片手にはおさまらぬ
ひょんなことから愛玩用の人魚(アーチャー)を飼うことになったランサーの現パロもどきです。終わりません。
以下キャプション※必読※
〇自社工場の槍弓レーンから生産されましたが、ほぼ(成分表示表の一番後ろくらい)槍弓をしていないです。メインディッシュは友情出演の緑茶だと思ってお楽しみください。
〇アーチャーが人魚です。意思疎通が不可能なタイプの人外です。ご注意ください。
〇本当にしり切れとんぼです。続きは筆のご機嫌次第で出ます。
〇タイトルはかなり適当です。
〇ハッピーエンドが好きな人が書きました。
ここまで書いたキャプションですが、書ききれない注意事項が多すぎて全部書くと本文の分量を越えそうでしたので、もう本文がキャプションくらいに思って読んでいただけると幸いです。
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1 片手にはおさまらぬ
ゾンビの群れから逃げ込んだ先の大型モールで、こういうのを必死に貪り食う己の姿は想像したことがある。
『極小粒 12歳からの毎日ごはん ささみ味(大型犬用)』
ささみ味というところが特にいい。ビーフやバーベキュー味と凝ったフレーバーは違和感の谷間も深そうだ。ランサーは齢にして二十半ばのホモ・サピエンスである。犬の十二歳というとシニアに当たるので、雑食哺乳類の頂点たる、それも活きのいい時期の人間が美味しく頂けないはずがない。問題は、人間がドックフードを食うとして犬は何を食べるか、だ。これはモールの内と外を挟んで起こっている問題の縮図でもある。ゾンビが人間を食うとして、人間は何を食うか。いずれは枯渇するであろう糧を、分け合うか、己の種の為に占領するか。ゾンビも元を辿れば人間ではあるがヒトではない。意思疎通の可能な人間同士でも共存には多少の犠牲がセットでついてくるのだから、言葉が通じぬ相手との共生はなおさら机上の空論だ。おそらくランサーはゾンビにも抗うし、犬用の餌を前に躊躇いなく手を合わせる。たとえモール内にペットショップが併設されていようともだ。
だがそれも妄想の中で起こるゾンビパニックの渦中、どうにも食糧面で切迫した場合の選択肢である。普段からゾンビの襲撃に備えて意欲的に物色していては妄想逞しすぎる。それどころ今しがた最寄りのスーパーのペット用品コーナーを把握したばかりである。ランサーの犬、狗と揶揄われることの、それはまた片手に足らぬほど多かったが、とりわけペットには両手を伸ばしても届かぬほどに縁遠い育ち方をしてきた。ペットフードのパッケージからついゾンビパニックを連想するくらいである。幼少期は近所のオヤジが飼っていた牧羊犬二頭に延々追いかけ回されたが、あれは良く言って被食者体験コース(無料)であって決して異種交流とは呼べない。あいつら何食ってただろうかと記憶を掘り返してみれば、親爺の朝食のおこぼれのパンを、それは美味そうにむしゃむしゃとしていたので何から何まで当てにならぬ参考例である。
思考を巡らすうちに無意識に酒類コーナーへと向かっていた足を押しとどめ、ランサーは結局、一番最初に物色した棚と対峙した。
『沈下性 栄養満点で水槽の汚れを抑えるエサ 50g 人魚用』
イチキュッパ。三桁ではない。四桁の方のイチキュッパ、¥1980(税抜)だ。それで50gなのだから一粒がとんでもない単価を抱えている。三食のうちの二食をバイト先に賄われているランサーにとっては、どれだけザルな計算をしても半月分の食費に相応する。藁にも縋る思いで端から端まで探してもそれらしい餌はその一種類だ。モノがモノであり、決してこの店の品揃えの問題ではないと分かってはいても、溜息の一つや二つは漏れてしまう。
長い逡巡の末に肩を落としたランサーは、『※魚や亀に与えないでください』の文字が赤くパッケージに踊るそれを、ぞんざいにカートへと放り込んだ。
愛玩人魚という呼称が一斉を風靡したのはもう半年も前のことになる。半年と言うと短く感じるところだが、既に過ぎ去って久しいブームでもあるから語弊もないだろう。市場に流通したのはたった一、二ヶ月のことだが、その間にチワワ、トイプードルと並ぶ伝説的愛玩存在ともなった。チワワにもトイプーにも興味の薄いランサーでも、嵐のような流行をしていたそれの名前は毎日のようにテレビからも人波からも漏れ聞いた。知った経緯というのはもはや語る由もない。しかし知ったところでやはりペットには縁遠いランサーであったので、それを実際に目にしたのは、バイト先のトイレで、客がガラス瓶の中身を今にも便器の中に放流せんとしている瞬間が最初である。
原因はカップル客の別れ話のこじれだったそうだ。ホールの方ではなかなかの修羅場を展開していたと後に聞く。女性の方がテーブル上にハイブランドの財布、時計、ペアリング、そして液体の入った瓶と鍵を置いて席を立ち、相手の男性はしばらく黙って座っていた、と思いきやにわかに瓶を掴んでトイレに駆け込み、ランサーに首根を掴まれて戻ってきた。
後のランサーはこの時にとった行動の起源を他人に根掘り葉掘りされることになるが、決して倫理観や正義感が動いたということもない。面倒な掃除を終えてホールへと戻ろうとしているところにそんな蛮行を見せられては堪らない。まさかその下水直行瓶の中に生き物が、それも人魚が入っていたなんて誰にも予想できるまい。あの場の流れでひとまずの所有者となるとも分かっていれば、男を止めたかどうかも怪しいところだ。それでも結局は可哀想だから助けるでしょう?と、最初から欲しい答えしか聞くつもりのない面倒な相手への返答としては、なあに人として当然のことをしただけだぜとは便利な口上となった。
そうこうして、紆余曲折ほど複雑ではないものの、シンプルと言うには込み入った経緯でランサーの住まいにもう一つの命が転がり込むことになった。息子が小さい頃ウーパールーパーを飼ってたんだ、と喫茶店のマスターから水槽と浄化機を。同僚からは同情と激励の言葉をそれぞれ賜って、ランサーはてめえらは面白がってるだけだろうが!と返礼を呻きながらも早めの帰路につかされた。
言い訳をするつもりはないが、騒動で浮いた心があったのだと思う。両手を塞ぐ水槽を日当たりの良い窓際に置いたまではいい。とにかく窮屈であろうと瓶の中身をそのままひっくり返し、その瞬間にランサーの脳裏に過ぎったのはパラシュート無しでダイブするスカイダイバーの映像だった。不吉なぺちりという音が四畳半に木霊した。当然ながら水嵩はプラスチックの底に薄く張っていた埃を浮かび上がらせる程度にしかならない。その中心で力なく跳ねるものにさぁっと頭の血が冷めた。人魚って……淡水だっけか?
半腰を浮かせて一秒。キッチンに走ってミネラルウォーターのペットボトルを掴むまでは今生最速だったかもしれない。人間が飲めるなら人魚もいけんだろ、と言い訳をつけるように祈りながら五百ミリリットルをひっくり返す。張ったそばから埃で濁る。ささやかな生活の贅沢として購入しているお綺麗な水もこうなっては元も子もない。水面の波が落ち着いてようやく、ぐったりしているそれと埃の塊との見分けがつくようになり、エラと思しき部位がかぱかぱと開閉しているのを認めたランサーの腰は畳に崩れ落ちた。転がったペットボトルを手繰り寄せ、飲み口に残留する湿り気をちろりと吸う。急激な乾きが押し寄せた。
場は凌げたと見て、すぐさま知人の経営するペットショップへと足を運んだ。はぁ!?何考えてやがるオタクの頭に詰まってんのもミネラルウォーターですかと一喝され、何やら薬剤の連なったパッケージとポリタンクごと臀を蹴り出されてえっちらおっちら来た道を戻った。ペットなど飼うつもりは毛頭無かったが、この一連の騒ぎはどう切り取っても己が飼育に向いた素質だとは思わせてくれない。向いているどころか壊滅的だ。ポリタンクの重みだとか、脇道の民家からしきりに吠える犬だとかがランサーの骨身にそう教えてくれる。藍色に暮れる細路地で不躾に横顔を照らされ、睨んだ先でブンと唸りをあげる自動販売機と目が合った。両手が塞がっているせいで冷えたコーヒーの一本も買えやしない。
当初は直ぐに手放すことになるだろうと思われたし、ランサーとしては存分にそのつもりだった。引き取り手のあてはペットショップの店主がお得意様に打診してくれると約束してくれた。今や人魚の販売は違法である。あくまでも手を貸すのは取引の仲介であり、ランサーへの厚意が五分、生き物への憐憫があとの九割五分だと聞いてもないことを念押ししてくれた。確かに動物全般の飼育経験が全くないランサーである。正統な飼い主が決まるより早くお陀仏させかねない。なにしろ。
『あなたの愛で育つペット』
この人魚とかいう珍妙な動物にはそんな謂れがあった。
それ、もといミンロウ(Minllow社から発売された愛玩動物の商品名。miniとmellowを組み合わせた造語である。※某ペディア参照)の当初の売り出し文句にこうあるように、それらは餌やりや適度な水換え以外には面倒な世話を必要とせず、簡単に飼育できる。そうあらかじめ調節されて誕生する。人の人による人のための温もり。愛玩物として一切の隙のないようデザインされた人工生命体。
商品としてのコンセプトとしては老若男女を問うものではなかっただろうが、特に流行の波が高まったのはカップルや夫婦間での贈り物として推されるようになってからだ。愛で育つとかいうキャッチコピーがそちらの方面にウケたのか、著名人達がSNSの投稿にそれとなく尾ひれつきの写真を上げ始めたのがきっかけか。それを問うのは鶏と卵の命題と等しい。しかし彼らがブームを生み出したことは、結果的に多くのインフルエンサーが『このアカウントは削除されました』の文字をホームに飾って口を閉ざす事態へと繋がった。
かつてはコンビニにも犬用猫用と並んで人魚餌の取り扱いがされていたのだ。キンキンに冷えたビールを手に商魂逞しいもんだなとぼやいた記憶がある。それがスーパーでもなかなかお目にかかれない高級品になるとは。市場が縮小すれば価格も高騰するのは道理だが、そこからこぼれた命の行方は保証されていなかったらしい。
ポリタンクを抱えて帰ったその夜のうちに、引越しの際に家具を揃えて以降、ずっとホーム画面の隅で眠らされていたフリマアプリを開く。己が愛玩動物に対して建設的な人間になる転機がまさに今日だとも思ったか。ただ手持ち無沙汰だっただけのような気もするが、その試みはいずれにしても失敗だった。
『人魚 飼育セット』でずらりと出現した商品ページに、初めのうちは一つ一つ指を止めていたが、ふと思い立って下へ下へとスクロールを始めた。その行為に飽きを覚えてもまだ底へと行き着かなかった。それもそのはずだ。改めて検索をかけてみれば件数は四桁を超えていた。では通販で、とサジェストに現れた『処分方法』でランサーの胃の底に言葉にし得ない濁りが沈殿した。不快感はアプリを消したところで簡単にアンインストールできるものではない。だが命に限っては同じだと考える人間はいるものなのだ。その一人一人の首根を捕まえられるのは超能力者か超善人だけで、どちらでもないランサーの手に落ちてきた命は、それが悪運にせよ幸運せよ偶然の賜物でしかない。それで救ったと思えるほどおめでたい頭をしていない。
つい口をついて出た言葉は「お前も不運だよなぁ」
しかし幸運もあった。お下がりのLED付き水槽は、ランサーが寝泊まりするだけの部屋には贅沢だろうと買いそびれていた照明代わりに天井を照らした。アパート前の路地を通る車に祈る必要がなくなり、これからはヘッドライト無しに捜し物ができるというものだ。それでこのとばっちりにも折り合いをつけた気になるのだから我ながら懐が広い。
水替えの済んで、ようやく透明と分かるようになったガラスに指を寄せると、ランサーの小指の爪よりもこじんまりとした生命体は意外にもすんなりと近寄ってきて、指先の位置に留まった。さすがの愛嬌だ。じっと見詰められているような気分に陥ったのも一瞬のことで、それはガラス越しにランサーの指先をとんとんとつつき始める。なんだ、これは。と首を傾げて手を打った。餌だ。
フリマアプリの解雇はもう少し待つべきだった。生き物であるからには食糧が必要だ。身体も小さいのだしエンゲル係数には大きく関わるまいが、と思案した、その数時間後のことだ。ランサーがペット用品棚の前で頭と財布を大いに痛めることとなったのは。
「やっぱりお前……確実にでかくなってるよな?」
電話中に水槽に向かってそう呼びかけるランサーに、通話の相手は気を悪くするよりむしろ『そりゃあ良かった』と安堵の溜息を吐いたようだった。『雌雄の判別の方はどうです?』
会話の相手は他でもなく貰い手探しを請け負ってくれたペットショップの彼である。願わくばこの件でランサーの恩人になって欲しいものだ。ランサーは眉を顰めながら、狭い居宅にどっしりと腰を落ち着かせている水槽に目をやった。
「下半身は魚ってのになにをどう見分けるって」
『そりゃあ胸ですよ。オタクの得意分野だ』
「魚のおっぱいねえ。悲しいくらいムラっとこねえ」
『色気を期待する相手が間違ってるのでね』
ランサーの住まいの中にもう一つの住まいができて半月ばかりか。バイト仲間からの冷やかしを受け流すにも慣れ始めた頃だ。水槽を覗いたランサーの影に驚いたのか、底の方で赤い尾が翻る。当初はしらす丼に乗っけても気付かず食せてしまいそうだったものが、徐々に目視でも上半身部分と尾ひれとの区別がつくようになってきていた。こうなると金魚やグッピーといったよく知られる淡水魚のサイズとそう変わらない。ペットショップ店主、ロビンの言うことには「今や人魚を飼ってたような連中はタピオカやらマリトォッツォやらの世界にお帰りなすったでしょ?最初からこっち側にいたような顔ぶれ以外じゃ、貰い手ってのは『愛玩動物』じゃなく『鑑賞動物』を所有したがってる人間に限られてくる。しかしどっからどう見てもただの小魚、それに一番飼育に失敗しやすい稚魚の時期ときたらこぞって難色示すわけですわ」
その一番失敗しやすい時期をランサーが乗り切ったことには、ロビンはもちろんランサー自身も首を傾げた。これがビギナーズラックかと素直に感心されると誇っていいのか拗ねていいのかが分からない。
スーパーで悩みに悩んで購入したお高い餌を水面に振りかけ、人魚がこちらに寄って来たのをしげしげと眺めてランサーは返答する。
「ま、たぶんオスだろうなこりゃ」
『珍しいっすね。需要的に出回ってたのは大体メスだったんだがなあ。オスで確かです?』
「肉の付き方が女のそれっぽくねえ気がするってだけだからな。その辺の情報が固まってないといけないなら確かめに来いよ。で、需要がどうのと言ってたが、オスの譲渡は難しいのか?」
『熱心なコレクター向けってとこですかね。数が少ない分、希少価値ってのがつく。幸いにもうちの顧客はそういう層が多いんで、貰い手は案外早く見つかりそうだ。だからといって飼育に手を抜いてうっかりお陀仏させないでくださいよ」
「慣れてきた頃が一番初歩的なミスをするもんだわな」
『その通り。じゃあ後で写真を撮って送ってください。貰い手がつき次第こちらから連絡をするんで。あんたのビギナーズラックには期待してますぜ』
ロビンの最後の台詞は何か良くない事件のフラグのように思われたが、あっさりと、それはもう拍子抜けを通り越して報告を疑うほどあっさりと貰い手がついた。先日の通話をしてから月すらまたがずに、『喜べ。そしてオレに感謝してください』との連絡が来た。ロビンは当然のように有能な男だった。
その頃には人魚も如実にオスと分かるような特徴を示していて、体長はランサーの中指の先から手首までとほとんど一致するまでになっていた。ウーパールーパーの水槽がお似合いなサイズと言えるだろう。しかし想像以上の加速度的成長を見せるので、このままでは水槽を新調する必要があるだろうかと悩んでいたところに連絡だ。これもビギナーズラックの恩恵か。
連絡から三日後、どこか高圧的で体格のいいスーツの男二人が玄関のドアを叩いてきて(インターホンが壊れっぱなしだ。そういえば)安アパートの玄関に押し合い圧し合いしながら空の水槽を運んで来るのをランサーは頬の内側を噛んで出迎えた。特に古い木造建築なので、同じところに筋肉質が三人も集合すると今にも床が抜けんとしてギシギシ警告した。
ほとんどロビンが事前に説明を済ませてくれたおかげで彼らとの会話は無く、人魚はLEDとヒーターと浄化機付きの新品の水槽に移し替えられ、脳内でドナドナを再生する隙もないまま玄関を出ていった。陽当たりの悪いために気を利かせて玄関の照明をつけると、スパークのように数回点滅してからうんともすんとも言わなくなったが、男達は何も言わず革靴を履くのに奮闘していた。ランサーは頬の内側を痛めつけるのをやめた。
彼らがアパートの階段を降りていく硬質な足音が聞こえなくなると同時に、座り込みたくなるほどの疲労感が全身に押し寄せた。一切手を貸していないので肉体的には疲れなど無いはずなのだ。そもそもワーカーホリックに半分足を突っ込んでいるランサーが、体力を切らすなどということは滅多に無い。席にスマホを置き忘れた客の車を追いかけて駅二つ分走った時くらいのものだ。
ひとまず恩人となる男に一報を入れ、開口一番に『お疲れ様でした』と労わる。それでやっと人生初の気疲れというものを味わう自分を知った。
『命を預かる責任感から解放された気分は?』
「開放感だ?無性に疲れた」
『走ってる時より立ち止まった直後の方が息が上がるでしょうよ』
有能な男は例え話も上手いときているが、全力疾走に例えられるほど飼育に全身全霊を傾けていた記憶もない。いかにエンゲル係数を抑えて飼育の手間暇を抜くかに苦心していた覚えがあるだけに素直に頷き難く、おざなりな相槌を返す。
「だがまあ、これからはその責任感とやらも要らなくなるか。食費がバカの数字を叩き出す恐怖ともおさらばだな」
『そのバカの数字分くらいはメシでも奢ってくださいよ』
「ハイハイ喜んで。回る寿司でいいだろ」
『魚料理っておい……』
オレはたまにあんたが怖い、と通話が切られ、スマホを万年床に放り出す。気付けば部屋には夜がとっぷりと満ちて、外から出汁の風味を纏った家庭特有の香りが漂う。
空になった水槽を部屋の隅に押しやり、開いたスペースにごろりと横になると、存外に冷えた畳にうなじから体温が奪われていく。冬ともなればヒーター無しでは無理だったろうなとぼんやり頭に浮かぶ。勿論、このおんぼろアパートで五回の冬を乗り切った自分自身への懸念ではない。
おおかたランサーの心の柔軟性は人間だけに向いている。だから間違ってもペットロスなどには陥るまいと思っていた。なにしろ人間様至上主義、とまでは言わないが、動物に動物以上の働きを求めないのも一種の美徳だろうから。
部屋がうすら寒いのは日が暮れたからで、天井が暗いのは水槽のLEDを切ったからだ。
ランサーは「腹減った」と呟いて、尻ポケットのパッケージから一本を引き抜いて口に銜えた。 暗闇を追いやるには小さく仄かな火が指先を丸く照らした。
わずか数日後のことだった。
『やむない事情であの人魚をオタクに返したいそうだ』とロビンからの連絡に、ランサーは驚きよりも拍子抜けを味わった。何かを納得させられたような心地がした。あのときロビンの放ったフラグの回収がここかと思ったほどだ。出てきた言葉は「やっぱりおっぱいがねえとだよなあ」
『冗談を言いなさるな。雌雄に拘って手放すような相手をオレが紹介するとでも?』
やや憤然としたロビンの声にランサーの語気も萎む。
「おっぱいじゃなきゃ、なんだよ?」
その答えは翌日の昼、ランサーの部屋の玄関を通って現れた。ロビンと、そして人魚と共に。以前使っていたお下がりの水槽は綺麗に洗ってビニール袋に包まれていたが、住人はそこには帰らず、見るからに新品と分かる水槽に入ったまま窓際にどっしりと据えられた。そのまま使ってくれとのことらしい。
引き取った時のように男二人が荷を運び終え、床板をぎしぎし鳴らしながら去っていく。そこに残ったロビンは苦虫とA 5ランクのステーキを一緒くたに噛み締めたような器用な顔をして、ランサーを水槽の前に据えた。
「おい一体なんなんだって」
「とにかく、いつも通り餌をやってみて下さい」
指示通りにしてみれば、人魚が活き活きと沈下性のフィッシュミールに吸い付いた。それにつられてロビンの顔に驚愕の色が広がっていく。
「ああ、こりゃ……やってくれましたね……」
「そりゃ一級のフラグ建てられたこっちのセリフなんだがな。つか案外育っちゃねえな」
里親に引き取られるまでに見せていた爆発的な成長具合から考えるに、今頃は鰆や鮎くらいかと慄然していたのだ。例えに上がるのが軒並み川魚なのはご愛嬌。ランサーの記憶に一番新しい人魚の姿をそのまま写し取ってきたかのような人魚の姿には少なからず安堵を覚えた。ガラスに近付けた指に近寄ってこそはしないものの、警戒して逃げるということもなく、何となく睨めつけられているような気もする。人魚との視線がランサーと合うことは無いにしても。水槽から再び目を上げた先で、こちらは正真正銘の睨めつける視線とかち合う。
「あのねえ、もう成体のサイズなんですぜ。鮫か鯨でも飼うつもりで?そもそも全く餌を食わないんだ、成長の余地もないんですよ」
「食わない?餌を?全く?なんで?たった今……」
こちらのオウム返しにロビンは肩を竦める。
「環境が変わってストレスで食わなくなるってケースはままあるもんだが、もう二週間になる。オタクが与えてたのと同じ餌でも駄目。このままじゃ死なせちまうってんで泣く泣く返還を申し出てきて、オタクに給餌させてみたら嘘みたいに食うときた。理由ならオレこそ訊いてみたいですよ。そいつが口がきけるもんなら、だが……」
ランサーの心中で張っていた帆が、風をふっと受けたようだった。その船首が己の制御を脱してあらぬ方向へと頭を擡げようとするのを、己の黴の如き信条がむんずと舵を握り直す。ランサー自身にすら自覚の怪しい一連の機微を、しかしロビンは見ていた。
「ちょっと喜んでる場合かっての」
「はぁあ?ハンストされて喜ぶ人格破綻者に見えるか?」
「へえ。ハンストしたとは認識してるわけだ、オタクも。こりゃ話が早い」
上げてもない足を取られた。こと交渉に掛けてはランサーの一枚上手に回る男だ。こちらが頭を切り替える前に、ロビンは算盤を弾き始めている。
「ものは相談だが……」
「待て待て待て、正式な飼い主が決まるまで、あくまで一時的にオレが預かってる。それを変える気はねえからな。今回が駄目だったにしても次に賭けりゃあいい。それまでは責任持つって言ったろ」
「そうはいかないと分かってるはずだ。確実にあんたに懐いてるんですから。譲渡先が決まるまでと言うなら、どうせなら最後まで責任持ってやってくださいよ。これ以上の議論は予定調和に過ぎませんぜ」
ランサーは噎せた。確実にオレに懐いてる?
舌が急いて言葉に詰まりそうになる。
「最後まで、と言うがな、じゃあこいつはあと何ヶ月生きる?人魚の平均寿命を聞いてるんじゃねえ。オレが飼えばその最後は随分な駆け足で来るに決まってる。それよりハンストを解決してやる方が余程建設的じゃねえか」
ロビンの心底からの溜息は、ジェスチャーとしてのそれを見慣れている者には深々と刺さる。大抵の場合、溜息の理由が正当だと分かっているからだ。
「誰かの所有物である限り、動物の天寿はないものに等しいんです。人魚に限らずな」
「それなら素人に育てさせて死なせても一緒だと?懐いてるなら尚更構わんと思うわけか。人様がそう思うのは勝手だが、オレはそのエゴには納得させられたくはねえな」
「勝手に主語をデカくせんでください。動物の飼育も愛玩も、人間の都合とエゴの産物だと分かってる人しか相手にしたくないっていうのがオレの信条なんです。素人に拘るってんなら、これからオレが毛の生えた初心者程度にはしてやれるんで」
正直なところ、飼育を始める以前に想像していたほど、人魚には手間は掛からなかった。一日一回は帰宅する理由が出来た煩わしさは、これまでランサーの生活がいかに文化的とは言えないものだったかを思い知らせた。餌代は馬鹿にならないし水換えはそこそこの重労働だが、総じてランサー自身の生活レベルは上がったと言える。だが結局、それで動物一匹の命を消費するのかと、ランサーの後ろめたさもエゴという言葉に帰結して首を縦に振れない。
「ロビン、お前は前提からズレてんだよ。素人なりでも飼ったからには手を抜かないのも約束できる。いざと言う時には責任も負う。だが、オレがこいつを大事に思えるかどうかは別問題だ。今まではギリ部外者だと自分に言い訳がついてっから、エゴがどうとか好き勝手に大層なことを言えてるだけだ。本気で動物を面倒くせえと思いたくねえんだよ。ビギナーズラックで甘い汁吸ったご身分だが、狡い立場のままでいさせてくんねえかね」
むしろ動物嫌いであったら感情との折り合いはついたのだ。ランサーが敬遠していたのは人間の文化サイクルに組み込まれた存在であって、動物そのものではなかった。『このアカウントは削除されました』の列に加わるくらいなら、それに顔を顰められる側でいたかった。
予定調和と言われた意味がよく分かる。ランサー以外の手からも餌を受け付けるように躾けるにも、新たな飼い主を見つけるにも、そして正当な飼い主として教えを得るにもロビンの手は必ず借りねばならない。だが前者二つの選択肢においてこの男が手を出さないと決めたらそれまでなのだ。飼育するには責任を持つと言質まで取られた。自身に途中放棄を許さない性根はとっくの昔に把握されている。
一瞬でも懐かれたことを認めてしまったのも、それをこの男の前で顔に出したことも迂闊だった。項垂れたランサーに了承を見たのか、ロビンのとどめは穏やかに打たれた。
「ペットにハンストさせた時点で、素人がビギナーズラックでうまく飼育できてましたなんて美談は無理があるでしょうよ」
「もう分かってんだよ。わざわざ言うんじゃねえ」
「そうと決まれば飼育者の登録に必要な書類はここに置いときますぜ。手続き上の質問だが、そいつの名前はどうします?」
準備が良すぎる。ものは相談、などと持ちかけたくせに、来る前から算段がついていたらしい。それを隠しもしないところが憎らしいところだ。
「返還してきた相手さんも登録は出したんだろ?あっちじゃ今までどう呼ばれてた?」
ランサーが手元のスマホにさっと目を通す。
「あー……アーチャー」
「なんだよそれ。相手方にオレの名前も教えたのか」
ロビンが肩を竦め、ランサーもポーズとしての溜息を返しておく。
「まあそれでいい。アーチャーで登録してやってくれ。一人と一匹で生活すんのにわざわざ呼称は必要なかろうが、いつまでもソイツやコイツでお前さん相手に相談する訳にはいかねえからな」
譲渡の結果がこうはなったが、彼がヘマをしたせいでも手を抜いたからでもない。上手く言いくるめられたような悔しさは残るが、一応はこれからも恩人となるべき相手だ。ランサーが床に尻を着けたまま力なく「頼んだぜ」と投げれば、「そりゃこっちの台詞」と混じり気のない視線を返された。
「あー、それと、先方から預かってたもんがあったんで書類の上に置いときます。今夜くらいは玄関の鍵は掛けて寝た方が良さそうですぜ」
ロビンの口調にどことなく抑えきれぬ高揚感を感じ取る。仕掛けたイタズラが成功するかどうか物陰から雌伏する子供のようだ。己が主役の日であってもこういうサプライズとか苦手なんだがなあと苦笑を押し隠しもしなかったくせに、仕掛ける側となると目に光が宿る人種だったとふいに思い出す。
ロビンが去ってまた一人と一匹が残され、その必要もないのに妙に足音を潜めて玄関脇のシューズラックに近寄った。A4サイズの茶封筒の上に、おもしをするように縦封筒が重ねられている。中身をあらためて目を疑った。何がこんなに視界を暗くするんだと光源を探して顔を上げ、窓の外ではとっくに日が落ちていると気が付く。
水槽に備え付けのLEDライトを点け、その決して明るいとは言えないが充分すぎる光の中に身体を滑り込ませた。そして白い帯を付けた分厚い札束が、見間違いではなかったことを確かめた。
これを最初からロビンに渡されていたら、と想像する。きっと予定調和は揺らいでいた。金儲けはしたくないとか隙の無い綺麗事で突っぱねて、正統な飼い主になることすら回避できたかも知れない。再びロビンに食わされた怒りが塗り重ねられたが、煮えることはなく腑の中で鎮静する。
迷惑料だ。迷惑と呼べるほどの心労は被ってないランサーが受け取る必要はない。
雌雄に拘って手放すような相手じゃない。だが給餌を受け付けて貰えず泣く泣く手放した。ファッションで人魚を買うようなタイプを相手にしないともロビンは言った。どれも決定的ではないいくつかの形容が、薄靄のように名も知らぬ前任者の輪郭をとる。
大金だけが理由ではない慎重さをもって封筒を裏返す。宛名は無かったが、差出人の名も記されていなかった。あっけなく靄が霧散した。恐らくもう関わることはないだろう。
思考の糸を解いて両足を投げ出し、隙間風の絶えない窓枠に背を預けた。以前もこうやって一匹と並んでただ部屋を眺めた。今日は上部式フィルターから濾過された水の滴るたぽたぽというBGMのおまけ付きだ。
値段に見合った働きをしているのだろう、水槽から零れる光量は以前の比にならず、ランサーの常に浮腫み気味な足先の、支給のローファーで皮の厚みが増して不格好に反った小指までを照らす。染みのようにしか見えていなかった天井板の黒点が杉足の木目と知る。
こりゃ照明の購入がどんどん先伸びるなあと水棲の同居人に呟いた。返事はない。それを寂しく思うことはまだランサーの美徳が許さない。
ミンロウ社の同製造ラインで生産された人魚の全ては同一のDNAを基としている。芯なしダブルのトイレットペーパー、コンビニおにぎり(エビマヨ)、冷凍のエビシューマイと同様に、製品には一定の品質が保持され、どれをとっても他の人魚と遜色ない。それが保証されている。ランサーが飼育者として登録された人魚、アーチャーもその例に漏れない。アーチャーの同位体は幾つも存在している。それを承知した上で素人なりの所感を表すとするならば、アーチャーは初めから何かが変だった。
見た目は典型的なミンロウ社製人魚ミンロウである。それは同時にミンロウが出回る前に人々が空想していたような「人魚」とは多くの点で異なることも意味している。
人で言う鎖骨部分、胸部から尾鰭の付け根までのほとんどの体表はつるりとした皮と鱗で覆われ、アーチャーのそれは醒めるように紅い。紅い個体は珍しくもないが、白い帯状の模様が複雑に交差しているタイプはロビンも記憶にないらしい。胸びれの先と頭部のみが褐色をした粘膜状の皮膚を露出していて、耳と見られる突起が後ろに撫で付けられる形で頭部に沿っている。鱗の派手さに関わらず毛髪の色素は薄く、光を反射して白が緋色にも金色にも映った。顔立ちはコーカソイドのそれだ。目鼻立ちが著しく美形であるところだけは伝説上の「人魚」のイメージと合致している。それもランサーを視認して眉根をきゅっと寄せると台無しなのだが。
体側面にそれぞれ一本ずつ付随している器官は腕ではなくひれだ。体長との比率を考えるとひれにしてはやや大きく、先端が五つに分岐しているために腕のようにも見えるが、胸びれが発達したものとされている。物を掴んだりする程の力も器用さもない。ただのお飾りだ。それをアーチャーは巧みに使い、沈下性の餌が底に着く前に捕まえて口へと運ぶようになった。あまりに自然だった。通話でそれを伝え聞いたロビンは、実際の様子を目にするまで『ランサーのついたしょうもない嘘で賞』にノミネートする予定だったらしい。他にも『表情を作る』『簡単な言葉には反応を示す』といった有力候補もあったが受賞たりえなかった。
何かがおかしかった。
その何かをロビンは早い段階で察知していたのだろう。
人魚がいまだに成長を続けているようだとランサーから聞かされる頃には、彼はしょうもない冗談を聞かされた場合のセオリーとして鼻で笑うこともしなかった。
今までロビンと取り交わした会合の約束は無数だが、当日のうちに会う約束と訪問が同時になされることは滅多にない。アーチャーを正式に迎えて初めて越す冬至の今日が、その記念すべき最初の例外だった。なにせ彼には個人経営の店がある。労働基準法が許容する範囲内かつギリギリ人権が適応していないシフトの入れ具合に生活を任せているランサーとは環境が違う。最近になって学生のバイトを一人雇い始めたらしいが、それでも責任者が留守という状況は作りたくないらしい。酒の場で聞いた時は素直に感嘆したもので、それを己のために曲げて来られるとなるとさしものランサーも心が咎めた。
「あんたを有識者程度にはしてやると豪語した身なんでね」
「初心者に毛が生えた程度って言ったろうが。どさくさでグレードを上げるな」
玄関で出迎えた際はそんな調子だったが、勝手知ったるロビンはすたすたと窓際まで歩み寄って瞠目した。そこに据えられた水槽を覗き込み言葉を失う彼の肩を叩き、ランサーは「食いでがありそうだろ?」と声だけで笑う。相手も取るに足りないサプライズを仕掛けられたように一笑してくれることを期待して。
「……人肉でも食わせたんで?」
半畳を占拠するLサイズの水槽。その中に、探すまでもなく人魚の姿が窮屈そうに納まっている。幅は足りず尾ひれをくるりと曲げているので、納まっているというよりは嵌り込んでいるに近い。方向転換さえできやしなさそうだ。
水面に浮かぶ二つの影に、アーチャーが反射的にかんばせを上げた。人面、ではなく人の顔があった。そこに表情らしきものが一切繕われていないのが薄ら寒く思える。体長を鑑みればもはや動物ではなく幼児だが、なまじ精悍な造りの顔をしているだけに幼児からも遠い。標準的な人魚の成体の体長は約20cm前後とされているが、少なくとも標準の二倍はあるアーチャーの上体は、青年期のヒトの3分の1スケールモデルさながらと言ったところだ。その下に紛うことなき魚体があるので視覚情報が招く混乱もひとしおである。
鉛のように生唾を飲み下すロビンの動揺にはランサーも覚えがある。不気味の谷という言葉が母校の講義室の光景と共に呼び起こされた。ヒトならざるものがヒトに近付けば近付くほどに深さを増す渓谷。それがランサーにも一瞬の思考の硬直をもたらしたが、正直なところ見慣れたものだった。あらかじめ衝撃を予期していたのだろう、ロビンも詰めた息を即座に吐き捨てる。
「育てろとは言ったが育ちすぎじゃないっすかねえ!?」
「おう無味無臭のツッコミをありがとうよ」
「たまに居ますよねオタクみたいなの。縁日で買った出目金とか意図せず鯉サイズにしちまうやつ」
「そんなオーソドックスなあるあるの範疇なのかよ。見ろよ水槽がパッツンパッツンだぞ」
「おおよそ水槽に用いる擬音じゃないが、悔しいかなそれで伝わっちまう。まああんたの言う通りだ。もう巨大金魚なんて可愛い問題じゃない」
二人の思考は共通の問題へとシフトする。恐らくロビンの脳裏によぎるのは一つの光景だ。ランサーも同じ記憶上のスクリーンを見ている。あれが人々の記憶から忘れ去られるにはまだ早い。
どのチャンネルに変えても一様に浜辺または海岸の映像が延々とテレビ中継されている異様な時期があった。日本で生まれ育つ人々にとって海の中継映像は大概心臓に悪いものらしいが、それとは異なる不穏を孕むものだった。
それはK県の陸地全体にぐるりと取り囲まれた大きな内海のS浜だった。それは日本海に面するI県の漁港だった。それはA県北部の霊地として知られるI断崖だった。居酒屋で脂と煙に燻されながら見たY県Y浜がランサーの最初の記憶となる。正面のカウンター客が天井の小型テレビに釘付けになりながら、自分のスラックスにウーロンハイをだくだくと飲ませていたのが気になったのだ。
ヘリかドローンからの空撮映像だろう、夕陽で真っ赤に染め上がった浜と海があり、常に画面中央に捉え続けられている波打ち際には、人のような形状の何かが砂浜に横たわって長い影を伸ばしていた。動く気配はない。生命活動に必要なエネルギーを絞り尽くしたように体全体が赤茶色にくすんでいた。
それが当時なら誰もが知る愛玩人魚、ミンロウの姿だと気付くのに数秒かかった。
すぐに分からなかった理由は単に知っている姿より巨大過ぎたからだ。浜辺にシルエットを落とすヘリや、地元の人間と思われる人の頭の方がCGやミニチュアの玩具めいていた。フェリーでも並べてくれないと尺度の推測すらできない。ボトルや水槽の中に存在していた姿形を知っているからこそ異様だと思えるが、相対的な評価を抜きにすればバケモノそのものだ。
リポーターが何事を喚き、カメラがズームアウトする。人魚の岸壁のような輪郭の向こうに、同様のシルエットが間隔もまばらに幾つも浮かび上がった。テレビの中と外、誰かの悲鳴までそっくりなどよめきで空気が揺れる。
『これで発見された正体不明の生物の死体は16体となりました。飼育できなくなったミンロウの海洋投棄が原因ではないかというネットの声が大きくなっています。その一方で専門家は、海水での飼育も可能とされるミンロウですが、稚魚の段階で海水に慣らしておく必要があり、仮に投棄されても他の海洋生物に捕食されやすいためにこれほど大型に成長する可能性はほとんどないとの見解を示しています。彼らは一体何者で、どこから流れ着いたのでしょうか』
打ち上げられた死骸が腐敗し始めてお茶の間に届けられる絵面でなくなると、メディアは今度は死骸の処理問題で揉める国と自治体のニュースを取り上げ始めていた。世間が報道と称したエンターテイメントで飽食する中で、満を持したようにミンロウ社から正式な発表がなされた記憶がある。最初の死骸発見から数日ほど後のことだった。ランサーがその会見をリアルタイムで見ることは無かったが、バイト先でも行きつけの飲み屋でも大概はその話題で持ちきりだったのであらかたは知っている。
曰く、各地で発見された生物の発祥に、ミンロウ社は直接的な関わりはない。彼らが何なのか、どこから来たのか、それらの答えも持たない。ではなぜ彼らはミンロウ社の看板商品であるミンロウと同じ姿形をしているのか。それをN N Kテレビの記者が追求すると、代表取締役は無数のマイクに向けて粛々と答えたらしい。
彼らがミンロウに似ているのではありません。ミンロウが彼らに似ているのです。そうあれかしと造りました。
完全な人工生命体という鋼鉄の看板が崩壊した瞬間だった。
肴を咀嚼する合間に掻い摘み説明してくれた常連客が、きみあんまりニュースとか見ないの?と苦笑した。うちテレビ無いんでと答えて返ってくる反応に目新しさはない。
「きみも思うだろ?要は出来のいい人形を可愛がってたら、実はわざと出来の悪く弄った生き物だったって作ったご本人から知らされたようなもんだ。そりゃあ興も醒めちまうよなぁ」
客はランサーの返事の生焼け具合には気付かないふりをして続けた。
「というかさあ、きみの顔ほぼ毎晩見るけどテレビも買えないほどお給料低いの。外国人労働者だからって足元見られてるんじゃない?ま、この国どこに行ってもそんなもんか。日本に来たのが運の尽きってやつだ」
客はそう言ってぬるめの濃いめのげっぷを付け加えた。ランサーは胸を白く塗り潰す。この時にはもう喫茶店でのアルバイトが決まっていた。去り際に常連を一人道連れにするような真似をしたくはなかった。言葉で切られたのに切り返す言葉がない。最近ではその怒りも諦観に塗り替えられつつあった。おっさん貧乏人に絡んでないでスラックス一着駄目にしたの早く奥さんに謝れよないい大人なんだからよ〜と半ば本気の忠言は、生一つ!に遮られるまでがお決まりだ。
「オレの話聞いてます?」
ロビンの呟きで四畳半アパートの中に引き戻される。翠の瞳は水槽に捉えられたまま顎を傾けてランサーに不信を向けている。
「なに?腹減ったって?」
「人魚に食欲催すような人非人は一匹で充分だ。というかこの家で食えるものが出てきたことありますか」
「風評被害のダブルパンチをありがとう」
「おっと評価もしてるんですぜ。どんな悪運もあんたに掴まれると周囲を巻き込んだまま二転三転して暗渠行き。その事例もここまで来たかとしみじみしてますよ。自覚は?」
「褒め言葉を辞書で引いてこいよ。好き好んで面倒事を呼び寄せてるみてえな言い草を」
「はあ、自覚なかったパターンすか」
「ねえよ事実無根だ。世話焼きを見てみたけりゃ鏡の前に立ってみな」
オレのはあくまで責務ですんで。とそつもなければ恩着せがましさもないロビンの台詞で軽口の応酬は途切れた。
「もしこいつがこのまま成長し続けるとして、この水槽じゃ無理だろうな。かと言ってこれ以上デカいサイズにする訳にもいかねえ。床が抜けて二階建てが平屋になっちまう」
ロビンが意表を突かれた顔をした。
「んだよ」
「オレも散々焚き付けておいた口ですが、当たり前のように飼い続けるつもりじゃないっすか」
それ以外の選択肢があるのか。そもそも選択するようなタイミングがあったか。不可解そうに鼻に皺を寄せるランサーにロビンが溜息をつく。いつもの、とりわけランサーにはお馴染みの、たった今不本意なお世話が焼き上がりますよというサインだ。
「水槽ならやりようはあります。だが、ただの一時凌ぎに終わる可能性もある。その場合オレはあんたに謝らないといけないでしょうね」
何をとは言うまでもなかった。ランサーにチケットを渡したのはロビンだ。だがそれを受け取ったのも船に乗りかかったのもランサーの意思に他ならない。座礁しようと転覆しようと問題は彼の責任とはもはや関係ないところにある。それにチケットを受け取った時は、それが終着港不明だとはお互いに思いもしなかったのだ。
「謝られたところで時間が巻き戻るわけでもねえ。万が一の事態が起きたら骨くらいは拾ってくれや」
「冗談はよしてくださいよ。オタクみたいな不健康優良児の骨が拾えるほど綺麗に残るはずがないじゃないっすか」
一時しのぎという言葉が出てきたあたり、ロビンにとっての万が一は、千か、ともすれば百分の一の可能性なのだろう。ランサーには予期も予測も及ばない。浮かぶのは想像ばかりだ。テレビの画面の奥、干からびたアーチャーがその巨大な亡骸を車や人混みで封じ込められている夢を見て目が覚めた。怒声とクラクションの喧喧囂囂を歩道橋から見下ろしていた男と一拍置いて自我が重なり、煎餅布団の上で身体を折る。背骨を細い指になぞられるような嫌な汗が伝った。それが呼び水となってか、全身をじっとりとした不快感が覆い始める。スマホを見る。出勤時間までまだあるが、もう寝直すという気分でもない。
台所に立って水のペットボトルを手に戻ってくると、否が応でもLEDの煌々とする水槽が目に入る。飛び起きてから無意識に視界から閉め出していたのだと自覚して余計に気が塞いだ。当の本人、本人魚というと、押し寿司もかくやというほど身体を丸めているのにも関わらず、すやすやという擬音すら聞こえて来そうなほど気持ち良さげに寝ている。だがエラ呼吸の水生生物の寝息がすやすやとはいかないことくらいはランサーも知っている。人間の喉奥に気道と食道があるように、人魚の口内にも食道とエラがある。
顎の下にあるエラ葢が絶えず水を排出するためにひらひらと閉じたり開いたりするのを見ていると、子供がどうしてこう他生物の単純な生命活動を釘付けになって眺めていられるのかが感覚として分かってくる。ランサーが生まれた時から二足歩行で四ヶ国語を扱ったような話はついぞ親族からも聞かないので、幼少の時から変わらず持ち続けたものを呼び起こされたと言うのが近かろう。四方に山嶺を戴いて生まれ育ったランサーの遊び場といえば山に川だった。例の犬を飼っているオヤジの庭に侵入してはよく叱られたが、自然にとって人間のタブーは無意味だった。あるのは摂理だけだ。鹿を追って霧に白くけぶった野をに迷い出ることあれば、川魚を狩る鳥を真似て滝壺に飛び込み先祖の顔を拝んだこともある。それ以来ランサーにとって水中は死の暗喩になったが、不思議とトラウマには至らなかった。そうであれば望郷の撚糸となりはしないだろう。
絶えず湾曲する白銀の網目を描いて、ひたすらに青い水面を仰いぎながら聞いた、空気が口や鼻から溢れ出す音と、現実で水槽の浄化機が稼働するこぽこぽという音が重なる。天井を見上げれば青白い水面の影に僅かながら郷愁が慰められ、同時に吐胸を突かれたような心地がした。
人の手を揺籃にして生まれたアーチャーがあの景色を見ることはない。
言葉は通じずとも、記憶にある景色を見せることくらいは、少なくともそんな技術が、と夢想する。だが空想上のニュースの主人公はどれもどこかの誰かに過ぎず、夢の中ですらランサーはそれを報じる四角い箱の前に佇んでいる。
現実はいつもSF小説のようにはいかない。
ランサーは二本の縄をそれぞれの手で掴み、もう二つの縄を腕に巻き付けている最中のロビンに声をかける。
「こっちはいけるぜ。カウントでもするか?」
「先に手を離したら蹴る。いち、にーのっ」
尻尾の力んだ「さん」が聞こえるのと同時に縄を持つ腕に重みが掛かる。キシ、と鳴るのが水槽の床に張り巡らせた縄の音なのか、それともアパートの床の抜ける警告か。ランサーはともかく力仕事にも慣れているはずのロビンの顔が苦痛に歪む。人魚一匹に加えて水の量、更には機能数に準じた水槽の重さもある。
水槽を完全に床から持ち上げるというよりは摩擦を減らして引きづりつつ運んでしまおうという魂胆だが、縄を通すために少々傾けた時点で雲行きは怪しかった。どちらともなく腕を下ろしてランサーの脛は被害を間逃れる。
「ちとキッチンからパンの耳持ってきてくれ」
「へえ、キッチンがあったなんて初知りだ」
「うるせえ台所だ台所。茶色い紙袋」
訝しげな顔のまま袋を片手に持ってきたロビンが見たものは、水槽の中に両腕を漬けているランサーだった。あからさまにぎょっとする。
「何してのか聞いた方がいいのか」
「聞かない方が精神衛生のためだ。その耳がこいつにも見えるようにしとけ。いくぜ」
ロビンに言わせればそのまさかだったらしい。ランサーが両腕に担ぎ上げると、文字通り命の水から引き剥がされたアーチャーはびったびったと抵抗した。子供を通り越して低身長の大人程度の立端はある。一振した尾がランサーの体のどこかに当たる度に真顔にならざるを得ない音が響いた。コラコラといなすのもいい加減に本気の色を帯びてきたが、ランサー越しにロビンの手に握られているものを見て人魚の動きはぴたりと止まった。
声をかけずとも今だとはっきり分かったらしいロビンが台所へと走る。持っているのがパンの耳でなければ聖火ランナーに見えたところだ。アーチャーが好物のそれを凝視している隙に肩へと担ぎ上げ、ロビンを追って台所を抜け玄関の方へと走る。二人とも縄で両手が塞がることを想定していたので目的のドアは限界まで開け放たれていた。ロビンが一瞬の躊躇のあとにパンの切れ端を投げ、人魚がそれを追ってランサーの腕の中で激しく身をくねらせ脱出する。目がけるは玄関、の脇の浴室、の中に据えられた二メートル四方の強化ガラス製の水槽である。ミッション成功の喝采の代わりに大量の水飛沫が二人に降りかかり、玄関一帯へと散らばってぱらぱらと音を立てた。湿った前髪の奥からロビンの冷たい視線が突き刺さった。
「ちょっと話が」
こう切り出された時はちょっとでは済まないし「話」は説教の意味だと女付き合いで学んだランサーだが、そのセオリーが適用されるのは女性だけではないと認識を改める必要があったらしい。
「パン」
「でかくなった相応分の量を食うんだよあいつ。あの金魚の餌みたいなやつが一日で一袋消えるんだぜ?」
「の耳」
「そこのパン屋で一袋イチキュッパ。1980円じゃなくて198円の方のイチキュッパな」
「オタクの脳に詰まってるのもパンの耳ですか?発酵しすぎて腐ってるんじゃないですか?」
「お前好きだなその罵倒」
「いい加減にバリエーションも尽きてくるってもんですよ。訊きたくないが一体いつから……」
「まあ迎えた初日くらいから。エサ代ケチろうと三回に一回くらいは……」
ロビンが絶句を通り越して無になる。人間も感情が振り切れるとそういう顔ができるものらしい。いや待てよ、それでここまで成長させてるなら正解なのか。と真面目にランサーの奇行を読み砕こうとすぐに顔色が戻るあたりは職業病か。
「こっちが一つのことに頭を痛くしてる間にあんたは頭痛の要因を五つ増やしてくる」
「すみません」
「謝意があるならそこに直って下さい」
「はい」
そういう訳でランサーは出来たてほやほやのアーチャーの居宅の横に足を畳む。生まれも育ちも日本とは遠く離れた文化圏の男が正座で説教を受ける様子を俯瞰するのはよくない。させている方もイングランド産であるのが拍車を掛けている。肩が震えるのは笑いの初期微動だ。
視線を感じてみれば、好物を嚥下し終えてこちらを鑑賞している人魚がいる。折り畳まれていたひれが自由をようやく許されて、ゆらゆらと揺らめいてる様には油脂も下がる。深さはランサーの腰までもないが、この家で唯一広々としたスペースのある浴室が丸ごと彼の生活圏だ。湯に浸かる習慣の無く、引っ越してこのかた湯船の購入を先延ばしにし続けていたのが初めて功を奏した。それにしてもこの人魚の真顔は伝染る。こっち見んな。
「そもそも水槽ごと移して徐々に水質に慣れさせるって話しましたよねオレ。縄やら調達して来たのは何だったんすか」
ロビンの声に耳朶を摘まれて意識を直立させる。確かにそんな話もしたのだった。だが空っぽの水槽にダイブさせても無事だった経験が脳の隅にあったからこその荒療治だ。それを白状したところで薮蛇どころではない。殊勝な顔で黙るに限る。
約五分に及ぶロビンの講釈が終わる頃にはアドレナリンの効果も絶え、同じ色の疲弊を互いの顔に見ていた。
「メシでも行くか……いや出前にするか」
「偶然ですね。誰かの奢りで飯が食いたい気分なんですよ」
「奇遇だな。オレも他人の金で食うメシがいい」
ロビンがスマホを取り出した。
「近くの寿司屋 デリバリーで検索」
「お前が逞しくなってくれてオレはすごく嬉しいよ」
数十分もしないうちにインターホンが鳴った。ロビンは浴室を丸ごと魔改造した水槽の出来に感嘆しており、ランサーは巻尺でなんとかアーチャーの全長を測ろうとしている時だった。寿司が来た、と配達員の方が運ばれているようなことをロビンが言い、家主が折り財布を手に立つ。
ごくろ〜さんと労いながら上がり框を軋ませると立っていたのはうら若いベリーショートの女性で、お守りでも握りしめるように胸の前でスマホを掲げていた。この辺の住人だ。大して人通りのない路地ばかりだが、何度か顔を見た覚えがある。だがそこまでだ。
寿司を納めたくてどうしようもない空腹具合と、突然の来訪者への戸惑いが拮抗し「嬢ちゃん寿司?」という質問が口からまろびでるが、生臭いのは人魚の水出し汁を浴びたこちらの方である。相手は出てきたランサーの開口一番の台詞に戸惑いこそすれ驚いた様子はない。住人が誰か分かった上で訪ねてきたか、と思うと同時に外の冷気が肌を撫でて首筋まで粟立った。
「あの、私このアパートの正面に住んでいる者で」
「おいこら」
ランサーも鼻白むどころではない。少女と呼んで差し支えない年頃の女が、外国人の男の一人やもめを訪ねてそんなことを宣うのだ。
「訊かれても初対面の男にそんなことを教えるんじゃねえ。分かったか?今のは聞いてなかったことにしてやるから自己紹介なら最初からやり直しな」
訪問者の顔が赤くなる。どうやら寿司どころではない様子を察知したらしいロビンが浴室から顔を出し、若い客人にどうもと気の抜けた会釈をする。
「私はこのアパートの正面に住んでいる者ですが」
馬鹿な、と言いかけて、少女の目がスマホの画面の上で左右した。自己紹介の先がある。
「私の部屋からいつも窓際の水槽が見えてて」
少女が言葉を切った。ランサーは息の吐き方を忘れた。
見た目が珍しかった。日に日に大きくなっていくのが興味深かった。少しだけ写真を撮った。駄目だと分かっていた。今日見たら水槽ごとなくなっていた。無断撮影がバレたかと思った。謝りに来た。写真は全て消した。
とてもではないが一対一で目を合わせて話せる内容ではないから予めカンペを用意してきたのだ、と納得したのは随分後になってからだ。情報に一つ理解が追いつくにつれて両刃のナイフで腹を滅多刺しにされているような心地だった。まさに己の迂闊さを謝罪の言葉をもって呪われているのだから文字通りだろう。少女との間に体をせり出させてきたロビンが、後ろ手をランサーの肩に置く。
「写真は全部消したんすよね?一応確認させてもらっても?写真は友達とかには見せてない?」
詰問された少女は後生大事に握りしめたスマホと一緒に激しく縦に揺れる。その口が小さく、わたし交友関係断絶してるのでと動いて、ランサーの脳裏に呼び起こされたのは『このアカウントは削除されました』の文字だった。
「SNSは?」
ランサーの視線に縫い付けられて少女の周囲で時間が止まる。硬直した表情と、瞳の中にじわりと広がった怯えの色が全てを語っていた。ロビンがああ……と諦観を滲ませた呻きを上げて氷が解け、すみません、本当にごめんなさい、今すぐ消しますと少女の必死なアドリブがアパートの廊下に響き渡る。彼女の肩を巻きとるように腕を回し問答無用で玄関へと引き摺り込んだ。
ロビンとランサーは言わずもがな、客人は外国産成人男性二人の体躯に挟まれて戦々恐々の四文字が顔にこびりついている。しばらくは洗っても落ちまい。と、間もなくインターホンが鳴る。
ランサーに頷いて先を促され、スコープを覗き込んだロビンの喉仏がごくりと上下した。こちらを振り向いた目は少女の黒い頭を一瞥して、ランサーに向かって困惑げに眉を下げた。
「とりあえず三人で昼飯にでもしますかい」
そこから先の展開は、スマホにSNSをインストール済みの人間ならば誰もが知っている。その実、少女のアカウントがアップしていた数枚の人魚の写真は、その他の腐るほどある陳腐なフェイク写真の一つとして誰の目に止まることもなかったそうだ。だがある日、それらの全てが脈絡もなく削除された。何がきっかけだったかが分かるだけにランサーとロビンには苦々しい。彼女のアカウントに『読み込みエラー』の文字が飾られてから初めて、数少ないフォロワーの中にたまたま写真の本質を読んだ者がいた。たまたまタイムラグを利用して削除されたツイートの写真を閲覧する方法を知っている者がいた。たまたまその中に数百のフォロワーを抱える別アカウントを持つ者がいた。偶然は重なり、必然的に四畳半のボロアパートの窓際の水槽から撮影者を見上げているアーチャーの画像には爆発的な『フォロワーに共有』と『いいね』がついた。誰もがその飼い主と飼育環境を知りたがり、ランサーは『誰か』という代名詞で一躍の有名人となった。SNSはおろかラインも入っていないスマホを持ち歩く当人には預かり知らぬことでもあったが、それだけで済んだと言える結果であるのもよく分かっていた。
「オタク、N大学の生物学准教授?それとも相続トラブルで韜晦中のジャパニーズブルジョワか、魚好きの一般男子中学生でしたっけ」
件の女子大生(高校生くらいに見えた。いずれにしても年下は守備範囲外)と寿司桶を囲んで数日、アーチャーの様子見に現れたロビンの台詞にランサーは思わず胡乱な目付きになった。謎のデカミンロウことアーチャーが巷でどう騒がれているのかは、二大SNSにペットショップのアカウントを開設している店長、兼、広報担当の彼がランサーに情報を掻い摘んで投げるのが定例化しつつあった。
「そのどれか一つにでも当てはまるように見えるか?そう言うお前はサンバの講師で生計立ててるドイツ人だったな」
「そう尖らんでくださいって。『あの人魚の飼い主は自分だ』ってSNSで主張してるアカウントがいくつあるか知ってますか。オタクがそのどれでもないなら全員架空の人物ってことになるが」
「オレを騙ってすらないオレの偽アカウントねえ」
「流石にアイルランド出身のフリーターって発想は出てこなかったみたいで」
「隠遁中のジャパニーズブルジョアもなかなかだ。そのうち地球の動植物をサンプリングしてる火星人って真実に辿り着かれちまうな」
「里にお帰りなすって」
ちなみにランサーが近所のパン屋で買ってくる例のブツに関してロビンは黙認を決めたようだった。店員には毎日切れ端を食べている客の顔で認知され、レジに並ぶ度に焼きたてやら新作やらを勧められていることもあって、疚しさがこれ以上重くならないのは素直に有難い。ランサーとて分厚いトーストに本物のバターをたっぷり溶け込ませたものが好ましいが、一度手放した日課が実のところ贅沢だったと分かるまでに要した期間は決して短くはなかったのだ。
案じるは水中にパンを落とすと油分やらが水を濁らせることだった。今までは浄化機の恩恵と定期的な水換えで間に合っていたが、両手を広げても抱えきれない大型水槽の中身を毎日換えるというのは現実的ではない。
試しに水面に着くか着かないかのところでパンの耳をちらつかせてやると、アーチャーはひれを水底に着けてぐっと上体を反らせ、水面から顔を出そうとした。初めは狙いが外れてランサーの親指の付け根に歯型を残したが、二度目からは水上でちらつかされる餌の存在に慣れたのか、浮上の度に周囲への水害をもたらしつつも上手く食事にありつくようになった。身内補正ならぬペット補正を抜きにしても学習能力の高さには目を瞠るものがある。
せっかく器用に物を掴むのにひれの用途がこれに限られるのは不憫だと思ったのは束の間だった。浴室に居を構えてからすぐ、懸垂の要領で水槽のへりを掴み、水面から上体を乗り出しているアーチャーの姿には流石に度肝を抜かれた。どうやらある画角を探しているらしい、と気付いたのは、在宅時間が増えたのをきっかけに導入した小型テレビが点いている時だけの行動ゆえだ。巷を騒がせる謎のミンロウに関するニュースをチェックする以外には、静寂を締め出す程度しか利点が見い出せていなかったそれだ。浴室前の狭いスペースに据えてもさして移動の邪魔にもならず、小型を買った先週の自分に人知れず大正解を押す。人魚がテレビ?という疑問はこの際置き去りでいいだろう。
電話で報告を受けたロビンは常のように眉唾半分、吃驚半分といった反応だ。内心はもうテレビだろうがラジオだろうが一日中聴かせたって構いやしねえよと思っているに違いない。ともあれ同居人(魚)の思惑を一つ読み解いたと自得していたランサーだが、それは思い上がりだったと後に知ることになる。
フリーターを極めて数年になるランサーの在宅時間が今更増えたのは、ひとえに勤務先のカフェの営業時間が短縮されたことによる。ランサーのシフトは学生のバイトに頼れない朝から夕刻までが主ではあったが、彼らを路頭に迷わせる訳にはいかないとのマスターの計らいで、短縮された尺に合わせて数時間ずつパートやフルタイム勢の勤務時間を切り詰めることになったのだ。二十四時間働けますを履歴書の備考欄に掲げて面接に来たランサーだ。以前ならばマスターはさぞかしシフトを減らしてくれと言うのに躊躇したことだろうが、最近では退勤時間にぴったり打刻をして帰宅をしている。それもこれも毎日どこかのニュースで取り上げられている謎人魚を家に待たせている為である。
まだ熟れた赤には遠い陽を背中に浴びて靴を脱ぎ、適当なチャンネルでつけっぱなしのテレビの前を通って浴室にいる相手に「ただいま」を投げかける。アーチャーは相変わらず無表情か顰めるばかりの顔だが、ランサーという個は認識しているのだろう。ただ視られているだけの目と、こちらと視線が合っている目の分別くらいはついているつもりだ。返ってくるはずのない返事を待つ必要もなく、靴下をその辺に脱ぎ散らかし、数分後にコーヒーを流し込む自分のためにコンロの火をつける。ばしゃんと、耳慣れてすぐに音沙汰のなくなったあの音が聞こえたのはちょうどその時だ。耳を傾けてみるとテレビは依然夕方のニュースを垂れ流しているようだが、間髪入れずにまた水面の暴れる音がする。
「アーチャー?」
そして浴室を覗きにいくと人魚は途端にしおらしくなるのである。水面の向こう側で頑として動かぬ仏頂面と、暴れていた余韻で未だ揺れている白髪の対比がなんとも可笑しい。こいつが人語を解せば、といつかのロビンの言葉が甦って、今更ながら共感を煽った。
「何が気に入らないんだあ?おい」
と問答をしている間にかけておいた湯が沸き、ランサーが浴室から離れると、やはり無言の抗議が始まる。水槽のへりに乗りあげようとしているだけではあるが、失敗に終わっているうちだから可愛いものだ。万が一、水槽の外に落下したら、というか試行する度に、常にドアを開け放っている浴室前の床が水浸しなので、現時点でも少なからず止めさせねばならない理由はある。だがどうやらテレビとも関係がないようで、加えてアーチャーの奇行はこちらが見ていない時に限るので捉えようがない。床への被害への応急処置として、廊下の隅に背中を預けながらコーヒーを啜る。ここからならば浴室が見通せる。台所まで行ってしまうと壁に遮られ玄関周りは完全に死角となる。一度鏡でも置いてみるか、と思い立ってから気が付いた。
アーチャーの行動は見ていない時に限るのではなく、つまり見ていないこと自体が行動のトリガーである可能性を考えていなかった。それを軸とすると辻褄は合ってくる。だが感覚として落ちてこない。懐いていると言われたのも餌の一件が最後で、常からその素振りすら見せていないのだ。大抵はあの瞳はじっとこちらを見詰め返すか、動きを追ってくるばかりのものだ。
……そうか。いつも目が合うのだ。
視界にランサーがいないこと。それが要ではなかろうか。
記憶を思考のテーブルの上にひっくり返してみれば、きっかけと思われていた小型テレビが最初に設置されていたのはコンセントのある窓際だ。それでいつも煙草を一服していたランサーは台所の換気扇の真下に定位置を変えたのだ。台所から浴室が死角ならば、当然ながら浴室からも同様。驚くべきは派手な音と人間が姿を見せることの間に等符号が置かれていたことである。
これで頬が緩まない人間がいるものか。
『それ、かなり言いづらいんすけど、オタクは生存確認されてるんじゃないっすか……』
と電話口のロビンの声には若干の引きが入っていた。まさか、とそうか、が同時に喉元に出かかった。
「餌をくれる奴が視野外でおっ死んでないか確かめてるってことか……」
『知りませんよ。ただ姿が見えないってだけが条件なら、オタクが外出してる間にも暴れた跡がなきゃおかしいでしょうが』
「飼い主が在宅か否か、かつ聞こえる距離を把握した上で派手な音を立ててんのか。だとしたら意外に、てか相当賢いな」
『頭蓋骨はもう人と変わらん大きさだ。詰まってるのが全く違うとも言いきれませんぜ。飼われているというより、飼われてやってる気だったりしてな』
またしてもまさか、とそうか、が相殺し合って喉元でくぐもった音を発した。見た目相応の知性があるとするならば、と仮定して。赤錆の張った浴室の壁面に囲まれて過ごすのは非常に退屈だろう。たまに餌をくれる人間を派手な水音で釣って動作を眺めるというのも退屈を凌ぐひとつの方法なのかもしれない。ランサーとてもはやあの灰の瞳に何か明哲な光を感じずにはいられない。たまにオレが飼われてる側みてえな気がしてくるんだよなあ……というぼやきは電話の声に一笑される。
『生き物を飼うってんのは大概そういうもんです。むしろスタートラインってとこっすかねえ?なにせオタクは山場から始まったもんだからなあ』
下手に気を揉むなという副音声が聞こえてくるようだった。彼なりの気遣いはいつも言葉の外に表れる。かと思うと、じゃあまたな暇人、と素っ気なく通話が切られた。オレの周りにいる男はもれなく全員めんどくせねえなアーチャー、と風呂場を覗き込んで返ってるのは顰めっ面だ。
「お前さんのその顔よ。無いへそも曲がるってか?」
人魚にとってのそれが表情筋の運動以上の意味を成さないであろうことは理解している。厭味に反応したかのようだったのは偶然だろう。現にロビンは『機嫌ガチャ』と評して風呂場を覗きに行くが、それは表情のランダム性を面白がっている上に特筆に足る変化の条件が無いからだ。
「ガチャってんなら星4とか星5枠で笑ってたり……しねえか。しねえよな。鳥肌立ったわ」
しかしアーチャーの学習能力をもってすれば容易くできそうではある。風呂場に向かってひたすら笑顔を作る自分の絵面さえ乗り越えてしまえばの話だが。さてどこでアーチャーはこの不機嫌極まりなく見える顔筋のパターンを覚えてしまったのでしょうか?自問したのは理性が先に得てしまった答えを敢えて感情から遠ざけようとしてのことだったが。
「オレのが伝染ったか……」
アーチャーの奇行の方程式が至って単純だったがゆえに辿り着いてしまった。人魚に向かって笑いかけている自分が想像できないのは、ランサーが一度もそうした事がないからだ。
頭蓋骨の大きさがほとんど己と変わらない、人間と同じつくりの顔を持つもの。特に瞳だ。鋼色をしたあの双眸に見詰められる度に、ランサーは全身が絡め取られたように感じていた。そう認めることすら忌避していたのだから、己の表情に全く自覚がなかったのも当然だ。
自分の裡に深く深く押し込めたものが、いつかあの湖面のような瞳に映し出されるだろうとずっと前から分かっていた。
ランサーの防衛本能が目を背けさせている、どうせろくではなかろうもの。だがアーチャーの身体が一回り大きくなるたびに、アーチャーの学習能力の高さが一つ露見するたびに、巨大な水槽でも隠しきれず溢れ出していた。
もう無視ができない。
それは畏れだ。
電波に乗ったあの浜辺の映像を見たときの周囲の匂い、ざわめき、客のスラックスを黒く染めていく酒の一滴すら克明に覚えているから、ランサーの心臓にもたらされたあの冷たい衝撃も忘れられはしない。幼いランサーが故郷の森林に足を踏み入れた時にもその鋭利な爪を光らせ、足を滑らせた川の底では一度牙を剥いて見せたもの。
人知を超えてくるくらいならまだ対処可能だ。だが人の理の外にあるものは人ひとりの手には負えない。委ねてはいけないのだ。手懐けようとするのがどんなに愚かなことか、それは育ての親の掌によって折られた数本のお前の肋骨が、肋骨越しに鼓動の仕方を覚え直されたお前の心臓が、なによりお前自身の恐怖が忘れない。畏怖そのものが記憶の縁からランサーの声を借りてそう囁く。
いつかその囁きがアーチャーの声に取り代わるのではないかと、心の底ではそれだけを恐れている。
ロビンからの不在着信にはいい思い出がない。さながら百発百中の如く。マーフィーの法則もたじたじだ。相手からしてみれば悪いニュースほどランサーが電話を取らないか、あるいは取らなかったことで悪いニュースに転じる場合がしばしばなのでお互いにとってのジンクスである。
早朝六時にロビンが胃と頭を痛めながら二度目のコールボタンを押すまで、ランサーは浴室前に敷かれた布団で寝息を立てていた筈だ。そのあたりが曖昧なのは帰宅してアーチャーに飯を用意した記憶が最後で、それから十二時間が経過する間はおろか布団に入った覚えすらない。要するに泥のように眠っていたらしい。
電話口にもそれが出ていたのだろう。ランサーが布団の中に散らばった意識を拾い集める間、珍しく早朝に電話したことへの謝罪が前座に敷かれ、何やら只事ではない予感まで余計に拾ってしまう。
『今どこにいる?』
「家だが」
『窓とカーテンは閉まってます?』
「閉まってますが?朝六時にわざわざ戸締り確認のお電話か?」
『以前あんたの浴室サイズに水槽を特注したのは覚えてますか。趣味でピラルクーを飼いたがってる富豪がいるって工務店向けの建前をこさえた』
「そうだったか」
覚えている。出来合いならではの胡散臭さに笑っていると、そう珍しくない注文内容だとロビンに差されて空が遠く見えたのだった。
『水槽を搬入しに来た運送のおっさん達も、集荷の際に内容物を聞いたんだと。それも仕事の範疇だからな。だがピラルクーと聞いて正解が脳に浮かぶ人種の方が稀だろうと、工務店が何と伝えたと思います?雲上人が趣味で飼い始めた大怪魚だ』
遠心力で延々と核心の周りを振り回されるような会話にようやく収束が見え始めた。
「隠遁中のジャパニーズブルジョワ……」
『それだ。そして配達先が桃源郷と思って勇み足で来てみれば、違った。それが余計に『それっぽい』ってんで、業者伝いにオレまで情報と憶測が逆流してきやがった。そちらのお得意様はあの巷で噂のミンロウの飼い主じゃないのかとな。ミンロウとピラルクーじゃあ仕様が違ってくるものを使わせる訳にはいかないから顧客の素性を教えろの一点張りだ。それもこの陽も登らん早朝に、だ。本気ときている』
「ああ、分かった」
ランサーの返事は凪いでいた。ロビンは肩透かしを食らったように『もう?』と言う。『自分の顔を全国ニュースで見る前に国外逃亡する仔細な手順が?』
「お前ぶっ飛んでるねえ。住所が押さえられてるときて、あとは例の写真を撮った画角さえ嵌れば連中にはパズルの大完成ってことだろ?だが犯罪でもねえのに国外逃亡してどうするよ。人魚なんて検疫も通らねえ上に五十キロもある肉塊判定でそれこそお縄だろうが」
『いや……その仮定でも当たり前みたいに連れていく気か、あんたは』
ランサー単身で喧騒から脱したところで一体何から逃れられようか。投げ出したら最後、この先味わうであろうどんな些細な苦しみも、たった一つ守れなかったものへの贖いや自身への罰へとすり替わっていくに違いない。罪悪感は搾取される。それが分かるのは、また経験則が嘘をつかないことも知っているからだ。
「もともと逃げも隠れも性分じゃねえんだわ。来るべき時が予想より早く来たってだけだ。それにお前には情報の後出しで悪いが、打てる手はもう打ったぜ」
手に余ってしまう前に打てるなけなしの一手を。
「オレの身から出た錆で割食わせてるのは承知だが、お前さんもきちんと寝ろ。果報もなんとやらだ」
『割を食ってるとは思いませんが、行動と報連相にタイムラグがありすぎるのは何とかなりませんかね』
「治らねえな仕様なもんで。だがまあ、謝る」
『……その殊勝さは寝起きの成せるものだと信じてますよ。あんたぱったり消息不明になる人間の声をしてる』
どんな声だと一笑してやりたかったが、この男の観察眼は侮れない。そう言うのならそうなのだろう。
「分かった分かった、飴をやるって言われても知らねえおっさんには着いていきません」
『は……?あんたもおっさんでしょうが、バカか』
このキレの悪さからするに完全に覚醒しきれていないのはロビンの方だろう。物珍しさにほどけた声を咎められないよう黙っていると、平時にしてはまた珍しく通話が切られる音が無い。『オレが情報を流したとは微塵も思わないんすね』とぽつりと続いた。本当にこいつ頭がまだ寝てやがる。
「今のはでけえ寝言だと思って聞き逃すからな」
部屋の中に静寂が舞い戻ってきてため息を吐く。放任主義を感じさせておいて彼も根が義理堅い。態度から見る以上にこちらの深みに嵌りこんでいるらしい。だがそれに甘えるのも今日までになればいい。
ランサーは通話履歴に残る二番目の番号を押す。コール音が続く中、固く閉じたカーテンの向こうからは血潮を吸い上げたような朝焼けが部屋にまで満ちている。まるで光の海で窒息させられているかのようで、相手が通話をとってもなおランサーはしばらく忘我の縁から這い上がれないでいた。