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ひかれ、おちる/Novel by あんごら

ひかれ、おちる

12,132 character(s)24 mins

槍弓です。学パロ槍弓。

思春期の柔らかい心が繊細に揺れ動く…みたいのが書きたかったんです。
書きたかっただけで書けてはないんですけどね!!

付き合ってもないので槍弓表記かも微妙ですが雰囲気楽しんでってください。

表紙はこちらからいただきました。illust/37418455

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 あれは九月の半ばの頃だったろうか。夏も終わりかけとはいえ、動き回ればまだまだ汗を掻くような時期。大いにバレーボールに興じ、額を流れる水滴を体操服の裾で拭いながら、クー・フーリンは体育館を出ようとしていた。
体育教師に声をかけられたのは、たまたま近くに居たからだろう。

「クー・フーリン、エミヤ。ポールの片づけを頼む」

 クー・フーリンは思わずげぇと声を上げ、鼻にしわを寄せてしまった。反抗しようにも、指示を出した体育教師は部活の顧問だった。なるべく逆らわないほうが得策だというのは一年と少しの部活生活で身に染みていた。ちらりと見やれば、やはり文句でもあるのかといった表情で、教師はこちらを睨んでいる。囃すように友人たちが肩を叩いてそそくさと去っていった。間違っても押し付けられないようにという魂胆が見え見えだ。
呼ばれたもう一人は既にポールに手をかけ、持ち上げようとしている。優等生さんは違うぜ、と心の中だけで悪態を吐き、諦めて反対側のポールへと向かった。
 自分と共に片付けを押し付けられた生徒、エミヤと、クー・フーリンは親しい仲ではなかった。しかし、険悪というわけではない。むしろ険悪になれる程の交流すらないと言うべきだろう。これは決してクー・フーリンに限ったことではなかった。このエミヤという男子生徒は、クラスメイトとほとんど関わろうとしない。話しかけられれば応えるものの、用が済んだとみなせば、それで会話を切り上げてしまう。それでもなお構おうとするほど他の生徒たちも暇ではなく、その素っ気なさからエミヤは周囲に遠巻きにされていた。本人はそれを自覚しながらも全く苦には思っていないようで、むしろ好都合とでも言わんばかりに堂々と過ごしている。この年頃の少年にしては珍しく教師に従順な姿から、優等生や点数稼ぎと揶揄されることはあれど、目立っていじめの標的にされていることもなかった。
 一方のクー・フーリンは持ち前の明るさと人懐っこさから常に友人に囲まれ、騒がしい学生生活を送っていた。若さゆえの好奇心は様々な方向へと向かい、楽しそうなことには何でも乗っかる。それゆえ学業がおろそかになることがあるのが玉に瑕であったが、それさえ愛嬌に変えるだけの魅力を持ち合わせた少年だった。
 見た目よりずっと重量感のあるポールを両手で掴み、気合を入れて床から抜く。肩に凭せ掛けるようにして斜めに持ち上げ、周りにぶつけないように気をつけながら運んだ。同じようにして前を行く背中は、こちらには全く頓着せずに仕事をこなしている。そういえば、この姿を見るのは久しぶりかもしれないと、クー・フーリンは思った。普段からそう目立つ行動をしない男ではあるが、ここ数日ほどその毛の先すらも視界に入らなかったような気がする。風邪で欠席していたのだろうか。その疑問をぶつけるほどの親交は二人の間にはなかった。


 その数分後、クー・フーリンは珍しくもエミヤとの会話を試みていた。

「おい、いつまでやってんだそれ」

 呆れと苛立ちの混じった口調も意に介さず、エミヤは黙々と作業を続けている。変わらぬ現状に、クー・フーリンは何度目か分からない大きなため息をついた。
 エミヤが行っているのは、ポールの収納である。教師の指示通りに体育館倉庫にポールを運び、所定の位置に置く。そこまでは良かった。それで仕事は終わったとクー・フーリンは思っていたのだった。

「なあもう戻ろうぜ」

 思っていたのだったが、几帳面なエミヤにとっては違ったらしい。クー・フーリンが適当に置いたポールに盛大に眉をひそめたかと思うと、全て平行になるように綺麗に並べ替え始めた。自分のガサツさを責めるようなその行動に、その場を離れるわけにもいかず、クー・フーリンは手持無沙汰に後ろから眺めていたのだった。

「先に帰っていてくれて構わない。これは私が勝手にやっていることだ」

 振り返りもせずに言うエミヤにムッとする。表情が見えない分、低音で響く言葉は嫌味にも聞こえ、なお立ち去る気が無くなった。
 自分が手伝ったところできっと仕事を増やすだけだと思い、無言でエミヤの後ろ姿を眺める。帰宅部だという噂だったが、薄い体操服の下には意外にもバランスよく筋肉が付いている。よくよく思い出せば先の授業でも安定したボールさばきを見せていた。その割に活躍が見られなかったのは、単に本人にやる気がなかったのだろう。
 そんなことを考えていたから、出来を見ようと後ろに下がってきたエミヤに対する反応が遅れた。エミヤの方でも自分はもう帰ったと思っていたのか、全く後ろを確認せずに近づいてくる。

「あ」
「な…!」

 声を上げたときにはもう遅かった。エミヤの背中とまともにぶつかり、足が絡んでバランスを崩す。幸いにも後ろに置かれていた大きなマットに二人して倒れ込んだ。僅かなカビのにおいがふわりと広がる。ふかふかのマットと自分より少し高い体温の間に挟まれるのを感じた。

「わりぃ」

 手をついて起き上がろうとすれば、不覚にも相手を押し倒すような体勢になってしまう。手とマットの間にエミヤの体操服の端を巻き込んでしまい、襟首を大きく伸ばしてしまった。
 目に入ったのは、拡げられた襟首から覗く、いつもより広い褐色の肌と、黄色く濁った痣だった。張りのある健康的な肌の上を横に細く走るその痣は、異様な存在感を放っていた。時間にして一秒あったか否か。その間に、痣はくっきりとクー・フーリンの脳裏にこびりついた。

「重いのだが」

 不満を表す声に我に返って体をどける。痣を見られたことに気付いていないのか、常と変わらぬ様子でエミヤは立ち上がり、パタパタと体操服を叩いて埃を落としている。遅れてクー・フーリンも立ち上がり、同じように服を叩いた。

「まさかまだいるとは思ってなくてね、後方の確認を怠った。すまなかった」
「あぁ、オレもぼんやりしてて悪かった」

 エミヤの表情には険がなく、素直な謝罪であることが分かる。つられてクー・フーリンも謝罪を返した。口調が嫌味っぽいのは生来の癖なのだろうか。
 すぐにエミヤはポールの方へと向き直り、ふむふむと頷いた。満足のいく出来だったようで、少し口角が上がっている。

「待たせたな。帰ろう、次の授業に遅れてしまう」

 そう言うなり、エミヤは出口の方へと足早に向かった。すれ違う瞬間、思わず胸元に目をやってしまう。白い体操服に覆われて、先程の痣は見えなくなっていた。



 チャイムが鳴り、四限目の終了を知らせる。教師への挨拶もそこそこに、ガヤガヤとした喧騒が教室中に広がった。育ち盛りの男子生徒たちは昼食の時間になるのを今か今かと待ち望んでいたし、おしゃべり好きの女子生徒たちは、昨日のドラマについて我先にと話し出している。クー・フーリンも昼休みを待ち構えていた一人であったが、その理由は他のどの生徒とも異なっていた。

「クー、飯食おうぜ!」
「わりぃ!今日はパス!!」

 いつもの友人の誘いも片手を上げて断る。なんだよつれねぇなという不満の声への対応もそこそこに視線を巡らせれば、目的の白い髪の生徒は早くも教室を出ようとするところだった。今朝買ったパンを鞄からひっつかみ、慌ててその後を追う。廊下に出て左右を見渡せば、ちょうどその背中が人ごみに紛れ込むところだった。

「どこ行くんだ、あいつ」

 追われていることにも気づかず、その背中はずかずかと前に進む。普段から教室で昼食を取っている様子はなかったので、一階の飲食スペースにでも行っているのかと予想していた。しかし、予想に反してその生徒、エミヤは階段を昇っていく。一階分階段を上がり、さらに上へと進む姿を見てクー・フーリンは首を傾げた。この校舎は四階建てで、二人のクラスは三階。今エミヤが上る階段の先には屋上しかなく、そこは安全のために施錠されており、生徒は入れないはずだった。案の定エミヤは屋上の入り口で立ち止まる。ここで引き返されたらすごく気まずいことになるのでは、とクー・フーリンは一瞬冷や汗を掻いた。踊り場で足を止め、手すりの陰から様子を伺う。数秒ガチャガチャという音がした後、蝶番のしなる、キィという音が聞こえた。身を乗り出せば、鍵を持っていたのか、すんなりと屋上へと踏み入るエミヤの後ろ姿が見えた。閉まり始めた扉を見て、二段飛ばしで階段を駆け上がる。あっという間に扉の前に辿りつき、その勢いのまま、閉まりかけた扉に手をかけた。

「は…?」

 予想していなかった扉の動きにエミヤが呆けた声を上げる。その表情もまた口と目が僅かに開いた間抜けなもので、いつもの鉄面皮が崩れたとクー・フーリンは少しの達成感を覚えた。

「よぉ、一緒に昼飯食べねえ?」

 左手で扉を押さえ、右手で持ってきたパンを掲げて揺らせば、さらにエミヤの困惑は深まる。その隙をついて、完全に体を滑り込ませた。

「な、なぜここにいるんだ、クー・フーリン!」
「んー、今日はお前とメシ食いたい気分だったんだよなあ」

 な、いいだろ?と緩やかな笑顔を浮かべて首をかしげる。友人たちにお前は黙ってずっとその顔してろ、と評判の表情だ。この際なんだって使ってやるつもりだった。それに、目の前の男が、愛想は悪いが人の頼みを断れない人種であるのも有名な話であった。
 少しだけ秋の空気を纏った風が、エミヤの褐色の頬を撫でた。

「…好きにしろ」

 案の定エミヤが返したのは肯定であった。照れたように目線を逸らす様子にクー・フーリンはにんまりと笑った。

「よっしゃ、ありがとよ!」

 浮かれた気分のまま、エミヤの肩を叩く。慣れない距離感なのか不満そうなエミヤだが、言質は取れたし構わない。と、そこでクー・フーリンはあることに気が付いた。

「エミヤ、お前弁当は?」

 エミヤの両手には弁当どころか財布すらない。全くの手ぶらでここまで来たのかと不審に思う。聞かれた本人はと言えば、唖然とした顔をしていた。尋ねた自分よりも驚いているようにすら見える。数秒固まったのち、エミヤは消え入るような声で言った。

「…忘れた」

 場に響き渡ったのはクー・フーリンの笑い声。エミヤの頬には一瞬で血が上り、その両手はどうしていいか分からないといったようにあわあわと虚空をさまよっている。

「お前って、天然なの…?」
「うるさい!」
「あいたっ!」

 腹筋が引きつるほど笑い、息継ぎの合間に死にそうになりながら問えば、照れ隠しの平手が飛んできた。今日はなんだか優等生の色んな表情が見れる日だ、とクー・フーリンは頬の痛みも忘れて嬉しくなった。もしかすると、こちらが素なのかもしれない。

「しかたねぇなあ、パン一個やるよ」
「いらん」
「やるっつってんだろ」
「敵からの施しなど受けん!」
「敵って…さっき笑ったこと言ってんのか?悪かったって…ぷっ」
「貴様…!!」

 額に青筋を浮かべて怒り、エミヤは頑なにパンを受け取らない。押し問答を繰り返した末に双方の腹がなり、お互い意地を張るのもバカバカしくなって、後日礼をするという条件でようやくエミヤはパンを受け取ったのだった。

 入り口の裏側、給水塔へ上る梯子の脇でやっと食事を始める。

「必ず返すからな、待っていろ」
「そんな首を洗って待ってろみたいなテンションで言われてもなぁ…」

 皮肉屋の仮面を被り直そうとしてか、強い口調でエミヤが挑発してくるが、クリームパンを食みながらではどうも迫力に欠ける。さらに一度ころころと変わる表情を見てしまったクー・フーリンからすれば、もう怖くもなんともないのであった。
 余裕ができたのでこっそりと近くから観察する。今日わざわざエミヤを追いかけてきたのには訳があった。それは体育の時間に見つけた痣だ。胸部にある異様な痣。それは黄色く変色し、付けられてから時間が経ったものであることを示していた。どのような理由によりついたものかは分からないが、それは横に長く広がっており、なかなかの衝撃が加わったものではないかと予想された。学校ではいじめられている様子のないエミヤだが、不愛想なこいつのことだ、何者かに因縁を付けられて暴力を振るわれた可能性はないでもない。クー・フーリンは不良ではないが交友関係が広い自覚があり、もしエミヤが継続的に暴行を受けているのなら、それを止められるかもしれないと思っていた。しかし、近くで眺めてみても他に痣や傷は見られない。痣があった場所から考えるに、見つかりづらい箇所を狙った陰湿なものかもしれない。もしくは、暴力など受けておらず、たまたま何かにぶつけてできただけかもしれない。もう少し見てみねえと分かんねえなと心の中でひとりごつ。その思考が行動に出ていたのか、気が付けばエミヤの顔をかなり近くで見ていた。
 横から見る鼻のラインは斜線を描き、眉間にかけて綺麗に窪んでいく。眉毛は髪色と同じく白く、もしやと思って見れば睫毛もやはり白いのであった。長い睫毛が隠していた鋼色の虹彩がこちらにゆるりと向いたかと思えばそれはあっという間に険しさを纏い――

「いてっ!!」

 即座にクー・フーリンの額に強烈なデコピンがかまされた。

「なにすんだてめえ!」
「それはこちらのセリフだ。人が食事しているところをじろじろと見るなど」

 半ば無意識で眺めていたため即座には反論できない。赤くなっているであろう額を無言でさする。思いの外一気に縮まった距離感に油断していたのかもしれないと自省した。
 クー・フーリンは何もただ痣を見つけたからエミヤに近づいたのではなかった。クラスの誰にも心を開かず、ただ自分一人の世界に沈み込んでいるような男に、前から興味があったのだ。そんな折に見つけてしまったのがあの痣だった。何もないならそれでいいし、もし助けてやれるのなら力になってやろう。それをきっかけに、少しでも心を開いてもらえれば万々歳だ。そんな若干計算込みの考えでクー・フーリンはエミヤを追ったのだった。その結果見たこともない表情がいくつも見られたわけで、ある程度の目論見は達成されてしまった。かと言ってここから印象が悪くなってしまっては台無しだ。取り繕うように言葉を紡ぐ。

「そういやお前いつもここでメシ食ってんのか」
「ああ、人がいないから居心地がいいんだ」
「ここって鍵かかってなかったか?何年か前にタバコ吸った生徒がボヤおこしたとかで」
「そうだな」

 表情を変えずに言うエミヤに疑問が募る。じゃあこいつは一体どうやって屋上に立ち入ったのだろうか。考えていることが顔に出ていたのか、答えるようにエミヤが続けた。

「古い鍵だったからな、ピンで開けられるんだ」
「は?」
「しかも最近は慣れてきて閉めるのもできるようになった」

 これで侵入していることもバレまい、と少し誇らしげに言うエミヤ。開いた口が塞がらない。数時間前のエミヤに対する印象を全面的に撤回する。こいつ優等生でもなんでもねえじゃねえか。
しかし、確かにここは居心地が良い。冬になれば寒いだろうが、この時期は涼しい風が熱気をさらってくれて室内にこもるよりよっぽど快適だ。

「なあ、じゃあオレもまたここに来ていいか?」
「なぜだ、君は他に昼食をとる友人がいるだろう」
「ゆっくりしたいときもあんだよ」
「私だって一人でゆっくりしたい」
「オレがあげたパン食ったくせに」

 ぼそりと切り札を呟く。エミヤがなっ…と横で言葉を失ったのが分かった。

「それは卑怯だぞクー・フーリン。詐欺師のやることだ!」
「礼はするっつったのはてめえだろ?」

 ニヤリと笑って返せば、エミヤはわなわなと唇を震わせている。その様子に噴き出せば、再びデコピンがクー・フーリンの額を襲うのであった。



 それから、クー・フーリンは、昼休みには友人たちの誘いを断り、こっそりと屋上に向かうようになっていた。階段を上がれば、入り口ではエミヤが腕組みをして待ち構えている。「遅いぞ」「すまんすまん」などというやり取りがお決まりのように交わされ、既に鍵が開けられていた扉を二人でくぐる。侵入がバレては困るので、他の人が入って来られないように内側から鍵をかける。あれからエミヤが弁当を忘れてくることはなく、おいしそうな料理の詰まった弁当箱を毎回持ってくる。聞けば全て手作りだと言うので驚いた。

「私は実は養子でね。世話になり過ぎてはいけないから、なるべく家事をするようにしている。まぁどちらかというと養父が身の回りのことができないというほうが大きな要因ではあるのだが」
「仲はいいのか」
「ああ、大分よくしてもらっている。男一人で子供を育てるなんて大変だったろうにな」

 そう言うエミヤの表情が柔らかかったので、血が繋がっていないとはいえ、家族とは良好な関係を築いているのかもしれないとクー・フーリンは思った。あれからいくらか経ったが、クー・フーリンは未だエミヤの痣のことについて考えていた。注意して見ていたが、他の生徒から暴行を受けている気配はない。帰路まで見ているわけではないが、他校の生徒から、という線も薄いだろう。だとすれば、考えたくはないが虐待されている可能性もあるかと思ったのだ。しかし、この様子だとそれも違う気がする。養子だから世話になり過ぎてはいけないなどというのは気を遣いすぎのように感じるが、エミヤの義理堅い性格がそうさせているのだろう。
 それに、一緒に過ごす時間が増えるにつれて、エミヤがそんなにやわな根性をしていないことにも気が付いた。もし暴行を誰かしらから受けていたとして、黙ってやられているようなやつではないだろう。がたいもあるし、性格だってそれなりにしたたかだ。むしろ今となってはその相手を心配するくらいである。次第にクー・フーリンの頭の中から痣のことは消え、純粋にエミヤとの時間を楽しむようになっていた。



 ある日のこと、クー・フーリンはエミヤが取り出したタッパーに目を見張った。その中に入れられていたのは、色とりどりの果実が乗ったフルーツタルトだった。

「作り過ぎてしまってね、余りものでよければと持ってきたのだが」

 その言葉が単なる照れ隠しであることはもうお見通しだ。あえてつっこむこともなく、タルドの出来に感心する。表面に塗られたゼラチンがつやつやと光り、丁寧に並べられたイチゴやブドウを一層綺麗に見せている。見ているだけで口の中に甘酸っぱさが広がるようだ。

「うまそう…」

 欲望のままにタッパーに手を伸ばす。それが届くか届かないかというところで、そのタッパーは手をすり抜けて横へと移動した。怪訝に思いつつも次はそちらに手を伸ばす。しかし再びタッパーはクー・フーリンの手から逃れた。それを何度も繰り返すが、依然としてタッパーは捕まらない。

「おい、よこせよそれ」
「それが人にものを頼む態度かね」

 クー・フーリンを翻弄するタッパーの主は、なんとも楽しそうにタッパーを掲げている。右往左往する自分が面白くてならないのだろう。一方的におちょくられているわけにはいかない。何か仕返しをと思い、目についたのは、無防備に空いたエミヤの脇腹だった。

「わっ!ちょっ!何をする!!」

 思い切りくすぐってやれば、エミヤは目論見通りの反応を見せた。タッパーを慌てて安全なところに置き、蠢く手を止めようと必死に抵抗する。クー・フーリンも負けじとくすぐりの手を強めた。

「おらおら!人をからかった罰だ!」
「ひっ…やめっ!…あははっ…!」

 気付けば二人とも地面に倒れ込んでいた。コンクリートの地面についた手の横には、エミヤの白髪が広がっている。エミヤは笑いすぎて息ができないと言った様子で、激しく胸を上下させていた。似たような体勢だからか、体育館倉庫での光景が甦る。まさかあの仏頂面がこんな表情に変わるなんて、あのときは夢にも思わなかった。そしてクー・フーリンはしばらくぶりに痣のことを思い出す。エミヤの制服の襟を引っ張り、胸部を確認した。そこにあったのは滑らかな褐色の肌で、あの時のような異変はどこにもなかった。

「なにをする」

 怪訝な顔で見上げてくるエミヤに気付き、慌てて手を離す。同級生の服を無言ではだけさせるなど、良からぬことを企んでいるように思われても文句は言えない。

「いや、なんでもねえよ」

 念のためと体もよけて起き上がる。遅れてエミヤも同じように起き上がった。

「前に見たときに結構大きな痣があったからさ。もう消えたか確認しただけさね」

 あれから大分日にちが経った。夏の暑さはいつの間にかどこかへ過ぎ去り、雲はずっと高くを流れるようになった。その後新しくつけられたりしなければ、完全に痕は消えていて当然だ。やはり何かのはずみでたまたまついた痣だったのだろう。

「あれ一体なんの痣だったんだ?」

そう問えば弓はあぁ、と普段通りの相槌を打った。

「何らかの衝撃が加わって体に痣ができたとき、その痣は徐々に下に移動していく、という話を知っているか、クー・フーリン」

 何の話をされているか分からずに首をかしげる。その様子にも構わず、エミヤは淡々と言葉を繋げていった。

「痣というのは内出血であるから、その血は重力に従って下に降りていく。大抵の痣は変化が見られる前に完治するのだが、よほど強い衝撃によるものであれば体に残る期間も長く、そういった現象が起きる」

 クー・フーリンの胸に嫌な予感が広がる。話が見えてこない。ただ何か、不吉なものを連れてくる前触れのようなものを感じる。悪いことに、自分のそういった勘はよく当たった。

「私の胸部にあった痣は、元々あの位置にあったわけではない。もっと高いところ」

エミヤの長い指が胸元を辿って上へと昇っていく。そしてそれは、少し骨の浮き出た喉元へと到達した。

「そう、ここに」

揃えられた指先が、何かをなぞるように、左から右へと移動した。

「紐が取り巻くような形で痣はあった」

クー・フーリンの心臓は、どくり、と嫌な音を立てて跳ねた。


 私が養子だという話は前にしたな。事故で父母を失い、養父の下に引き取られてから、養父と私は二人きりで暮らしてきた。そのことを私は、もっと不思議に思うべきだったのだ。
私のような境遇の子供を養子にとるには、配偶者がいることが条件の一つになる。養父にそのような女性はいないように見えたから、てっきり私は何かの例外で、独身男性のところに引き取られたのだと思っていた。
 だが、違った。養父には妻がいた。それどころか、実の娘までいたのだ。私がそれを知ったのは、養父の机の上に置かれた、一通の手紙を見たときだ。
 それは養父に宛てられたもので、開封されて一葉の写真と共に置かれていた。その手紙は、遠く離れた地から送られてきたものだった。早くあなたに会いたい。一緒に暮らしたい。娘も寂しがっている。そんな強い思いが綴られた手紙だった。写真に写るのは、白い髪の美しい女性と、彼女によく似た女の子だった。それを見て、愚鈍な私はようやく養父の家族の存在を知ったのだった。
 なぜ養父が二人の元に戻らないのか。その要因の一つはあまりにも明らかだった。それは養子である私の存在だ。一般的に見て不幸な生い立ちと言える境遇にある私を、養父は見捨てておけずに、引き取ってしまった。今でこそ落ち着いたものの、一時期は精神的に不安定な言動をしたこともあった。あの優しい養父はそんな私を、一人残しておくことができなかったのだろう。そのことに気付いて、私の身は激しい罪悪感に苛まれた。そう、つまり、私が今までしてきたことは、あの美しい少女に与えられるべき愛を、横から奪い取ることだったのだ。まるで元あった卵を蹴り落とし、醜い声を上げて餌を強請る、偽りのヒナように。なお悪いことに、私はこの十数年間、一ミリたりともその可能性に思い至らなかったのだ。一度知ってしまえば、気付くべきポイントはいくらでもあった。一人で暮らすには広すぎる屋敷も、養父の趣味には合わない優雅な花瓶も、小さなころに遊んだ少し古びたおもちゃも。細かい違和感はいくらでもあった。それを追求しなかったのは自分だ。知らなかったから仕方がないだなんて、そんな恥知らずなことを言えるはずもない。それほど、その罪は重かった。
 本当の家族である二人は、どれだけ寂しかったことだろう。本来享受できるはずの愛を横取りされて、どれだけ悔しかったことだろう。そう思うと、居ても立ってもいられなかった。今すぐに、返さなければならないと思った。養父を、その愛を、本来あるべき場所へと。
 そうして私は衝動のままに行動した。カーテンを纏める帯を首に巻き、壁に据え付けられたハンガーラックにその端を掛け、足元の台を蹴った。もう少し冷静であれば、養父の書斎でそんな所業に及ぶことはなかっただろう。誰にも見つからない場所で、ひっそりと生を終えることができただろう。しかし、気が動転していた私にその余裕はなかった。一刻も早い罰をという願いは、部屋に戻ってきた養父によって阻止された。
 
 厚かましくも生き延びた私は、少しの間検査のために入院した。首に残った醜い痣以外には、どこにも異常が無かった。無駄に頑丈な体が憎かった。養父はどうしてあんなことをしたのだと泣きながら聞いてきたが、何も言えるはずがなかった。やがて養父は諦めたようだった。家にずっといるのも気が滅入るだろう、と学校に行くことを勧められた。痣が目立つ位置から消えるのを待って、私は登校した。


「痣を見つけてから君が執拗に纏わりついてくるから、気付かれたのだと思っていたのだが、そういうわけではなかったのだな」

 語り終えて、エミヤは息をつくように笑った。しかし、その瞳は少しも笑みを浮かべてはいなかった。もう消えた痕を隠すように、右手はずっと首筋に添えられていた。
 クー・フーリンの胸に渦巻くのは怒りだった。身の底が冷え切るような、それでいて皮膚を焼くような熱をもった怒りだった。それは、エミヤに向けられたものであったし、何も気が付かなかった自分に向けられたものでもあった。倉庫で見た痣の形状を思い出す。時が経ち、黄色に変色したそれは、エミヤの胸の上を途切れ途切れに横に走っていた。殴打などで付く痣ではないことは思い返してみれば明らかだった。そんなの分かるわけないだろと思う一方で、もう少し注意して見るべきだったと責める自分がいた。そして、ふとある映像が脳裏に甦る。
 それは初めてこの屋上に踏み入った日のものだった。あの日エミヤは弁当を持っていなかった。当然ここで昼食をとるものだと思っていたクー・フーリンが「弁当は?」と問えば、エミヤは虚を突かれたような顔で「忘れた」と言った。果たして本当にそうだったのだろうか。屋上に来た目的が誰にも邪魔されずに食事をすることであるとして、弁当を忘れることなどありえるだろうか。ひょっとすると、弁当を忘れたのではなく、持ってきていなかったのではないか。エミヤは昼食をとるつもりで、屋上に来たのではなかったのではないか。だとすれば、一体何のために。
 誰もいない屋上。目の粗い錆びたフェンス。背を押す強い風。
 そこまで考えて、クー・フーリンは反射のようにエミヤの腕を掴んだ。見た目より鍛えられたそれは、きちんと手ごたえを返すのに、なぜだかひどく頼りなく感じた。思いの外強い力がかかってしまい、エミヤが顔をしかめる。しかし、その手を緩める気にはならなかった。

「離せ」
 
 鉛色の鋭い眼光がこちらを向く。その瞳からは怒りさえ読み取ることができない。きつく自らの感情を戒めるような頑なさに覆われている。知らない人間と対峙しているようで、クー・フーリンは不安を覚えた。しかし、手を離すわけにはいかない。同じかそれ以上の強さで睨み返す。
 先に折れたのはエミヤだった。ついと下に目を逸らす。少しの沈黙が落ちた。

「君の前で飛び降りはしまいよ」
 
 諦めたような声音で紡がれるそれは、クー・フーリンに暗い確証を与えた。脱力感を覚えて腕を離す。冷たい金属の棒を差し込まれたように、胸の奥が冷たく重かった。
 こいつのために自分に一体何ができるだろう。酷く傷つき、それでもなお自分を罰することを望むこの男に、クー・フーリンはかける言葉を持たなかった。罪の意識から自死を謀るなど、これまでの人生で自分は考えたこともなかった。上っ面だけの安易な慰めが、死の淵に立つエミヤの背を押すことが怖かった。
それでも、これだけは聞いておかねばならないと思った。

「まだ、死のうと思うのか」
「さあな」
 
 表情を映さなかった瞳が、初めて揺れた気がした。水面を風が揺らす程度のそのゆらめきは、あるいは自分がそうあってほしいと望んだだけなのかもしれなかった。

Comments

  • あい
    April 6, 2025
  • わんわんお
    May 11, 2024
  • October 26, 2023
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