「明日キスする予定あるか?」
それだけ送信すると、数分も経たないうちにスマホが震えた。
「ない。いつもの時間で」
◆
誘ったのは己だが、先に到着していたのは真面目なアーチャーの方だった。スーツの上から暖かそうな仕立ての良いウールのコートを着た長身が、身なりとは不釣り合いな小ぢんまりとした店の前に佇んでいる。木製の引き戸に大きく嵌め込まれたガラスから漏れるオレンジ色の光が褐色の頬を照らしていた。なにか考え事をしているのか、白い髪と同じ色の睫毛は爪先を見つめて伏せられている。白い息を吐き出しながらすまん遅くなったと声をかけると、たちまち眉間に皺が寄り、毎回それを聞いている気がするがといつもの嫌味が返ってきた。そう言いながらも先に入店したり帰ったりもせず、必ず店頭で待っているのだから律儀な男だ。
引き戸を開けると同時にらっしゃーせー!と飛んできた威勢のいい声に己は手を挙げて応え、アーチャーは軽く頭を下げた。ほどよく混雑した店内を見回しながらすっかり定位置になったカウンターの左端に腰を下ろす。すぐに厨房から丸顔の店主がいつものでいいかいと声をかけてきたのを目線だけでアーチャーに問う。アーチャーが頷くのを確認すると、店主は人好きのする笑顔を浮かべて厨房の奥へ戻っていった。
「お前さん最近どうだ」
「特に変わったことはない」
「つまんねえなあ」
店員からおしぼりと水を受け取り、取り留めのない会話の合間に他の客の声や壁掛け棚に置かれたテレビの野球中継が混ざる。解説を聞くに、今夜は因縁の対決らしい。派手な歓声に三振だと呟くアーチャーの喉仏が上下するのを眺めながら相槌を打つ。黄色い蛍光灯の下で褐色の肌は普段より柔らかく見える。
厨房から勢いよく油の跳ねる音がすると同時に己の腹が盛大に鳴った。
そんなに空腹なのかと呆れたように問われ、お前さんが思うよりずっと前から腹減ってるぜと返してやればアーチャーは肩を竦めた。
「はい!醤油ラーメン、醤油ラーメン大盛りチャーシューとメンマ増しー!あと餃子二枚ね!」
頭上からタイミングよくかけられた声に顔を上げる。丼の湯気の向こうににっこり笑う店主の顔が見えた。
カウンターに置かれた丼はアーチャーが醤油ラーメン、己が醤油ラーメン大盛りチャーシューとメンマ増し、そして餃子が一枚ずつ。これが己達のいつものだ。透き通った朱いスープにチャーシューとメンマ、ワカメ、刻み葱が浮かんだラーメンはシンプルで、昔ながらのという言葉がしっくりくる。器まで熱い気配りが嬉しい。華美なところはないが、古き良きラーメンだ。よく来てくれるからおまけだよ、とひとつずつ入れてもらったゆで玉子はありがたくいただくことにした。
「あー美味そう」
「寒い日は特にな」
アーチャーから割り箸を受け取り、二人同時にいただきますと宣言する。ラーメンは提供されたらグズグズせず即食べるのが正解であるというのが己とアーチャーの共通認識だ。
スープから縮れた麺を引っ張りあげると、湯気とともに香ばしい醤油の香りが立ち上った。食欲をくすぐる香りにその勢いのまま大口を開けて麺を啜る。もちもちした中太麺がスープに絡んで美味い。丸みのある醤油と深い鶏ガラの旨味と共に僅かな生姜の香りが鼻に抜けた。濃いめの味付けだがしつこくない。ホッとする懐かしい味のなかに店ならではの深みがある。ついでに歯切れのいいメンマを押し込むと甘辛い汁気がジュワッと広がった。いつまでも噛んでいたくなる至福の塊を胃袋へ送り出し、今度はワカメと麺を、そして最後にチャーシューを迎え入れる。ワカメの磯の風味が舌を優しく休ませ、何度食べても新鮮に美味いチャーシューは口に入れるとホロリと崩れた。
甘い脂の余韻を楽しみつつ横目でアーチャーの様子を伺う。丁度手が箸から離れて醤油差しへ伸ばされたところだった。それにつられて己の手も酢の入ったそれへ向かう。
楕円形の皿に適量垂らし、無言で醤油と交換する。最後に辣油を加えて準備が整った。その横で行儀よく六つ並んだ餃子がこんがりと焼けたきつね色を上にしてはやく食べてと誘っている。一つ摘まんで酢醤油につけるとパッと脂の輪ができた。皮からうっすらと透けた餡が艶かしい。こちらも温かいうちにと一口に放り込む。さくりと餃子が割れると同時に閉じ込められていた肉汁と野菜の甘みが口いっぱいに広がった。この店の餃子は肉よりも野菜の割合が多く優しい味をしているが、ニラとニンニクがしっかりと利いてガツンとした満足感は申し分ない。モチモチした皮は毎日店で手作りしているらしく、アーチャーは食べる度に粉の配合だの水の量だのを分析している。そっと隣を見やるとアーチャーは目を伏せて餃子を味わっているようだった。白いまつげが頬に影を落としている。まるでキスを待つようなそれに己は慌てて目をそらした。
逃避するように二つ目の餃子を味わったところでラーメンの汁気が欲しくなり、再び丼に向き直る。ここからはゴールに向けて一気に駆け抜けるだけだ。麺を啜りスープを飲み、チャーシューとワカメを味わうことも忘れない。ぷりぷりとし玉子は緩急材だ。時折そこに餃子を挟めば次第に体が熱くなってくる。背中が汗ばむのがわかる。額に張り付く前髪が鬱陶しい。指先から爪先まで己の形に熱が廻っていく。最早呼吸も煩わしい。
夢中でラーメンと餃子を往復し、最後の最後に水に手を伸ばした。冷たい水が熱くなった体の中心を滑り落ちていく。
「っはーー!」
えもいわれぬ爽快感が心地好い。思わずダウンのジッパーを寛げようとして、ふと横を向くとアーチャーがこちらを見ていた。
「相変わらず君はよく食べるな」
鋼色の瞳がわずかに目尻を緩ませる。顔が熱くなるのはラーメンと餃子のせいだと誰が聞くでもない言い訳を浮かべ、わざとらしく肩を竦めた。
「意地汚ねえってか?」
「いや、食べっぷりがいいということさ」
そう首を振ってアーチャーは餃子を口に運んだ。己が一口に放り込んだそれをアーチャーは二口に分けてゆっくりと味わっている。この男は図体こそ己より勝るが、口の大きさはそうでもない。てらりと光る唇から柔らかそうな舌が覗く。唇の端についた脂を舐めとる仕草に、ぐる、と己の喉が鳴った。
「すげえ旨そう」
無意識にこぼれた言葉に、まだ食べる気かとアーチャーは呆れたように笑った。
◆
ありがとーございまーす!と入店時と同じく威勢の良い声に見送られながら外に出る。ひやりとした空気が火照った頬を包んだ。駅からやや離れたこの店の周辺はビルに紛れて住宅も多く、素朴で暖かな明かりがよく見える。
「あー食った、満足したぜ」
「君は食べ過ぎだ」
結局あの後己はチャーハン大盛と餃子を一枚追加した。まあよくあることだ。
「お前さんだって追加の餃子摘まんだだろうが」
己の言葉に知らぬふりを決め込んだアーチャーの吐く息が白い。掌に息を当てるとぷんとニンニクとニラが香った。
「わはは、すげえニンニク臭え」
「これではキスもできないな」
「違いねえ」
明日キスする予定あるか、と言い出したのはどちらが先だったか。妙に思わせ振りな言い回しが気に入ってしまい、今ではこのふざけた定型文が己とアーチャーのラーメンと餃子の合図になってしまった。
アーチャーがどう思っているかは知らないが、己にとってこの誘い文句は返事を待つ間がひどく落ち着かない気持ちにさせる。予定があると返ってきはしないかと柄にもなく考えてしまう。ないの二文字を確認する度に己が胸を撫で下ろしているか、この男に吐き出してしまえたらどんなに楽になれるだろうか。
明日の予定はオレと過ごすことでいいだろ、と言いたくなるのを白い吐息に溶かす。
「なーこのままお前さんちで飲もうぜ」
できるだけ自然に聞こえるように、店よりお前さんのつくる肴のが美味えと続ければ、アーチャーはビールは君が買うんだぞと肩を竦めた。
Comments
- そーMarch 1, 2020