惜別 プレイシティキャロット巣鴨店
2026年3月22日。
40年以上に渡り営業が続けられたとあるゲームセンターがその歴史に終止符を打つことになりました。
平素は格別のご愛顧を賜り、厚く御礼申し上げます。
— namco巣鴨店 (@namco_sugamo) December 15, 2025
誠に勝手ながらnamco巣鴨店は2026年3月22日(日)をもちまして閉店することとなりました。長年のご愛顧、誠にありがとうございました。
閉店日まで通常の営業を行います。 閉店前イベントもご用意しますので最後までよろしくお願いいたします。 pic.twitter.com/14crgVvmvS
その店舗とは「ナムコ巣鴨店(東京都豊島区)」
敢えて今風の言い方をすれば、コンテンツ、ホビー、アミューズメントコングロマリットであるバンダイナムコのグループ会社「バンダイナムコアミューズメント」が運営しているアミューズメント施設のひとつです。
その閉店に際し公式アカウントにて告知された際のインプレッションは200万を超え、このお店が閉店することへの関心の高さが示されています。
そしてこのお店はかつて「プレイシティキャロット巣鴨店」という名称でした。
私は別のブログで、アーケードゲームにおけるハイスコア誌面掲載店についてレポートしていますが、ハイスコアの歴史において「プレイシティキャロット巣鴨店」が果たした役割は非常に大きく、ブログのトピック店舗紹介ではとてもこのお店のことは語り尽くせないため、この度閉店の報を受け、敬意と共にこの記事をまとめることにしました。
そのため、ハイスコアが誌面に掲載されていた1984年から2005年までの内容が中心となり、ナムコ巣鴨店への名称変更も含まれる2006年以降についてはほぼ触れないことになります。タイトルが「プレイシティキャロット巣鴨店」となっているのはそのためです。
また私は常連という訳では決してなく、トータルで訪問した回数は恐らく両手に余る程度のため、深い所縁のある関係者や常連の方には事実や見解の相違があろうかと思います。自身の見聞の範囲で記事を認めていることを予めご承知願います。
1.プレイシティキャロット巣鴨店の誕生
今のスタッフさんはわからないと思いますが、約40年前このお店はゲーマーの聖地だったんですよ。ここのハイスコアラーやバイトのスタッフさんが後に有名な格ゲー作ったり、ゲーム業界で活躍しました。自分もここの常連じゃなければゲーム雑誌のライターにはならなかった。写真は開店当時のチラシです。 pic.twitter.com/AgbXmkhtgA
— 大滝みやび(にら) (@Miyaby_N) December 15, 2025
プレイシティキャロット巣鴨店のオープンは1984年2月24日であることが当時配布されたチラシから判明しています。2026年3月22日のクローズでその営業期間は実に42年にも及びます。
当時のゲームセンターと言えば、「スペースインベーダー(タイトー、1978)」の記録的ヒットによりビデオゲームが広く普及し店舗数が拡大したたものの、
・当時はゲーム機をただ置いておくだけ、店員も典型的な「店番」だった場所が目立ち、顧客対応や清掃はおざなりな店が多かった
・店舗は飲み屋や風俗店が林立する繁華街に数多く立地しており、中には10円ポーカーのようなゲームセンターに偽装した賭博店も混じっており、学生や子供が気軽に近寄れる場所ではなかった
・当時の物価水準で標準1ゲーム¥100は高く、プレイ代欲しさに不良層による恐喝行為等が横行しており、また店舗側もそれを放置していた
このような背景からゲームセンターは3K(暗い・汚い・危険)と揶揄され、社会的に忌み嫌われる存在となっていました。
その逆風の中、当時のナムコ社が運営するゲームセンターは、ナムコが元々は子供用遊具の木馬製造からその歴史をスタートさせている関係で百貨店やショッピングセンター内の店舗を多く抱えており、特に子供やファミリーの来店を意識するため自社店舗を3Kとして呼称されることに他社以上の抵抗があったのではないかと思われます。
一方でポストインベーダーとして「ギャラクシアン」「パックマン」といったビデオゲームをヒットさせ、以降も「ディグダグ」「ゼビウス」「ドルアーガの塔」といったタイトルを世に送り出した80年台前半のナムコは、当時のビデオゲームフリークから絶大な支持を得ることになります。
その追い風を受けて店舗についても百貨店やショッピングセンター内だけではなく、ゲームフリークやヤングアダルトに訴求する都市型店舗を展開して行きます。「キャロット」はその都市型店舗のブランド名でした。
そこでナムコは、ゲームセンターが持たれていた3Kのイメージを払拭するべく、様々な運営施策を展開します。
・暗い、汚いと言われた店舗内外装を明るく綺麗なものとし「入りやすいお店」のイメージ普及に努めた
・自社単独スポンサードラジオ番組(ラジオはアメリカン)の展開や、広報ミニコミ誌(NG)の発行など、当時のゲーム業界においては斬新な広告宣伝手法を用いた
・ゲーム大会の実施、ハイスコアの集計や誌面掲載、オリジナルグッズの作成販売、コミュニケーションノートの設置、筐体へのヘッドホン端子取付といったゲームフリーク向けの各種施策を直営店舗で展開した
これら施策は「ナムコのお店は楽しく安心して遊ぶことが出来る」というイメージを当時のゲームファンに対して確立するに至ります。
またミニコミ誌「NG」創刊号の表紙を飾る「ゼビウス(1982)」のヒットが店舗に与えた影響は非常に大きいものでした。
2021年3月27日撮影
ゼビウスのスコア1,000万点を達成することが当時のゲームフリークのステイタスになるのですが、その攻略拠点としてナムコ直営店である「ゲームブティック高田馬場」の名前が全国的に知られることになります。
その後「ゼビウス1,000万点への解法」の作成者でもある大堀氏の熱意により、電波新聞社から刊行されていた「マイコンベーシックマガジン」別冊「スーパーソフトマガジン」1984年1月号から誌面でのハイスコア全国集計「チャレンジハイスコア!」コーナーが開始されます。以後40年以上に渡って継続する本格的なアーケードゲームハイスコア集計が誕生した瞬間でした。
その「チャレンジハイスコア!」コーナーに初めて登場した店舗26店は全てナムコ直営店が占めていたことから、ゲームタイトルのみならず直営ゲームセンターもゲームフリークに特別な存在として認知されていくことになるのです。
その流れを受けて、ナムコは全国にキャロットブランドの店舗を拡大していきます。
1984年のナムコ会社案内では、直営店として東京地区に9店(ゲームブティック高田馬場を含む)だったキャロットブランドが、1988年のマップでは20店にまで拡大しています。
プレイシティキャロット巣鴨店も、その拡大戦略の最中に産まれたお店のひとつでした。
2.黎明期~ハイスコアラーの聖地と呼ばれるまで
こうしてオープンした巣鴨店ですが、オープン直後は決して順風満帆とは行かなかったようです。
元々巣鴨は「おばあちゃんの原宿」と言われる巣鴨地蔵通り商店街が有名で若者が積極的に寄り付く街ではなく、また店舗の場所が人通りの多い駅北側ではなく駅南側だったこともあり、「なかなか人が集まらなかった」ものの、「口コミなどでやっと人気が出てきた」と記事で触れられています。
店舗はパチンコ店の地下1階で、地上の入口から店内は窺い知れない構造だったものの、間接照明と装飾を多用した明るい店内はナムコが推し進めていた都市型店舗のパッケージでしたが、特に巣鴨店が他と異なっていたのは当時としては非常に広い面積を持ち合わせていたことでした。
当時の都市型店舗は店内に窮屈なレベルでテーブル筐体を並べた20~30坪程度の店舗が多数を占めており、ナムコ直営店においても既存の狭い都心店はその構造から逃れられませんでしたが、巣鴨店は100坪を超える面積を擁しており、かつそこに筐体を余裕をもって配置、自販機を設置した飲食可能な休憩コーナーを設けるなど、店舗の収益最大化を犠牲にしても広さを生かした雰囲気の向上やプレイヤーへのサービスを重視する姿勢が随所に感じれられました。
加えて店内の広さは配置だけでなく、他店ではあまり見ることの出来なかった海外製品の大型アップライト筐体やピンボールの導入にも生かされました。また新製品の入荷も比較的良好だったことから、それまでゲームブティック高田馬場が担っていた「東京地区の代表的ナムコ直営店」の地位を徐々に代替していきます。
またハイスコアの店内掲示は開店直後から行われていたようですが、スーパーソフトマガジン誌面への掲載は若干遅れて1984年10月号からとなっています。掲載当初から高レベルのスコアを連発したことでプレイシティキャロット巣鴨店の名前が全国に浸透していくことになります。
そして巣鴨店の地位を不動のものとしたタイトルが「グラディウス(コナミ、1985)」であったことは疑いのない事実と思います。
1984年2月オープンのため、80年台前半のナムコ黄金期には若干出遅れたものの、登場直後からプレイヤーを虜にしたグラディウス初の1,000万点が巣鴨店を含む2店で達成されたことで店舗の認知度アップに拍車がかかります。
その後1986年に入り、初のアーケードゲーム専門誌であるゲーメストが創刊されると、特集記事「プレイランドツアー」にて最初に取り上げられた店舗が巣鴨店でした。
ゲーメスト創刊に深く関わっていたゲームサークル「VG2」が巣鴨店を拠点としていた影響も勿論大きかったのですが、「ここがかの有名なプレイシティキャロット巣鴨店である」と出だしにある通りにゲーメスト創刊時において既にその地位は揺るぎないものになっていました。
この頃のユーザーフレンドリーかつ全国から腕に自信のあるプレイヤーが続々と集まっていた頃の店舗像が、特に80年台以前からアーケードゲームに深くのめりこんでいた方々が巣鴨店に持ち続けていたイメージなのではないでしょうか。
3.全盛期~普通のゲームセンターへの転換
プレイシティキャロット巣鴨店→ナムコ巣鴨店の「全盛期」をいつと捉えるのかは、どの時期でこのお店と関わっていたのかによって回答が変化するのでしょうが、少なくとも「プレイシティキャロット」時代と捉えるのであればグラディウス登場の1985年から1988年付近までを指していることに異論がある方は少ないのではないかと思います。
創刊号ではハイスコアの掲載がされなかったゲーメストにおいても、「めざせハイスコア!!」コーナーとして本格的にスコア集計が開始された第3号から掲載を開始、全国的な知名度が更に拡大し、ゲームフリークの間では当時のアミューズメントマシンショー開催時に合わせて、また修学旅行の自由行動中に巣鴨詣でをする光景も見られるようになりました。
この頃筆者は愛知県に住んでおり、名古屋市内に存在した「星ヶ丘キャロットハウス」に出会うことで当時のナムコ直営店の素晴らしさを知ることになります。そこからゲーメスト誌を通じて巣鴨店のことを認識するのに時間は掛かりませんでした。
そして学校の長期休暇になると関東に帰省していたのですが、その際に初めて巣鴨店に訪問したのが確か1988年。まだ店舗改装前でフロアは地下1階のみであり、オープン当初の雰囲気を色濃く残していた時期だったと記憶しています。
当時はナムコ東京西事務所作成の「キャロットクラブ」という管内店舗限定で配布されていたミニコミ誌があったのですが、手に取ってみると登場したばかりの「大魔界村(カプコン、1988)」をこれでもかというレベルでこき下ろしていた記事が掲載されており、感化された私はカプコン贔屓であったゲーメストの購読をやめ、しばらくカプコンのゲームには触れなくなることに。
自分が若輩者であった頃のエピソードではありますが、メーカー系列であるにも関わらずゲームに対して批判的な記事が書かれたミニコミ誌を設置する懐の深さもお店にはありました。ハイスコアで語られがちな巣鴨店の全盛期において欠かすことの出来ない一面であったと思います。
そして「めざせ ハイスコア!!」コーナーにて、全国トップスコアを輩出した店舗にその証として「☆」を給付する制度が開始されると、最初に☆を10個獲得した店舗として改めて巣鴨店が紹介されます。
まさにハイスコアのフロントラインを突き進んでいた時期ですが、3代目店長へのインタビュー後半には、この後に訪れる状況の前兆となるような内容が掲載されています。
確かにナムコでも、マニアじゃなく一般客を、という意見が出されていることを感じますが、ウチの店は大丈夫ですよ。まあ、お客さんの層をもっと広げたいという考えから出ているものだと思いますが…
80年台前半で店舗網を拡大したナムコの「キャロット」ブランドによる都市型店舗ですが、後半になるとその出店ペースは大きく減退することになります。また既存店舗においてもゲームフリークを中心とした常連層を煙たがる雰囲気が徐々に露出してくるようになります。
この雰囲気は1987年のゲーメストにおいて「常連を敵視するメーカー担当者」の話が誌面に掲載されていたりします。この時はまだ「店内で多少ゲームをプレイしない時間があった程度で敵視されるのはいかがなものか」という風潮だったのですが…
それと、こういうのは、めったにないと思いますが、店内で、ハーモニカを吹きはじめる人までいたそうです。たしかにこれはちょっと他の人のことなど考えていないという感じはしますね。とまあ上記のようなことがあってハイスコアをやめてしまえばマニアは減るだろうということになったらしく、掲載をやめることにしたそうです。
この編集後記は極端な事例だとは思いますが、これ以前にも常連化したゲームフリーク層による長時間プレイ、新製品の占拠、一般客への示威、奇行といった行動が一部店舗で認められたことで、先鋭化した常連層がお店にとって有害な客として認知されてしまったのではないでしょうか。
またゲームフリークの囲い込みに最も積極的だったナムコ直営店は、80年台後半になり黄金期の自社商品力が保てなくなると、直営店に集まる客層の要望に応えることが厳しくなるという問題も抱えていました。
これは巣鴨店がグラディウスという他社製品で有名になったことの裏返しでもあり、ナムコがトップブランドであった時期は自社製品を中心に揃えていればプレイヤーの支持を得られたのに対し、80年台後半になってヒットしたグラディウス、ダライアス、R-TYPEの「横スクロールシューティング御三家」やセガ体感ゲーム群は全て他社製品となり、自社店舗に導入するためには他社から購入しなければならない状況となります。
広い店舗面積を有していた巣鴨店はまだ新製品の入荷で優遇されていた向きがありましたが、小規模な店舗では新製品の入荷が伴わず最新の人気タイトルをプレイしたい客層が離れていくと、それはむしろマニア排除に舵を切った店舗にとって「無理して追う客層ではない」と判断されてしまいます。
こうしてゲームフリークが徐々に離れていき、ベーシックマガジンのチャレンジハイスコアコーナーにて最大で全国に61店(1985年5月号及び1986年3月号)もの掲載店数を誇ったキャロットを代表とするナムコの店舗はその掲載数を減らしていくことになります。その潮流の最中である1990年、巣鴨店はオープンから6年を経過して店舗の改装に踏み切ることになります。
ただ、この店舗改装を機に「マニア排除」の運営方針は遂に巣鴨店にも押し寄せてくることになります。
手始めはゲーメストの「めざせ ハイスコア!」コーナー通信欄に掲載された上記のコメント。「今後とも続行いたします」という言葉が、ハイスコア集計を続行するか否か判断を迫られたという状況を浮き彫りにしています。
そして、ゲーメスト1991年3月~5月号に以下の記事が掲載されることで、巣鴨店とゲーメストが袂を分かつことが決定的になってしまいます。
ゲームサークル「VG2」が巣鴨店のオープン当時に深く関わっていたことは前述しましたが、そのVG2会長でありゲーメスト初代編集長でもあった植村伴北氏が、「さらば私の青春」と題し、かつての巣鴨店の運営や人間模様を回顧しながら改装によってヤングアダルト層をメインターゲットとする店舗に変貌したことを嘆く内容となっています。
そして名指しされてしまった巣鴨店は、1991年5月号にて5年弱続いたゲーメストへのハイスコア掲載を終了することとなります。巣鴨店の黄金期と言われる時期の終焉でもありました。
しかし植村氏自身が最初に「今日ではその名前をあまり聞かなくなった」と記している通り、改装前の1989年付近からはそれ以前に店舗が放っていたカリスマ性がかなり衰えていたのは事実です。
前述の通り80年台後半にナムコはビデオゲームトップブランドの座を維持できなくなり、直営店は他社製品の品揃えにおいて優位に立てなかったこと、また横スクロールシューティングゲーム御三家の後継作であるグラディウスⅢ、ダライアスⅡ、R-TYPEⅡが揃って前作を超えるヒットを得られなかったという商材面の影響に加え、若年プレイヤー層は80年台後半に隆盛してきた家庭用ゲームに興味が遷移してしまったことがゲームセンターに影を落としつつあった時期でもあります。
その状況において店舗改装で固定費が増大した以上は店舗管理者はそれに伴う数字を求められるのは当然であり、ノスタルジーだけで維持できない以上は店舗の一般化は避けがたい状況だったのではないかと考察します。
こうしてゲーメストとの関係は一旦切れてしまったのですが、ナムコと関係が深かったことが考慮されたのかベーシックマガジンのハイスコア集計は継続されました。全国から猛者が集うような黄金期は過ぎ去ってしまうものの、ハイスコア集計店としての命脈は保たれたことになります。
4.対戦格闘ゲームの隆盛~ゲーメスト掲載店への復活
おりしも巣鴨店がゲーメストへのハイスコア掲載を中止した1991年は、ストⅡこと「ストリートファイターⅡ」が登場した年でもあります。
発売開始から人気を博しましたが、当初はCPU戦にてクリアを目指すプレイスタイルで翻ってハイスコア争いにも活気がもたらされるものの、程なくして筐体2台を対面に配置した「通信対戦台」が登場すると乱入への敷居が下がったことで対人戦が爆発的に増加、家庭用ゲームの台頭もあって停滞していたアーケードビデオゲーム市場にパラダイムシフトを巻き起こします。
それこそ対戦台を増やせば増やすだけ売上も比例して伸びるため、店舗はこれまでシングルで設置されていた筐体を続々と対戦台に振り替えるようになりました。
しかし、ナムコ直営店を含めたメーカー系列店舗はその恩恵は限定的となります。
メーカー系列店舗は自社製品以外の入荷が限られてしまうことは前述しましたが、ここでもストⅡを代表とするカプコン製品や、追って勢力を拡大するSNKのネオジオ製品は全て他社製品となり、物量で勝負できなかったためです。
これは千葉県のナムコ直営店「市川ゲームスポット」のハイスコア通信欄ですが、ストⅡ対戦全盛期の1992年に当時最新のストⅡダッシュはおろか初代ストⅡさえ設置されていない状況では、相当厳しい店舗運営を迫られていたことは想像に難くありません。
ナムコも2D格闘ゲームブームに追従して、1993年に「ナックルヘッズ」をリリースしますがヒット作とはならず、ムーブメントを起こすことは叶いませんでした。自社製品で勝負できるタイトルは、3D格闘ゲームに舞台を変えた「鉄拳」シリーズのヒットを待つことになります。
一方巣鴨店においては、全国から多数のハイスコアラーが集まるという状況は去り、近隣のプレイヤーが集う街のゲームセンターへと戻ることになるのですが、ナムコ直営店という事情から流行りのカプコンやSNKの格闘ゲーム対人対戦台で店舗を埋め尽くすことは出来ないため、これまでの顧客を繋ぎ止める必要性からかベーマガのみとはいえハイスコア集計は維持されていました。
そして一度ハイスコア掲載が中止されたゲーメストですが、約3年後の1994年7月30日号から誌面への掲載が復活することになります。
再掲載された際には、店舗そしてゲーメスト誌からも過去の経緯については一切触れられませんでした。時間が経過し関係者の面子も様変わりしていたためノーサイドとされたのでしょうか。
この頃になると、対戦格闘ゲームにおいても著名なプレイヤーが集う有名店が現れるようになりました。ハイスコア集計店と同様の現象が起きてきたと言えます。
巣鴨店においては、ハイスコア集計店としての最盛期は過ぎてしまったものの、ゲーマー向け運営やゲーム大会の実施といったイベントのノウハウがスタッフによって維持されていたのでしょう。対戦格闘ゲームにおいてもその蓄積が生かされ、スコアラーのみではなく格闘ゲーマーにも巣鴨店の認知度が高まってくるようになり、80年台の「ハイスコアラーの聖地」とは異なった形で再び注目を浴びてくることになります。
これは1995年時点のハイスコア掲載店を網羅した付録で、巣鴨店も掲載されていますが本文中に「ストⅡの大会は、こちらも全国レベルの内容です」とあるように、既にハイスコアが中心の店舗ではなくなっていました。
その後、1996年に巣鴨店は2回目の店舗改装を実施するのですが、この改装は規模の大きいもので、最も特徴的だったのはそれまで建物地下1階のみであったフロアが地下2階にも拡張されたことです。閉店まで維持された地下1,2階のフロア構成はこの時に確立されています。
そしてスコアラーが集うゲームセンターとしてゲーメストの特集記事「ハイスコアラーの世界」にて単独で店舗紹介がされるまでに至ることになります。かつて決裂を招いた記事の掲載から5年が経過していました。
その記事の見出しでは「あえて過去には触れず…」とあるように、過去の栄光には一切触れず、「現在の巣鴨店」に集うプレイヤーにスポットが当てられています。90年台も後半に入ると、アーケードゲームのトレンドが対戦格闘ゲームへ移行しハイスコア掲載店は縮小の方向に推移する中、巣鴨店は集計を継続し続けたことで新たなスコアラー層が形成されつつありました。
この「90年台の巣鴨店」という視点は、特に巣鴨店の歴史の中では意外と抜け落ちている部分なのではないでしょうか。
80年台の店舗の印象が強烈であったが故に、90年台以降に新たなスコアラー層や対戦格闘ゲームプレイヤーに世代交代した姿があまり認識されなかったことが理由として大きいと思われます。
上記画像はゲーメスト最終号である1999年9月30日号の巣鴨店のハイスコア欄ですが、トップスコア獲得の証である☆の数が、1994年に再掲載された際の「106」から「363」まで増加しています。満遍なく各種ジャンルのゲームでトップスコアが輩出されていましたが、特にドライブゲーム等の大型筐体ものが強かった印象があります。
単純に同じ土俵で比較できない部分はあるとはいえ、90年台においても巣鴨店は充分に「ハイスコア有力店」としての地位を維持し続けていたことは疑いのない事実です。
5.ハイスコア掲載店としての終焉
90年台頭のゲームフリーク排除の潮流を乗り越え新陳代謝に成功した巣鴨店ですが、ハイスコア集計店としての終焉はむしろ外部環境の変化からもたらされることになります。
まず、1984年1月号から続けられていたマイコンベーシックマガジンへの「チャレンジ!ハイスコア!」コーナーが、1999年3月号にてピリオドを打ちます。これに伴い1984年10月号から14年半に渡って続けられた巣鴨店の掲載も同号にて終了することになります。
1983年11月号から「スーパーソフトマガジン」を本誌に付属させいち早くゲーム関係の記事を充実させたベーシックマガジンでしたが、80年台後半からゲーム専門誌が数多く創刊されると、ゲーム記事としては広く薄く、悪く言えば徒花的であったベーマガは徐々にゲーム情報誌としての地位が低下して行きます。
それでも歴史ある「チャレンジ!ハイスコア!」コーナーは誌面再末尾とはいえ細々と継続していたのですが、1999年4月号からゲーム関係記事が誌面から縮小されるとあっけなくリストラされてしまいました。特に掲載を中止する旨の案内はなく、コーナー終了は関係者にとって青天の霹靂であったことでしょう。
一方のゲーメストは対戦格闘ゲームブームに乗ることで1994年から刊行は月2回となり、またコンビニでの取り扱いも開始され順風満帆と思われていたのですが、実際にはゲーマー向けグッズショップの「〇ゲ屋」多店舗展開などが原因で刊行元である新声社の経営は火の車だったようです。
そして新声社の倒産によって1999年9月30日号を最終号としてゲーメスト誌は突如休刊することになります。
奇しくも同じ1999年に、それまでハイスコア集計を支えてきた2誌が共に予告なくスコアの掲載を終了することで、公式な「アーケードゲームハイスコア集計」の中止が危惧される状況になります。
ただゲーメスト最終号から3か月後の2000年1月、アスキー社(当時)か休刊したゲーメスト編集部員を引き受け実質後継となる「アルカディア」誌を創刊しハイスコア集計も復活、巣鴨店も改めて掲載が開始されます。
ゲーメスト休刊で途絶えさせるには惜しい需要がまだハイスコア集計、そしてアーケードゲーム専門誌に残っていたとも言えます。
ただ、アルカディア誌ではハイスコア集計は人気のないコーナーとして常にノミネートされる状況だったようです。
その後ハイスコア掲載における個別店舗欄は2006年1月号をもって一旦廃止され、以降は集計店一覧として掲載は続いたものの、そちらも2008年11月号を最後に掲載がされなくなりました。
アルカディア 2004年8月号より
そして個別店舗欄としての巣鴨店ハイスコア誌面掲載は、アルカディアから店舗欄が消える以前の2004年8月号が最終となっています。
この個別店舗欄にて最後に掲載された2004年8月号、それとも集計店一覧として最後に誌面にリストアップされた2008年11月号のどちらを「ハイスコア掲載店としての最終掲載」と考えるのかは判断が難しいのですが、2004年8月号を店舗としての最終掲載とするのが個人的には妥当と考えています。
こうして「ハイスコア掲載店」としての巣鴨店は、途中で掲載を欠いた期間も含めるとベーマガ1984年10月号~アルカディア2004年8月号が掲載実績となり、ほぼ20年に渡り店舗欄に「プレイシティキャロット巣鴨店」の文字を刻み続けてきました。
全国のトッププレイヤーが集いゲームフリークから憧れの存在として認識されたのは80年台の巣鴨店ですが、それを含めて20年というアーケードゲームハイスコアの歴史をほぼ全ての期間で見届けてきた実績は、改めて巣鴨店を「ハイスコアラーの聖地」足らしめるのに充分なものではないでしょうか。
しかしこの20年という期間をもってしても巣鴨店の全ての歴史においてはまだ前半戦でしかなく、ここから閉店を迎えるまでの20年という後半戦が控えています。後半戦はかつてのハイスコアラーや、ストリートファイターⅡシリーズをメインとした対戦格闘ゲームプレイヤーは離れてしまったものの、時代に合わせて運営を最適化し、客層を変えて店舗を存続させてきました。
特にナムコ自社IPタイトルの宣伝基地として、中でも鉄拳シリーズの聖地として再び注目を浴びていくことになるのです。
正直、巣鴨店は当面閉店することはないと思っていました。
少なくとも売上だけであればコロナ禍の方がより厳しかったでしょうし、もはや全国でプレイシティキャロットとしてオープンの後に営業が続けられていた店舗は巣鴨と横浜伊勢佐木町の2店のみとなっており、ナムコ店舗の象徴としてここだけは今後も残していくのだろうと考えたからです。
残念ながら巣鴨店は閉店を迎えることとなってしまったものの、閉店前にこれまで店舗に関わりの深い関係者が閉店に寄せてコメントした動画が放映されており、この異例とも言える対応はプレイヤーだけでなくナムコという企業にとっても巣鴨店が特別な位置付けであったことが充分に伝わってくるものでした。
ここの閉店で、ビデオゲームを中心とした店舗は本当に終焉を迎えたのかもしれません。ハイスコアだけでなく、アーケードビデオゲームの時代を象徴する店舗だったと思います。
最後にこれも巣鴨店名物と言えた、地下に繋がる狭く細く急な階段、そして階段を下りた先が全く見通せない構造…
あの階段を下りるときの期待感、そして店内に足を踏み入れた時の「特別な場所に来た」という高揚感、それはプレイシティキャロット巣鴨店のみが与えてくれた至福の時間でした。その時間を共有できたことに改めて深く感謝します。
42年間もの永きに渡る営業、誠にありがとうございました。


イエティくんありがとう! 時代背景とその変遷を交えながら要所で紹介された資料とともに書かれた記事は控えめに言って神!
素晴らしい記事に感謝です。
最初期の常連でしたので、その後のことまで詳細が書かれていて良かったです。私のXのポストも流用されていて、役に立ったようで良かったです。