他者論を乗り越えて⑦ カント
いよいよ広大な慈悲の心とそこに美しい道徳律を描いた哲学者、カントの哲学を追ってみたいと思います。カントはまず他者を見た時に何を分析しようとするでしょうか。
一、道徳を重んじているかを考える
カントは他者と出逢ったときにまず道徳を重んじているかを考えました。また、その次に、相手が大丈夫か考えました。その次に、相手が勇気があるか分析しました。その次に、相手が殺されないか考えました。カントは、これら四つの分析を怠ることなく、関わった全員に対してこれら四つの分析を実行しました。カントはこれらの分析を私に対して実行したと考えられます。カントは私だけが道徳を重んじ、また大丈夫であり、勇気があると分析しました。これは、私以外の存在者に対しても分析しているのに、私だけがクリアしていたという点で、驚くべき分析内容であったとカントは体験しました。私もこのカントの気がかりな箇所をクリアしていたことに少し感動しました。また、勇気があるか考えていたことには驚きました。勇気があるというのは、彼にとって重要な要素なのではないか、そして勇気を大事にしているカントを見習いたいと思いました。
二、カントの道徳律
カントの道徳律というのは、道徳法則に従うことである、と誤解されて追想されている節があります。道徳律というのは、自身の心の中に咲く華のようなものです。
「私たちにますます新しい、そして増大する賞賛と畏敬の念で心を満たす二つのものがあります。それらをより頻繁に、そして着実に熟考するほどに:私の上に広がる星空と、私の内なる道徳律。私はそれらを、私の視界の地平線の向こうにある覆われた曖昧さや奇抜さであるかのように探したり推測したりしません。私はそれらを目の前に見て、私の存在の意識と直接結びつけます。」
この言葉は、哲学者イマヌエル・カントの著書『実践理性批判』の結びにある有名な一節の一部です。星空と内なる道徳律への畏敬を表す言葉で、全文は「私の上に広がる星空と、私の内なる道徳律、私はそれらを、私の視界の地平線の向こうにある覆われた曖昧なものや、至高の超越的なものとして見出す」といった文脈で、物理的限界を超えた普遍的な法則を指しています。
私の上に広がる星空と、私の内なる道徳律、この二つの観点がカントの心を満たしていたというのです。カントの道徳律は、まさにカントの上に広がる星空を想うだけで幸せであるという観点と、この道徳律によって幸せを獲得するという道徳律であったのではないでしょうか。こうした道徳律は道徳法則とは事を異にしていると考えられます。私がダンゴムシを大事にしてダンゴムシを持っていることが幸せであると道徳律を持ったとしても、他者にはダンゴムシを持つことが道徳法則とは思えないのではないでしょうか。ダンゴムシを大事にすることが道徳法則とは限らないが、個人的に大事にしている存在者の心の中ではダンゴムシを大事にして幸せであることがありうると私は考えています。この大事にして幸せであるという観点が道徳律と呼ばれるが、道徳法則とは呼ばれないという考え方があると私は考えています。《私》の内にあるものが道徳律である、カントはそう言っても言い過ぎではないと考えました。
第三、分析的命題と総合的命題
分析的命題というのは、主語に述語の概念が含まれる拡張的命題と言えます。「未亡人は独身者である」という分析的命題は、未亡人という概念に独身者という概念が含まれています。これと異なる総合的命題は、「猫が眠っている」という主語に述語が含まれない内容であることが懸念されます。猫は眠っていることが当たり前であるから分析的命題でしょう、と反駁することが懸念されますが、「猫」だけでは眠っていると判断することは難しいとも考えられます。猫の中には眠っていない猫も存在していると猫は語ることも経験しました。
第四、猫を観たときに何があるか
自体存在というのは経験したから変更点があるか、と問えば、経験しなくても自体存在は自体存在であったと考えられます。この経験というものがくせ者であることがあり、カントの認識が対象にしたがう、というときに、経験が対象にしたがう場合が懸念されます。猫を観ると何らかの癒やし以外の効果が隠されている、とフッサールは考えました。そもそも猫を観たくなる、愛おしくなるのはどうしてか、という問いもあります。問いがなければ答えはない、という考えも巡ってみたい。逆に答えがあれば問いがあったのではないか。猫を触るときにも何らかの形で現実が揺れ動くという思想もありえそうです。


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