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傾れる未明/Novel by 秋あさぎ

傾れる未明

27,732 character(s)55 mins

槍弓。
UBWっぽいIF設定。

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 ひとつ、眠りにつき。
 ふたつ、眠りにつく。
 みっつ、眠りを貪り。
 よっつ、目を覚ます。

 ひと、ふた、みぃ、よ。

 四夜が過ぎれば天変、あるいは挽歌。

 ひと、ふた、みぃ、よ。
 ひと、ふた、みぃ、よ。

 ひと、ふた、みぃ、よ…。

 ―――ほら、内側から声がする。



 聖杯戦争の終結は、些かイレギュラーであったのだろう。結果として前回、四回目に当たる戦争で死した者たちの大半が蘇り、五回目の今の者たちも大半が戻ってきた。その約定の定め方は酷く恣意的ではあれど、実情として理にかなっていた。
 終結に際して数多くの謎が残されはしたが、現状にそれは関わりなく、緩やかに世界は進んでいく。
 実にうれしくない事実だが、蘇ったサーヴァントらが聖杯から直接魔力を供給されているのとは違い、弓兵は過去の己との契約によって結ばれている。その過去の自分は前マスターである少女の魔力回路を一部移植されているおかげで、サーヴァントに対して滞りなく魔力の供給ができている状態だ。とは言っても十全ではない。
 卒業後はロンドンに向かうのだと言っていた親愛なる前マスターが事前の根回しにと、渡英するのを見送るべく、弓兵は意識を切り替えた。

「いい、衛宮くん。こっちの瓶がアーチャーの魔力が足りなくなった時用。こっちが衛宮くんが足りなくなった用よ」
「わかった。けど何か違うのか?」
「あったり前でしょ、英霊と人間に同じ濃度の魔力なんてあげられないわ」
「そっか。ありがとうな、遠坂」
「っ、か、感謝してるなら私からの依頼、きちんと遂行して頂戴」
 真っ赤になった顔を横にそむけた少女に、少年ははにかむように頷く。膨大な量の魔力を石に込めるというのは、けして簡単なことではないだろうに、その労苦をちらとも感じさせないのは彼女らしいというべきなのだろう。
「桜も雁夜さんも間桐に戻ったし、することも特にないからこっちは大丈夫だよ」
 冬木という土地を、遠坂家の代理で守ることは一人では難しいけれど、今の自分には英霊がついている。そんな発言だ。
「…そうね、アーチャーもいるから大丈夫よね」
「遠坂のお父さんは」
「今はまだ教会とのやりとりで手がいっぱいっぽいの」
「あー…言峰か」
「ええ、あとあの金ピカ!」
「ギルガメッシュな」
「あいつらほんっとロクなことしやしないったら」
 何を思い出したのか、ふぎーーーっと怒り出す少女に、少年は少し考え込んだ。
「まぁ、あいつらなりの…こう、何か」
「無理に絞り出さなくていいわよ」
「うーん。難しいな」
 愉悦至上主義者をかばうのは心情的にも物理的にも難しい。腕を組んで考え込む少年の屈託なさに、少女も気が抜けたと嘆息する。
「とにかく、この間はいった調査で一通りあっちの好奇心は満たされているはずだから、干渉してくることはないと思うけど」
「何か異変があったら自分で対処しないで、遠坂のお父さんかじいさんに相談する」
「…その、切嗣さんは大丈夫なの?」
「全盛期ほどじゃないけどその辺りの敵には負けないって息巻いていたのをイリヤに怒られて収容されてた」
「そ、そぅなんだ。しばらくはあっちにいるってことね」
「アインツベルンとのやりとりかまだ残ってるから、しばらく戻ってこれないってさ」
「そっか。ちょっと心配ね」
 心配の下りが目の前の少年に向かっている辺りで、対象ははっきりしていた。気づいていない少年は「じいさんもいい年なんだし、そこまで心配はしなくていいと思うぞ」なぞとのたまっていて。
「しょうがないわね、アーチャー。あんたが頼りよ」
「ここの守りは私一人でも十分だ。凛」
「守りじゃなくて警戒だけでいいって言ってるでしょっ。だぁぁっあたんたちは放っておくとすぐ無茶するし無理するしっしなくてもいいところまで配慮するしっそれがまたかゆいところに手が届くというかっ」
 何やら憤慨しだした少女を前に、こき下ろされているふたりはそっと目を反らした。そろそろ慣れてきているとはいえ、一まとめにされるのはやはり辛い。
「念のためにランサーにもお願いしてるけど、手があいたらって言っていたから宛てにはできないしなぁ」
「ランサーって、教会対策に当たってもらってるんじゃなかったっけ」
「そうよ。でも相性がよくないっていつもぼやいてるから、最近はキャスターにもお願いしてるし」
「凛、それはあまりになりふり構わなさすぎる」
「でもキャスター楽しそうよ?」
 それはそうだろう。殺したと思い込まされていた腹いせに、さぞかし舌戦を繰り広げていることが予想できる。女の恨みというだけでも深いのに、その上に「魔」がついてしまうともう目も当てられない。
「流血沙汰になっても相手は綺礼たちだし…」
 なにか問題でも? と真顔で問いかける少女、さすがの弓兵もそれ以上の言葉を慎んだ。件のキャスターは相変わらず魔力の乏しいマスターに首ったけではあるものの、聖杯から直接魔力を流し込まれている状況のせいで、なんら問題なく活動している。自分もそうなりたいと奥歯をすりつぶしながら、弓兵は現状を呻く。
 少年もまた似たような顔で眉間に皺を寄せているのに気付くものの、あふれ出る心情は隠しがたい。
「しばらく様子見して、大丈夫そうならこっちら加勢するようお願いしているから。まぁ、適当にやって頂戴」
 そんな軽やかな依頼を残して、偉大なるあかいあくまは海を越えて飛び立ってしまう。
 残された主従一対、むしろ男二人と言うべき者たちは、互いの顔を見もせずに日常に埋没することを選択した。



 そして数日。
 日常生活が得難いものだと実感したのかどうだか知らないが、衛宮士郎が学校に行くのはもはや当たり前の出来事だ。いいや、普通に埋没しつつもその中で誰かの助けであろうとする姿勢からすれば、日常に割って入るのは前提事項だろう。
 つまるところ、平穏そのものである学校生活が営まれる日中、衛宮の家は弓兵の天下だ。エンゲル係数跳ね上げ部隊筆頭のセイバーは、前マスターである少女について行き、次点に位置していた四次戦線時の狂戦士もまた、己のマスターについて間桐の家に戻っている。夜は賑やかに隣家の女性が訪れるものの、衛宮切嗣が戻ってきてからは少し頻度が下がっている。弟とご飯を食べることと、憧れの男性とご飯を食べるのは別物らしい。恥じらいが生じていいことだ、なぞと衛宮士郎の派生形はたまに思う。少しばかりあの騒がしさがないのはものたりない気もするけれど、気のせいだと強引に思考を制御して、庭の掃除を続行した。毎日手がけている家屋はそろそろ手を付ける場所を探しづらい。元々、家主はまめに清掃しているタイプだったため掃除のしがいがない状況だったのだ。熟練している弓兵にとっては暇つぶしとしても物足りない。
 そういう意味で、掃除をしても毎日何かしらの乱れがある庭というのはなかなか好ましかった。まだまだ寒い冬の気候だ。落ち葉も少ないものの、手入れの余地は残っている。寒さに鈍い体で良かったと思いながら、濡れた枝やらゴミやらを素手でひょいひょい回収しては袋にしまった。細かな枝葉も逃さないように気を配れば、時間は存外早く過ぎていくものだ。
 満足のいく状況まで手入れが終わるころにはちょうど昼時と呼ばれる時間帯だった。
 ふと考える。昼食を作る意味はあるのか、と。
 未だ人の形を保っている衛宮士郎がいるのであれば、自分で作れと突き放して終わりだ。その際、相手は何を考えているのは食べずとも構わない自分の分も込みで作っていた。けれど今は自分一人であり、食べなくてもいいものを作る必要はない。
 そうは思いながらも手持無沙汰のあまり、冷蔵庫を除けば食材が底を尽きかけていた。そろそろ買い出しに行く行かないという独り言が、奈辺を通過していたような気もするが、弓兵にあの少年を気遣うという選択肢は存在していなかったせいで忘れていたらしい。
「ふむ」
 まぁ、その。暇だし。
「…あまり、付け上がらせるのもよくはないが」
 新聞を見たついでについついチェックしてしまったチラシの類を思い出す。今日の朝市は終わっている。夕市にはまだ早い。けれどセール品であれば時間帯を問いはしまい。少し足を延ばしたところにある青果店はこの時期の果物が安かった気がする。
 諸々、考えて。
 居間の棚に置かれている、生活費の財布を手に取ってしまった。そこからはもう推して知るべし。我に返る頃合いには、鼻に芳しい夕餉の気配。帰ったばかりの者の胃袋を刺激してやまないだろう香りと、出来上がりまで待たせるためのつまむ程度の食べ物が食卓に並んでいた。
 弓兵は自分の額を押えて低く呻くものの、してしまったものは仕方がない。クリーム色のシンプルなエプロンをキッチンにある椅子の背にかけた。
 戻ってきた相手がどんな顔をするのか考えるだけで面倒くさい。
 コンロの火を落として、温めるだけになっている食材が無駄にならないことだけを祈ると、衛宮邸を後にした。英霊の体は身軽く、屋根に上ることなぞ造作もない。常人に見えぬ体を保ったまま視線高く辺りを見回した。
 チカっと瞬く星のようにかすめたのは些細な違和感。眉を潜めた弓兵がその方向へ目をやった時にはすでに跡形もなく霧散していた。
 それでも、違和感は異変だ。
「ふむ…凛の懸念は的外れでもなかったということか」
 高潔なる少女が見せた危惧を、兆しという形で認識した弓兵は、その際一人で無茶をしないと忠告されていたことも忘れて、意識を研ぎ澄ませる。
 彼の視覚は肉体のみならず、魔力に依存する。遠くまでを認識する能力は、アーチャーとしての顕現だからなのか、はたまた彼だからできる技能なのか。
 判然一体と化した自己認識ではどうにもならない状況だ。ただ、見ようとして見れないものは少ない。
 それが霊であろうと何であろうと、存在する痕跡さえあるのであれば、弓兵の視野には映る。目に映るのであれば穿つことも可能だ。そもそも、視るという事柄は脳に依存する能力だ。微細な光の反射を眼底で受け止め、刺激の伝達として神経を震わせる。神経から流れ込んできた刺激を情報として脳が処理して初めて形と成す。
 そこに不可視を可視と変える工程を組み込むことは、不可能ではない。
 屋根の上に片足を曲げて座り込み、膝の上に顎をつく。どこか行儀の悪い姿勢のまま、瞬く気配が再び訪れないかと目を凝らす。
 刻々は過ぎていく時間はつるべ落としのように陽を沈めていて。見ている合間にも光の入射角は変動し、しまいには水平に、そして地に呑まれた。
 わずかに、放射の余韻として鮮やかに紅が滲む。その滲みはわずかな合間で、世界は夜に塗り替えられていった。
 ふつっと最後の紅が溶けるように拡散して、空は酷く深い藍。
 月のない夜でも、家々の明かりが下から照らすせいで星はどこか遠い。弓兵の視界としては問題のない状況で、遠くから家主の少年が歩いてくるのが見えていた。
 そしてその背後に、また、瞬きていどの違和感が弾ける。弓兵は腰を浮かせることもなく、その違和を凝視する。刹那の合間であろうと意識していた彼の視界で起きた変化だ。見誤ることなぞない。
 最も、これが前マスターの少女であれば特定しつつも走り出すといったアクションを起こしていただろうが、相手は過去の自分だ。甘やかす理由なぞどこにもなかった。
 半人前の魔術師は、気づいた様子もなくのこのこと帰路についていて、平穏無事に門扉をくぐる。そこで刹那の合間、違和感を発していた何かは霧散して消えていった。
 家というのは一種の結界だ。その上この家は、本職の魔術師が本腰をいれて作り上げている。門の在り方からして呪術的な意味合いを違えることなく発揮していた。そこをくぐるのは無害である者だけであるよう、きちんとした隔たりを示している。
 階下から自分を呼ぶ声が上がる前に、弓兵は立ち上がり、霧散した気配が他にもないか探すこととした。
 あれは、人にも通ずるものであり、けれどけして人ではありえない、ある種の野生の名残だった。
 社会というのはルールによって形成されている。ルールとは、つまるところ信じる力のようなものだ。ある種の事柄を、誰もが守っていると何の根拠もなく信じることで成立している。禁忌とされる事柄よりも柔らかい観念は、罰則を設けることで規律としての側面を強めている。それは人臭いありようだ。
 人以外には通用しないと断言さえできる。言葉が通じるかどうかではなく、それを「しない」あるいは「する」といった暗黙の了解じみた行動様式は、人以外には理解できない。そういう意味で。社会とは、人の為に形作られたあの種の枠なのだろう。
 だから時折外れる者がある。その行為を根拠がなくては信じられないと、信じる必要がないと断じる者が現れる。
 あの瞬くような違和感は、そのはぐれた存在に少し似ていた。
 思い起こすのは少し前、時計塔の調査が入る前に起きた揉め事。一切合財の論理を無視した存在でありながら、私欲の塊でありながら、人の規則から逸脱しているが故に純粋無垢にも通じていたとあるキャスターとそのマスターとのやりとりだ。
 あの血なまぐさい騒動は、人の社会では彼らを捕らえられないことを浮き彫りにしていた。その枠からはみ出ているのに、枠の中で生きていたから彼らは罪深い。
 つらつらと益体もないことを考えていた弓兵は、日の暮れた公園に一つの影があることに気づいた。
 キィ、キィと揺れるのは鉄鎖のブランコ。その渡したゴム板の上に人影を乗せて、キィ、キィと揺れて動く。
 それが斜陽の光に照らされた、夕の刻限であれば物悲しさに見舞われた光景だ。けれど日も暮れ深いに藍に染まる今、酷く不穏な景色にすり替わっている。
 異質であると、本能が警告を発している。
 キィ…とブランコ漕いでいた動きが止まる。そして影は見えないはずの弓兵を見た。
 英霊となった者たちは滅多な事では脅威を感じない。感ずるとすればそれは同等の者たちに対してだ。性格的な脅威や日常の範疇でのそれはあれど、彼の領域での出来事で真に危機を覚えることは少ない。
 それでも弓兵はその時、怖気を覚えた。
 理性では抑制しがたい、本能的なものとして、背筋を走ったのは寒気以外の何物でもなかった。人であった頃の彼の名残だろうか。それが、よくないものだと、警戒の鐘が鳴り響く。
 無意識のうちに弓を投影する。
 今では滅多に使わない、和弓。
 見られているのがわかりながら、それを構えた。つがえる矢はない。ただ、指を弦にかけ、意識を引き絞って穿つ。
 カンッと短い破裂音が空気を震わせ、合わさるように弦が震え鳴いた。その絡まる音の捩じれに、空間もよじれ、影がざらりと細かく砕けおちる。
 弓兵はそこで終わることなく、数度にわたって弓を引き絞り、架空の矢を射った。
 全てが消え失せて、惰性で揺れていたブランコも止まってから漸うと弓兵は武器を下す。
「…なんだ、あれは」
「同感だ」
 独り事のつもりで零した言葉に応えがある。完全に意識が一つに集中していた良い証左だ。
「弓兵、出てこい。今のはお前さんの仕業だな」
「影については無関係だが、それを消したのは確かだな」
 青い印象を裏切る鮮烈な赤の視線が焦点を結ぶ。自分の姿が生身を持ったことを実感して、嘆息した。引きずり出された心地だった。
 溶けて消えていくように感じていた武器を意識しなおす。
「ここで遭遇するということは、そちらでも何か異変が?」
「嬢ちゃん家って意味じゃあ違うな。あの家は嬢ちゃんだけの時よりよっぽど上等な結界が結ばれてる」
 力量は娘に劣ると嘯きながらも、技量だけはとびぬけている現当主を思い出したのか、槍兵はくつくつと喉を鳴らした。
「よほどのうっかりがなけりゃ、強固なもんだ」
「ならどうして君はここに」
「暇つぶしだ」
 何せ、うっかり潰しと愉悦対策は、自分よりも適任がついてしまった。導く者(ドルイド)としての側面よりも、戦士としての意識の強い今の自分には荷が重い。そうやって押し付けてきたのだ。なぞと、教会との折衝に当たっている護衛役の交代宣言だ。
「養われていると言われるほどでもないが、雨風凌げる場所は預かっているしな。その駄賃の代わりに嬢ちゃんが気にするだろう場所を回ってたのさ」
 暗に衛宮家を周り、おそらくは間桐の家、そして学校関係者も見て回ったことを告げている。
「…義理堅いことだ」
「お前さんほどじゃぁねぇ」
 変わらず笑いながら、槍兵は片手に遊ばせていた槍をかき消した。
「武器をしまえよ弓兵。幸いさっきのお前の働きかけで、この場は浄化されている。これ以上の変化は今宵は望めまい」
「その口ぶりでは、明日以降また何か起こるとでも言うようだ」
 そも、何かを掴んでいるような。
 探りながらも武器を消した弓兵に、デフォルメされた動物の形をした揺れる遊具にまたがった槍兵は、それはそれは嬉しそうに唇をひん曲げた。
「俺好みの騒動がやってきてるってことだ」
「私の好みではないな。早々に退散していただきたいものだ」
「はん、よく言う。お前のその技の冴えは戦わずして身に付くものじゃない」
 戦い抜いて死んだ。それも長く戦に身を浸してきた者の気配がするというのに、どの口が騒乱を厭うのか。微かに嘲笑う気配を滲ませた槍兵に、赤い武装を纏う男は何も言わない。
「才が無くとも積み重ねる、努力の武だ」
「さて、誇りのない武芸は嫌ではないのかね」
「それは俺も考えを改めよう。お前の武は俺とは誇りの在り方が違う」
 それだけのことだ。
 武を誇るのでなく、何の為に技を振るうのか。その何が達成されるかどうかがお前の誇りだ。個としての誉すら望まない、独善的で吐き気のする聖人君子の考えだ。
 けれど、それを良しとしよう。それがお前であるというのなら、ひとまず俺の好悪はおいて力を認めることはしよう。
「まっ、戦えば俺が勝つのは変わらんがな」
「さて…及ばずとも負けぬ程度のあがきはするが」
「よく言う」
 勝つ気もないくせに。
 その勝利に意味があるのであれば、弓兵は負けないだろう。勝てずとも。負けぬことを己に強いる。けれどそこに故がないのであれば、勝ち負けもさほど気にすまい。そんな見通しに弓兵は微かに眉を潜めた。心外だと言わんばかりの表情だが、槍兵は的を外したと思わなかった。
「まぁいい、化けの皮が剥がすまでもない…しかし、結局ありゃなんだったんだ」
「よく分からないままだな。そもそも君はいつから見ていた」
 暇つぶし、なぞと嘯いても当初からいたはずがない。
「昨晩からこう項のあたりがチリチリしててな。念のため周辺を見て回った。そしたら坊主の近くで何かがある。俺にはわからんがよくないってことぐらいはわかる」
「ああ、それは衛宮切嗣の結界に阻まれて霧散した」
「それほど強いもんじゃないってことだ」
 坊主の行く先にお前さんがいるのもわかっていた。だから念のための念を追加して、他にもないか探っていた。
「間桐の嬢ちゃんたちんところにはなかった。つか、あのバーサーカーがそれを放置するわきゃないな」
「彼はそうだろう」
「教会は確認するだけ無駄だ。寺もな」
「まぁ、そうだな」
「学校は坊主が帰った後は静かなもんだ…さて家路につくかと踵を返したら鳴弦なんつぅ風流なもんが聞こえたんだよ」
 弦をかき鳴らし、魔を祓う。そういう行為は地域時代が変われど、大した違いはないらしい。ケルトの英雄はくつくつと喉を鳴らしながら弓兵を見やった。赤の目が凄絶な色合いを見せている。
「あれはなんだ。魔か?」
「さて、私にはわかりかねるな」
「俺にもわからん」
 魔術師としての素質があるかどうかの問題ではないように感じる。もしも素養の問題であれば、槍兵に分からないはずがないのだ。彼は場合が場合であれば、キャスターとして召喚される可能性もある存在だ。赤い弓兵なぞよりもよほど魔術師然としている。
「嬢ちゃんが俺に依頼してきたのは、この地の守護だ」
 聞いている話とは違うとは口にしない弓兵は、黙って先を促す。
「そんな明確な言い方はしなかったが、まぁそんなところだろう」
 そもそも、この場所はいま酷く魔的なモノを引き寄せやすい状況だ。聖杯という力の塊の残滓と、そこから派生するサーヴァントという英霊。それらは力があまりに大きく、存在するだけで空間を歪ませる。そして歪みは奇妙なものを招きやすい。だからこそ、この地の管理者でもある遠坂は気にかけている。当主が別件で動けないことを理解している長子は、自身がこの地から離れることを危惧した。管理者という自己を痛いほど理解している証左だ。そして槍兵は、そんな少女の在り方を好ましく思ったのだ。
 彼女に対する「いい女だ」という評価は、常に揺るぎない。誇り高い貴族というあり方を教えられてきたことを差し引いても、遠坂凛は気高く美しい。そんな彼女だから、槍兵は言われたこと以上の働きをなし、彼女の危惧の実現を先回りして潰そうとする。
「まぁ、お前さんがどうかは知らんが。することはほぼ同じだろ」
「一緒にされるのは業腹だが…」
 遠坂凛という少女を気に掛けるからこそ、こうやって動くのだ、と。
 弓兵に関していえば、彼の在り方の問題もある。
 正義の味方という理想を掲げて至った英霊だ。つまるところ、通常運転。それに尽きるものの、動き方についてはやはり前マスターである彼女を意識していることを否定はできなかった。
 嘆息することで内心のあれこれを収めた弓兵は、のんびりとした動きで揺れる遊具を楽しむ槍兵に呆れる。
「あれは何だと思うのかね。君は見当がついているんだろう」
「さぁて」
「ランサー」
「怒るな弓兵、確証がないことは口にするもんじゃねぇってことだ」
「それでも多少の想定がなければ動きづらい」
「確かに、単独でできることはたかが知れている。こういう場合はな」
 的を絞るってのは有りだ。
「タイミング的には魔術師どもの調査員とやらのあとだ、きな臭い。そこからの罠って思いたいところだが」
「あちら側にどんなメリットがある」
「そこまではわかんねぇよ。ただ罠とは言い難い。むしろこれはもっと恣意的ではない偶然か、何か」
 考え込む槍兵は、ふっと瞼を伏せる。その面差しは御子と呼ばれるに相応しい端整さを浮き彫りにしている。動から静へ、落差のせいだろうか。酷くハッとさせられる。
 月明かりない公園ではあるけれど、人工灯は炯々と地表を照らしている。その下で遊具に跨り考え込む様は、アンバランスに過ぎて。
 目を反らせない強制力がある。
「感覚での話でいいんだな」
「かまわんさ。私には見当もつかない」
「この国の匂いがしない。あれは持ちこまれた穢れのようなものだ」
 けれど意図的ではない。
「何かに付随してもたらされた。それが活性化している…そんな感じだ」
「ふむ。一過性のものか」
「どうだろうな。少なくともただの人間には直接的な害はないだろ」
「根拠は?」
「坊主に付いて行った。つまりは魔術の素養があるものに興味を示すってことだ」
 逆説的だが、魔術師の連中についてきた何かってところだな。
「…あの未熟者がどうこうなるのは構わないが、それは困る、な」
「お前さんが坊主に厳しいって話は本当だったな」
「君には関係のないことだ」
「そらそうで」
 とくに関係性を聞くつもりはないという態度の槍兵に、安堵したのか何なのか。弓兵は気の抜けた表情を浮かべた。
「凛が戻ってくる前に、多少の調査をしよう。しばらく様子を見て問題がなければそれも合わせて報告程度でいいだろう」
「つまりは共闘するってことでいいのか」
「二度手間は好きではないのでね。君こそ構わないのかね」
「楽させてもらうのに文句なんぞないな」
「良く言う」
 少し前に言われた言葉をそのまま返す。槍兵の身軽さは、行動にも表れている。労苦を苦とは思っていないフットワークに舌を巻くことはあれど、その反対はない。
 どこか居心地の悪さを感じながら、弓兵は視線を引きはがした。その端整な容貌に飲まれているという自覚ぐらいはあった。美というのは一種の力だ。英霊たる者たちには、その傾向が顕著に表れる者がいる。槍兵もその手合いだと脳内で片づけると、情報共有をするべく手札を開示する。そもそも先に情報を提供したのは槍兵の方だ。次はこちらがするのが道理だろう。
 彼がどうしてここにきたのか。反射的に弦を掻き鳴らしはしたが、そこに根拠はなかったこと。本当に効果があったか疑わしいこと等。できることできないこと、推測と実際。それらを提示すれば、相手は少し考え込む顔になる。それが油断だったのか。それとも相手が一枚上手だったのか。
 弓兵の背筋を覚えのある怖気が這い上がる。電撃のような刹那の時間は、視界の端に表れた影によってもたらされたものだった。
 影は弓兵でなく、槍兵に向かって飛ぶ。
 魔術師の素養が高い方を好むというのは、あながち間違えていないらしい。少なくとも、ここにいる二者のどちらがそうなのか考えるまでもない。
 影を察知した槍兵はとっさに取り出した槍で薙ぐものの、それは悪手だった。物理攻撃で影を縫いとめることもできない。空振りの穂先。先端を翻して魔力を付加し、ルーンを刻んだ状態でもう一撃を繰り出す前に。あるいは、弓兵が投影した和弓の弦に指をかける前に。
 トッと衝撃の音。
 軽い音なのに、手から落とされた槍。
 ぐらつく上体。
 影が槍兵の胸部を貫き霧散する光景。
「しくっ…たか」
 胸倉をつかむ槍兵の顔は真っ白になっていた。元々肌の色が白いのに、血の気が引いているのか青に近い。その癖、見開かれた目の色は炯々たる赤で対比がひどい。
「すまないっ、間に合わなかった」
「お前さんが謝るところじゃねぇ」
 今のはどう見ても俺の油断だ。
 最速を誇る英霊が自嘲気味にぼやくのは、心臓に悪い光景だった。弓兵の動揺を知らず、相手は怪我をしているようには見えない胸部を掴み、浅く早く息を繰り返す。
「ランサー」
「問題ない」
 様子を伺う弓兵の声に、相手は必要以上にきっぱりと拒絶を示す。それが却って何かしらの影響が出ていることを証明していたが、追及できない雰囲気がある。
「しかし…怪我はないようだが」
 傷口は無いように見える。それでも影がぶつかったのは確かであり、そのあと掻き消えたのも確か。消去法と己の視力を信ずるならば、槍兵の内側に入り込んだ。そういう風に見受けられる。
 影響が、ないはずがない。それでも相手は頑なに否を提示し、しつこくすれば牙を剥くような荒々しい気配が滲んでいる。
 神話に聞く彼の戦闘時の風貌は、獣じみた形相を強調するものだが、それが相違ないだろうことを想像させる激しさだ。
「今日は解散としよう。明日また夜にここで」
 うっすらと汗を浮かせながら槍兵は一方的に提案をしていく。それに対して否を言えるほど、相手との距離を縮めていない自覚のある弓兵は、迷いながらも頷いた。
「了解した。日中もできるだけ見回っておこう。君は…休んでいたまえ」
 何かを言おうとした槍兵だが、唇の端を微かに震わせるだけで口元をすぐさま引き締める。余計なお世話だとかなんだとか、言いかけたのだろうという推測だ。
 けれど問題ないと嘯く彼が万全でないこと傍目にも明らかで、伏せ続けることは難しいということぐらい彼にもわかっているのだろう。黙り込む青に対して、弓兵はふと益体もつかないことを考える。
 もしも自分が、彼本来の時代の存在であり、彼が仲間と認めるような立ち位置にいたとしたらここで何を言われるのだろう、と。それが自分の立場であれば間違いなく憎まれ口をたたいている。けれど、この爽快な英霊はもしかすると礼を口にするのではないだろうか。強情でありながら、誰かを信頼することを知っている性格に見受けられる。信を預ける度量があるというべきか。人の上に立つ風格があると言えばいいのか。
 英霊にも千差万別の種があるだろう。英雄と呼ばれる者たちは、総じて何かしらの美徳を持っている。あるいは、突き抜けたものがあるというべきか。
 だからこそ、この槍兵はきっと彼には想像もつかないほど屈託なく仲間であれば、提案を受け入れる。その大らかさは多くの者たちの心を捉えてきたに違いない。
 どこか判然としない、割り切れなさを抱えたまま、弓兵は踵を返す。結果として、槍兵に背を向ける形になった。共闘という言葉を得た程度で、相手を信じているわけではない。ただ、凛という少女を認めているという一点で、多少の譲歩がある程度だ。多少の警戒はあれど多少以上の成分はなく、だからこそ項を焼いた熱に振り返った。
 炯々と光る目は赤く。宝石のように強く光る。白皙の美貌に染まらない色が自分を見ていることに気づいて、思わず息を詰めた。涼やかな様子は欠けらもない、粗野な印象を孕む。食い締められた歯は牙という名称が相応しいように見えていた。
「   」
 はくりと、言葉を呟いたつもりで音にはならない。たとい音になっていたとしても、それがどんな単語となっていたのか。
 何を言おうとしたのか、何を言いたいのか。そも、呼びかけに意味を含ませることができるのかどうかも危うい。
 内実を定めることのできないまま、弓兵はにらみ合い、膠着状態に陥る前に視線を切った。背後から襲われる心配はないと踏んで―――。



 家に戻れば洗い物をしている衛宮士郎と遭遇した。
「おかえりアーチャー、珍しいな。この時間に見回りか?」
「そういうわけではないのだがね」
「ふぅん…。まぁ、無理はするなよ。遠坂も心配する」
「言われるまでもない」
「って言うと思ったけど。俺もお前も、そういう意味での信用はないに等しいわけだし」
 ここは一つ、自重気味にいこう。そんな提案だ。残念なことに反駁する言葉がなかった。
「それと、夕飯ありがとう。やっぱり敵わないなぁって思った」
 すごく美味しかったと言われて作ったことを忘れていた弓兵は内心で動揺するものの、表面上は何でもないふりをして。
「精進するんだな」
「そうする」
 嫌味ったらしく言ったはずなのに、素直に頷かれるとすわりが悪い。首筋に手を当てて、ため息もつけない状況だ。
「凛は…いつ戻ってくるのだったか」
「まだかかるんじゃないか? 連絡も特にないし」
「そうか」
「何かあったのか」
「いや」
 そこで言葉をきるものの、それで信じる性格ではないと熟知している。誤魔化すというよりも、あの影にはできるだけ誰にも近づかせたくなかった。それが、過去の投影のようで歯がゆい相手であろうとも。
 取り繕う言葉は、事実をなぞっていく。
「少しランサーと揉めたのでね」
「相性悪そうだよな…お前ら」
「お前はいいとでも?」
「さぁ? そもそもあまりここに寄り付かないだろ」
「そうだろうな」
 何か知っているような口ぶりが気になったのか、少年は未来の自分である可能性を睨む。
「何か知ってるのか」
「特に聞いたわけではないがね」
 思い当たるところはないのかと、揶揄する口ぶりに少年は眉を潜める。思い当たるも何も、相手と少年の間にある接点なぞ数えるほどしかない。その数える中での最たるものは、胸の傷だ。
「俺を殺したことを意識してる、とか」
「あちらがどう感じているのかはわかりかねるが、お前がそれで身構えている程度の感覚はあるだろう」
 たとい一度手を組んだ記憶があるとしても、その折にも警戒はされていたはずだ。つまり、槍兵は衛宮士郎にとって自分がマイナスだろうという認識があって足を向けていない。そんな結論だった。
「…あいつ、そんな繊細な配慮ができるタイプだっけ」
「そうは見えないが、そう考えた方が我々は妥当に感じるだろう」
 むしろ弓兵が使った「我々」という言葉にこそ、動揺しつつ、少年は頷くにとどめた。なんだろう。槍兵どうこうがどうでもよくなるようなこの感覚は。時々見せるこの譲歩というか、同位体意識というか、そういったものが相手にあるのだと実感するたび、むず痒い。
 どう思っていようと、思われていようと、衛宮士郎にとって弓兵はある種の理想の体現だ。憧れた先の明確な形なのだから、そんな風に距離を縮められると平常が保てない。気恥ずかしい。
 突然押し黙った少年に、弓兵は片眉をあげた。何か納得していないような雰囲気はあれど、これ以上の会話は続かないと見て取ると、洗い終わった食器を取り上げ乾いた布で拭いていく。
「まぁ、その、アーチャー」
「用件ははっきり口にしろ」
「何か作っておくから、明日にでもランサーに差し入れてくれないか」
「……なぜ私が」
「学校サボるわけにもいかないだろ。夕方はバイトもあるし」
「仕方あるまい。届けるだけだぞ」
「それでいい。俺が別にそういうの気にしていないってのが伝わるといいんだけどな」
 二人にとってそれは当然の話ではあったが、一般的には自らを殺そうとした相手にそこまで親しみを持てるはずがない。槍兵が距離を置いたのは妥当な判断だった。彼は遠坂凛という少女を評価しているからこそ、衛宮士郎に対しても一定の配慮をしているつもりだった。
 殺し殺されが日常に存在していた神代とは違う。そういう認識があるからこそ、だ。そしてそれを今一つ理解しきれない弓兵と少年は、怪訝に思うことしかできなかった。
 その晩はいつもより多く下ごしらえをする少年の姿があり、珍しく手を貸している弓兵の姿もあった。夜は長いようでいて短い。下ごしらえをして、明日の授業の宿題を片づければすぐに就寝時間だ。
 食事を作る関係というよりも、鍛錬の関係で早起きをする少年は何を言うでもなく布団に収納されていく。その姿を見送った弓兵は一人屋根に降り立つ。
 不穏な影のことを誤魔化したのは、それが大事ないという判断があったせいだ。けれど、槍兵の身を貫いた衝撃を考えれば、判断を誤ったかと考え込みもする。かといって、半人前の衛宮士郎に何を言うべきなのか。
 そこまで考えてから、前マスターである遠坂凛であれば伝えたのかという仮定に至り、どのみち、口を閉ざしていただろうなと自嘲した。
 背負い込むなと言われたのは自覚している。けれど、これを誰かに押しつけるかどうかは別問題だと思うのだ。前マスターが十分な力量を得ていることも、その周辺が実力ある者たちだと理解していてもなお、頼るという選択肢は浮かんでこない。そこまで思考を進めた弓兵は、自分がどうして槍兵の申し出を受けたのか我ながら不思議だと首を傾げた。頼られているという形式だったからだろうか。しかしてこの件は自分も深く関わっていることであり、むしろ任されたのは自分という認識がある。共闘なぞという言葉を真に受けたのか。どうなのか。
 靄の晴れない心境は、自分のものであろうと推し量ることは難しかった。
 暗いくらい夜の下で、片膝をたてて物思いにふける。月のない空はほつほつと人工の明かりが消えていく中で少しずつ星の存在を際だたせていた。それでも、路上から放射される輝きが、黒を押しのけてしまう。光がなくならない。
 雪でもふれば、煙るような輝きに見惚れることができただろう。白い色合いはまるであの相手の白皙を連想させた。けして現実の光景ではなのに、芋蔓式で想起されたイメージは、知らず懸念に分類されていく。
 明日はそう、いい口実を与えられている。こそりと様子をみる程度はいいのでないか。そんな考えに、弓兵は軽く瞼を落として意識を拡散させた。


 あくる朝、予定通りに朝食をつくり、自身の弁当と差し入れる昼食まで作った少年は、片づけを請け負った弓兵にすべてを任せて出て行く。任された弓兵は、いつものように片づけをし、いつものように自分の心が許す範囲で家事をする。庭に少し落ち葉があったので拾い集め捨ててしまう。玄関先を軽くはいて、道路にも気を配る。その際、ご近所とあえば何食わぬ顔で挨拶を。
 当初は胡乱な目を向けられることが多かったものの、そろそろ弓兵という存在になれている者が多数だ。肌の色も目の色も違うが、遠縁と言い切ってしまえる程度には、少年に似ている造作が決め手だった。
 落ち着いた物腰と、基本的には親切な行いが完全に警戒心を取っ払い、今では夕飯のお裾分けも発生する。閑話休題。
 ざっと午前にすることをこなした後は、肝心の包みを向き直った。それはキッチンのテーブルでずっと彼を待っていた。一人分と言うにはいささか大きな包みだ。重箱に積められた食材と、ポットに入ったスープ。相手の嗜好がわからないと、結果として洋食を選んだ少年に、どれを与えても大した違いはあるまいと言ったのは弓兵だ。
 味覚音痴だと思っているわけではなく、弓兵の脳裏には食生活が貧しかったとうめいていた騎士王の存在がある。おそらく、彼の猛犬殿も似たような環境だったはずだ。そういう意味で、何を与えても問題がない。だった。
 間違いなく舌鼓をうつだろう相手を想像して眉を寄せつつ、あきらめて重箱をくるんだ包みを手に取った。これは口実だと口の中で繰り返す。
 影に貫かれた相手が尋常でなかったことを思い出せば、口実がなくとも伺う必要がある理解している。それでも口実はいくらあっても足りないというのも正しい心境。
 そしてその心境の通りにどこか緊張を孕んだまま、遠坂の家にたどり着いた。家主は不在。教会との交渉で家をあけがちと聞いている。家人もまた、遠い異国の空の下だ。彼女と主従の契約を結んでいる英霊もまた、護衛としてついている。だからこの家に何か気配があるとすれば、それはただ一人の存在を意味しているはずだった。
「…なんだ、これは」
 わざとらしいアピールとは言わないものの、隠し立てのない英霊の気配だ。それが想定外というわけではない。ただ、槍兵のものと考えるには酷く荒々しい。どちらかと言えば、バーサーカーを思わせる荒さが留まっていた。
 礼節を守ってチャイムを押すが、応えがない。勝手知ったる遠坂の家だ。鍵を投影し開錠する。自分に対して、家守りの術が作動する懸念はあったが、前マスターのうっかりか、あるいは恩情か、何かしら阻まれる気配はない。それでも用心しつつ応接間を覗き誰もいないことを確認すると、家人が食事することの多いテーブルに重箱の包みを乗せた。
「ランサー」
 それほど大きな声ではないが、人の動く気配のない屋敷では響く。第一、呼びかけた相手は英霊だ。呼んでいるという意志とこの敷地内であれば聞こえているはずだった。
 居るだろう場所に当たりをつける。かつては掃除をしていた家だ。内部構造なぞ熟知しているに決まっていた。おそらくあのあたりの部屋だろうと、透過するように睨むものの、相手からのレスポンスの類は一切ない。
 気づいていないはずがない。そう確信している。弓兵が確信していることを、相手もわかっているはずだ。
 全てが仮定の考えではあるものの、当たり前という事柄を一々精査していては時間が足りない。
 つまり、弓兵は今、如実に相手に避けられているわけだ。
 眉間に皺が寄った。
「どういうつもりかは知らないが、夕刻の約束は守ることだな」
 それと、未熟者なりにお前のことを思い煩ったらしい。差し入れがある。重箱をとんっと叩けば、匂いに釣られたようなタイミングでドアがキィと薄く開く。
「悪い」
「そう思うなら手をつけるといい」
 何、洗って返せとは言うまい。それができる犬ならテレビに投稿している。そんな揶揄めいた文句にも、槍兵は芳しい反応を見せなかった。
 少し、身を引きずるようにしてテーブルにつく様子に、さすがに毒づく舌も止まる。
 精彩を欠いている。見るからに。
 昨晩の影が影響しているのは推測するまでもないことだった。
「……夜は一人で見回ろう。凛に連絡をとるから君は大人しくしておくことだ」
「ふざ、けんなよ」
「ランサー、明らかに変調をきたしているようだが」
「怪我はしてねぇ」
「怪我に限定することではあるまい」
「弓兵、己の油断で負ったもんだ。嬢ちゃんに尻拭いさせる気はない」
 伏せがちの顔がくっと上を向いた。真っ直ぐに突き刺さる赤い目は、酷く強い。人の持つ道理や倫理といったものが削げ落ちかけている色合いだった。血色の赤だ。社会性なぞという優しい環境でない、命で命をこそぐ様な血なまぐさいものがにじみ出ていた。
 粗野な、あるいは獣じみたと言うべきか。
 飄々とした常なぞどこにもない、戦う者としての意識が剥き出しになっている。
 どこにも武器を携えてなぞいないというのに、ひたりと穂先を当てられているような危機感があった。喉元が仮想の刃でひりつく。
「足を引っ張られるのはごめんだ」
「なら俺は一人で動く」
「この状態の君を放って、あとで怒られるのは私だと思うが」
「お前も知らないことにすればいい」
「…強情な」
 嘆息すれば、相手はぎりっと歯を食いしばって睨みつけていて。いつもの軽快さは欠けらも存在しなかった。けれどそれが鈍重につながるかと言えば否。
 張り詰めた弦のような。
 弓兵が少しでも対応を間違えれば、すぐさま槍が貫くだろう予想がある。
 自分が引くしかないと諦めた弓兵は、包みをあけて重箱に詰められた料理を披露する。
「ポットにはスープが入っている。まだ熱いだろうから火傷をしないように」
「…ぉぅ」
「これを食べて、刻限まで回復に努めろ。今がどういった状況なのか言いたくないのであれば、少なくとも共闘に値する程度まではなっていて欲しいものだな」
 取り皿まで同梱されていた状態を、至れり尽くせりと言えばいいのだろうか。動かずともその場で足りる配慮に、槍兵は大人しく肯いた。引き際は彼も知っている。
 己と相手の妥協点を衝突間際で回避して探り出したのだという認識は、言葉にせずとも互いに一致するところだった。





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