BLACK BOX DIARIESとジャーナリズムについて
本記事と対になる内容です。
事実整理
刑事手続
・被害届の受理
・逮捕令状の不執行
・検察送致
・不起訴処分
・検察審査会での不起訴処分相当判断
民事手続
「不同意」であったことの事実認定がされ、他方でデートドラッグ使用の主張については名誉棄損にあたるということで二審で山口氏に332万円、伊藤氏に55万円の賠償命令が出て、最高裁が原告・被告双方の上告を棄却して確定。
映画の性質
最高裁の上告棄却が出るまでの期間における伊藤氏の活動がまさに日記的に記録されていて、関係当事者とのやりとりなどの生々しさ、世間の評価を受けての伊藤氏の心情はよくわかります。主観的記録としてのDiaryであり、ドキュメンタリーでもあるけれども、「事実を客観的、正確に報道論評し、真実に迫る」ジャーナリズムに基づくかという点では評価できる部分は乏しいです。
争点・事実関係の不明瞭さ
山口氏が安倍総理と懇意であったことから、逮捕令状の執行が行われず、不起訴処分になったという印象で話が進んでいきますが、山口氏が月刊Hanadaプラスに掲載した反論文に対応する根拠を伴う事実主張はほとんど行われていません。
伊藤氏側が証拠保全しようとした内容や十分な証拠を集められなかった理由などについても説明がないのです。
行為時刻との関係でも準強姦なのか、暴行脅迫があったのかなど論点は色々あるはずですが、彼女の陳述書の朗読練習シーンくらいしか説明はない。
まるで外傷があったかのような主張もありますが、それならば伴うはずの客観的証拠は出てこず、
問題のシェラトンのカメラ画像こそが最重要証拠として扱われていますが、具体的な争点との関係性が説明されません。ホテル到着時の様子については、山口氏の反論文の内容と一致もしており、ドアマンの証言も含めて民事の勝訴のためにどのように用いられたのかは説明されていません。
また、確かに令状が出ていたのに逮捕が行われなかったことは不可解で、映画で見る限りは警視庁の説明も全く理解ができないものでした。ただ、検察送致自体は行われているということ、かつ山口氏側の伊藤氏についての虚偽告訴罪の告訴についても不起訴処分となっていることなどの説明は欠落しています。
検察審査会がブラックボックスであることは検察審査員の保護のための制度上の制約である上、民事裁判の経緯をみても刑事処分に相当する証拠があだたかはわからず、不起訴処分相当の判断が下されたことのみをもって、不当な介入が行われたと主張することには飛躍があります。そこを補完する事実を集めるのがジャーナリストではないでしょうか。
協力者からの同意が得られないのはなぜか。
映画ではホテルが開示目的を限定して開示した映像を無断使用したことや、弁護士との会話、女性ジャーナリストとの会合などのシーンの同意がないことなどが問題になっています。
そのひとつ、弁護士との関係では、ドアマン証言を結審後に証拠として追加することで裁判官の異動前に判決がでず、伊藤さんの不利益になることを説明し、かつ実際は伊藤さんの意思を尊重して対応したという弁護士の主張を前提とすると、非協力的な切り取り方になっているというのは映画をみるとわかります。ただ、ズタズタにされた気分との表現が適切かはわかりませんし、弁護士として上記事実の補足を行えば足りると考えます。ホテルに入れた誓約書の件については、当該弁護士ではなくホテルが主張することです。
ただ、敢えて個人を特定しないように加工したりしたものもあるとは思うのですが、どのような支援者に、どのように支えられて、どういう論点を戦ったのか、欠落している映画であります。映画で描かれている以上に多くの人を巻き込んだ戦いがあったと思うのですが。
単純比較はできないけれども、映画「Winny」が著作権法違反を「ほう助」する道具を作っただけで罪に問われた金子氏の戦いについて、弁護団やその支援者とのプロセスを真摯に描いたのとは非常に対照的に感じました。
個別と一般 フィクションであれば良かったのに。。
性的被害を受ける女性の苦しみがあることは真実
抗拒不能に陥ったと強姦を立証することが難しく、また性的な自律権の側面が重視され、不同意性交等罪が制定されることは比較法的にも潮流にあることだったと思いますし、そのために被害者側が勇気をもって告発すべきという運動も大切なものだと思います。
また、就活セクハラやメンターセクハラなども私の身の回りだけでも相応に見聞してきましたし、デートドラッグについても注意がされてきました。
何より、女性はどうせ自分の身を削ってまで社会的地位のある男性に反撃はしないだろうという慢心に基づいて、大した罪悪感もなく「女の子に手を出す」外道たちを抑止するためにも、人生をなげうってでも反撃する姿勢の物語が必要とされていたことは事実です。
また、被害者に対する同性、異性からの無責任な攻撃や、捜査官Aのような協力する風を装い近づいてくるが、自分は何もせず、実は微妙な下心すらある(下心付き相談おじさん))者が行う二次加害も許しがたい。
映画が描こうとしたこの世の地獄とそれに抗う女性の物語は、価値のあるものに感じられました。
特にシェラトンのドアマンが証言すると伝えるシーンは、映画館でも多くの方が啜り泣いていました。
ただ、そのために仮に虚構を真実のように伝播するとしたら、それは真実の被害者への偏見を助長し、貶める行為となります。
この当たり前のことがごっちゃになってしまう。個別案件として主張の真実性の担保が足りぬのではという議論に対して、世の悪辣な加害者を野放しにするのか、性加害被害者に泣き寝入りしろというのかという全体論で反撃するのは、筋違いです。
行政・司法制度と表現の自由・ジャーナリズムの均衡
山口氏は刑事的には不起訴処分相当とされており、かつ特にデートドラッグを用いたのではという点では、民事では伊藤氏による名誉棄損にあたるともされているのに、映画でも重ねて名誉を棄損されている状態。
そこまでの社会的制裁を執拗に受けることは不当ではないかという観点は、決して忘れてはなりません。
密室で何があったかはわかりませんが、上記の山口氏側の主張がすべて真実であったとしたら、どう考えるべきかという視点は重要です。
いかに物語として多くの女性を勇気づける要素を内包しているとしても、上記正当性があるといえるためには、名誉棄損の違法性を阻却する公共性、公益性、そして真実相当性の要件が満たされている必要があります。
被害者が密室内で被害を受けたと主張すれば、司法手続内容の如何にかかわらず、社会的に加害認定がされてしまうという帰結はあってはならないことだからです。映画が人の心を動かす力が強いだけに、その責任は重いものです。
それらを担保するのが「ジャーナリズム精神」ということになるのだと思います。
敢えて意図的に心情経過のみに焦点を当てたのかもしれないとは思いますが、伊藤氏自身の目線だけではなく、より客観的に真実をえぐる問題提起が行われたら、伊藤氏自身にとっても救いとなり、何か違う真実が見えたのかもしれないと思うと残念です。



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