を右足で地面を蹴り、左足で着地する、と考え、それ以上思考を停止してしまうことがあることが考えられる。されど、歩く動作を詳察することは、ディルタイの表記主義に還元されうる思想であり、科学的知見を蓄えることを促す。歩く動作そのものを鮮明に説明する探究において、両脚の筋肉と骨格筋が連動し、そして、足の平が自然と地面と接し、地面を蹴り上げる、と考察することも可能であろう。
このとき、《私》は説明の内部に暗黙的に隠れ、第三者の視点で物語を進行させるのである。物語とわたくしが聞いて想起するのは、《16時の徘徊》のお話である。このお話は、いつも16時になると発信者の母親が外を飛び出て徘徊を繰り返してしまう、というものである。発信者は、とある職員にこの《16時の徘徊》のお話を伝え、協力を求めたという。職員は、母親が16時になると子どもの帰りが外で待っているという物語を思って勘違いしていると突き止めたという。母親に「16時に子どもは帰ってきませんよ」と告げると、母親は、「そう」と言うと、《16時の徘徊》をぴたりとやめたという。……
母親が自分の思想として「子どもが16時に帰って来る」と物語を描いていたから、勘違いして待っていた。母親の抱く物語が歴史上の事実とは異なることがうかがえるであろう。
ディルタイも物語というものが気がかりであったことがあるという。物語というのはストーリーであり、歴史上のストーリーを含意している。しかし、《16時の徘徊》をした理由の内部である「子どもが16時に帰って来る」という物語は妄想である。子どもを真摯に待ち続けた母親の誠実な愛が妄想をも巻き込んだのか、わたくしも気になるところである。
一人称視点で語られる内容は、主観的というイメージを受ける。「私が笑ったら、ストレス解消になった」という一人称視点の文脈を、これから三人称視点で替えてみたい。「彼が笑ったゆえにストレス解消につながった」、と客観的に語りうることもありえそうであろう。「彼が笑ったということがストレス解消につながった」という表記も可能であろう。「彼が笑ったことによって脳内を刺激してストレス解消につながった」と脳科学の知見で表記することも可能であろう。
されど、ディルタイを主観性を疎かにしなかった。「私が笑ったら、気分が晴れた」という一人称視点の発言を情意の籠る価値のあるメッセージと捉えたのである。「私が笑ったら、彼も笑った」、という一人称視点と二人称視点の結合した文面は、面白いという発想もある。これを「彼女が笑ったら、彼も笑った」と二人称視点の連続で語ることも考えられるが、表記の美学における一人称視点の主観的抵抗が主観性を美化することを考えれば、一人称視点の文面も必要性のあるものと考えられるのである。


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