#6:伊藤詩織さんと検事の対話は、性暴力を刑法がどう裁くか考えるベストなケースである理由【マニア限定】
はじめに
本稿は、連載の#6回です。本稿では、伊藤詩織さんのジャーナリストとしての記述(ノンフィクション本の内容)が現実に照らしてどう見えるかを検証していきますが、同時に、本稿は日本の刑事司法のあり方や、性犯罪を法律がどう裁くかを考える、またとない対話集でもあると思っています。
刑法における「主観」(=被疑者がどう考えたか)とは何か──。
対話の中身が幅広く読まれ、日本の刑事司法の特性や、法律が性暴力をどう捉えるかを考えるきっかけになることを願って。
ここまでの話をざっと理解するには第3回を読んでからこの回を読むことを推奨します
伊藤詩織氏のジャーナリスト・レポートの問題点を考える
記者会見やメディアでのインタビューでは、「なぜ不起訴か、検察から教えてもらえなかった」と語った伊藤氏が、最大限に検察の発言に言及をした場所は、「真実はここにある」として出版した著書『BlackBox』内である。
とはいえ、検察とのコミュニケーションは7万字以上に及ぶ非常に詳細なものである一方、著書に登場する文言はわずか4〜5頁(書籍全体の2%)と、「最大限出した場所」でもその程度にしか触れられていないのだが、その要約は、文脈や主語を無視した恣意的な発言の切り貼りで、時に発言者の意図に対してあべこべの論理の発言を作り出してしまっていると言わざるを得ない部分もある。
では、具体的に、ジャーナリストのレポートとしての問題点はどこにあるか見てみたい。
伊藤著書にて、検事の発言として最も直接的に描写・引用がなされている記述を抜き出すと(検事の言動に関係の薄い記述は“中略”で省略しつつ)、ジャーナリスト伊藤の客観的なレポートとは、以下となる。
二〇一五年八月二六日、事件が検察へ書類送検された。(中略)それから、こちらも新たな担当のK検事による面会が、二回あった。最初は二〇一五年十月。この日は、もう何度目か忘れたが、事件当日のことについて、また質問を受けた。(中略)担当のK検事と二度目に再開したのは、2016年7月半ばのことだった。検事との話に、目新しい展開はなかった。そして彼は、日本には準強姦罪という罪状はあるが、実際にはなかなか被疑者をさばけないと、現行法の持つ矛盾を、長い時間かけて語った。それは司法システムの話から始まった。
「日本においては、性犯罪を立証するのはとても難しい(←下線部A)。日本の刑法は被疑者の主観をとても重視する傾向があるのです。当然、被疑者が犯行を認めることは稀なので、『合意の上でした』、と言う。アメリカの刑法では、主観より客観的な事実で起訴が出来る。日本では、客観的な状況だけでは、明らかな有罪だったとしても、被疑者がそれを認めない限り有罪になりにくいのです(←下線部B)。強力な証拠を求められます。例えば、犯行を撮った映像や音声、第三者が目撃していた、等々(←下線部C)。私はアメリカの司法の現場でも経験があるので、よくわかります」
私は彼の言う、「第三者が犯行現場を見ているか、その犯行ビデオがないと、準強姦罪の適用は難しい(←下線部D)」と言う説明を、この時そのまま鵜呑みにしてしまった。
大きな問題は法律そのものにあるのだ、と。日本の「準強姦罪」は、あってないような法律なのだ、と。7月22日、不起訴が確定した。五日後に弁護士を通じ、この結果が私に伝えられた。(中略)予想はしていたことだったが、現実になってみると、その結果は私をとてつもない無力感に陥れた。
まず、下線部Aについて。
「日本においては、性犯罪を立証するのはとても難しい」とは、要約における主語の誤りと筆者は考える。
たしかに検事は、
「こういう強制わいせつだの強姦だのという形で起きてくる事件で、被害者の女性の方に、本当にそういう性的な合意とかね、同意がない、もう本心としてそういうのがない事件って、結構、結構って言っちゃなんだけど、相当数あるんですよ。でも、それを起訴できないっていうのも出てくるんだよね。で、それはなぜかと、日本の法律で相手方の故意、犯意を取れっていうことになってるから。相手がどう考えたのかということを、ちゃんと証明しなさいっていうことになってるので。この手の事件のわれわれ検察サイドのね、一番の難点はそこ。」
と発言しており、一見その一箇所をもとにした記述と言えるようにも見えるが、問題は、伊藤さんが、それを遥かに凌駕する補足情報を同時に受け取っている点である。
検事の説明を総合的に理解すれば、彼が「日本における性犯罪」という主語で、その立証を、一様に「とても難しい」と思ってはいないことは明らかだ。
なぜなら「立証の難易度」に関して、検事は、むしろ性犯罪のなかでも訴因によって差異があると考えており、性犯罪のなかでも準強姦、準強制わいせつというような、心神喪失・抗拒不能であったことが犯罪の構成要件とされているものについては、どういう状況であったかの詳細を本人が証言できないことが多いため証拠関係がどうしても弱くなってしまい難しいと述べており、それを「法律の欠陥だと思う」と答えている。
しかし、「準強姦」であっても、面識がない関係性での準強姦や、面識があっても薬物が検出された場合などは立証可能と説明し、さらには「この手で強姦致傷になるのって結構、多いんですよ。だから、伊藤さんに有利な形で何か裏がとれないか、何か実証できるものがないかっていうことで、行かれた病院を全て確認したのだけど(ないんだよね)」と述べるなど、強姦致傷罪であれば別の角度からの立証が可能である点にも言及した上で、いずれにしても「起訴するためには、供述を裏付ける客観証拠が重要」という、説明を重ねているためだ。
また検事は、「被疑者の犯意」を立証しなければいけないという前提は日本の刑法全般にかかる話だとしており、伊藤さん自身も「じゃあ、この、一つの準強姦(という犯罪)というよりも、もう体制的にそういうことなんですね。」と応答。
そのため、検事が「日本においては、性犯罪を立証するのはとても難しい」から、伊藤さんのケースを起訴できないと語ったかのように要約するのは、説明の実態に即しているだろうか。
検事が難色を示しているのは、あくまで「伊藤氏固有のケースを準強姦罪で起訴すること」
検事が、「難しい」としているのは、あくまで「伊藤氏固有のケースを準強姦罪で起訴すること」だ。そしてその理由は、以下のようなものと説明されている。
①二人が知人関係にあること
②防犯カメラの映像から性行為までに入室後時間が経過してしまっているため、そこでどんなコミュニケーションが行われたかの解釈の余地が生まれてしまうこと(自力歩行が難しい状態から入室後すぐに姦淫行為が行われ、被害者が例えば1時間後に部屋を出ていたらその映像は起訴できる材料になると話している)
③入室前(タクシーの中)やホテルエントランスでの証言は、両面的な解釈(起訴に有利・不起訴に有利)の余地のあるものであり、証拠能力としては限定的なこと
④「記憶がない」のはアルコール健忘症の可能性があること(行為当時は「意識」があったが、その後の睡眠により、再覚醒したときにはその記憶が抜け落ちている可能性)
⑤「抗拒不能」を立証するための、血中アルコール濃度なども未計測であり、薬物使用も尿検査などの証拠がないこと(伊藤さんは、被害の5日後に警察に相談をしている)。
検事:この手の事件で、比較的立証しやすくなるのって、直後に被害届とかで、警察に駆け込むと、すぐ警察はもうほら、証拠の押さえどころが分かるので、パッパッパッパンって集めていくんだよね。だからどうしても、悩まれたりとか、そうなってくると、それはもう、反比例的にね、どんどんどんどん証拠が逆に散逸していってしまう。
そして、それらに加えて伊藤氏自身が行為に至る経緯を明確に供述でききないという状況のため、検事は以下の反応を見せているのである。
検事:「本当に、伊藤さんの気持ちもよくわかるしね。起訴してもらいたいっていう気持ち。でも、恐らく、これ、起訴するとね、起訴すると、というよりも多分、証拠がこれだけのところで起訴するのって、まず、ないんだよね。」
また、①〜⑤の詳細や、検事がなぜ準強姦罪で検討したか、なぜ強姦致傷罪でなかったか、については連載第3回を参照されたい。
「被疑者の主観の立証」はなぜ必要?
検事は伊藤さんに事務的以上に誠実に向き合い、さまざまな質問に、どれも非常に丁寧に答えている。
たとえば、アメリカでは、もうベッドに入って、裸でいても、ノーと言ったらそれは強姦だが、日本ではなぜそうではないのか、という趣旨の質問を伊藤さんがする場面でのやり取りは、印象的だ。
伊藤:「(前略)一度どこかで読んだんですけど、日本の性犯罪に関する刑法はすごく昔に作られて、男女2人が夜の公園を歩いていて、男性が女性の肩に手を回したことにノーと言わなかったので、それは強姦と認められなかったっていうケースがあったって。でも、アメリカではもうベッドに入って、裸でいても、ノーと言ったらもう絶対、それは強姦(なのに)。」
知人関係で、酒を飲んでホテルに到着したという事実で、なぜ「性行為への同意があったと見なされるのか」という憤りが透けて見えるような質問だが、検事は以下のように言葉を返す。
検事:「前にちょっと話したかもしれないけど、やっぱり日本の刑法はドイツ流でね、大陸法で、主観をかなり重視する。犯人が何を思っていたか、被疑者は何を思っていたか。それが中心になるので、今のお話みたいになってしまう。肩に手を回したとき、ノーと言わない。じゃあそれはね、客観的にどういうことなのかじゃないんだよね。この人は“どうそれを受け取っちゃったか”ってことになる。
でも、アメリカのほうはそういう「主観」(※筆者注:被疑者が“どう認識したか”。例えばノーと言われなかったことを、嫌がってないなという“受け入れ”と感じたか、等)を問題にしないんで、そこに多分、差が出てきてしまう。
アメリカはね、法体系がそうなんで、取り調べなんていらないんですけれども。だから、すごい簡単なの。で、私もアメリカの司法省で、勉強させてもらったんだけど、驚いたのは、日本ではね、薬物の関係の取引になると、それが薬物かどうかの認識、しっかり取るんです。それが覚醒剤なのかね、ヘロインなのかとかね、そんな調書、一生懸命取るんですよ、日本の検事って。ところがアメリカは、もう、穴埋め式なの。何月何日にこういう取引しました。こういうことがありました。場合によっては、レ点のチェックさえ入れれば済むの。だからものすごい調べが短いの。
検事:「で、あとは陪審のほうで判断したりとか。だから、アメリカの基本は、客観(的な証拠を)を立証すればいいので、警察官はガンガンやってそのときの状況を証言してもらえば、大体有罪になるんですよ。だけど日本は、その主観をね、この取り調べでまず取らないと起訴ができない。起訴した後も、何問題にしてるかって、認識してたかどうかが問題になっちゃう。でも客観状況、どう見たってそんなの(薬が)カバンの中に入ってて、誰だか知らない人にいきなり渡されて、あるいは面識のあんまりない人に渡されてね。で、それ持って返ってきましたって(変でしょう)。
でもそれが通ってしまう。
裁判員裁判で無罪になってるのってね、みんな密輸なんですよ。なんで無罪になるかっていうと、そういう理由。だから何か変わるか、変えなきゃいけないかっていうと、検事から言わせてもらうと、(被疑者の)主観をあそこまでね、何とかまとめ上げなきゃいけない日本の刑法の体系。(中略)そういう本質は多分、検事になってずっと思ってますけど。」
被害者の「主観」は、重要ではないの?
主観、という言葉を重ねる検事に対し、伊藤さんは、「被害者の証言や考えは、『主観』にはならないのか?」と尋ね、検事はそれは告訴の出発点であるが、最終的には被疑者(処罰される側)の認識を法律は問題にしていることを説明していく。
伊藤:「被害者の証言や考えは、『主観』にはならない?」
検事:「それ(被害者の考え)はもちろん出発点ではある。この犯罪のね。ただ最後の、本当にその被疑者を捕まえて、被疑者を処罰するっていうとこになってくると、被疑者(処罰される側)の主観を、法律は問題にしてる。刑法で規定する犯罪は全てこれなんです。
例えば、窃盗ってあるでしょう。で、窃盗って他人のものを盗むわけよ。だから、他人のものって認識してないとまずいの。例えばこれをね、捨ててある物です、と思いましたと。するとそれは、まあせいぜい遺失物横領。ものすごい軽い罪になっちゃうね。だからわれわれとしては、いや、これって他人の物って分かってたんでしょう?ていう調べをしなきゃいけない。そうすると何かっていうと、例えば盗んだんだったら、自転車がどういう形状で、どういう状態だったのか、どこに置かれていたのかというところなんかを、徹底的に裏取って。それが分からないと、本人が言ってたことっていうのはつぶせない。日本の場合はね、主観(※筆者注:犯罪認識)を持ってる人と持ってない人で、それでもう犯罪と非犯罪を明確に区別するので。
伊藤:「この主観的な、(被疑者の)主観を大切にする法律は、何がいいことなんですか。」
検事:「被疑者の擁護じゃないけど、人権保障だよね、要するにね。例えば何も知らない人がさ、覚醒剤をもらっちゃったとして、通常は、まあ、何も知らずに覚醒剤をもらう人ってそういないから摘発するのは当たり前なんだけど、でもじゃあ、何も知らないでもらっちゃった場合、どうなるか。それでいきなりしょっ引かれてね、逮捕されて、や、自分、何も知らないんですって場合に処罰されるっていうことがいいのかどうかっていう問題なんだよ。
だからこそ、外国も社会的にそうだけども、日本はやっぱり責任能力ってかなり気にするでしょう。で、殺人とかがあると、すぐ責任能力って弁護して問題にするでしょう。そういうとこも、物事がちゃんとわかってなければだめだっていう判断が根底にある。主観面で、その犯罪を認識しているかどうかって、いわれてるの。
それにはそれが『犯罪にあたるか』って、故意っていうんだけど、故意があるかどうかも大事だし、正常な判断ができるかどうか、行動できたのかどうかって、『責任能力』っていうことも問題になるから、ある意味2重の意味で主観を問題にしている。責任能力のほうは、どっちかっていうとね、そんなに厳格にはしていないところがあるんだけど。緩めに認定するようにはするんだけれども。そうは言っても、何かのね、疾患を持ってるってことになった場合には、やっぱりそれは問えない、ということになってしまう。だからご遺族からすれば納得できないよね。」
伊藤:「じゃあこの、一つの準強姦(という犯罪)というよりも、もう体制的にそういうことなんですね。ただ、主観って、被疑者の主観?じゃあ、法律は被疑者のためにある法律なんですかね。」
どうしたら変わるかと尋ねる伊藤さんに対し、担当検事は、ドイツ流の刑法と、アメリカ式へと全面移行しつつあるアメリカ流の刑事訴訟法が並存するという日本のねじれた刑事司法の現場について、以下のように私見を語っている。
検事:「今、日本の司法ってかなり動き始めてるんですよね。特に、刑事司法。裁判員裁判が始まったりとか、(検察・警察の取り調べを)録音、録画したりとか、あるいは司法取引が入ったりとか、徐々に徐々に、全体でアメリカ的に、ぐーっと流れていってる大きな流れがあることは間違いなくて、(日本の)刑事訴訟の世界は、もう全部アメリカの構成を取っているんですよ。
でも、刑法だけは、ドイツ流。大陸法と英米法って全然違うんですよ、法体系が。英米系っていうのは、手続きがものすごい厳しいんです(※筆者注:検事は「アメリカ流」をその一例としてあげている)。例えば、この人が犯人でも、警察の手続きに、証拠収集過程に違法があると、それを証拠を使えなくなるの。分かる?これがアメリカの制度。で、日本もそれ取ってるの。
検事:「例えば、殺人事件で、この人が殺したことに証拠上間違いない人がいて、ただ、決定的な証拠を、捜査官が捜索令状取らないでやっちゃったとする。相手の身体をガサガサ探したりするとかって、それはもう絶対令状ないとできないことなんだけど、怪しいと思ったときに、警察官がちょっといいですかって、所持品見せてくださいって。
嫌だと言われたけど、ポケットにうっすら形があるんでね、なんかナイフらしいの持ってると思って、手突っ込んで取っちゃいましたと。それは、捜索行為にあたるから捜索令状が必要になるんだけど、ところが、もう突っ込んじゃって取っちゃった、これは違法なんですよ。で、これが殺人の唯一の証拠だったとしてもね。そうすると、これで刺しました、血も付いて、跡もあって、こんなの持ってるし、本人も仮に自分ですと言ってたとしても、弁護士は法廷で否認させてね、自分じゃないと。
で、そうなったときに、このナイフを収集したのは違法行為じゃないか、と、なるの。そうなると、この証拠って、排除されちゃう。そうすると、決定的な証拠が何もないでしょ。だから無罪なの。これが、アメリカの考え方。でも、なんでそんな厳しくなってるかっていうと、刑法は緩いから。一応、そういう相関関係があるの。
ドイツは逆で、実態が厳しいの、刑法の世界だと。ただ、手続き関係はそんな厳格になっていないの。どっちかというと、職権的、国家的で。日本はまず始めにドイツの刑法入れたの。で、刑事訴訟法もドイツ的だったんだけど、敗戦になったときに、アメリカ流に一気になった。なので、ここに齟齬が生じて、被害者の人とか、遺族の方から見ると、全部が被疑者よりになっちゃってる。刑法も厳しい、手続き(刑事訴訟法)も厳しい。だからつぎはぎ。これはもう、法律できる人はみんなよく知ってる話なの。(中略)
で、それは、うーん、決めつけちゃうのあれだけど、変えようとするんだけど、弁護士が大反対するの。要するに、(刑法改正って)被疑者にとって不利益な改正になっちゃうから。何度もそういう(議論が)遡上に上がってはいるんですよ。でも最近は、全面改正の話はない。一時期、本当にもうかなり前、刑法を変えるために日本の一流の学者が集まって、その体系変える、みたいの作って、一応案までは出来上がってるんですけど。今も、精神的(に疾患がある)人は措置入院にするとか色々新しい制度を入れてるんだけど、当時はね、やっぱりそういう精神的におかしな状況の人でも責任を問うみたいなね、保安処分って入れようとしたんだけど、やっぱりそれはおかしいっていうふうに弁護士会の大反対をくらって実現しなかったような、ちょっと根深い問題はある」
……本当だろうか?自白の強要や検事による調書の書き換え、冤罪など検察側の問題がたびたび指摘されている日本社会では、到底「被疑者の人権が過度に保障されている」とは思えないが、もしかして、それは主観を供述させることでしか罪に問えないという根幹があるからこそ、証拠の捏造や自白の強要というような事態が発生してきたのだろうか──などと、考えさせられる対話である。
伊藤詩織さんが見向きもしなかった、宝の山──検事録音に映る、日本の司法の問題とは
また、この対話は、100%に近い立証を求める日本刑事司法慣習への矛盾や、現場検事の苦悩が垣間見える吐露でもあり、まさに公開に値する公益性を持つ対話と言えるのではないかと思うような内容でもある。
たとえば、検事が、以下のように吐露する場面がある。
「女性のこういう犯罪については、もうちょっとね、権限というかな、立証のゆとりをね、与えてくれればいいんだけど。とにかく100%立証しろっていうのが刑事事件でしょう?で、要は、あっち方はさ、合理的な疑いを入れることさえ、ちょっとやっちゃえばいいだけの話。そこは、われわれからするとね、非常に難しい問題になってる」
その発言は、99.8%と言われる日本の有罪率の背後にある、検察の慣習の問題点(有罪にできる確信がない限り起訴されず、無罪になる可能性が少しでもあると検事が思うと、被疑者は刑事裁判にかけられない)をありありと投影するものだ。
検事は幾度となく、伊藤さんの視線に寄り添う言葉をかけながら、「しかし」、100%近くまでそれで立証できるかというと、そうではない、という点に言及するのだが、元判事であり法学者の瀬木比呂志氏は、「99.9から99.8%(地裁事件統計)という日本の有罪率は、日本の検察の優秀さを示すものというよりはむしろ、日本の刑事司法の異常さや問題を示すものである」とし、検察官らが置かれている状況を以下のように解説する。
高い有罪率への固執は、本来であれば起訴が相当な事件を不起訴にする弊害も伴い、特に裁判員裁判対象事件については、この弊害を指摘する声が多い。しかし、閉じた組織である検察は、こうした外部の声にはきわめて鈍感であり、無謬性(間違いがないこと)に脅迫的にこだわることをやめられないのである。
また、同氏は、元判事として、刑事司法システムの中の検事の立場、検察官のキャリア・人事評価という観点に、以下のように光をあてている。
日本の刑事司法システムにおいて有罪無罪の別を実質的に決めているのが実際にはまずは検察官であって、裁判官はそれを審査する役割にすぎず、したがって無罪が稀有な例外となってしまっていることにも、大きな問題がある。こういう制度の下では、検察官が恣意的に起訴、不起訴の別を決めることになるために、たとえば強姦や横領等の立証が比較的困難な事案については、検察官は、無罪になる可能性が少しでもあると考えると、立件しない。無罪は検察官のキャリアの失点、汚点になるからだ。
検事から伊藤さんへの説明には、さすがに起訴後に無罪になった場合に検事個人として被るデメリットまでの言及はなく、「個人としてここまで伊藤さんに寄り添いつつも、事案としては不起訴にせざるを得ないことを、苦渋の決断と思っている(ように見える検事)」ですら、そういう構造の中で判断を行っていると考えると、そもそも論として、「刑事司法へのゲートキーパー的存在であるはずの検事が、100パーセントに近いか否かという基準で、事件の起訴・不起訴を振り分けてしまえることは正しいのか?」という問いはふつふつと生まれてくる。
法廷で司法に問う、というのが国民の権利であると考えると、検事が密室で(その思考回路や判断の根拠を社会に開かれた判決文に記すこともなく)、「ほぼ100%有罪にできる」と確信しないケースは刑事裁判化させないという判断をするのがその社会の慣習であるという事実は、社会の公益に適っていると言えるのだろうか──。
そう、ジャーナリスト(志望)であれば、幾つもの観点からも「対話の意味」を考えることができる、本当に盛り沢山な対話なのである。
犯意とは?
また、検事としての実務観点から見た、(当時の)強姦・準強姦・強制わいせつの条文の適切性にも疑問は呈していることも稀少なものだ。
検事:「こういう強制わいせつだの強姦だのという形で起きてくる事件で、被害者の女性の方に、本当にそういう性的な合意とかね、同意がない、もう本心としてそういうのがない事件って、結構、結構って言っちゃなんだけど、相当数あるんですよ。でも、それを起訴できないっていうのも出てくるんだよね。で、それはなぜかと、日本の法律で相手方の故意、犯意を取れっていうことになってるから。相手がどう考えたのかということを、ちゃんと証明しなさいっていうことになってるので、おそらく、その、この手の事件のわれわれ検察サイドのね、一番の難点はそこ。」
「故意・犯意」が何かというと、先ほども説明に出てきた、被疑者側の「認識」の話になる。当時の日本の刑法では、「嫌だ」と女性方が思い、その意思を明確に表示し、男性側がその「意思」を認識した上で、暴力・脅迫と認められる手段を用いてその意思を制圧して性行為を行なったと立証できることが強姦罪の定義(犯罪の構成要件)であった、という背景がある。
つまり、男性方が「(女性はちょっと躊躇っていたけど)消極的な同意をしていると思った」「ちょっと強引だったが、そういうセックスだった(あるでしょ?そういうの)」と言って、裁判官が「さもありなん」と思えば、犯罪の定義に該当しない──ということ。「女性の気持ちをうまく察することができない」と裁判官に理解されるような男性であったり、人の感情に鈍感である方(あるいは、愚鈍であると裁判官に思われる)が、不起訴や無罪を獲得しやすいということであるが、伊藤さんのケースに関して、より詳しい検事の説明は、以下である。
検事:「おそらく、立証できるのは、伊藤さんの意に沿わなかった、それは立証できると。それが直ちに準強姦罪とかね、強姦罪が成立する要素ではないというのが、難点。一番のポイントは、そこで。
要するに犯意を立証しなさいっていうね、主観の問題をね、立証しなさい。しかも、ちゃんと証拠出しなさいって言われてるところが、もう検事からすると極めて難しい問題なの、この事件は。そこが裏付けられない。なんの証拠も持ってきてない。ある程度まで行けるかもしれないけど、ただ、裁判官が合理的な疑いを入れられない程度に、心証形成まではしてくれるだけのものは出ないという感じ。」
伊藤:「何についてですか?」
検事:「犯意について。」
伊藤:「犯意?」
検事:「犯意について。つまり、吐いて、山口がね、伊藤さんの合意なんか得られていないし、伊藤さん自身がそんなことを望んでもいないのに、性的な関係を持つことについて、それわかっていながら、そういう行為に及んだっていう立証。
そこにはね、要するに、2人の主観がここに入ってきちゃうわけ。一つが女性の内心。(もう一つは)その内心を、彼が認識したかどうか。で、女性の内心は立証できるの。こういうふうに思ってました。それは女性が言えばいい話だし、その後、精神的な状態とか、まさに、次の日から仕事へ行けなくなったとかね。病院で精神的なところを相談してますとか、友達にも話してますと。そういうとこで証明はできる。
今度、それが、あの一室の中で本当に正確に山口に伝わったかどうか。で。通常はそこで女性が記憶にあれば、それを話すので、そこが信用できるかどうかって話になると。で、このやりとりが、ずるいことに、もう山口の話しか出ないの。で、山口が平気でうそついちゃえば、うそつける人間だとすると、それを検察がつぶすってことになるの。
それは何をつぶすかというと、こういう証拠があるじゃないのと。だから、あなたが何言ったって、あなたは伊藤さんの本当のね、気持ちを分かってたじゃない、このときに。で、それで、今、言ったみたいに、まだ1回しか会ってないとかね、そういうところを考えて追及してっても、裁判官は、山口が全くそれを認識できなかったという思いは持たないかもしれない。裁判官の判断はわからないかもしれないけど。でも、恐らく、合理的な疑いを入れない程度、つまり100パーセント近くまでその認識があったっていうことを検察側が証明し切れたって判断をするかというと、多分違って、恐らくですけど、疑わしいって話になるの。
疑わしきは被告人の利益にって、そういう法則があるから、犯意は検察は立証し切れてないっていう判断になる。」
ここでも検事は、裁判官と同様の基準(100パーセントかどうか)を起訴判断の基準にしており、それに対して「もう少し、女性のこういう事件に関しては、検事に権限というか、立証のゆとりがあればね」と言っている点も貴重な発言だろう。
しかし、伊藤ジャーナリストは、そうした世に問う価値のある検事の言葉には目もくれず、代わりに著書に引用として記した言葉は、山口氏に対して、検事の抱いた最も私的な感想部分。
この事件は、山口氏が本当に悪いと思います。こんなことをやって、しかも着込んで、社会的にそれなりの組織にいながら、それを逆手にとってあなたの夢に漬け込んだのですから。それだけでも十分に被害に値するし、絶対に許せない男だと思う。(中略)ある意味とんでもない男です。こういうことに手馴れている。他にもやっているのではないかと思います。
そして「それ以外」は、ほぼ以下の一節に押し込まれる。
「日本においては、性犯罪を立証するのはとても難しい(←下線部A)。日本の刑法は被疑者の主観をとても重視する傾向があるのです。当然、被疑者が犯行を認めることは稀なので、『合意の上でした』、と言う。アメリカの刑法では、主観より客観的な事実で起訴が出来る。日本では、客観的な状況だけでは、明らかな有罪だったとしても、被疑者がそれを認めない限り有罪になりにくいのです(←下線部B)。強力な証拠を求められます。たとえば、(犯行現場の)目撃証言か、犯行現場のビデオなど(←下線部C)」。
「第三者が犯行現場を見ているか、その犯行ビデオがないと、準強姦罪の適用は難しい(←下線部D)」と言う説明を、この時そのまま鵜呑みにしてしまった。
しかし、下線部Aは主語違いだし、下線部Bは文脈違い、また検事は「(犯行現場の)目撃証言か、犯行現場のビデオがないと準強姦罪の適用は難しい、有罪にはならない(下線部C, D相当)」などとは、言ってはいない。直接的な供述を被害者ができなくても、外形事実から推認は可能で、ただ、その外形事実が、伊藤氏にだけに有利なものでない(両面的な見方ができてしまう)、というのが説明の肝なのである。
つまり、主語と文脈を無視して言葉を切り貼りした結果、発言者の真意とはあべこべのニュアンスの要約が出来上がってしまっているのである。どうあべこべかというと、あくまで、「客観的な証拠がないから起訴できない」というのが伊藤詩織氏のケースに対する検事の見解であるのに、伊藤要約では、まるで“日本の刑法が被疑者の(山口氏の)主観を重視するものだから、彼が「明らかな有罪だったとしても、被疑者がそれを認めない限り有罪になりにくい」から起訴できない”。“それを覆せるのは、犯行現場の目撃証言やビデオくらいだ”というのが検事の考えであるかのように、読者には見えないか。
もとい、伊藤さんは、検事の言葉から綺麗に一点だけを省いた「記述」をしている。それは、検事が、「女性がその時のことを証言でき、かつその供述に信頼性があることが一番いい」と考えている点、である。それは、「第三者が犯行現場を見ているか、その犯行ビデオがないと、準強姦罪の適用は難しい」というどこから来たのか不明な鉤括弧発言とは相対するものだ。
まとめると、伊藤さんは「検事が求めるものを自分が出せないから不起訴に傾いていく」という事実を隠し、「自分のケース」への検事の見解と、「日本の法律全般への彼の見解」を自己都合で混ぜ合わせることで、論理関係としてはあべこべになる台詞を鉤括弧で創作している、と言わざるを得ない。
“(日本の法律の傾向として)客観的な証拠「しかない」からダメ”なのか、被害者の主張を裏付ける「客観的な証拠」がないから難しい、のか──。
※性暴力にまつわる刑法は2017年・2023年に改正されており、検事が説明している刑法は、現行刑法ではありません。しかし、つい先月、2026年3月には2015年3月に発生した映画監督榊英雄の準強姦事件(懲役8年の実刑判決、現在控訴中)が下りるなど、当時の刑法で裁かれたニュースは今もニュースを流れています。
※検事録音(甲第64号証)は、会話の書き起こしである原文ママだと「えーと、あのー」「えーっと」といった間投詞や口語的な繰り返しが多く、また主語の省略なども手伝ってパッと理解しづらいため、本稿では、主語や目的語を()で適宜補足しつつ、趣旨に忠実に文章を整文しています。
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2015年4月3日11時30分前から翌朝5時50分の時間帯シェラトン都ホテル東京233号室で起こった案件について事実を知る事は、そんなに難しい事では無いのです。なぜだかわかりますか?①被害届を出した当事者と加害者と見做される人物が主張する性行為の時間に、相違がある②被害届を出した当事者は、2015年…