お前って馬鹿が日々更新されるよな
『モテすぎてやべえ、なんかオレそういう病気かもしんねえわ』とかふざけたことを言うランサーが恋愛フラグを回避するために同期生エミヤの自宅に入り浸るけど疚しさが芽生えてしまってなんやかんやある話です。
含まれる栄養素▼
・致命的なすれ違いでもはや地球を半周ずつして元の場所に戻って来てまたすれ違うタイプの二人
・こいつバカだなあとお互いに思ってる二人
キャプション▼
・大学含むその他もろもろの知識はふわっとした理解度で書いてあります。
・槍弓ですがあまりいちゃいちゃはしておりません。
・エロはありませんが下ネタがそこそこあるので背後にはご注意ください。
・ハッピーエンドが好きな人が書きました。
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やけに女性に好かれる男だと思ってはいたが、本人曰くそれは病のようなものらしい。 先天性かそれとも後天性かと聞くと、まあ一年とかそれくらい前から、でも多分時期は重要じゃねえと思う、とランサーは私に尻を向け、少し屈んで玄関のたたきに靴を揃えた。純白のコートシューズは当然のように高級ブランドのロゴ入りで、普段の彼の金銭感覚とはそぐわない。なるほど彼に集まる女性は、男の足元を飾る意味をよく知っている。この様子だと全身にいくら諭吉さんを纏ってるか分かったものではない。カレーうどんや鍋類がはばかれるのは大層な病状だなと、私は深く同情しながらこの友人を部屋に通した。
ランサーと私とは大学の同期生である。アジア人留学生も物珍しいような狭い学科であったため、アイルランド出身である彼の容姿はどの講義室のどこの席にいても目が留った。真夏に飾られるクリスマスツリーや正月に食べる柏餅のような塩梅である。慣れると不思議とそこにいないのが考えられない程度にはなってくる。
一回生二学期の終わり頃、つまり夏季休暇に放たれようとしている頃、初めて私はクリスマスツリーに話しかけられた。
タイ語であった。
「今日の留学生パーティー来るよな。あとで出席とるからここに名前書いてくんね?」とルーズリーフにお手製した出席簿らしきものを差し出された。そこに連なったアルファベットに更に戸惑う。何かを勘違いしている。
「え?じゃあタイ人じゃねえの……。やっべ頭数合わねえな。お前さんタイ人のフリして来てくれたりしないかね。寿司のケータリングあるし留学生の手作り郷土料理も食えるぜ」
無論私はタイ人ではない。タイ人にも総白髪は珍しかろうと思うので、一体何が彼の判断基準に引っかかったのだか検討がつかない。私は日本産日本人であることを丁重に断ってから、お困りのようなら出席しようと申し出た。各国の郷土料理が目当てであったことは否定しまい。
「マジか助かるわ!人数分の予算使っとかねえと後で会計担当がうるせえし、いつもこういうのやってくれるタイ人の先輩が病欠でよ……あ、頭数の謎解けたわ」
その夜に開催されたパーティーのタイ人参加者は覆面タイ人の私のみであった。大規模なものを想像したがなんてことはなく、有志で男子留学生寮のオリエンテーションルームを借りての開催である。この寮も大学敷地内なので参加者はみな顔見知りに違いないはずだが、話しかけられる言語は英語にタイ語ヒンディー語に中国語となぜか私の正体に気付くものがいない。その度に元素周期表を早口で唱えながら応答し、ビュッフェ形式に並ぶ異国籍料理を存分に堪能する私の元にランサーは来て、大層楽しげに肩を叩いてきたが、今にして思い返すとあれは早口のJavaに違いない。異文化交流もいい加減なものだ。
この手作り本格カレーは美味い、インド人かネパール人の留学生でもいるのかと訊ねると、男はそのカレーを作ったのはアイルランド人だぜと涙を浮かべて爆笑した。
私とランサーの友情が始まったのはその時からである。
なにせ狭い学部に狭い学科なので、友情が進行するのも早かった。共同で作業を行う講義がありようものなら彼はすぐに私を掴まえた。当時は誘われるがままに頷いていたが、あれは女性に誘われるのを回避するためだったと後に知る。とはいえ私の方でも断る理由がなかった。
そんな訳で私達は何度も席を隣にしては、技術的な面でも人間的な面でも頻繁に意見の対立を起こした。私は誰かの指図に従順な性格ではないし、彼も誰かに指図を受けることを四戒の一つかのように嫌う性格である。
彼が頭にくるとプログラミング言語で悪態をつく癖があるのには散々苦心させられた。その恐らくは『うるせえバーカ!』的な意味合いを持つであろう一言の為に十数時間掛けて人工言語を習得する羽目になった。私がJavaを習得すると彼はSwiftを武器に持ち替えた。鼬ごっこは承知だが、ただバカにされたような気分だけが残るのは非常に癪である。今では五言語目を習得済である。
「恋愛体質って言うのかねえ。なんか引き寄せちまうんだよな」
彼がその奇妙な体質について私に打ち明けたのがこの二回生の夏のことだった。最近では彼は留学生寮ではなく大学から徒歩十分の私の自宅に居着くことを覚えてしまっており、本人の言い訳としては「四人部屋は流石にオナれねえじゃん」とのことである。ちなみに彼の「オナる」は自作のマシンを弄くり回すことを意味する。高次元のオーガズムを得られるそうだが全く興味を惹かれない。
その晩も彼は来て、「チョーモテル病とかそういう病かもしんねえ」と健康そのものの顔でのたまい、和室に持ち込んだ自作ハードドライブを弄り回していた。私は台所で昭和製造の電子レンジの脳部を開き魔改造を試みていたが、あまり成果は得られていなかったので彼の話を真面目に聞いてみることにした。
「恋愛体質と言うとランサー、一般的には人生における達成感や充実感の比重が大いに恋愛に偏っている人のことを示すのだが」
「そうではねえな。てっきり字面でオレのことかと思ったが違うみてえだわ。被恋愛体質ってある?やたら恋愛感情を向けられやすいとかすぐ関係に持ち込まれそうになるとかよ」
「聞いたことはないが、全国の男子諸君が聞いたら刃物を向けられそうな属性だな。パイプカットしたら解決すると思う」
「別に相手が女だけとは言ってねえじゃん」
閉口した。
つまるところ、あらゆる場面で恋愛フラグを立てられやすい体質なのだとランサーは言う。そんなエロゲ主人公みたいな男が現実にいるとはにわかに信じ難い。だが彼が嘘を言っているとも考え難い。彼は男女を問わず人に好かれる性格であるし、容姿においては我が校のミスターコンテストが『今後四年間の結果が見えてつまらないから』という理由で開催されなくなったほど均整で見栄えもする。おまけに成績もよく二回生のくせに駅構内の大学のポスターを飾ったりもする。モテるには違いない。だが私はそんな彼が言うところの恋愛フラグを立てられた場面には出くわしたことがない。
「そりゃあ鈍そうだもんな。いや鈍い。鈍い鈍い」
「なぜ私が根拠もない罵倒を受けねばならんのだ四回も言うな」
彼はへらへらと口元を緩ませる。
「褒めてんのになあ、やっぱ馬鹿だなあ」結局悪口ではないか。
ランサーは作業の手を止めてちゃぶ台で茶を啜る私の正面へとやってくる。今日は食後の茶碗を任せたので台の上に載せられた手の節々が僅かに赤い。そう言えばこいつ……私は足元ハイブランド男に茶碗を洗わせたのか……。
彼は私の悔恨に気付く様子もなく話を続ける。
「お前もコンビニ入ったらレシートの裏にSNSのQRコードが貼られて渡されるとかはざらにあるだろ」
ざらにはないだろ。
「だがそれはあくまで『モテる』の一例で、連絡先の用意と渡す行為がそれぞれ恣意的だろ。フラグが立つってのはそれとは違う。偶然講義で席が隣になった女子とシャツがかぶってるとか、電車で目が合ったおっさんが同じ駅で降りたと思ったら教授だったとか、カフェで相席頼まれたらそれが日本語学校の同級生だったりとかだ」
「それが恋愛フラグか?ただの偶発的な出会いや再会ではなく?」
「そういう出会いが起こると恋人になるのも運命だと感じちまうもんだって毎度のように言われるんだわ。だがオレには日常茶飯事もいいとこだ。そんなの一日一回は最低起きるタスクイベントみてえなもんだ。偶発的な出会いの度に運命感じてたら数世紀後の日本にはオレの子孫が蔓延ってることになる。お前もそんなの嫌だろ?」
「その発想が嫌だ」なぜ全員と子作りする気概があるんだ。神代の人類か何かなのか。
「だが被恋愛体質の何たるかはよく分かった。お前がモテるという前提条件があり、そこに偶発的な出会いが加わって更に相手の恋愛感情が発展しやすい。お前自身は『偶発的な出会い』の頻度が病的だと思うわけだ」
「病気になってんのはオレの運命力とかそういうもんだと思う。あとモテるのは十分条件であって必要条件じゃねえからな。ちんこ切れとか言うかよ」
「ちなみにそのうち何人と寝たんだ」
ランサーは怪訝な顔をする。「それ教える必要あるか?」
「パイプカットの有効性を判断するためだ。他に何がある」
「お、お前……」
彼は非常に胡乱な目付きになって長い睫毛の奥から私を見据えた。そして渋々とテーブルの上に出された手が親指と人差し指で丸を作った。もう片方の手は膝の上に下ろされている。
私が二本の指を希少な小動物でも見るように観察していると彼は素早く腕を引っ込めてしまった。
「ヤダ変態!このスケベ!言っとくが童貞ではねえからな!ただフラグが立ったやつとは致してねえだけだから」
キッと顔を作ってはいるものの半ば素人童貞を告白したようなものだがそれはいいのか。
彼の言うことには同じ学部学科の五割の人間とは既に恋愛フラグが立っているらしい。一度フラグが立つとそれに近しい人にもフラグが立ちやすくなるという調査結果も出たらしいが、その人間マインスイーパーのような絵面を誰が欲したというのだ。蛇足だが我々の学部の男女比は7:3である。
「なあランサー。他人事だと思って言うが」
「そこはせめて親身を取り繕えよ」
病的にモテるという経験がない人間にそれを布くものではない。
「お前はその偶発的な再会の相手とは一度でも懇意になったことはないんだろう。フラグが立つなら回収してみたらいいのではないかね。その一本でも手に取らずにいたことで、他の女性ないし男性に機会を与えている可能性もある。後半は憶測だが検証の余地はあるだろう。むしろ今までそうしなかったのが私には不思議だが。操でも立ててるのか」
「操だか竿だか立ててねえわ、んなもん……」
私の飲みかけの湯呑みを手繰り寄せていた手がその時ぴたと止まり、信じられない場所に逆立ちする象でも目撃したような顔でこちらを凝視し始めた。その並々ならぬ形相につい顔を逸らそうとすると、頬をぺちと軽く叩かれる。ランサーのこういうところが好かない。
「なあエミヤよ。オレがお前をフラグからの避難シェルターにしてたって言ったらどう感じる」どう感じるとは?
「文面まま受け止めるが……」
なるほど真夏のクリスマスツリーのような男が好んで私のところに入り浸るわけだと納得もする。そのまま伝えるが彼の耳には最早情報としては入っていない様子で「そうだよなクソ鈍いんだよなオレも大概だわ」とぶつぶつ言っていたかと思うとすっくと立ち上がった。どこへ行くと尋ねると「今日は帰る」
「なんだ急用か?この時間は寮長に無断外泊がバレて叱られるのではなかったか?」
「今は物凄く叱られたい気分で……」
そこまで言うのなら止めはしない。寮長へのフラグを確立することにしたのかもしれん。叱られたいほど好きという感情は高次元オーガズムより優先するに値するだろう。そもそも高次元オーガズムとは何なのだ。
興奮のためか決意のためか心做し顔色が忙しない男を玄関先まで送り届け、使った湯呑みを片付ける。スポンジに洗剤を付けてごしごしと泡立てていると、先程まで居間に漂っていた微かなシトラスの臭いが鼻をついた。私はバーバリーの踵を鳴らし、手には食器用洗剤の香りを纏って夜道を駆ける男について少し考えた。
あくる日のこと、私は大学広報部からのダイレクトメールを前に打ちひしがれていた。メールの文面は全く問題はない。懇切丁寧な文調で、貴殿ら学科生が共同で制作し運営する大学非公認アプリに問題があるため早急な対処を求む、と述べられている。添付されたデータを開くと更に詳細なトラブル内容が指摘されている。頭痛の種とはこれである。
アプリとは言っても在学生が進捗や成果を報告したり、共同製作を行うためのメッセージ機能を備えた簡素なものだ。一回生の私とランサーが制作し、課題として提出したらうっかり教授に気に入られ、その場の学科生全員のスマホにダウンロードが強制された悪名高きアプリでもある。悪名高い理由は他にもある。何を隠そう登録者の位置情報を共有するという機能だ。チームメンバーの一人が『腹痛で……』と制作を欠席しようものなら『イタイイタイしてるのは股間だろ』『休憩?ご宿泊?』『スッキリしたら来てね』と絶対に悪質なサボりを許さない監視体制のためにランサーが後から付け足したものである。あまりに悪質だ!ディストピアだ!と講義が終わるなりアンインストールした人間が殆どだろうが、この機能はログイン画面でオンオフ可能なため、学科生の五割程度は進捗管理での使用を続けているらしい。
さて本題のトラブルについて言及する前に、このアプリは課題提出用に作成されたものであって、長期運営を前提としていなかったことを今一度ご留意願いたい。もちろん二段階認証なんてものはなく、ログイン画面で打ち込まれた学籍番号と氏名が在学生データベースと一致すれば容易に突破できてしまう脆弱なセキュリティが売りだ。敢えて売りだと言っておく。経営学科の講義でこのアプリが取り上げられた際、とある学生がこのお豆腐セキュリティに目をつけ、試しにダウンロード数とログイン数を調査してみると、その数が登録者数に比べて以上に多いことに気が付いた。しかも一人の登録者が一日に三十回以上ログインしている履歴もある。
お分かり頂けただろうか。アプリの存在などとっくに記憶の隅に追いやっていた私の元に今更連絡が来たのはそういう理由である。幸いにも私の一日のスケジュールはスカスカもいいところであったので、同じような暇人を募れば日付が変わるまでにはパスワード認証と二重ログインを検知して弾くプログラムくらいは組めるだろう。新しいパスワードは登録者に直接伝達する必要があるので、とにかく人手はいくらあっても足りないところだが、肝心の共同制作者と朝から連絡がつかないでいた。寮生の同期生によるとどうやら昨晩は寮長にこっぴどく絞られ、外出禁止と面会謝絶が三日間言い渡されたらしい。なんたる馬鹿。これでこそランサー。この四文字熟語を掛け軸にして床の間に飾ってやりたい。
せめて件の一日三十回の不正ログインを受けているアカウントの登録者には一報を入れねば、こうしている間にも不特定多数に位置情報が垂れ流され続けてしまう。有難いことに件の経営学科生が登録者をログイン数順に並べてメールに添付してくれたらしい。全く頭が上がらない。連絡も取れぬどこぞの誰かより余程頼りになるではないか。憤然としたクリックでファイルを開いた私は、一番上に君臨するその名前に電撃を受けたように固まり、次の瞬間畳の上へと崩れ落ちていた。
然るべき処置を施してPCと負けず劣らずの唸りを上げて床に倒れ込む頃には、四角い空が真っ黒な帳の上に星を散らしていた。有志各位と労いの言葉を交わし、グループ通話から一つ、また一つとアイコンが消えていく。ランサーからはPCを私の家に置き忘れて手も足も出せなくてすまないという旨のメッセージが昼頃に来ていたが、既読をつける余裕も無かったのを思い出して『そら見ろ』と返す。相手の既読の速さはさすが外出禁止を食らっている人間だ。よもや画面を開いたまま呑気に寝落ちでもしていたか。と訝っていると着信画面が開いてスマホを取り落としそうになる。
『明明後日お前ん家行く』開口一番愚か。
『無断外泊がバレてそうなってるんだぞ。もう忘れたのか?』
『だから許可取って行くんだわ。直接会って話したいこともあるし、あとPC取りに行きてえし』
『直接話したいことなら私にもある。とにかく君は学科の皆に礼を言っておけ。面会も禁止だと言うからかなり心配してたぞ』
『直接話したいことって何だ……!?』
『電話口でそれを聞くな。荒唐無稽が過ぎる』
やはり寝ぼけているのかまるで要領を得ない。
『もういいか?流石に活動限界だ。寝る』
ついに彼の難解な病が完治したと伝えそびれてしまったのは私のわざとだろうか。頭の中を不明な言語に書き換えられていくようなざわめきが脊椎を伝っていく。私の理性であるべき部分が不合理を訴える一方で、私の意識は藺草の香りに絡め取られていった。
つまりこういうことである。
隣の席に座った女子とシャツが被るようなことはまさに偶発的な偶然であるとしよう。だが例えば同じ大学に通う者同士が全く異なる場所で出会う、かつて同じ学校に通っていた者同士が全く異なる場所で出会うといった事象は今や恣意的偶然の可能性を孕んでいる。運命的な出会いをしたから恋愛フラグが立つのではない。条件付けが逆なのだ。恋愛フラグはそこに初めから発生していて、運命的な出会いはそこに至るアルゴリズムに過ぎない。私と彼の作り出した欠陥まみれのアプリは、欠陥があるがゆえに本来の目的を外れたところで存分に便利性を発揮してしまった。
良かったじゃないかランサー、もう私の家に入り浸らずともいいぞと言ってやるべきなのだと思う。だが私の避難場所としての利便性はその途端に失われ、恐らく彼はアルゴリズム抜きの人情ある恋愛を求めてこの部屋を去る。彼の避難はそこで終わるが、私は彼を失う状態を継続することになる。それはどこか合わせ鏡のずっと奥を覗き込んだ時のような虚しい響きに聞こえたが、確かに私が受けるべき報いであった。
そんなことをつらつらと考えていると『今日の夜行くわ』と通知と共にスマホの画面にメッセージが降りてきて、その意味がしばらく噛み砕けないでいたがいつのまにか二日が過ぎていたらしい。
『病状はその後どうだね』
『まあ外出禁止ってのもあるが、さっぱりねえな』
それはそうである。この様子では彼は自分の位置情報が不特定多数にモロバレだった事実を知らないのだろう。知らずにいた方が幸せなのは間違いない。このまま徐々に普通の生活に慣れていくのがよかろう。私もシェルターの役割は終わったと自分の口から伝えずに済む。
『すまないが今日は居酒屋のシフトが遅くまで入っている。PCは登校した際に持っていこう』
しばらくしてふざけた犬の顔のスタンプが了解の意を示して、私はバイト先の居酒屋に電話を入れる。頼むから遅くまで働かせてくれと懇願したのはこの一度きりで後にも先にもない。
スマホのロック画面がゼロを四つ並べる頃に退勤した。何を心配されたか店長に持たされたサーモンの柵がみっちりと指に重い。
半月を眺めながらアパートの自宅付近を見上げるとまだ明かりの着いた部屋がある。というかあれは私の部屋である。
まさかという予感が足を急がせた。夜も深いのに盛大に足音を響かせてしまって肩を竦ませながら早足で階段を登り切る。
ノブを回すより早くドアが開いた。自動ドアかと思ったがそうでは無いことなど当然分かっている。
「なんだ思ったよか早いじゃねえか」
明るい光の零れる部屋から半身を乗り出しているのはランサーだ。だが現実かこれは。恐らく私のキャパシティと処理能力はこの男の自作PCにも劣っているに違いない。
「今夜は遅くなると……」
「そう聞いてたから勝手に冷蔵庫開けてメシ作らせて貰った。ほれ荷物預かる。ん、刺身か?いいねえこれも並べちまうか」
あれよあれよと荷物を取り上げられてちゃぶ台の前に座らされた。スプーンが一本。何用だと思っているとやや甘い出汁の香りと共にカレー皿が二つ置かれる。全面的に黄色い。アイルランド人の作る親子丼だ。この味を私は知らないが、この味が私にもたらす満足感を既に知っている。これが高次元オーガズムか。多分違う。
二つ並ぶ親子丼の間に刺身皿を置いて、ついにランサーも食卓についた。この顔は三日ぶりだが随分と久しぶりに見るような心持ちだった。初めてランサーという男を見たような心地でもあった。食わねえの?と片眉上げられてはっとしたように手を合わせる。
しばらく私達は無言で親子丼をかき込んだ。
もうここに来なくていいのだぞ、被恋愛体質は総合的に言えば宇宙に人工衛星が飛んでいるせいだぞ、だがもう治ったぞ、と色々と伝えるべく用意していた言葉が柔らかく煮られた鶏肉と一緒に胃の腑に落ちていく。それは割れた卵のように原型を留めておらず、まるで回収不可能のように思えた。今までランサーが出来合いのものを持ち込むことはあっても料理なぞ作ったことはない。合鍵も私の方が早く家を出る時以外に使われたこともない。今更、風の吹き回しどうこうではなく、彼なりの区切りをつけに来たのだ。ならば直接会って話したいこと、なぞ推して知るべしだ。
それで要件は何だ、と水を向ければ彼は「オレは既にお前をシェルターだとは微塵も思ってなかったんだわ」とそれはもう優しげに、慈愛に満ちたような顔で言う。やはりそうか。なんだか祝福ムードを演出されたので私も精一杯頭を空っぽにして笑っておいた。もしや早口のJavaかと期待したが悲しいことにそれはどう解釈しても日本語だった。
つまりここにはもう来ないと。避難先として微塵もあてにしてくれないと。予期していた言葉ゆえに静かに受け止められると思ったので微笑みつつ「そうか」と無理やり口角を動かした。お前の方から言ってくれるならこちらも気が楽だ。手間が省けた。やれやれ。無駄に悩んでしまったじゃないか。
「待てお前その顔、なんかオレの話ちゃんと伝わってなくねえか」
と言いつつランサーが向こうから身を乗り出してくるので、行儀が悪いぞとちゃぶ台の下から蹴りを入れる。
「心配せずともきちんと伝わったさ。返事としてはそうだな……」
しかし思った以上に受け止めた言葉は胸の内で回転数を上げ続けているようだ。ついには私の心の空洞を高速でスピンして「やはりパイプカットを勧めるよランサー」と発声されるに至った。
それは私なりの言語で表すところのお幸せにという意味合いによく似ている。
ランサーは「お前がそっちがいいなら……でもオレはどっちかっつうとハードよりソフトの方が……」とまた支離滅裂なことを口走っており、私はそれを見ながらこいつ日に日に会話が成立しなくなってくるなと所感を抱く。日がな自作マシンなぞ弄り倒してるから電波になってしまったか。そもそもが人を人工言語で罵倒してくるような奴ではあるのだが。
しかしそのポンコツ具合もこれで見納めなのか思うと少しばかり、本当に少しばかり、胸が切ないこともない。