それは、帰りのホームルームが終了した直後のことだった。
「なぁ、気になるのか?」
「え?」
「これ、ずっと見てただろ? もしかして、欲しいのかと思って声を掛けたんだが」
席を立ったアーチャーに対し、隣に座っているランサーが自身の耳に付けている銀色のイヤリングを指しながら問い掛けてきた。
アーチャーとランサーは取り分け仲が良いわけではない。二人は単なるクラスメイトで、この間の席替えで隣同士になったばかりだった。交わした会話も数回限り。両手に収まる程度である。それに最近二人が交わした会話といえば、一昨日の数学の時間に指名されたランサーを助けた時以来である。
机に突っ伏して気持ちよさそうに熟睡していたランサーにアーチャーが助け船を出したのだ。
普段のアーチャーなら助ける道理がないため無視するのだが、この日だけは彼女がランサーに助け船を出さなければならない理由があった。
その日は別の高校に通う幼馴染みの凛が朝から熱を出していた。授業が終わった直後、アーチャーはすぐに彼女の見舞いに行くつもりだった。凛の両親は早くに他界しているため、家には彼女一人で暮らしている。それが気がかりだった。
数学の時間は六限目。しかも、その先生は怒り出すと饒舌になり、長々と説教を始めるのだ。例え授業終了のチャイムが鳴ろうとも、それを無視して自分が納得するまで説教を続ける……非常に厄介な先生だった。そして、その日に限ってその先生は解答にランサーを指名したのだ。
ランサーをこのまま起こさずに黙って見ていれば凛の元へ向かうのが遅くなる。だからアーチャーはその日のみ、ランサーを叩き起こして解答を教えたのだった。
ランサーの問い掛けに、アーチャーは眉尻を下げながら返した。
「あぁ、いや……欲しいって訳じゃないんだ。綺麗だな、と思ってね」
ランサーが動く度に揺れる銀色のイヤリングを、アーチャーは気付いたらいつも目で追いかけていた。
初めて見たのは、去年の夏休み明けのこと。
風紀委員として校門の前で挨拶をしているアーチャーの目の前を、一人、猛ダッシュで駆け抜けていく男がいた。
その男は汗だくになりながらも走るフォームは一切崩さずに駆けていく。一つに纏められた蒼天の髪は宙を舞い、同じくして耳朶に付けている銀のイヤリングが目に飛び込む。その時に映った銀色のイヤリングが、何故かアーチャーの心に強く印象付いたのだ。煌びやかに光るそれが光彩を放っているように見え、胸に残った。
それ以降、アーチャーはランサーを見かける度にイヤリングを追うようになっていた。
「そうか、欲しいワケじゃねぇのか」
「あぁ。……もしかして、視線がうるさかったか?」
「うるさいとは言わんが、気にはなった。だから今声を掛けたんだが……」
「不快な思いをさせてしまったのなら謝ろう。すまなかった。それと――――」
アーチャーにランサーのイヤリングを付けたいという願望はない。ただ綺麗だから見ていたいというだけだ。アーチャー自身、あのイヤリングを自分が付けたところで似合うとは思っていないし、似合うのは容姿端麗の彼だけで十分だと本気で思っていた。
だから、そんな台詞をうっかり本人に吐いてしまった。
「――――それは君だから似合っているんだ。くれぐれも他の者にあげようとはしないで欲しい」
「は?」
ランサーの瞳孔が開く。その姿を見たアーチャーは次の瞬間、自身の発言に目を見開いた。すぐに口を覆い、顔を逸らす。後からやってきた羞恥に思考が停止しかける。
「……今のは聞かなかったことにしてくれないか」
か細い声でランサーに頼む。耳まで赤く染まっているのを見る限り余程恥ずかしかったのだろう。そんな彼女を見たランサーは、快い返事で了承した。
「あぁ、分かった。聞かなかったことにしてやるよ」
その返答を聞いて胸を撫で下ろすアーチャー。
「助かる。それじゃあ」
礼を告げて教室を後にした。これ以上関わると、またうっかりしそうだったから。
♢♢♢
翌日。朝のホームルームが終了し、理科室に向かうための準備をしていた時だった。
「アーチャー」
昨日の如く隣に座るランサーに声を掛けられ、アーチャーは振り向く。
「なんだ? 教科書を忘れていたとしても一限は理科室だし、隣の席は私ではないぞ?」
「これを付けろ」
突如アーチャーの目の前に差し出されたのは、銀色のイヤリングだった。アーチャーはランサーの顔、正確に言えば耳朶を見る。そこにはいつも付けているイヤリングが無かった。となると、眼前に出ているイヤリングは普段ランサーが装着しているイヤリングのようだ。
「……いや君、昨日の私の話を聞いていたか?」
『他の者にあげようとはしないで欲しい』。確かにそう言った。
「聞かなかったことにしてくれって言ったのは、どこのどいつだっけか?」
「む……」
それを言われては言い返せないアーチャー。反撃の余地がない。
ランサーはアーチャーの右手を掴み、無理矢理イヤリングを握らせる。
「お、おい! だから私は欲しい訳じゃ……」
「お前さん、これが綺麗だって言っただろ?」
「確かに言ったが、その発言と今の行動がどう関係するんだ」
「どんな風に綺麗なのか客観的に見てぇと思ってな。だから今日だけ付けといてくんねぇか?」
なっ? と首を曲げてウィンクを飛ばしてくるランサーの仕草に、アーチャーは言葉が詰まった。
アーチャーとてランサーのイヤリングばかりを凝視している訳ではない。最終的に注目する箇所はイヤリングになるのだが、イヤリングを見る前には必ずランサーの容姿を見ている。凜々しい眉毛に、枝毛一つないであろう艶やかな髪。中でも彼の持つ赤の瞳はまるで紅玉が直接埋め込まれているかのように美しく煌びやかである。
おまけにこの性格だ。難なく相手の懐に侵入しては持ち合わせている親しみやすさで警戒を解していく。頼もしくもあり、人懐っこい性格。だからランサーの周囲には常に彼の友達がいるし、彼はクラスのムードメーカー的存在だった。
一方のアーチャーはその様子を遠くで見ているだけである。クラスの中心に立つつもりも、目立つつもりもない彼女はただその盛り上がる彼等の様子を端の方で眺めるだけだ。それを見て、たまに笑みを零しては『ウチのクラスは仲が良いな』なんて、ぼんやり考える。それが性に合うと自分でも感じていた。だからアーチャーは今後もそんなクラスの中心にいる人物たちとはあまり関わらないのだろうな、と思っていた。
しかし現在、そのクラスの中心であるランサーが自分と何気ない会話をしている。その光景がなんだか夢のように思えた。席が隣になったとはいえ、前にも語ったように二人は仲が良いわけではない。ましてや昨日の今日でこういった行動に出るランサーの姿を見て、アーチャーは、こう思ったのだ。
あぁ、今度は自分が解されていく番か、なんて――――。
そう考えると少しだけ笑いそうになった。
「それは私でなくとも良いだろう。何故私なんだ」
「お前が言ったからに決まってんだろ。兎に角、今日だけで良いからよぉ~」
ランサーは勢いよく掌を目の前で合わせて合掌する。この通り、と拝み頭を下げる。
その言動にアーチャーは眉を落とす。そこまでして頼んでくる理由が分からないのだ。ただ探究心が強いだけなのか、それとも他に付けて欲しい理由でもあるのか。どちらにしても、昨日の発言を撤回してしまった身としては断れない。
「……分かった」
ため息交じりに頷く。すると、ランサーは勢いよく下げていた顔を上げる。
「サンキュー、アーチャー!」
白い犬歯を見せながら笑う彼に、アーチャーは眉を顰めて唇を噛みしめた。思わずその笑みにときめいてしまったからだ。表情がコロコロと変化する彼の姿を間近で見るのは初めてで、こちらもつられて綻びそうになる。が、みっともない表情を浮かべそうになる気がしたので、アーチャーは慌てて唇を噛んだのだった。
こうやって皆と打ち解けていくのかと考えると、ランサーのことが少しだけ分かった気がした。
そんなやり取りをしていると予鈴が鳴った。教室は既にガランとしており、未だに移動していない生徒はランサーとアーチャーの二人のみ。
「やべっ、急ごうぜアーチャー!」
ぐい、と突然ランサーに手首を掴まれ、引っ張られる。その行動を予期していなかったアーチャーは一歩踏み出した瞬間、前へと体勢を崩す。
「ランサーっ避け――――」
「うおっ、あぶねぇ!」
激しい音が教室に響き渡る。持っていた教科書は散らばり、握っていたイヤリングが遠くの方へと飛んでいく。盛大にこけたアーチャーは巻き込んでしまったランサーに謝罪する。
「すまない、ランサー。怪我はない……か……」
「おう、お前さんこそ大丈夫か?」
アーチャーが顔を上げると、すぐそこにランサーの顔があった。透き通るような綺麗な肌に、高い鼻梁。凜々しい青の眉宇に赤の瞳。その瞳の色が紅よりも濃い唐紅だと近付いてようやく気付けた。
何故正面を向いているんだ、なんて思うが、数秒前、ランサーが咄嗟に自分を庇おうと身体を翻していたことを思い出す。
残り数センチ転ぶのが前だったらランサーの唇とアーチャーの唇は触れていただろう。艶のある薄い彼の唇に目が向き、アーチャーの頬に熱が帯びていく。
「す、すまんっ! すぐに退く!」
動揺を見せるアーチャーに対して、青の男は平然として答える。
「オレの方こそ急に引っ張って悪かったな。ほれ、手」
先にランサーが立ち上がり、アーチャーへと手を差し伸べる。
至近距離だというのに動揺していない様子を見る限り、この距離は慣れているのかなんて頭の片隅で考える。冷静なランサーの姿を見ていると、動揺しているこちらだけが意識しているみたいで恥ずかしくなってくる。
頬に残る熱がバレないか心配になりながら、アーチャーは差し出された手を掴み、立ち上がる。
「あ、ありがとう……」
「さて、イヤリングどこ行ったかね」
「そうだ、イヤリング。探さないと」
床を眺めて頭をかくランサーに、アーチャーはすぐさま床へと這いつくばる。
「ンな大袈裟な。別に這いつくばって探さなくても、」
大丈夫だぞ、とランサーが言い終わる前にアーチャーは言葉を遮った。
「大袈裟ではないだろう。あのイヤリングは君の物で、こちらの不注意で手放したんだ。這いつくばってでも探すに決まっている」
飛んでいったかもしれない方向を見ながら話すアーチャー。言っていることは正論なのだが、ランサーはそこを伝えたかった訳ではない。
目に毒だと思ったのだ。……アーチャーの無防備な姿勢に。
「あの、アーチャーさん」
「ん? ……あぁ、予鈴が鳴っていたな。先に行っててくれ。見つけ次第向かう」
「じゃなくてだな。……パンツ、見えそうだぞ」
その指摘にアーチャーは背後にいるランサーに顔を向ける。すると、ランサーは瞬時に顔を横へと背けた。
今の彼女は尻を上へと突き出している。スカートの丈が決して短い訳ではないが、それでも普段よりも際どいのは確かである。這いつくばって探しているのだからそのような格好になってしまうのは仕方のないこと。スカートの丈を抑えながらゆっくりと立ち上がる。
「……変態」
ぼそり呟くと、反論が返ってくる。
「そのまま指摘せずに覗いてないだけマシだろ!? つかお前さんもちったぁ意識しろ!」
「意識も何もスパッツを履いているから平気だ」
ほら、とアーチャーが少しだけスカートを上へと上げると、黒い布が微かに見えた。それがアーチャーのいうスパッツであろう。恥ずかしがる素振りを見せない辺り、『スパッツは見えてもいい』と考えているのだろう。
「……あぁ、そうかい……」
それを察したランサーはそれ以上この件に関して言及しないことにした。
「てかそこまで遠くに飛んでねぇだろ。……ほら」
ランサーが周囲を見渡しながら数歩歩く。すると、すぐにランサーは片方のイヤリングを発見した。流石は持ち主というべきか。拾った片方をアーチャーへと預ける。
「私が探すより君が探した方が良さそうだな」
「おう。探すのは得意なんだぜ。だから……お、あったぞ」
今度は歩かず、見回しただけで発見した。これなら這いつくばる必要もなかったな、とアーチャーは思う。そして、拾ったもう一つもアーチャーへと渡す。
渡されたイヤリングを握りしめながら三度目の謝罪をする。
「すまない。次は絶対落とさないようにする」
「気にすんなって。で、今付けてくれよ」
「今か? けど本鈴まで時間が……」
チラリと時計を見ると針は『八時四十四分』を指していた。数秒経てば、本鈴のチャイムが学校中に響き渡るだろう。
「じゃあ、理科室着いたら付けろよな!」
ランサーは早口で喋ると、今度はアーチャーに向かって手を差し伸べる。先程の失態を改善して、アーチャー自身に掴ませようとしていた。
彼の発言に頷いたアーチャーは、差し伸べられた手を取り、二人は急いで教室を後にした。
♢♢♢
理科室に到着した瞬間、本鈴のチャイムが鳴り響いた。先生はまだやってきていない。どうやらギリギリ間に合ったようだ。
が、問題はその後だった。
何故、教室を出る前、ランサーに差し出された手を取ってしまったのか。アーチャーはすぐに後悔した。
『ランサーくんとアーチャーさん。なんで二人一緒に……?』
『しかも、手! 手繋いでない!?』
『どういうこと!?』
わざつくクラスメイトの声が聞こえ、アーチャーは身体を縮こませた。
ざわめくのも無理はない。なにせクラスのムードメーカー的存在のランサーと、いつも教室の隅で静かに過ごしているアーチャーが手を繋いで教室へとやってきたのだ。二人の席が隣同士だということを把握しているとはいえ、手を繋ぐ関係どころか二人が仲良く会話をしているところを見たことがない。
なのに。今。隠す様子もなく、手を繋いで理科室へやってきた。これを驚かずにいられるだろうか?
アーチャーはランサーへと視線を向ける。ランサーは堂々としており、ざわつく声をかき消すかのように言い放った。
「コイツにイヤリングを渡してたら、時間が間に合わなくなりそうになったんでな。だから手を繋いでやってきただけだ」
ランサーの発言に静まりかえる一同。隣にいるアーチャーの顔はみるみるうちに青ざめていく。急いで撤回しようと口を開けば、
「こっ、これには訳があって、」
『訳ってなに!? イヤリング渡してたらって何!?』
『アーチャーさん、もしかしてランサーくんと付き合ってるの!?』
『どういう関係!?』
発言を遮られ、女子生徒たちが一斉に立ち上がる。そのまま扉の前に立っているアーチャーへと近付き詰め寄っていく。
「えっと、あの……これはだな……」
女子生徒たちから、鋭い視線が向けられる。その中には疑問を抱くものもいれば、憎悪を抱くものもいる。色んな感情が入り混じった視線は、酷く痛かった。
全員の視線がアーチャーへと集まったところでパンと、一つ音が鳴る。鳴らしたのは青い男である。
「オレが付けろっつって渡したんだ。そいつに寄って集るな」
低音が響く。獣の瞳が威圧する。誰も彼もが黙る。
しん、と再び静まりかえる教室。気まずい雰囲気が漂う中、ようやく先生が理科室へと到着した。
「遅れてごめんね~。授業を……ってどうしたの?」
先生は扉の前でたむろする生徒たちを不思議そうに見つめる。
「……何でもねぇっすよ。な?」
にこり、笑うランサー。
『う、うん……』
ランサーの問い掛けに、女子生徒たちは頷くしかなかった。怖いほどに綺麗な笑みに威圧されたのだ。
————否定せずにただ頷け。
そう告げるランサーの圧。
「そう? じゃあ席に着いてね」
顔色を窺う先生だったが、問題がないと判断したのだろう。教卓へと向かっていく。その指示に女子生徒たちも従い、席へと戻っていく。
ランサーが自分の席へと向かおうとしたところを、アーチャーは小声で引き留めた。
「ランサー」
「ん?」
「……あまり余計なことをしないでくれ」
そう言って、アーチャーはランサーの返答を聞かないまま席へと向かっていった。
授業が始まった。一限目は生物で、普段なら教室で行うのだが、今日は顕微鏡を使うことが目的だった為にこうして理科室にきて授業を行っている。
教科書だけを眺めつらつらと喋る先生は、この理科室に再び漂い始めている緊迫とした空気には気付いていない。張り詰めた空気を作りだしているのは女子生徒たちで、アーチャーの行動を監視しているようだった。
そんな視線を浴びているアーチャーは先程から背中の冷や汗が止まらない。
「イヤリングを教室に着いたら付けろよ」。そうランサーに言われていた。なので、イヤリングを装着したいと思うのだが、女子生徒たちの視線が怖くて手が動かせない。
……今付けたら確実に殺されるだろうな。そう考えると手を動かすことが出来ない。
ちらり、ランサーの座る方角を見ると、彼も肘を突いてアーチャーを直視していた。バチッと目が合う。
ランサーは空いている右手の親指と人差し指で自身の耳朶を引っ張った直後、口パクでアーチャーに伝えてきた。
つけろ、と。
――――あぁもう。どいつもこいつも……!!
ランサーから視線を外す。自分が困っているというのに助け船を出そうとしないランサーに腹を立てる。
……いや、腹を立てるのはお門違いだろうか。引き受けてしまったのは自分だし、こうなることは予想できたはずだ。ただ、その予想を遙かに上回る人気がランサーにあっただけ。余程このクラスの女子生徒たちは彼の虜なのだろう。
右手の掌に握られていた二つのイヤリングを眺める。ランサーは「客観的に見たい」とのことだったが、果たして見る意味はあるのだろうか。
確かにアーチャーは綺麗だと言った。けど、それは外していようと同じ事だろう。まぁ、ランサーが付けることで、より一層そのイヤリングが煌びやかに輝くとは思ってはいるが。……というよりも。
「こんなことになるなら、昨日の発言を撤回するんじゃなかったな……」
誰にも聞こえない程度に呟く。きっと今日はずっとこの刺々しい視線を浴びさせられるのだろう。そう思うと重いため息が出た。
右手で握っていたイヤリングを左手に移し替え、スカートのポケットに仕舞う。そうしてアーチャーは、授業に集中したのだった。
授業終了のチャイムが鳴った。号令直後、アーチャーはすぐさま教科書類を持って理科室を出て行く。だが、『逃がすな! 追いかけるわよ!』と背後からやけに好戦的な女子生徒の声一つ。
「なんでさっ!?」
質問攻めに遭いたくないだけなのに、どうして彼女たちはこちらの気持ちを汲み取ってくれないのだろうか。段々と頭が痛くなるアーチャーは思考を回しながらも足を止めずに走った。すれ違う先生に『廊下を走るな』と注意を受けながらも、彼女は走った。風紀委員としてのプライドは捨て置いた。
「アレに捕まったらタダでは済まなそうだしな……」
まるで女子生徒たちを怪物かのように比喩する。無我夢中でアーチャーを追いかけている彼女たちはなんとも必死に走っている。その姿は女らしさとはかけ離れているのだから案外その比喩は間違っていないのかもしれない。
階段を上ったアーチャーは、目の前の空き教室である多目的室に入る。そうして音を立てずに静かに扉を閉めた。
その数秒後、女子生徒たちがやってきた。声が微かに聞こえてくる。
『あれ、いない!?』
『あっちの校舎に逃げたんじゃない?』
『行ってみよう!』
パタパタパタ……。3人分の上履きの音が遠のいていく。離れていく音にほっとしたアーチャーは息を吐き出し扉にもたれかかる。
ようやく一人になれたところで、アーチャーはスカートのポケットに仕舞っておいたイヤリングを取り出した。キラキラと光を放つイヤリングはやはり美しく、流麗である。
アーチャーは同じくポケットに入っていた手鏡を取り出し、机の上にセットする。椅子に座り、両方の耳朶にイヤリングを装着する。そして、鏡を覗き込んだ。
「やっぱり似合わないな」
正面からの自分。左右からの自分。どの角度から正視してもやはり似合わないと思った。
これはランサーのイヤリングだ。自分が似合うはずがない。それにランサーが付けている時のような輝きを感じられない。分かっていた事実を再確認し、手鏡を閉じた。
さて、イヤリングを装着したのなら後は教室に戻るだけだ。だが、その教室へ戻ることが億劫である。二限目は現代国語。教室での授業になる。サボるなんてことはしたくないし、当然優等生であるアーチャーがそんなことすれば先生は驚愕するだろう。
時間を確認する。授業が開始するまで残り五分。少しの猶予があった。
残り一分になったらここを離れよう、そう決意し、少しの休息を取る。朝から散々な目に遭い疲れたアーチャーは机に向かってうつ伏せになる。ようやく気が抜けてきたのだろう。段々アーチャーの瞼が重くなっていく。ここの多目的室は太陽の光が教室に差し込み、ぽかぽかと空気が暖かい。陽向ぼっこするには最適な場所といえるだろう。
寝たらマズい。授業をサボることになる。そう思いつつも瞼は次第に重くなっていく。その眠気に逆らえる手段は何一つない。それに今の状況で教室には戻りたくなかった。
だから――――彼女は抗うことなく夢の中へと落ちていった。
♢♢♢
パチリ、重い瞳を開けてアーチャーはゆっくりと起き上がった。ふわ、と出た欠伸を抑え、背伸びをすると気持ちが良かった。ぽかぽかと温かい部屋の空気に未だに瞼は重い。
しかし、そんな幸せ気分も束の間。サァッ、と顔色が青くなり、血の気は引いていく。
「い、今何時だ!?」
時計を見ると、針は十一時四五分を指していた。その直後、四時限目開始のチャイムが鳴り響く。
「しまった……っ!」
アーチャーは頭を抱えて思考を巡らせる。今まで無断でサボったことのないアーチャーにとって、こういうときはどうすれば良いのか分からない。
一限目は出席した。なので、『今日学校に来ていない』という手は使えない。まぁ、それを使おうとしても他の生徒たちに姿を見られているのでどっちにしても使用することは出来ないのだが。
問題は二、三、四時限目である。一体どこで何をしていたと訊かれるに違いない。
一番ふさわしい解答例は『保健室で寝ていた』だろう。しかし、この手も恐らく使えないと推測する。大方、あの女子生徒たちのことだ。教室に帰ってこなかったアーチャーを他の休み時間を使って捜索しているに違いない。
事の経緯を知りたいが故にアーチャーを追いかけてくるのだから、勿論隠れやすい保健室も調査済であろう。つまり、『保健室にいた』と言い訳を述べても、彼女たちに論破されてしまうのがオチである。
ならばいっそのこと早退したことにしてしまおうとも考える。が、鞄は教室に置きっぱなしだ。鞄を置いたまま帰る生徒がどこにいるというのか。よって、この手もなし。
策が尽き、万事休す。寝起きの頭をフル回転で回す。何か良い案はないか。唸り始めていると、
――――ガララッ
「お、いたいた。探したぞ」
「……は?」
突如扉が開いた。今は授業中だ。開くことがないと思って油断していた分、間抜けな面を晒すアーチャー。更には、そこに立っていた人物の姿に二度驚く。
「ランサー、授業はどうした」
「サボった。いつまで経ってもテメェが帰ってこねぇから探しに来たんだよ」
ずんずんと近付いてくるランサーに、アーチャーは席を立ち上がり後ずさる。
「何故逃げる」
「何故って、そんな怖い顔して迫られたら逃げるに決まっているだろう!?」
アーチャーの言う通り、ランサーの表情は恐々としていた。眉尻は釣り上がり、額には皺が寄っている。その鋭利な眼差しに捉えられたら最後だというかのよう。女子生徒たちが数人掛かってこようとも、彼には敵わない——それくらいの恐怖を植え付けられる。
彼が何に腹を立てているのか、アーチャーにはさっぱりだ。一限終了後、アーチャーはすぐに教室を出たのだ。会話を交わしていない以上、彼の逆鱗に触れるようなことをした覚えはないが……。
「あ? ……あー、悪い。お前に当たっても意味ねぇわな」
ランサーは足を止め、ため息を吐く。すると、ぐりぐりと中央に寄っている皺を取り除くようにマッサージを始める。
繰り返すこと数回、再びランサーがアーチャーへと顔を向ける。
「どうだ、戻ったか?」
「あ、あぁ……」
「ンな引くなって。悪かったな。オレもアイツらから質問攻めにあって、疲れてたんだよ」
ランサーはアーチャーが座っていた椅子を引き、その席へと腰を下ろした。ランサーの表情をじっと凝視すると、確かにやつれていた。アーチャーはランサーと一つ席を挟んだ椅子へと座る。
「で、お前さんはここで身を隠していたって訳か」
「本当は二限目が開始する前には教室に戻るつもりだったんだ。だが、いつの間にか寝てしまっていてだな……」
説明しているとなんだか恥ずかしくなり、アーチャーは声を萎ませていく。
「ほぉ~……。だから口元にヨダレの跡があるっつうわけか」
「なっ!?」
にまにまと笑うランサーの表情を見て、アーチャーは慌てて手鏡で口元を確認する。しかし、顔にはヨダレの跡は付いていなかった。あれ、と確認していると横から笑い声が聞こえてくる。要するに、ヨダレの跡はランサーの嘘だったようだ。
「ぷぷー、騙されてやんの~!」
「ランサー! 貴様ッ!」
からかわれたことに苛立ち、ランサーの頭にチョップを食らわそうと席を立つと、
「アーチャー、」
澄んだ声で名前を呼ばれる。その声色にドキリと胸が跳ねたアーチャーは思わず身体を硬直させた。
「ちゃんと見せてくれよ。客観的に、な?」
ランサーはアーチャーに対し、手招きしながら口の端を上げた。その笑みは実に蠱惑的であり、普段教室で見せるような笑顔とは正反対だった。そのギャップはずるいと感懐する。
「そう、だったな」
アーチャーはランサーが座っている隣の椅子に腰を下ろした。向かい合い、ランサーを直視する。未だに不敵な笑みを浮かべている男に、つられて口角を上げそうになる。
「……お前さんもそういう顔すんのな」とランサーの声。
どうやら本当につられて口角が上がっていたらしい。
「君につられただけだ。それより、教室ではそんな笑みを浮かべたところは見たことないが、普段は控えているのか?」
元々ランサーとの接点は少なかったアーチャーだが、それでも普段彼が浮かべる笑みくらいは知っている。けれど、今のような妖艶漂う笑みは見たことがない。単に自分が知らないだけかもしれないが、折角なので尋ねた。
ランサーはアーチャーの問いに腕を組んで考える。
「そうだなぁ。特別控えてるワケじゃねぇけど、今みたいな顔ばかりしてたら誰も寄りついてこねぇだろ?」
犬歯を見せたと思ったら、ニタリ、悪い笑みを零す。瞳からは獣のような雰囲気が漂っていた。
今の彼は普段よりもっと素に近いのだろう。偽っているワケではない。けれど、その姿を見せる相手は限られている。そう言っているように聞こえた。小さく息を吐く。
「成程な。やはり君とは深く関わらない方が良いと再度認識したよ」
「はっ、今更だろ。つか、そんな話は良いんだよ。もう少し顔を前に出せ」
目的はイヤリングを装着したアーチャーを見ることである。話を逸らされたランサーは、不機嫌な声を上げる。その声にアーチャーは大人しく従った。
「こうか?」
顔をランサーへと近付ける。同じくしてランサーも身体を前へと乗り出し、アーチャーの顔を凝視する。紅玉の瞳を持つ男の顔はやはり整っており、いつまでもその顔を見ていたいと思ってしまう。そんな気持ちを抱いた瞬間、アーチャーの胸の奥がきゅんと温かくなる。しかし、当の本人はそれが何なのか分からずに首を傾げるしかなかった。
「……ランサー」
「……」
「ランサー?」
「……」
反応はない。意識しないようにとしていたが、まじまじと観察されているとやはり意識してしまうものである。
「……いつまで私の顔を見ているんだ」
そもそも主旨が変わっている。ランサーの眼はアーチャーの顔に向いているようで、イヤリングを映してはいない。
「イヤリングを見るのが目的だろう。横を向くぞ」
「ん? ……あぁ、そうだな」
ぼんやりとした返事に、違和感を覚える。少しだけ、ランサーの頬が赤に染まっていた。
「どうした、眠いのか?」
「何でもねぇよ。いいから横を向いてくれ」
ランサーの言い方にカチンとくるアーチャーだが、言い出したのは自分なので何も言えずに椅子ごと横へと向く。すると、視線が耳朶に寄っているのが分かった。一分が経過した辺りでランサーが唸り声を上げる。
「んー、確かにこのイヤリングはそこそこ良い値段はするが、そこまで綺麗か?」
「だから言っただろう。君だから――――……っと、何でもない忘れてくれ」
昨日の二の舞を演じるところだった、と反省する。
「つまり、お前さんが言いたいのは付けてるヤツによって綺麗さが変わるってか?」
「む……そういう訳ではないのだが……。とにかく、これで分かっただろ。もう外すぞ」
「いや、帰るまでだ」
「はぁ?」
「今日までを了承したのはお前さんだろ? なら最後まで責任とってくれや」
また口の端を吊り上げる。先程からそんな笑みしか浮かべないランサー。アーチャーの中で彼への印象がどんどん塗り替えられていく。
「どうせ戻ったところで質問攻めに遭うのは避けられん。ならいっそ吹っ切れちまえよ」
「貴様のイヤリングを付けて堂々としていろ、ということか」
アーチャーの問い掛けに笑う男は勢いよく頷く。
冗談ではない。余計に女子生徒たちからの視線が鋭くなるだけだ。それに教室に帰りたくない気持ちは未だ消えていない。
しかし、約束は約束である。ここで裏切る訳にはいかない。
「……分かった。堂々と付けるつもりはないが、放課後まで付けておこう」
「よし。そんじゃあ、授業が終わるまで適当に過ごしてようぜ」
そう言うと、ランサーはアーチャーの耳に手を伸ばした。横を向いていたせいでアーチャーは突然の出来事に反応が遅れる。アーチャーの艶やかな白髪をすり抜けたその手は、彼女の耳朶に触れる。手先が触れた瞬間、ヒヤッとした感覚が伝わってくる。
「らん、さー……?」
するり、と耳朶から頬へと手をスライドさせる。彼の手が冷たいからか、ぞくりとした感覚がアーチャーの身体に走る。
そして、アーチャーの頬を片手で掴んだランサーは、彼女の顔を強制的に自分へと向けさせる。
「それに、お前とゆっくり話がしてみたかったんだよ」
「――――っ」
男が笑っている。いや、嗤っているのだろうか。凄艶な顔を浮かべては目を細め、こちらを見据えていた。
ヒュッ、と喉から声が出る。アーチャーは一刻もここから逃げだしたい衝動に駆られる。
まるで蛇に睨まれた蛙のようだった。ランサーの表情を見ただけでアーチャーの足は震え、身体が硬直していた。ぐっと唇を強く噛みしめて、痛みで恐怖心を抑える。
「……ランサー」
「ん?」
唐紅の瞳を捉える。初めて見たときよりも淀んで見えるのは気のせいだと思いたかった。一度深呼吸を挟み、ランサーに問い掛ける。
「それが貴様の本性か?」
余計な気をこの男に使う必要はない。何せ今後関わらなくても支障の出ない男だ。そもそも教室で過ごす仲間が違う。今日が終われば、またいつもの日常に戻るだけ。
だから臆する必要はない。そんなことを考えるアーチャーに対し、ランサーはというと、
「は……本性……? 何言ってんだ……?」
素っ頓狂な声で返してきた。
「は……」
その声につられてアーチャーも間抜けな声を漏らす。互いに困惑した顔を浮かべて見つめ合う。先に口を開いたのはアーチャーだった。
「だ、だって君、そんな顔をしているってことはそちらが本性なのだろう?」
「そんな顔ってなんだよ。具体的には言え」
「なんていうか、こう……獲物を捕まえるような……」
「獲物ってお前なぁ……」
呆れたような表情のランサーに、むっとする。元はといえば紛らわしい態度をとったランサーのせいだと訴えたくなる。が、無自覚な本人に伝えても仕方のないことだ。咳払いをする。
「……まぁ良い。忘れてくれ」
「そればっかりだな。口癖か?」
「違う。貴様の前だと何故か失言が多くなるだけだ」
調子が狂わされる。アーチャーは日頃から他人と一線を引いて付き合っている。しかし、ランサーはその線を一切気にせずに近付いてきては、自分のペースへと引き込んでいく。
今回のきっかけを作ってしまったのはアーチャーではあるが、ほぼ会話をしたことのないクラスメイトに『自分のイヤリングを付けろ』や『頬を触られる』などされたらどうなるか。
調子が狂うどころか発狂ものである。更にはクラスの人気者だ。もし、アーチャーがランサーに気が合ったのならば、それこそ心臓が持たずに倒れていたかもしれない。それくらい彼の言動は刺激が強い。
「……なんかそれ、良いな」
「は?」
ランサーの一言にアーチャーは心の底から「何を言っているんだ」という声を上げた。
「だから良いなって言ったんだ。その発言を聞く限り、オレのことを意識しているように聞こえるが?」
小さく口を開けて笑うランサーは温かい瞳をアーチャーに向ける。余裕綽々と言ってくるその態度がアーチャーの柳眉を逆立てた。
「はっ、意識だと? 寝言は寝て言ってくれ。私は貴様と話慣れていないから距離感が掴めていないだけだ」
「要するに、緊張していると」
「どうしてそういう解釈になった」
理解不能だというような表情を向けるが、ランサーはそれに気付かない。それどころか、掴んでいたアーチャーの頬をもみもみと揉み始めた。
「柔らけぇな」
「人の頬で勝手に遊ぶな。というか、離せ」
「良いじゃねぇか、減るもんじゃねぇだろ?」
呑気にいう。アーチャーは自分がランサーとどういう関係でいるのか分からなくなる。
クラスメイト? ――クラスメイトが頬を触る仲だろうか。
友達? ――いや、友達と呼べる仲ではないはずだ。
じゃあこの関係は? ――……分からない。
頭の中で考えれば考えるほど悶々とする。眼前のランサーを視界に入れると、脳天気にこちらを見ながら頬を触る男一人。考えるだけ無駄なのかもしれない。
「なぁアーチャー」と、頬を揉んでは手を休めないランサーが尋ねる。
「何だ」
注意しても言うことを聞かないランサーの行動に、呆れたアーチャーが返答すると、
「彼氏はいるのか?」
「は?」
思考が停止する。何を聞き出すかと思えばそんなこと。
「さっきから『は?』しか言わねぇな」
「それは貴様がおかしな発言ばかりをするからだろう」
「そんなつもりはねぇけどな。……ンで、どうなんだよ?」
ランサーに期待の眼差しを向けられ、アーチャーは眉間に皺を寄せていく。そんな眼差しを向けられても面白い話はないし、生まれてこの方、彼氏など出来たことはない。
ただ勘違いして欲しくないのは、決してアーチャーがモテない訳ではないということだ。告白されたことはある。
中学生の時、数人の男たちから告白された。けれど、アーチャーは男に興味がなかった。同時にその頃は弓道部に所属していた為、『部活に集中したいから』と理由を付け、全て断った。
事実、部活に集中したいのは嘘ではなかったし、通っていた中学の弓道部は都大会にも出場経験のある強豪だった。中でも『弓道部のエース』として活躍していたアーチャーは憧れの的だった。
――――だからこそ、人と距離を置くきっかけになってしまったのだが。
「いないよ。作るつもりもない」
「なんでだ? モテるだろ?」
「冗談。高校に入ってからはからっきしだよ。そういう君こそ彼女の噂を聞いたことないが、実際はどうなんだ?」
そう。ランサーはモテる。彼の容姿や性格を何度も話しているので分かると思うが、誰にでも好かれる男なのだ。男女、先輩後輩問わずに。高校を出ればそれが老若男女問わず、になるだろう。
そんな男に『彼女がいる』という噂は聞いたことが無かった。或いはアーチャーの耳には届いていなかっただけなのか。男はアーチャーから手を離し、口を開く。
「あぁ。好きなヤツがいるからな。断ってんだわ」
「――――」
隠す素振りもなく打ち明けるランサー。その返しにアーチャーは、一瞬だけたじろぐ。あまりに素直な返しに驚いてしまったのだ。もう少し言葉を濁らせたり、照れたりするのかと思っていたのだが、そんな反応は一切せずに平然とした態度で言い放った彼。その男らしさにアーチャーは少しだけ、ランサーのことを見直した。
「……その話は深掘りしても良いものか?」
「別に構わんぞ。入学して数週間経った時だ。桜が似合うんだよ、そいつ」
「桜?」
「おう。春になると中庭に桜が咲くだろ?」
そう言われてアーチャーは中庭にぽつんとそびえ立つ大きな木を思い浮かべる。ランサーの言うとおり、その木は春になると綺麗な花を咲かせる。風が吹く度に中庭の宙を花びらが舞うのだ。
「ベンチに座って本を読んでる姿が綺麗でよ。まぁ、一目惚れみたいなもんさね」
しみじみと思い出しながら語るランサー。そこには優しい笑みが零れていた。
「そ、そうか。なるほど。まぁ、なんだ……頑張れよ……?」
気の利いた言葉を掛けようとするも、何を言っていいのか分からないアーチャーはとりあえず『頑張れ』とだけ伝える。何せ恋愛に関しては全く経験がない。アドバイスしようにも、経験は明らかにランサーの方が上だろう。なので、無難に応援の一言だけ。
「なんで疑問系? ……けど、ありがとよ」
ふわり。柔らかく微笑んだランサーの笑みに、アーチャーの心臓が跳ね上がった。その刹那、ズキリと胸に痛みが生じる。その痛みに違和感を覚えていると、チャイムが鳴った。
「思ったより早かったな。んじゃ、教室に戻るか」
ランサーは椅子から立ち上がる。扉へと向かっていくランサーに対し、アーチャーは立ち上がらず、椅子に座っていた。
「戻んねぇのか?」
「……彼女たちに会いたくない、と思ってな」
この四限目の時間を使って先生にサボったことをどう説明したものかと考えようしていたアーチャーだったが、ランサーが登場したことによりすっかり忘れていた。それに教室に戻れば、彼女たちが自分の席を囲って待ち伏せしているのではないか、なんて想像してしまう。
次の授業は体育だ。しかもマラソンで、前回の授業の終わりに『来週はタイムを計るので休まないように』と先生が言っていたのを思い出す。勿論、体育着は教室である。
「その件か。それならオレが説明しといたって」
そういえば、と思い出す。それと同時に嫌な予感がした。
「……なんて言ったんだ」
「『オレとアイツはそんな関係じゃねぇよ』ってな。やましいことなんてしちゃいねぇし」
「そ、そうか。それはどうも」
大抵嫌な予感というものは当たるのだが、予感は外れ、ランサーは意外にもきちんと周囲には誤解を解いていたようだ。拍子抜けした声が出る。
「だからお前さんは堂々と胸を張って教室に入れば良い。ほれ」
ランサーは再びアーチャーへと近付き、彼女の手を引っ張った。それは理科室へ向かう時と同じように。
今度こそ、アーチャーは転ばずに前へと足を踏み出せた。
♢♢♢
しまった、と。
更衣室に向かう途中、足を止めたアーチャーは苦い顔を浮かべた。次は体育なのだが、ランサーのイヤリングを付けたまま出てきてしまったのだ。放課後までは付けているとは言ったものの、流石にマラソンしている途中にうっかり落としてしまったら洒落にならない。そう思い、どうせならランサーに返そうと思っていたのだが、それを忘れていた。
既に教室では男子の着替えが始まっている。その中に一人、女である自分が潜り込むわけにはいかない。ため息を漏らし、教室へ向かうのを諦める。
ならばと体操着のポケットに仕舞っておくかと考える。が、ものの数秒でその考えを消去した。少しでもなくしてしまい兼ねないところにランサーのものを仕舞っておく訳にはいかない。
そうした結果、アーチャーは更衣室のロッカーにイヤリングを置いておくことにした。ロッカーは施錠出来ないため、不安が残る。だが他に大した隠し場所は、ここにはない。仕方なくロッカーに仕舞うことにする。
着替える前にアーチャーは耳に付けていたイヤリングを外す。掌に美しく輝くそれを見る。
――でもこれは、ランサーが付けているから良いんだ。
何度でもそう思うし、アーチャーの中ではそれが理想なのだ。
端正な顔、艶のある髪、紅玉の瞳――――そして銀のイヤリング。
それらが揃って初めてランサーになる……。なんて、理想を押しつけるつもりはないし彼に言うつもりも勿論アーチャーにはない。ただそうであると思うだけだ。これからもきっとアーチャーの中でのランサーはそうあり続けるだろう。
ぎゅっとイヤリングを握りしめたアーチャーは、四角形のロッカーの中へとイヤリングを置く。着替え、丁寧に畳んだ制服の下にイヤリングを隠すようにして扉を閉めた。更衣室にはアーチャー以外の女子生徒は既におらず、どうやら彼女が最後のようだった。なので、更衣室の電気を消して更衣室を後にする。
――――しかしこの時、アーチャーが出て行ったのを確認した女子生徒たちがいたことを彼女は知る由もなかった。
体育が終了し、更衣室へと戻ってきた。外は案の定寒かったが、マラソンをしていると自然と身体は温まるもので、アーチャーの額には汗が滲んでいた。元々代謝が良いから、というのも理由の一つだろう。
更衣室に入室する。額の汗を拭いて着替えようとロッカーを開ける。タオルで額の汗を拭いてからワイシャツを手に取る。次にスカート。最後にブレザーを羽織り、イヤリングを手に取ろうとした時だった。
「……ない」
制服の下に置いておいたランサーのイヤリングが、ない。
アーチャーは着ているブレザーのポケットとスカートのポケットに手を入れる。イヤリングの感触はない。続いて先程まで着ていたジャージのポケットに手を入れる。これも同じ結果だ。
ロッカーの中に入っていた袋を取り出す。やはりイヤリングは見当たらなかった。
思考を巡らせる。瞑想する。黙考する。
更衣室を出る前、確かにイヤリングを制服の下に置いた。その後、アーチャーは自分が最後だと思い、更衣室の電気を消して出た。学校のルール上、更衣室に人がいない場合でも、鍵を閉めるのは禁止となっている。
つまり、アーチャーが更衣室を出て行った後に更衣室に入ることは誰でも可能であり、誰かがアーチャーのロッカーを開けることも可能である。何せロッカーも鍵は付いていないのだから。
ただ問題は女子生徒の誰が犯人なのかである。単純に推理すれば、今日の一限終了後にアーチャーを追いかけてきた女子生徒たちであろうが、そんな簡単に決めつけても良いものだろうか。
動機は十分にある。けれど、自分たちが犯人だと言っているような感じがして、何か裏でもあるんじゃないかと推測してしまう。
目を開ける。ひとまず、放課後にイヤリングを探す他ない。幸い、今日のアルバイトは休みだ。時間に追われることなく探すことが出来るが、問題はランサーである。
彼は陸上部に所属している。しかし、運悪くというべきか今日は陸上部の活動がない日だ。折角の休みだというのに、待たすことになってしまうのは申し訳ない。
もし女子生徒たちに盗られているのなら、良いとは言えないが彼女たちの手元にあるという安心がある。けれど、本当に、彼女たちが何も関与していないのならば、すぐに見つけ出さなければならない。
放課後の計画を立てる。まずは最優先すべきことはランサーに謝罪すること。次に、イヤリングを探すことだ。ただランサーを待たせる訳にはいかないので彼には「明日までには見つけ出す」と伝える。
これは、自分の責任だ。きちんと管理していなかった自分のせいだ。だから他人の手は借りない。自分だけで解決する。それが筋というものだ。
けれどやはり、ため息を零さずにはいられない。アーチャーは深く息を吐き出し肩を落とした。
全く以て、今日は厄日である。
♢♢♢
帰りのホームルームが終了した後、アーチャーはランサーに第一声として謝罪を述べた。
「すまない!」
「は?」
主語のないアーチャーの謝罪に、ランサーは困惑した声を漏らした。
「イヤリングをどこかに落としたようで……。本当にすまない。今日中に必ず見つけ出して、明日には必ず返すようにするから」
「あぁ。そういえば、してないな」
ランサーはアーチャーの耳に視線を落とす。会話をするまでイヤリングをしていない事に気付いていなかったようだ。イヤリングをなくしたことに腹を立てるどころか、特に焦りもしていないランサーに対し、アーチャーは恐る恐る問い掛ける。
「怒らない……のか?」
「怒ってもしゃあねぇだろ。つか、元はオレが付けろって頼んだしな」
そう言うと、アーチャーの頭を軽く撫でるランサー。
アーチャーは顔を強張らせる。驚いて、反応が出来なかった。しかもここは、
「ランサー、ここは教室だぞ!」
注目の的だった。周囲の視線にアーチャーの頬が赤く染まっていく。
「おう。そうだな?」
「そうだなって……! えぇい、とにかく私は明日までには君にイヤリングを返す! それだけだ! ではな!」
「あ、おい!」
頭に乗っていたランサーの手を払い、アーチャーは鞄を抱えて教室を出て行った。
ドキドキと鳴る心臓の音。きゅっと締まる胸。
どこかおかしかった。周囲からの視線に頬を赤くしたのは勿論ではあるが、それ以前にランサーに頭を撫でられた時、既に――――。
額から汗が流れる。ハッハッと息が漏れる。頬の熱が引いていく様子はない。
「……っ、くそっ」
気のせいだ。みんなの視線を浴びたから恥ずかしくて、頬が熱いだけだ。ランサーに撫でられたからではない。決して、ない!
一体誰に言い訳しているのか。アーチャー自身も分からなかった。
空を見上げると、夕日は沈みかけており、月が徐々に顔を覗かせていた。グラウンドでは野球部の声と金属バッドの音が聞こえてくる。
今の今までアーチャーは、今日走ったコースの周囲を何度も見回っていた。しかし、イヤリングは当然落ちてはいない。やはり更衣室のどこかに落としたのだろうか。それとも、盗まれてしまったのか。
他人をあまり疑いたくない。けれど、そうとしか思えなかった。
アーチャーは女子生徒たち追われていた時、彼女たちの目を見てすぐに読み取った。彼女たちが自分に向けている感情が『嫉妬』だということに。
弓道部にいた頃、アーチャーは誰よりもずば抜けて巧かった。弓道部のエースとして活躍出来たことは彼女にとって良い思い出である。
だが、それと同時に蘇ってくるのは一部の部員からの『嫉妬』。恨み妬みが滲んだ目でアーチャーを捉えるその視線が、彼女にとってはとても怖くて痛かった。
弓道が好きで、楽しくて、巧くなりたくて。
だから人よりも二倍、三倍、一〇倍……誰よりも熱心に取り組んだ。才能もあったかもしれない。けれど努力したからこそ、それが実っただけである。
それなのに、どうしてそんな憎悪を向けられなくてはならないのか。何も悪いことはしていないというのに。
今日、彼女たちから向けられた視線も『それ』と同じだ。アーチャー自身、何も悪いことはしていないというのに、『憎い』『羨ましい』といった思いが視線から伝わってきた。
これだからアーチャーは目立ちたくないのだ。ランサーのように皆に慕われるような、心が温まるような、そんな視線を浴びることが出来るなら――アーチャーだって目立つことが嫌にならなかった。けれど、一度味わってしまったあの視線たちは今も忘れられない。未だにアーチャーの心を蝕んでいた。
「……更衣室に向かおう」
ついに夕日は落ち、暗闇だけが残る。グラウンドにはライトが付けられ、部活動は未だに継続していた。
踵を返し、校舎に向かおうとした時。
「――――あら、アーチャーさん」
少し遠くの方で自分の名を呼んだ声がした。そちらに視線を移すと、あの女子生徒たちが階段の上からくすくすと笑いながらこちらを見下ろしていた。余裕そうな笑みが癪に障る。
「……何か用か?」
アーチャーは軽く睨みつけるが、相手側に怖じ気づく様子はない。更には一人が笑顔を向けながらこちらに近付いてくる。
「ねぇ、貴方が探しているのって……これのこと?」
近付いてきた茶髪の女子生徒はポケットからあるものを取り出し、見せつけてきた。それは、アーチャーが何時間も掛けて探していた『ランサーのイヤリング』だった。
「――――っ!」
瞬時にアーチャーは女子生徒の握るイヤリングへと手を伸ばす。――――が空振りに終わり、女子生徒は一歩遠ざかる。先を読まれていた。
「ダメよ。そんなことしたら、うっかり落としちゃう」
「……君たちが盗んだのか」
「盗んだなんて酷いわね。ちょっと借りただけよ」
悪そびれる様子なく言う茶髪の生徒。
自分だけが被害に遭うのならばまだ彼女たちの行いは許せた。だが、ランサーという他人を巻き込んでの行いは許せなかった。
自分を困らすだけなら良い。けれど、困らすための手段として関係のないランサーの私物を巻き込むのはお門違いだ。アーチャーは顔には出さないが腸が煮えくりかえる程、激怒していた。
「とにかく返してくれ。それはランサーのものだ」
「ん~、どうしよっかな~」
ふふふ、と声を漏らす彼女はイヤリングをわざとアーチャーに見せつける。ゆらゆらと揺れるイヤリングが暗闇の中、キラリと光るが、それを決して綺麗だと思うことはなかった。彼女がアーチャーに返すつもりがないのは態度で読み取れた。
だからアーチャーは言ってしまった。
「……なら君からランサーに返しておいてくれ」
「え?」
「別にランサーの手元にイヤリングが渡るなら、問題はない。ましてや、そんなことをしなければランサーと接点が持てないのなら、そのチャンスを与えてあげるよ」
「なっ……!」
カァッと茶髪の彼女の顔が赤く染まっていく。どうやら図星のようだった。すると、階段にいた二人も降りてきて、鼻を荒くして近付いてきた。
「あのね、アンタなんかランサーくんに相手にされてないんだからね!?」
「このイヤリングだってランサーくんの気まぐれでアンタに貸しただけでしょ!?」
「良い気にならないで!」
これ以上分かりやすいものがあるだろうか。典型的な嫉妬だ。女子生徒たちはアーチャーを囲うようにして喚く。
ただ弓道部に所属していた時とは違い、直接言われたのは初めてだった。だから、はっきりとした妬みが自分に向いているのだと明確に理解が出来るし、こうして口にして言われた方が何倍もアーチャーにしたら楽だった。
視線は「気のせい」と言われたら終わりだ。自分の考えすぎだと言われてしまう。本人がそう感じても向こうがそうではないと否定されたら提示出来る証拠はない。
だが、言葉はどうだろうか? はっきりと口にした場合、それは相手に伝わる。明確な悪意だと分かるのだ。だから、言われた側も反論が出来る。
「私からイヤリングを貸してと言ったわけでもないし、良い気にもなっていない。第一、理科室でアイツが『コイツに付けろと言った』と説明していただろう。それにランサーの話によれば私と彼の間には何もないと話したそうだが?」
「そ、それは……」
突いてみるとぼろぼろと零れる。痛いところを突かれたのか、口をもごもごと動かし濁す。
兎に角イヤリングは見つかったし、彼女たちがランサーに返してくれるというならそれで良い。
先程の発言に嘘偽りはない。本心だ。ランサーと話す機会がないのであれば、イヤリングを返す時にでも話せば良い。ただ二度と自分には関わってくれるなと思うアーチャーだが、口にせずとも彼女たちもそう考えているだろう。
「ではな。明日の朝、ランサーに返しておいてくれ」
横を通り抜け、帰ろうとする。
「まっ、待ちなさいよッ!」
「っな!?」
突然、背後から腕を掴まれる。そのままズルズルと何処かへ引っ張られる。
「お、おい! 放せっ! ランサーと話せるチャンスを渡しただろう!?」
「あぁもう、その上から目線で言ってくるのが気に入らないのよ!」
抵抗するも、三体一では到底敵わない。アーチャーは引きずられるようにして、体育倉庫の中へと入っていく。そして、受け身も取れぬまま倉庫の床へと投げられた。持っていた鞄が少し遠くへと飛んでいく。それに一人が反応し、アーチャーの鞄を拾い上げる。
「っう、」
「体育倉庫の鍵、持って来てたわよねっ?」
「うん、あるよ!」
一人が鍵を取り出す。その鍵を瞳に映した瞬間、嫌な予感がした。
「待てっ、そんなことして君たちの為にはならないだろう!?」
「お気遣いどーも! けどアンタには関係ないッ!」
ガラガラ……――――ガチャン!
大きな音を立てた直後、鍵の閉まる音が聞こえてきた。アーチャーは急いで立ち上がり、扉をスライドさせる。が、当然扉はびくともしない。閉じ込められたのだ。体育倉庫はグラウンドからも少し離れており、あまり人が通る場所ではない。助けを呼ぼうにも声は届かないし、音も響かない。スマホは持って行かれた鞄の中である。
重々しいため息を吐き出す。窓もない、エアコンもない中で一夜を明かすのはしんどいところである。おまけに埃っぽく息苦しい。早急に脱出を試みたいが手段がない。一体どうしたものか。
ひとまずアーチャーはマットの上へと腰を下ろす。焦っても仕方がないのだ。恐らく体育の授業が開始されるまで気付いて貰えないだろう。明日にならねば助けは来ない。
ブルリ、身体が震える。扉の隙間から風が入り、アーチャーの身体を震えさせたのだ。
季節は冬。辺りが暗い上に褐色肌で分かりにくいが、確かにアーチャーの両手は寒さで赤くなっていた。防寒具は巻いているマフラー一つのみである。体育座りをして、縮こまる。
厄日厄日だと思ってはいたが、ここまで厄日だと逆に笑いが込み上げてくる。元々自分は幸運ではないと分かっていたが、ここまでとは笑いものだ。
アーチャーは特にやることもないので、厄日という名の今日を振り返ることにした。
『イヤリングを付けろ』――――この発言から始まったことだ。それまでアーチャーはあの女子生徒たちからなんとも思われていなかっただろうし、恨みを買うことも、こうして体育倉庫に閉じ込められることもなかっただろう。それに授業をサボることもなかっただろう。
ロクなことがなかったな、と軽く笑った。人気者に迂闊に関わると周囲から嫌われる。なら、今後は控えよう。
しかしランサーと話をして彼の知られざる一面を知れたことは悪くないと思った。
捜し物が得意なところとか。
コロコロと表情を変化させるところとか。
……好きな人に一途なところとか。
ふと、好きな人を語っていた時のランサーを思い出す。嬉しそうに語る彼の姿が瞳に焼き付いていた。本当にその人が好きなのだと、見ているこちらにもひしひしと伝わってきた。
「……良いな」
そんな言葉が零れた。誰の声なのかは明白だ。ここにはアーチャー以外の人間はいないのだから。
自分の口から落ちた言葉に、アーチャーは自分で驚き思わず口を塞いだ。
――――『良いな』だと? 何が良いんだ?
何に対してその言葉が出たのか分からない。
好きな人に一途になれることが羨ましのか。
はたまた、好きな人が出来ることが羨ましいのか。
……それとも、ランサーの思い人が羨ましいのか。
「違う、違う。違う! 私は……っ」
首を横に振る。思考がぐちゃぐちゃだ。こんなことになるなら、脱出の策を一つや二つ考えた方が良かった。今じゃアーチャーの頭の中はランサーのことでいっぱいだ。
チクチクと針を刺されているかのように胸が痛む。こんな気持ちは初めてだ。
初めてだから、この気持ちに名前を付けることが出来ない。
苦しい。けれど、その苦しみは決して嫌なものだと感じなかった。想うからこその痛みなのだと、理解しているからだ。
もしかして、と。アーチャーは考える。この痛みの名前が何か、口にする。
「これが……『恋』、というやつか?」
――――ドンッ!
突然の轟音に、アーチャーの肩がビクリと跳ね上がる。バクバクとした心臓を撫で下ろしていると、外から声が聞こえてきた。
「おい、聞こえるか!?」
「き、聞こえるっ!」
問い掛けに必死に答える。そこで違和感に気付く。声の主に聞き覚えがあった。
ガラリと物音を立てて扉が開く。アーチャーは目の前に立つ人物を捉えた瞬間、瞳孔を開かせた。
「ら、ランサー……?」
「っ、大丈夫か!? アーチャー!」
月の光が逆光となり、顔は窺えない。けれど蒼天の髪がキラキラと光り、すぐにランサーだと分かった。同時に彼の耳のイヤリングも光っていた。その瞬間、アーチャーはランサーがここへ来る前に彼女たちに会ったことを察した。
ランサーはすぐにアーチャーへと駆け寄っていき、赤くなっているアーチャーの両手を自身の両手で包む。
「なっ」
「こんなに冷えちまって……。悪かったな、すぐに駆けつけてやれなくて」
ランサーは少しでも温まれば良いと思い、息を吐く。白い息が漂い、この体育倉庫の気温が低いことがよくわかる。
「君、帰ったんじゃ……」
「部活のミーティングがあったんだよ。大会が近くてな。さっき終わったばかりだ」
「そうだったのか……。けど、何故ここが分かった」
「お前がまだ探してるんじゃねぇかと思ってグラウンドに行ったらアイツらに会ってな」
『アイツら』とは3人組の彼女たちのことだろう。そう思いながらランサーの話に耳を傾ける。
「イヤリングを返して貰って後に、笑顔で去るもんだから怪しくて訊いたんだ。『アーチャーに何かしてないよな?』って。まさかこんなことになるとはな……。本当に悪い」
深々と頭を下げるランサーに、アーチャーは慌てて頭を上げるように言う。
「あ、頭を上げてくれランサー。私も彼女たちに煽るような発言をしてしまったし、君だけのせいじゃない。私も悪かったんだ」
「けど、」
「良いんだ。それに君のお陰で朝までここにいなくて済んだ。……それにしても、よく彼女たちの口を割らせたな」
「いや、どこかに閉じ込めたとは言ってたが、それ以上は教えてくれなかったぜ」
え、と声を漏らす。まさか何も情報がないのにここが分かったというのか。
「じゃあ君、どうやってここだと分かったんだ」
問うと、ランサーは顔を上げ、口の端を上げる。
「言っただろ。探すのは得意だってな」
その笑みにとくん、と音がした。実際に音がしたわけではない。けれど、確かにアーチャーの胸の中でそんな音がしたのだ。
ランサーの笑みを見て、アーチャーは自覚した。
――――私は、この男が好きだ。
今日一日だけで十分に惹かれてしまった。だが自覚すると同時に、失恋の自覚も当然している。チクリと胸の奥に痛みが生じる。
敵わない恋をするつもりはない。少しの間でも恋心というものを経験出来ただけで御の字だ。多少数日間は引きずるかもしれないが、立ち直れない訳ではない。
なんて強がるアーチャーだが、
「そう、だったな」
喉の奥から出た声は震えていた。自覚してしまったせいだ。今にでも想いを伝えれば何か変わるんじゃないか、なんてことも考える。されど言える勇気など、アーチャーには持ち合わせていない。
「どうした? 寒いのか?」
アーチャーの震えた声が寒さのせいだと思ったランサーは彼女から両手を離す。
次の瞬間、アーチャーの身体を正面から包み込んだ。後ろに回った手を使い、背中をゆっくりと擦っていく。
「らっ、ランサーッ!?」
ランサーの行動に取り乱すアーチャー。突然抱き締められたら誰だって動揺するだろう。それが好きな人なら尚更である。
「これで少しは温かくなるだろ?」
ランサーが何も気にせず善意でやっていることはアーチャーも理解しているのだが、寒いどころか自分の熱が顔に集まっていくのが分かる。こうなると、なかなか頬の熱は引いていかない。
「そ、それはそうだが……。君、好きでもない異性にそんなことするもんじゃないぞ」
心からの本音である。ランサー本人も、自分がモテることは良く分かっているはずだ。
それに、彼には好きな人がいる。誤解を生むような言動はランサーにとってもマイナスなはずなのだが。
「……」
返事が帰ってこない。しん、と静まり返る体育倉庫。どこか気まずい雰囲気が流れていた。
「……ランサー?」
声を掛ける。すると、ランサーのアーチャーを抱き締める力が一層強まる。
「好きなヤツなら良いってことか?」
「は?」
問い掛けに困惑していると、ランサーはアーチャーの肩に埋めていた顔を上げて、言った。
「お前が好きだからこうしてるっつったら、どうするよ」
その台詞に、今日イチアーチャーの心臓が跳ね上がった。喉の奥からヒュッという声にならない声が出た。
言葉が出なかった。何かの間違いなんじゃないかと疑う。からかっているんじゃないかと、マイナス思考になる。それに、ランサーが言っていた想い人にアーチャーは当てはまらない。
――――あの中庭で、桜が舞う下で、本を読んでいた記憶などアーチャーにはないのだから。
「……何かの間違いだ」
「間違いじゃねぇよ。白い髪に褐色の肌、あれは間違いなくお前だった」
「私には、桜の木の下で本を読んでいた覚えなどない」
「白のブックカバー」
「ぶ、ブックカバー……?」
はて、と思いながら思考を巡らせる。中庭で読書した覚えがないのは確かだ。だが、白いブックカバーに違和感を覚える。
「おう。白のブックカバーで何度も同じページを行ったり来たりさせてただろ」
「行ったり来たり……?」
首を捻る。ますます分からない。余程その人物はそこのページが好きだったのだろうか。しかし、ランサーが言うには「文庫本サイズだった」とのこと。
漫画であればイラストが好きだから、という理由でペラペラ捲ることに理解は出来るのだが、小説であれば同じページを何度も見ようと思うだろうか? それも話を聞く限り、短時間での間だ。
なれば、そもそも小説を読んでいたこと自体が間違いなのではないだろうか。
「ランサー、君の視力はいくつだ」
たまにランサーが眼鏡を着用していたのを思い出す。着用している姿は殆ど見かけないが、授業中の時、掛けているのを一度だけ見かけたことがあった。
「視力だぁ? 裸眼で0.5とかだったと思うが。つか、普段はコンタクトしてるから問題ねぇよ」
「なら、その時コンタクトでも眼鏡でもどちらでも良い。どちらか着用していたか?」
「確か、してなかったな。コンタクトは丁度切らして、眼鏡は家に忘れてきたような……。それがどうした」
「……はは、なるほどな」
アーチャーの口から空笑いが零れた。彼女は『桜の木の下で本は読んでいない』が、『桜の木の下で他のことをした』覚えはある。
それは――――
「君、見間違えたんだ」
「だから間違ってねぇって!」
「違う。そうじゃなくて、君が見たのは白いブックカバーなんかではない。あれは――――猫だ」
「………………は?」
長い沈黙の後、ランサーの口から零れたのは無様な声だった。
あの日、ランサーが桜の木の下で見た彼女は『本を読んでいた』のではなく、『猫を撫でていた』のだ。コンタクトも眼鏡を装着していなかったランサーは猫を撫でているのを、本を読んでいると勘違いしたらしい。なので、白いブックカバーというのは実は白い猫、ということである。
「えーと……つまり、なんだ? 本当はお前さんは猫を撫でていたが、それをオレは本を読んでいると勘違いしていたってことか?」
「その通りだ」
「ンだよそれッ!! はっっず!」
アーチャーから離れて背を向けるランサー。頭を抱える様子を背後で眺めるアーチャーは彼の耳が少し赤く染まっていることに気付いた。貴重な姿に思わず笑みを零し、突いてやることにした。
「ランサー、耳まで赤いが?」
「ばっ、は、はぁ? ンなこといちいち報告してくんじゃねぇよ!」
「良いじゃないか。減るものじゃないだろう?」
「てめぇ、昼間の仕返しか」
「あぁ。そうだ」
散々頬を弄ってくれた仕返し、と付け足す。
チッと軽い舌打ちが飛んでくるが、そんなものは今のアーチャーには通用しない。余計に加虐心を煽るだけである。
「ふっ、案外君も可愛らしい一面を持ち合わせているのだな」
主導権を握ったと思ったアーチャーだったが、それも束の間だった。
「可愛いで言うならお前に負けるさね。アーチャー」
ランサーが振り向く。月光が体育倉庫に差し込み、ランサーの表情がはっきりと視界に映る。同じく彼の瞳に映り込むのは、アーチャーただ一人。
「猫を撫でていたと訂正するってことは、やっぱりあれはお前だったんだな」
「……中庭で白い猫を撫でていた記憶はあるからな。それに虚偽をそのままにしておくのは気が引けただけだ」
ふい、と横を向く。熱烈な視線に、ようやく引いていったはずの熱が再び戻っていく。とくとく、鼓動の音がする。まるで期待しているような音だと感じた。
ランサーはなるほど、と呟き、さらに述べる。
「ま、そういうワケだ。こんな雰囲気もねぇ場所で言うつもりはなかったんだが、お前が好きだ、アーチャー。オレと付き合って欲しい」
「っ」
自分も好きだと言いたかった。
しかし、思いとは裏腹に口は動かない。その理由は本人も分かっていた。
今日みたいな事がまた起こるのは二度とゴメンだ。あの『視線』を浴びるのは、もう懲り懲りなのだ。
ランサーのことは好きだ。今日一日を過ごし、彼の嘘偽りのない性格に惹かれたのは事実だ。けれど、告白を了承して付き合ったらまたあの時と同じことの繰り返しになるのではないか。向けられる視線が怖くてどうしようもない。
「アーチャー」
返事をせずに俯くアーチャーに、ランサーは優しい声音で呼ぶ。
「……」
それでもアーチャーは顔を上げずに俯いたまま、ランサーを見ようとはしない。
「アーチャー、好きだ」
もう一度、彼女を呼ぶ。今度は、俯いた顔が上がった。けれど視線はランサーに向かない。
「好きだ。オレはお前が好きなんだよ。お前が答えないなら何度でも言う。伝わらないのなら何度でも伝えてやる。だから、こっちを向けよ、アーチャー」
「……らんさー」
か細い声が返ってくる。アーチャーの顔だけがランサーの方へと振り向く。銀の瞳には涙が溜まっていた。
「あ、アーチャー?」
「私は君の隣には並べない」
「はぁ?」
「……君の隣に、私は不釣り合いだ」
アーチャーは本当のことを口にするのは止めた。それを話したところでランサーを困らせるだけだと思ったからだ。
「だから私は……」
「本当のことを言え。何を隠してる」
しかし、赤の瞳は全てお見通しだった。ぐ、と唇を噛みしめる。真っ直ぐにアーチャーの返答を待つ青の男。これ以上、嘘をつくのは失礼だ。
「……人の視線が気になるんだ。君の隣に立つと、私に集まる視線が、目が、酷く痛くて恐ろしい」
『その目』が弓道部の時にいた頃を蘇らせる。嫌なことだけが蘇ってくる。震えた声で話すアーチャーにランサーは彼女の頬に流れる涙を人差し指で拭い、口を開いた。
「悪かった。お前に辛い思いをさせたな」
謝罪を述べる彼に、アーチャーは首を横に振った。
「いや、私こそこんな話をしてすまない。君に謝罪して欲しいわけでも、君が悪い訳でもないのに」
「それは全然構わねぇよ。むしろこっちが悪いだろ。……つうか今日だけで色々と迷惑掛けてんな。本当にすまん」
またも頭を下げる男。ここまで何度も謝罪されると困ってしまう。
「だから頭を上げてくれ。……というわけだ。私は、君の気持ちに応える事は出来ない」
はっきりとアーチャーは口にする。こういえば、伝わらないランサーではない。しかし、
「分かった。それを知った上で改めて言わせて貰うぞ。好きだ、アーチャー」
堂々と言い放つその態度に一驚した。話を聞いていなかったのだろうか。
「だっ、だから私は君とはっ」
「オレはお前さんを諦めるとは一言も言ってない」
「そんな屁理屈を言われてもだな……」
眉尻を下げていると、ランサーはアーチャーの二の腕を掴み、強制的に身体の向きをこちらへと向けさせる。そして、ずい、と彼女に顔を寄せ語り始めた。
「いいか、アーチャー。お前さんが向けられた視線ってのはアレだろ。『嫉妬』とか『憎悪』とかの類いだろ?」
ランサーの問い掛けにこくりと頷く。すると、彼は発言を続けた。
「『嫉妬』ってのは言わば『羨望』さね。つまりお前は羨ましがられているんだよ。なら、逆に誇れ。お前がそんな視線に怖がる必要はねぇし、むしろ自慢してやれよ」
「じ、自慢だと……?」
「おう。自慢だ。『お前たちなんかよりも立派なんだぞ』ってな!」
屈託のない笑みを見た瞬間、アーチャーの瞳孔が開く。丁度月光が真上に来たようで、ランサーを照らしていた。まるでスポットライトに当てられたかのように輝く男の姿が、脳裏に焼き付いていく。
やはりランサーは綺麗だ。綺麗で、人の心を温かくする。
自分にはない考えだった。嫉妬されたことで、人との繋がりをなるべく絶とうとした。目立つことはせずに、やりたいことを抑えた。そうすれば、誰も傷つくことはない。自分も他人も平和にやっていける。
けどそれにはアーチャーの行動に制限が付く。好きなことを自由に出来ない。弓道がまさに良い例である。
我慢して、我慢して、ずっと我慢を続けて。
自分の気持ちに正直になったのは、何年前だろうか?
本当にやりたかったことに目を背けたのはいつからだったか?
もう覚えてはいない。
けれど今。ランサーへの恋慕は――この気持ちは押し殺したくない!
「ランサー」
真っ直ぐに蒼天の男を視界に入れる。こちらを真剣に、けれども優しく見つめるランサーに、アーチャーは言う。
「君は『自慢しろ』、そう言ったな?」
「あぁ。言った」
肯定するランサー。その瞬間、アーチャーは口の端を上へと上げた。
「なら、責任を取って貰うぞ。私は、もう遠慮しない。堂々と胸を張る。そうして彼女たちに言ってやる。『ランサーの彼女は私だ』、とね」
「……」
その発言にランサーは口を開けて呆然としている。何も反応を示さないので、何だか急に宣言したことが恥ずかしくなってくる。
「な、なんか言ったらどうだ」
「へ、あ……お、おおう」
しどろもどろの彼の様子に調子が狂う。
「君なぁ、私にあんなことを言った癖にその反応はないんじゃないか?」
「し、仕方ねぇだろ。振られたと思った矢先にンなこと言われてんだ。動揺するだろ」なんて言う。
つまりはアーチャーの返答に面を食らい、言葉が出なかったようだ。月がランサーを照らしているお陰でほんのりと赤く染まった頬が見える。
「……やっぱり君、可愛いな」
「ハァ? 可愛いのはお前だろ、たわけ」
「いやいや、君の方が十分に可愛いよ、ランサー」
くすくすと声を上げて笑う。アーチャーの発言に納得しない様子のランサーだが、彼女の笑みを見て否定する気が失せる。笑っていれば、それで良い。
ランサーはアーチャーを抱き寄せる。腕を背中に回すと、今度は自分の背中にも腕が回ったのを感じ取れた。
「てことは、クラスのヤツに言うんだな」
「彼女たちだけだ。他には私から言わん」
「えー」と、ぐずついたランサーの声が横から聞こえる。と、銀のイヤリングが瞳に映り込む。
普段見慣れているせいもあるかもしれない。それでもやはり彼が付けていると安心した。
「じゃあ、オレも言って良いか?」
「……嫌だと言っても聞かないだろ」
「だって、オレも『アーチャーはオレの彼女だ』って自慢してぇし」
抱きついているので、顔は見えないがきっと拗ねているような表情を浮かべているのだろう。そういうところが可愛いのだが、本人は全くの自覚なしだ。
「だが吹っ切れたとはいえ、視線に慣れるまでは時間が掛かるからな」
人はそう簡単に変われない、と付け足す。なら、とランサーが提案する。
「一緒に言いに行こうぜ」
「え?」
少しだけ離れてランサーの顔を見る。
「アイツらに言いに行くんだろ? なら、オレも一緒に行く。なんなら手を繋いだ状態で交際宣言してやろうぜ?」
ニヤリと口角を上げ悪い笑みを浮かべているランサー。その表情に、釣られてアーチャーも口角を上げた。
「――――あぁ。今日の仕返し、だな」
「うっし。そのついでだ。お揃いのブレスレッドでも付けて、見せつけてやろうぜ」
「ランサー、あまり苛めてやるな」
「……とか言いつつ、お前さんも案外満更でもねぇ顔してねぇか?」
笑い声が体育倉庫に響く。月光が二人を照らす。
こうして二人の新たな日常が幕を上げたのだった。
Comments
- こらころNovember 7, 2025