#1:物語の終わりに、事実が始まる。#オープン・ザ・ブラックボックス という要請に応えて
伊藤詩織さんが自らの性被害とその告発を生きた日々を長編ドキュメンタリー化した映画作品『Black Box Diaries』。 振り返れば去年の2月から、私はその映画について、それがどうやって作られ、どのように説明されて流通していったか、という手法の部分について、メディアに寄稿を続けてきた。
一方で、私はその作品の表現の部分を論じることからは、線を引いていた。その理由は、それらについて論じるほどには私は元の事件のことについても、ドキュメンタリーについても知らないと考えていたからだった。そのため、その点に関しては元の事件に詳しいライターやジャーナリストの意見を注視していたのだけれど、その頃、私の「知りたい答え」を教えてくれたと思える記事には、なかなか出会えなかった。この、出会えないから、探しに行った──というのが、私の沼の始まりっちゃ始まり、であった。
逡巡
ところで、私がするりと納得できなかった言葉とはどんなものなのか。
たとえば、防犯カメラの映像は「決定的な証拠ではなかった」から、裁判所に性被害の証拠として認められているものではないから映画にそれを使うのはどうか、という解説は、よくわからなかった。裁判所で証拠として認められていなくとも、監督がそれが表現したいことを効果的に伝えるものであると考えるならば、それを使って何が悪いのだろう?と思ったからである(許諾の有無は別にして、であるけれども)。
また、ドアマンの証言は裁判ではさほど重要視されたものではなかったのにそれがとても重要だったかのように見えるのはどうかという意見も、すっと心には入ってこなかった。たとえその証言が決定的なものでなかったにせよ、伊藤さんの心に与えた影響でそれが大きなものだったからそういう表現になったとすれば、それもまた、表現の選択の結果だろう、と思ったからだ。
(周りの人をもっとよく描くことができたのではというコメントには、それこそ伊藤詩織氏の勝手なのでは……と思ったし…)
事実に忠実ではないものがドキュメンタリーであると言えるのか、という指摘も、それもまた程度問題ではないだろうか、とも思っていた。とめどない現実をどう掬い取って作品化させることがノンフィクション的な編集行為であることを考えると、要素の取捨選択というのは作り手の人間性や価値観に大きく支配される部分であることはいうまでもないが、それはどういうテーマやどんなメッセージのもとに取捨選択を行なっているかに紐づく。何が残り、何は省略されてしまうかも、作品のテーマやメッセージの前には簡単に替わるから。
恣意的な取り扱いがすぎるというなら、それがどれだけ「ありえないほど事実に反しているか」を教えてもらえないと、その、私の分厚い脳皮を貫くくらいわかりやすく言ってくれないと、それもまた表現の選択であるという解釈を退けることはできないように思えたのだ。
それが、ドキュメンタリー制作という行為には疎い、でも現実からノンフィクションを書く、現実からエッセイを書くことの営みの根本を想像できる人間の感想だった。
珠玉の解説たち
一方で、作品制作の観点からその作品を論じる何人かのドキュメンタリー業界関係者の考えはとても納得できるものだった。特に、アークタイムズでの元NHKのプロデューサーである長井暁氏のインタビューは、傑出していたと思う。
また、映画評ではないけれど、文章の論理構成とその表現に感じ入ったのは、杉山弁護士の書いた論評であった。こみいった事象の背景を解説する一つとして弁護士の観点から書かれたその文章の達成は弁護士都合の解説だと一部のSNSでは批判されていたが、私はそれが法律家の実務観点からうまく西廣弁護士の被害を解説していると思っているのではなく、誰もが思っていて言えなかったことを逃げられないほど明確に言語化した文章だと思ったからだ。
先日、伊藤氏に対して性加害をした山口敬之氏に関する「伊藤詩織さんに対して計画的な強姦を行った」「1億円超のスラップ訴訟を伊藤さんに仕掛けた、とことんまで人を暴力で屈服させようとする思い上がったクソ野郎」との投稿は名誉毀損(きそん)にあたらないという結論が、最高裁で確定した。
この結論が出たのは、伊藤氏が西廣氏と共に自らの民事裁判のなかで「伊藤氏が被害者であり、山口氏が加害者である」ということを世に承認させていたからこそ、と言っても過言ではないと思う。
そのため、この映画の公開によって伊藤氏はようやく「名誉」が回復されるわけではない。おそらく、それ以上の「栄誉」のようなものが得られるのだろう。
ドキュメンタリーには実際の映像や資料が用いられるとはいえ、そこに編集の方向性や製作者の意思が入るという意味では、創作的な面も当然ある。伊藤氏には、作中で描き、伝えたかった自分があるだろう。同意と約束に反してでも「伝えたい」と考えることに、エゴがないと言えるだろうか。
なお、私は、エゴがあるから悪いと言っているのではない。ただ、本件は自己防衛のためにやむを得ずといった話ではなく、結局のところ表現によって得ようとした価値があり、それが侵害された価値と対立しているのだろうということを指摘したいのである。
弁護士が“被害者軽視”を「許しがたい」と言う理由(太字は筆者によるもの)
伊藤氏は加害者となることを選択し、海外における映画の公開と成功という果実も享受した。この時点で、両者間の対立は、もう後戻りができないところに立っているのである。
また、(対談をまとめさせてもらったため手前味噌感は出てしまうが)ヤンヨンヒ監督と西山ももこさんの対談も、表層を引っ掻くようなところで止まる議論が多いなかで、とても貴重なものだったと思っている。
私にとって作品に対する解釈はそれで完成していたのだが、それでも、わからない点はあった。
伊藤映画は、「権力に対する告発でもある」「国家と闘った映画でもある」というSNS上の声(解釈)だ。
その解釈は、結局そのやり方が、なぜ倫理的に逸脱しているかという丁寧な議論を根底から覆していくこと、議論の何もかもを無しにするかのように否定することを、私はまた「否定することはできるのだろうか」と考えさせられたからだ。
直接的に隠し撮りしたのは協力者たちだけど、「間接的には」対権力映画なのか?
あるドキュメンタリー監督は、意見を求められ「隠し撮りというのは、犯罪を暴く時や権力に対してしか、してはいけないもの」と述べている(だけど伊藤さんはそれをしてしまっている、と批判する文脈で)。
だが、伊藤詩織さんが描いていることが、“国家権力によって隠蔽された性犯罪の体験(とその後)”というならば、その除外案件に該当するのでは?と思ったからだった。伊藤さんが隠し撮りをしたのは、伊藤さんの民事訴訟に協力した目撃者らであったわけで、その隠し撮りを使って表現しようとしたのが国家によって握りつぶされた性犯罪の体験であるというのなら、間接的には対権力の告発として許容され得る話なのでは……?と思ったからだ。
(仮に協力者らに対して隠し撮りをしていたとしても、映画にする前にそのことを告白し、頭を下げて許可を取る努力をなぜしなかったのだろう、とは思うけれども)
「平和を求め、軍拡を許さない女たちの会」は、同作品に対して発表した文章の一部で、「『Black Box Diaries』は、伊藤詩織氏への甚だしい人権侵害の記録です。」という表現を使っている(※3)。その映画は、人権侵害の記録なのだろうか。伊藤詩織さんという人は、かくも何をしても“絶対的に免責されるほどの被害”を「国家から」被ったのだろうか?
その「問い」に私自身が答えられなければ、私は映画作品の表現の部分を論評することは難しい。
その問いに自分で答えを持てるか
そんなわけで、春先から初夏にかけて、性暴力に関する法律と、日本の司法制度を勉強すること、伊藤詩織さんの裁判記録とあらゆるメディアに散見する事件に関する報道記録をたどることに日々を費やしていた。理由はただ一つで、「伊藤詩織事件とは何だったのか」に、自分自身で答えを持てるようになるため、である。私が知りたい答えはとてもシンプルなものであった。知りたいと思った答えは、
・捜査介入があり、不当に立件されなかった点(の結末、結論的な部分)
・「どんな」事件であったのかの詳細
・(日本の)性暴力の社会史からみて、判決の持っている意味
その三つだった。とてもシンプルなもの。
だが、それは容易ではなかった。というか、それがそこまで難しいということに、キツネにつままれるような気持ちになっていった。あれほど知られている事件で、もう裁判も終わっていて、すべては決着のついている話ではないのだろうか?
当事者ジャーナリストの本と、事件と裁判に関連する過去報道を読み込めば、「私の知りたい答え」は、少なくともその大枠くらいは把握できるだろうと思ったのだけど、それらのアプローチでは、「私の知りたい答え」には、まったく辿り着くことができなかったからである。
パブリックドメインには不思議なものがいろいろあって混乱する
伊藤詩織さんの事件がどのようなものだったか、その純然たる出来事の骨格と社会的な意味を理解しようとトライした場合、真剣に事実を知ろうとすればするほど、人はもれなく霧の中に迷い込む。行かざるを得ない。不同意性交という民事裁判で認定された「一点」の周辺には、その一点を包含する違う物語が、アメーバのように存在するからだ。
例えば伊藤さんは、著書では、初めて警察に相談したのは4月5日だが、被害届を提出したのは4月30日で、その理由は、警察に被害届を出すと捜査が始まるため、その前に山口氏から素直な言葉を引き出しておきたい(言質をとっておきたい、的な)と考えたこと、と記している。そこでは、4月5日に相談に赴いた警察(原宿署)の刑事は「被害届を出して事件化するように」と助言した立場であり、さらにホテルを管轄する高輪署の担当者に伊藤氏が繋がれた後も、初期捜査を行った高輪署の捜査官Aは、こういう事件は難しいと難色を示しこそすれど、「警察は被害届を出されれば、厳しくてもやるべきことはやるのだ。」、受け取る姿勢を伝えたと書かれている(『ブラック・ボックス』117頁)。重要なのは、「彼らが拒否している」のではなく、警察に山口氏が素直に話すとは思えず、被害届を出す前に山口氏の言葉を引き出しておきたいと考えた伊藤氏が、自分の判断で被害届を出すことを、最初に警察に相談してから1ヶ月弱の間ホールドしていたという点だ。
他方、Vogueでは、「私自身も事件の被害届を出して受理されるまでに1カ月かかりました。防犯カメラのビデオという確固たる証拠もあるのに、門前払いされたんです。」と話している(※1)。これではまるで違う事件のよう。少なくとも、伊藤氏を取り巻く社会的な環境は、別物では?
考えてみてほしい。レイプされたと警察に相談した女性の被害届の「受理」を警察が拒否し、1ヶ月も相談に通い続けないと「受理」にも至らない社会と、「被害届を出すなら出して」とすぐに言われており、被害届にサインをした日に「即日受理」がされた社会。
私は揚げ足取りをしたいわけではない。ただ、事実関係をただ理解しようと思って報道記録を読み込み、伊藤著書を読み込み、結果、「伊藤詩織事件とはなんだったのかの事実関係の骨格が掴めた」とは、正直に言ってまったく思えなかったのである。
上記はその例のわずかひとつだけれど、他には、以下のような情報の対立に奇妙な気持ちになった。
日経新聞は、映画に関する論説記事の一部の情報で、「警察は『よくある話だ』と言ってなかなか被害届を受理してくれない。相手が時の首相と懇意のテレビ局のワシントン支局長とわかると一段と腰が引ける。」と記す(※2)。だが、SNS上では、「警察が、被害届の受理を拒んでいたとの摘示事実は、真実であるとは認められない」と裁判の判決文には記してあることを書いておくね、と、判決文の該当箇所写真付きでポストした投稿に遭遇したりするのである。
(ちなみに、判決文の当該箇所は、それ──警察は被害届の受理を拒んでいた──は真実とは認められないけれど、ジャーナリストとして経験も浅ければ犯罪捜査の知識が一般人と比べて豊富にあったわけでもない(本当にそう形容されている)当時の伊藤さんがそう思い込んだとしても無理はないと、情状酌量的に「真実相当性」が認められている。つまり、「事実」から端的に言えば、日経の採択しているナラティブは事実には基づいていないという答えになる。)
……と、今では、ありとあらゆるものをクロスリードしたから、たとえば上記のVogueでの伊藤詩織氏のインタビューと伊藤著書のどちらがファクトに忠実か、日経の論説とSNSの判決文引用投稿という対立する情報はどうか?と判断ができるが、事実関係を理解したいと思ってそれらを眺めていた私はその頃、しょっちゅう「?」という気持ちになったものだから、私は最終的に裁判所に行って、裁判記録を読むことにした、という経緯があった。
物語化されてない、ただの事実ってなんなんだ
私は、裁判所というものに行ったのがそれが初めてだったので、入り口の空港かと思うような手荷物セキュリティーチェックに驚き、弁護士もしくは当事者でなければ資料のコピーはおろかスクショすらできないという不便さに悶絶したが(伊藤さんの裁判資料の量は、10kgの米袋を3つ重ねたほどの量で、広辞苑がずらずら立ち並ぶようなそれの総ページ数は1万ページにのぼるような量であることもそっと言っておきたい。撮影不可なのが誠に残念…!)、しかし、裁判資料は、読む価値があった。その膨大な量の紙の山の片隅に眠るあるたった一本の資料は、その事件がどんな事件だったのか、司法にどのように照らし、なぜ刑事事件としては不起訴だったかを、どんなメディアの解説よりもわかりやすく私に教えてくれたからだ。
そう、どれだけ過去報道を洗っても、伊藤詩織さんのケースに言及をしている性暴力書籍を読んでも私が特定しきれなかった、「私の知りたかったことに対する最も丁寧で、網羅的で、親切な答え」は、たった一本の裁判資料の中に入っていたのである。
そして同時に、なぜ、過去報道をたどっても「私の知りたいこと」がわからなかったのか、事件を理解するための素地として、日本の刑事司法のあれやこれやを理解しようと副読本的に手を伸ばした別の本のページから理解した。
元裁判官で法学者である瀬木比呂志氏は、日本の新聞の司法報道は裁判所からもらった判決要旨の内容をなぞるだけの、非常に表面的なものとなってしまう、と記す。
その理由として、要は日本の司法記者は、司法権力のチェック機構という意識があまりに乏しく、裁判所の考えにチャレンジしたり、批判したりするなどすべきではなく、むしろ裁判所様のお沙汰を正確無比に要約するのが司法記者の務めであると(特に記者らの上司であるデスク等が)考えており、判決に対する識者コメントを記者がとってきても、判決に本質的に批判的なものほど削られてしまうため、日本の司法記者らは判決文の要旨を要約することが実質的な仕事と化している、というものだ(※4)。
そうか、司法記者は、判決文の要約しかニュースにしてくれないから、この資料は報じられなかったのか。
なぜならその資料は、判決文(それだって二百ページ以上あるのだが)の中にはなく、約一万ページに及ぶような膨大な資料の片隅にひっそりとファイリングされているものであったからだ。だけど私は、この資料を知らずして、伊藤映画の表現という取捨選択にまつわる倫理の問題を論じることはほぼ無意味だとすら思う。思うんですね、私は。
だって、それはあまりに重要な情報だったから。
そんなわけで、その裁判資料を活用して、ちょっと毛並みの違う映画考察を書きました。
BBDに関してこれまでと違う光をあてるものになれば、大変幸いで、夏から引き篭もっていた努力が報われる。
集英社新書プラス「それはどんな「対話」を生むか? ──伊藤詩織監督『Black Box Diaries』を考察する〈前編〉」(3.13公開予定)に続く
参考文献:
※1 “No Means No, Yes Means Yes!──伊藤詩織、北原みのり、岸本学、田中俊之と考える「性暴力」。【前編】” Vogue Japan, 2022.02.01
※2 日本経済新聞、「闘う当事者と報道倫理」伊藤詩織監督作品に映るもの、2025.03.06
※3 「平和を求め軍拡を許さない女たちの会 『Black Box Diaries』についての私たちの考えと要望」
※4 瀬木比呂志著、『現代日本人の法意識』
いいなと思ったら応援しよう!
読んで(あるいは鑑賞して)価値があったと思うものにはお金を払うことが、それを存続させる唯一の方法です。古代から。いただいたサポートは持続的な執筆活動の糧と心の励ましにさせていただきます*
グラシアス、マハロ、カムサ、Thank you!


BBCの当該事件のインタビュー記事を読んだ時にも「一体なんの事件の話なのか。違う事件のような様相だ」と思ったのですが、関係者はほかのインタビューでも違う話のような応答をしているんですね。 ぜひ続きを読みたいので応援しています。