#3:「伊藤詩織作品は前代未聞のドキュメンタリー」は本当か──セルフドキュメンタリーという系譜からの一考察
海外では昨年から公開が始まっていた伊藤詩織監督映画作品『Black Box Diaries』の日本公開が年末から始まり、今では日本各地の広範な地域で見られるようになった。不同意か、不正義か、それとも不理解か──当事者によって監督された本作は、何を浮かび上がらせるのだろうか?
本稿では、前回に引き続き、裁判記録に照らし合わせながら、“ダイアリー”だという映像表現を読み解く試みを行っていく。その目的は、事実のチェックリストを片手にその網羅性を問うことにあるのではなく、その取捨選択によって何が実現されたのか、「事実」と、「表現」を行き来することで見える景色を読者と共有することにある。それは、「作品を見て、議論してほしい」という監督の想いに応えることでもあり、同時に、作品だけを見ていてはこぼれ落ちていく議論に光を充てる試みでもある──。連載第3回はセルフドキュメンタリー史の系譜と『Black Box Diaries』の関係性を考察していく。
<※本稿は3/30日週に「後編」として集英社新書プラスサイトに収録される予定ですが、それまでの間こちらに掲載しています>
それは「異例の」セルフドキュか、それとも「王道」か
映像の無許諾問題が賛否両論の批評を巻き起こした本作品だが、あらゆる立場の論評に共通するものは、それが「異例の作品である」「前代未聞の作品構造である」という点ではないだろうか。南カリフォルニア大学映画芸術学科博士課程研究員の中根若恵氏は、朝日新聞の寄稿にて、「ドキュメンタリー映画史上、こうした作品は稀(まれ)です。」と、その例外性を強調(※1)。想田和弘監督や、大島新監督という作品の手法自体には批判を呈した監督らも、「本件の議論を複雑にしているのは、性被害サバイバーである伊藤氏が映画の作り手となり、自らの事件について調査し告発していくという、前代未聞の作品の構造にある」(※2)と、それが当事者によるものであるからこそ議論が難しいと述べている。
しかし、『Black Box Diaries』が「異例のセルフドキュメンタリーである」という捉え方は、そもそも正しいのだろうか。本論考は、そのコンセンサス化した前提に、メスを入れてみたい。
私小説的な「不幸の告白」はセルフドキュメンタリーの“典型的な特徴”
映像評論家の故那田尚史氏は、論考「セルフ・ドキュメンタリーの起源と現在」(2005)のなかで、世界のアマチュア映像の中で、セルフドキュメンタリーという分野がかくも特異的に発達しているのは日本だけであると論じ、またセルフ・ドキュメンタリーというジャンルの作品をステッピングストーンとしてキャリアを築いていくことは珍しくなく、たとえば、「『萌の朱雀』(1996)でカンヌ国際映画祭で日本人初&史上最年少でカメラ・ドール賞(新人監督賞)を受賞し、一躍女流映画監督として時の人となった河瀨直美氏の出世作も、『につつまれて』(両親が離婚し、祖母の幼女となった作者が、まだ見ぬ父を探し出して対面するという父探しの映画)というセルフ・ドキュメンタリーであった」と記している(※3)。
同氏は「鈴木志郎康以降の若い世代によるセルフ・ドキュメンタリーは、タブーを暴露する、不幸を告白するという点において共通項を持っている」と日本のセルフ・ドキュメンタリー史を総括し、「もっとも、この不幸の告白という傾向は、『露悪趣味』とギリギリのところにある。特に90年代以降、ぴあ・フィルム・フェスティバル(PFF)やイメージフォーラム・フェスティバル(IFF)などでこの種のセルフ・ドキュメンタリーが次々と大賞を受賞するようになると、競ってこの分野の作品を若手が作るようになり、一部には受賞を狙うためにわざと身辺の不幸を探し回るような行き過ぎた傾向も現れるようになった。このために暴露趣味的なセルフ・ドキュメンタリーは『不幸自慢』と揶揄される現象が起こってきたのも事実である。」と述べている。
言わずもがなであるが、『Black Box Diaries』で、伊藤詩織監督は、自らのトラウマをめぐる日々を作品化し、日本人のドキュメンタリー監督として初めて米国アカデミー賞(長編ドキュメンタリー部門)にノミネートされた。とすれば、何をもって何を成したかという手法の点も、またそれが新人監督の出世作となったという点においても、それはむしろ「典型的」な成功を収めたと言えるだろう。
にも関わらず、『ブラックボックス・ダイアリーズ』がそれらの作品と同じ文脈では語られず、「異例の作品」とされたのは、作品(の本質)とそのフレーム(の表記)というねじれた関係にあるのだろう。
那田氏は、セルフドキュメンタリーの争点の一つは、真実と虚構(事実と演出)の判別が観客からは不可能なことであるとし、論考内では、「撮影してないことが本当で、後は全部嘘」という衝撃的な言葉──大月奈都子監督によるセルフドキュメンタリー作品『さよなら映画』内で見せられる吐露──を、その性質が凝集させるものとして言及されるが、「被害に遭ったジャーナリスト本人が調査に乗り出した」という表現は、主人公の性質上、暗黙の前提として「ジャーナリスティックな事実抽出の仕方」が担保されているような錯覚を与える。
さらには、わざわざ言いたくないことを、社会の前進のために実名と顔を出して告発したという人物像が社会の中で浸透し、そこに暗黙的に付与される、語り手への「信頼」。さらには、長期政権による政治の私物化疑惑や手続き軽視問題を強く追及されていた時の総理大臣につながる権力者らによる、事件隠蔽“疑惑”と、それを明らかにしようとするジャーナリスト(主人公)という、ナラティブ。また、それがドキュメンタリー作品の中で初めて登場する設定ではなく、その半分は報道によって形作られた「社会が記憶しているもの」であること──。
すなわち、「社会の中に存在している記録」を作品世界の「事実の骨格」として活用していく上に、新しい「未公開映像」を足していくことで、当事者視点での「物語」が表現されていくという構図であり、そこに「社会の記憶」という事実然とした柱が何本もあり、また国会の質疑のような「公然知化した事実」をそこに含むことこそが、伊藤氏の表現行為やその摘出事実は「演出」や「捏造」ではなく、「不幸自慢」や「露悪」と一線を画すところにある正当なものであるという、独特な稀有さをまとうような錯覚を起こさせる力を持つ構図となっている、というわけである。
しかし、社会が共有するその物語の中において、所与の前提化した、「(語り手である)主人公への信頼」(つまり、伊藤氏の事実抽出・表現は公平でフェアな、“ジャーナリスティックなものである”)は、そもそも正しかったのだろうか。
「刑事事件の不透明な対応」は本当か──
文藝春秋社が発刊した『ブラックボックス』とは、伊藤さんが事件とその後経験した捜査や不起訴に至るまでのことを記して伊藤さんが上梓した手記で、そのタイトルは、捜査の過程で、「部屋の中の出来事だから、ブラックボックスになってしまっている」と何度も言われたことと、事件を警察に相談した後、逮捕予定が決まったものの逮捕状が執行されず、その後も検事からなぜ不起訴になるか説明がなく、警察や検察の判断や動きもまた「ブラックボックス」だったことに由来すると、記者会見やメディア取材で説明してきた。
例:
伊藤:“刑事事件として「何がどうなって不起訴になったのか」について、検察から全く教えていただけないんです。嫌疑不十分ということしか聞いていないので、何が不十分で、何が問題だったのかを知りたくて。”
2017年11月26日
結果として、以下のような「報道」や識者解説が、世の中には溢れている。
“伊藤さんは当時、酒に酔って「酩酊」していましたが、刑事事件で山口氏は不起訴になりました。嫌疑不十分の理由が分からないため、伊藤さんは民事裁判での真相究明を求めていました。”
“詩織さんは事件の起訴のため、ありとあらゆる努力を続けましたが、不起訴となってしまいました。不起訴となったため、検察審査会に申立てをしましたが、十分な理由も示されないまま、「不起訴相当」という処分が出てしまったといいます”
性暴力に絡む「司法の古さ」だけでなく、掻き立てたのは「正義」の物語
「刑事事件の時は、説明がなかった」は、伊藤氏の主張の根幹になっているので、非常に重要な点である。例えば、地裁(一審)の判決後の記者会見で、伊藤氏は「やはり刑事事件ではわからなかったことが」「やはり刑事事件ではできなかったことが」と、刑事事件という単語の前には必ず強調・対比語が入るので、“ブラックボックスであった”「刑事事件の処理への不満」を前提に、判断理由を明らかにしてと伊藤氏が常に打ち出していることがわかる一場面だ(伊藤氏の支援団体はオープン・ザ・ブラックボックスと名付けられている)。
しかし、2022年7月、民事裁判の控訴審の終盤に、裁判資料としてひっそりと開示された検察と伊藤詩織さんの録音音声データには、その「物語」の前提を揺らがすような事実が含まれていたことは、ほとんど知られていない。
しかし、その録音音声の書き起こし情報は、そこに朽ち果てているには役不足と言っていいほどの重量を持つ内容なのである。その録音(検事と伊藤詩織さんの面談の隠し録音)の中で、担当検事は、伊藤詩織さんが「確たる証拠」と考えるものではなぜ不十分か、丁寧に解説をするとともに、伊藤さん固有のケースを超え、なぜそういった解釈になるか、付帯知識として日本の法律の特性や過去のケースに渡り、伊藤さんに寄り添いながら非常に丁寧な対話をしているためだ。
一番いいのは、「実際にその対話を読んでみること」と思うので、裁判資料から抜粋する形で、その肉声の対話記録を紹介したい(※4)。ただし、書き起こしは全文で数万字に及び、「あのー」「そのー」「えーと」といったつなぎ言葉を含む口語表現や誤字脱字も多いため、本稿では発言の趣旨を損なわない範囲で読みやすく表現を整え、特に重要な論点に関わる対話部分を中心に抜粋している点にはご留意いただきたい。
検事の肉声からわかること〜伊藤詩織氏の刑事告訴は、なぜ不起訴だったのか〜
伊藤:「今回いろいろ調べて見ていただいた中で、どの証拠といいますか、どこが強かったのか、どのことが弱かったのかっていうのを、具体的に教えていただけたら。」
検事:「伊藤さんが、お酒にかなり酔われていて、また吐いてしまっている状態がある点はプラス(起訴に有利)だよね。ただ、この件ですごく難しい点は、2人が知り合いであるという点です。もし、見ず知らずの関係で、担ぎ込んで連れていくような映像がある場合、部屋の中なんて分からなくても起訴できるんだけど、そうではないという点。あるいは、(面識がある関係でも、こういった経緯で入室したとして)、部屋の中に入って本当に短時間で、入ったとともに姦淫行為が行われて飛び出してきたなら、起訴しやすい。なぜなら、部屋の中の時間がないから、「やりとりが想像する余地」がないから。ところが、入室から時間が経ってしまっていると、やりとりを想像できる余地が生まれてしまう。で、そのやりとりというのが、そこにお酒が入っていると、(実際には)話していたけど(その話をしていた)記憶がないとかが一般的にあり得るから、どうしても、そういうやりとり(同意と認識する)がありましたって(相手方に)言われてしまうと、その可能性が排斥ができない状況になってしまう。やっぱり、決定的にはそこです」
伊藤:「(防犯カメラ映像からは)客観的に見て(自力で)歩けていない、普通の会話ができないだろうと想定されている。でも、そこから例えば1時間で出て来たら、また違う話に?」
検事:「うん、そうだね」
「タクシー運転手の証言やホテルの防犯カメラの映像から伊藤氏が当時『酩酊状態で意識がない』のは初めから明らかでした」(※6)や、「あの夜、伊藤詩織に判断能力がなかったこと、そして彼女が本当に性暴力被害を受けたことを誰もが納得するのに十分なものだ。」(※7)と記すジャーナリストが多い一方、夜11時台の話か、朝方5時の話の意識状態の話をしているか、検事は明確にその2点を分けて捉えていることがわかる。「あの夜」や「当時」は、小説や物語的には有効だが、刑事事件の立証単位としては荒いということなのだろう。
映画にも登場。ホテルまで二人を乗せたタクシー運転手の証言は・・・・
伊藤:「(逮捕状が出て逮捕しますって伺った時は)、私が駅で降りるって言っていたというタクシーの運転手さんの証言と、防犯カメラの映像が大きな点だったと聞いたんですけど、それは?
検事:「所轄の刑事がそういう説明だったと思うんだけど、タクシー運転手の場面ってね、確かに、一つ、(起訴に)有利な方向にも見える証拠。ただ、そこにも二つの問題がある。1個は、いくら入室経緯が証言されても、われわれは、部屋の中のことを立証しなきゃいけないんだ。何が起きたか、どういうやりとりがあったのかっていうとこがポイントなので。
(※筆者注:理由は上述の通り、入室後に時間が経過していることが理由)
検事:要は目の前で犯行が行われていて、目撃者がいたりとか、被害者が、あと、そういうことを体験してる事実だと、それってもう見てる人や、見聞きしてる人がいるじゃないですか。だから、それが直接証拠ということになって。その供述が信用できるかどうかというのが、裁判の証拠関係なんですね。だから、そういうの(直接証拠、目撃証言など)がないってなってくると、間接事実といって、その犯罪事実を推認させる事実。要するに、こういう事実があれば、こういうふうに推測できますねって、こういう立証に変わってくるんですよ。
検事:例えば、分かりやすく言うと、殺人事件とかなってくると、もう被害者がいらっしゃらないじゃないですか。あとは被疑者しかもういなくて、例えば、自分はね、殺すつもりなんか全くなかったと。口論も全くしてなくて、でも誤って刺しちゃったんだとか、あるいは、ここ(殺意はなかったと思えるような場所)を刺そうと思ったんだけどっていう話をしだすわけね。殺意はありませんでしたと。でも、解剖すれば、傷口とかね、刃物の入り方とか、どこ刺したのかっていうのは大体、推測つくんですよ。で、そうすると、その事実を基に、この人は殺意を持ってたんじゃないかという推認ができる。
だから、今回、部屋の中で合意がなくてね、そういう行為が行われたんだっていうことを立証する上では、少なくとも、女性がね、合意はありませんでした、こういうやりとり(経緯)でしたってリアルに話してるのが、一番重要な証拠になってくる。で、それは、その女性の供述が信用できるかどうかポイントになってくるわけね。
で、そこがちょっと無理だってなってくると、今度はいろんな外形事実がいっぱいあるので、そこをとらえる。タクシーから降ろす、無理に降ろすっていうところは、本人は嫌がってんじゃないか、この時点ではっていう推理になる。で、一つの証拠にはなって、プラス要素。だから、特にそこを説明したんだと思う。でも、そうは言っても、部屋に入った後の状態が分からない。で、酔っている状態だっていうのが、準強姦とか準強制わいせつの難しいところ。酔ってるときにどういうやりとりしてたのかっていうところっていうのが、一般的に、推認として、正常な状態じゃないんで、どういう話してるか分かんないっていうのが、一つ、ブラックボックスになっちゃう。
で、もう一個は、タクシー運転手のお話は、実はこんな供述になっているんですね。それまで、こう、後ろでなんか、降りるか降りないかみたいなことをやってたんだけど、最終的にはすごく不自然に、二人が去ってったという話がある。」
伊藤:「不自然?」
検事:「そう。表現的には、それまで、なんかやってたんだけど、意外な感じでというのか、なんか局面が変わったみたいな感じで、ぴっと降りてったって話があるの。で、それが何に結びついちゃうかというと、どうも車の中にね、戻した後、吐瀉物があったらしいんですよ。で、実は運転手は、それを後で見て、すごく怒ったというかね、なんて失礼な客だっていう風に思ったらしいのね。で、要は、運転手さんからすると、これがあったんで、急にパッと出ていっちゃったんじゃないかというようなニュアンスも出ちゃっているの。で、それはこっちからするとね、マイナスなんですよ。つまり、一方ではそういう性的な行為をするために、嫌がってる人を無理やりに降ろしたんじゃないかという風にも言えるんだけど、もう一方では、これは私が(相手の)弁護士だったら、こっちをいうと思うんだけど、吐瀉物があって、彼女のせいにもできないから、無理やり降ろして、引っ張りましたよという主張になる。これはもう、どっちがどっちって話になって。いや、もしかしたら、こっちのつもりでやってるのかもしれないじゃないか、そう言われた瞬間に、この(外形事実の)証拠価値が落ちちゃう。」
その他、「準強姦罪」ではなく、「強姦致傷罪」になる可能性も含めて、検事は捜査検討を行ったことも、対話からわかる。
「通常、この手で強姦致傷になるのって結構、多いんですよ。なので、傷害(※筆者注:怪我のこと)が起きていたら、そこで一つまた立証ができるから、医療機関の診療記録をすべて確認したのだけど」と検事は伊藤さんに伝えていく。
検事:「何か裏がとれないかと。伊藤さんに有利な形で、何か実証できるものがないかっていうことで確認したところ、4月17日にマツシマ病院っていう所に行かれて、そこで検査してもらってるのだけど、そこのカルテには、膣内に傷なしって書いちゃってあるのね。これ13日後で、2週間ぐらいたっちゃったんで消えてるっていう可能性もあることはあるんですが、少なくとも、(怪我が)“ある”という証拠にならないんでね、検察からいくと。」
“致傷”とは、法律用語で「怪我をした」ということである。強姦を目的とした行為によってできた致傷(怪我)があれば、強姦自体は既遂未遂を問わず、「強姦致傷罪」に該当し、また、致傷とは指の跡のような痣や吸引性皮下出血のようなものでも、判例的に認められるという。
伊藤さんは、「あのー、膝がおかしくなってしまって」「膝がものすごく痛かったので(病院に)行ったんですけど」と言葉を挟むが、伊藤さんの言葉は、裏付けができない供述部分として聞き流されている印象である。録音上からはその理由が明らかではないが、民事訴訟の記録と照合させると、整形外科のカルテの受診記録では、初診日は事件前であり、また事件後の受診記録ではレントゲンも取られてはおらず(外傷性の怪我を医師が疑う場合、まずレントゲン検査をするとされる)、医師がその時点で外傷性のケガを疑った様子がないためかと推察できる(民事訴訟では、山口氏サイドから、伊藤さんのカルテの記載を元に、膝の痛みは性交渉とは無関係と述べる医師の意見書が提出された)。
したがって、強姦致傷罪の致傷を構成する「傷害」(怪我)があったと立証できないため、準強姦(行為時に意識がなかったこと、あるいは抗拒不能であったことを被害者が証明しないといけない)を立証しなければならない事案として検討した、と解釈できる。
証拠がこれだけのところで起訴するのって、まず、ないんだよね……
検事は、「伊藤さんの、起訴してもらいたいって気持ちもよくわかるしね。でも恐らく、起訴すると、というよりも、多分、証拠がこれだけのところで起訴するのって、まず、ないんだよね」と、起訴するためになぜ証拠が必要かを、世の中の潮流にも触れながら、説明していく。
検事:「痴漢の事件ってよく報道されるでしょう。あれも私からすると、遭ってるんだと思うんです、被害に。でも、何ていうのかな、証拠がない犯罪なんですよ、あれって。もう女の子の感覚しかない。この人が犯人だって。で、検察はそれでずっとやってきたんですよね。でも、マスコミの人たちとかね、あるいは弁護士の人たちの運動で、おかしいんじゃないかっていうことになってね。で、裁判官が、もう女の子の供述だけでは、有罪にしなくなったんだよね。で、今、何してるかっていうと、捕まえたらすぐ、被疑者の手からDNAを採取してるんですよ。(女の子の衣服の)繊維か、あるいはDNAが出ないかってすぐそれをやるようにして、とにかく物証を詰めるように。それも一つの例です、女の子の話、われわれはそれは信じてるんだけれども、供述の信用性っていうものが、裁判官目線で、もうかなり落ちている、信用性っていうのが。証拠価値というのは、信用性の証拠価値だよね。」
検事:「女性の供述について、つい先だっても大阪でね、再審で無罪が出たのがあるんだけど、それはね、女の子の話に乗っかって起訴したんです。信用性があるってことで。でも、やっぱり、あれ、客観的な証拠が足りなかったんだと思う、基本的に。
伊藤:「客観的な証拠とは?」
検事:「女の子の話とか、そういうのを裏付ける客観的な証拠」
伊藤:「うーん」
<筆者注:10代の親族女性に男性が性暴力を加えたとし、少女に対する強姦罪と強制わいせつ罪で最高裁で懲役12年が確定、服役中であった男性がいたが、(伊藤氏が被害を訴える直前である2014年に)女性が証言は嘘と明かし、実母と疎遠になったことを機に真実を打ち明けようと思い立ったと告白した事件と推察される。少女は、当時は実母からのプレッシャーで虚偽の被害を訴えたと告白し、再捜査になったところ、女性に性的被害の痕跡がないとする(処女膜が破れていない)当時の診療記録が見つかり、地検は男性は釈放、最審で無罪判決が確定。被害者と目撃者の証言という証拠があったとはいえ(兄も実母の顔色を伺って嘘の目撃証言をしていたと吐露)、虚偽を見抜けず6年以上の勾留・服役を強いた事件のこと>
検事:「で、しかも、そもそも、あれは、もう本当のうそって話になったのね。それを女の子が後からそういうふうに言ったもんだから、びっくりしたわけ、みんな。で、そうすると、今後、裁判官の頭に何が起きるかっていうと、やっぱり、供述だけ、話だけっていうのは、ものすごく怖いなっていうのを彼らは思うと。
「抗拒不能」を立証する難しさ──「覚えていない」は薬を盛られたから?検事の指摘したアルコール健忘の可能性
また、検事は、伊藤さんの状態が薬による影響であったかは科学的な検査からしか証明ができないためその筋の立証は不可能であり、会食時の飲酒の影響とすると、直後に警察に駆け込んで血中アルコール濃度の検出ができていれば、酒の残り具合という意味でも立証が可能だが、そうではないこと(伊藤さんは5日後に警察に相談をしている)から、抗拒不能を立証するための証拠がどうしても散逸してしまっている状態であると説明をしている。
検事:「もし薬が入ってるってことが証明できれば、心神喪失とか抗拒不能って立証はもちろん、できるんですけど。でも、それは全然、証拠がないでしょう?で、逆に言うと(薬物の証拠がなく、飲酒による酩酊が要因だと仮定すると)、これぐらいの(飲酒)程度だと、本当に心神喪失ないしね、抗拒不能だったのかどうかっていう、客観的立証も難しい事案になっちゃう。
今度はね、もし、(被疑者の)弁護人から突っ込まれたときに、こちらとして弱くなってくるのが、コップ2杯とグラス2杯で、もう酔っぱらっちゃいましたっていう話だよね、基本的にはね。まあ、ちょっと最終的には酒量も検出できてないから分からないけど。そうなってくると、これぐらいの(飲酒)程度で、本当に心神喪失とか抗拒不能状態になってるんだろうかっていう、そういう疑問が出てきちゃう。
で、検察は、やっぱり、それを実証しなきゃいけなくて。で、それが客観的に立証できるかどうか。それで、普通、あんまり(そこまで)やらないんだけど、専門医の先生にも聞いてみたの。こういう状態って、どういう状態と言えるのかって。薬が入ってるような状態になるのか、あるいは酩酊の度合いが、どれぐらいあるのかどうか。要は、心神喪失とか、抗拒不能状態と言えるかどうか、が要件になるので。専門医から、伊藤さんのタクシーの中やお店の言動からだけでも、何か(起訴にプラスに働く)話が出ないかな?って。でもやっぱり、効果的な答えは出てこなかった。」
さらに、防犯カメラに映っている映像が、性交時に抗拒不能であった立証としてなぜ不十分か、行為の時間が入室時からかなり経過してしまっているという指摘に加え、検事はもう一点の可能性からも説明をしている。
検事:「われわれがよく知っているお酒の例で、お酒を飲んでたからね、記憶にありませんっていう被疑者(罪を疑われている人)が結構、いるんですね。で、裁判官はそれに既視感がある。その人たち(お酒で記憶がないと主張した人たち)は全部有罪になるんですが、なんでかというと、(それを)やっているときは記憶があったのに、起きたあとにはその時の記憶がなくなるということもあるということを、専門家がよく法廷で述べるから。だから、今はそこまでもう立証しなくても、裁判官の頭と法律家の頭がもうそういうふうになっている。そうすると、この案件がこれじゃないかって、弁護側が主張する可能性が出てくる。意味分かる?室内では(行為当時)意識があって、同意を思わせるやりとりがあったのに、例えば、酔っぱらっているからその後、その時の記憶がなくなってるんじゃないか。で、それを主張されたときに検察側がつぶせるかってことになってくるの。」
検事:「(前略)この事件だとね、検察側が立証するハードルがいくつかあって、で、それ(想定される相手方の反論)を今つぶせるだけの証拠がね、どれもないっていう状態になってる。証拠上ね、これは、あくまで。真実が何かっていうのは多分、そこまではね、どの刑事事件でも証明できないの。だから、女性が悔しい思いをするのは、そこなの。真実はこうだったのよ。でも、証拠がないからね、起訴もできないし、あるいは起訴してもね、その後、それは崩れちゃう。
われわれはどうしても、裁判所から証拠で証明しろっていうふうに言われるから、もう証拠を出すしかないの、どんどん。で、刑事事件って、仮に弁護人がこう言ってきたら、じゃあ、どういうふうにそれをつぶすか。こう言ってきたら、どうつぶすか。こう言ってきたら、どうつぶすか。武器がないと、われわれも、なかなか。それでこの事件だと、そういうの(相手方弁護人がするであろう反論)が多分三つ四つぐらい出てきちゃうっていう。率直な話するとね。
そうすると、仮に法廷に持っていって伊藤さんの証人尋問をやってもね、要するに、(入室の)前と後ろだけね、尋問できるのって。(事件後の)精神的なダメージがかなりあった。それはもちろん、カルテとかで証明できる。でも、そこ(=部屋の中で、性行為そのものがどう発生したか)の部分のところが何一つ証拠として、ない。
面談記録には、こんな会話も含まれている。:
検事:おそらくね、これ、(結論に対して)伊藤さんの納得は得られないだろうとは思っている。
伊藤:立証は得られないことに?
検事:起訴できないという現状について。
伊藤:もう起訴はできないんですか。
検事:おそらく、起訴できないと思う。証拠で他に何かが出てくれば別だけどね。かなり、やりつくしてると思うんですよ。最後の切り札が、専門医だったんだよね。何か先生から、有意義な話が出てくるかということだったから。
伊藤:(無言)
検事と伊藤氏の面談は2回から成るが、最後の面談は、不起訴通知が弁護士を通して伊藤氏に告げられる16年7月と同じ月に設けられている。
しかし、伊藤詩織さんは、その約2年後に記者会見を開いて以来、メディアを通しては、「刑事事件として『何がどうなって不起訴になったのか』について、検察から全く教えていただけないんです。嫌疑不十分ということしか聞いていないので、何が不十分で、何が問題だったのかを知りたくて。」(※7)と説明してきたのは、前述に記した通りである。
伊藤監督は、日本公開に際し、「逮捕は直前で止められ、検察にこれまでの証言や証拠 の開示を請求しても、手渡された資料はほとんどが黒塗りで、まさに「ブラックボックス」でした。 それでも自ら調査し、再度集めた証言など、真実の「かけら」をつないだのが本作です。」と説明をした(※8)。
しかし、検察の丁寧な説明に照らし合わせると、むしろ「完成に近い絵」を、粉砕するようにかけら化したことこそが伊藤詩織監督のしたことであり、それこそが彼女の芸術性に思える次第だ。
それは「カメラを持った太宰治の末裔たち」か──
ところで、本稿の序盤で引用した那田氏の論考は、セルフドキュメンタリーという系譜の特徴をどう整理したか覚えているだろうか。日本のセルフドキュメンタリーは、自身の身辺の苦悩をテーマとするものが多い点。そして、それが若い制作者の出世作となる例も多いという点──。
同氏は、世界を見渡しても、セルフドキュメンタリーという分野がかくも特異的に発達しているのは日本だけと分析し、「我々はこれからもカメラを持った志賀直哉や太宰治や葛西善蔵の末裔達を発見していくことになるだろう」と20年前に予見したが、昨年伊藤詩織氏によって公表された時系列資料によると、ドキュメンタリーの制作は、民事訴訟の提起前である2017年の夏に始まっていたことが明らかになった。
資料からは、著書『ブラック・ボックス』の紹介を兼ねて伊藤氏が外国人記者クラブで記者会見を行った時点(2017年10月24日)では、BBDチームによる撮影のほか、BBCによる密着ドキュメンタリーの撮影もあわせて走っていたことがわかる。
2016年7月に検察による上記のような説明を経て不起訴とされた後、警察や検察の対応はブラックボックスだったと、ジャーナリストとして記したという著書を出版し、当事者として民事訴訟を行うという社会の記憶を積み重ねた後に、最終的に、そのすべてをセルフドキュメンタリー化し、長編ドキュメンタリーとして日本初の米アカデミー賞のノミネート作品とまでなった同作品を、彼ならなんと評しただろうか。
残念ながら、2022年に他界している。
だが、那田氏の考察は、20年の時を経て、現代に重要な光を投げかける。
「記録映画の宿命として、どこまでが事実でどこまでが虚構かは観客には判別することが不可能であり、その真相は作り手にしか分からない」──。
『BlackBoxDiaries』は、果たして「前代未聞の」セルフドキュメンタリーだったのか。それとも、王道的なセルフドキュメンタリーだったのか──。
参照文献:
※1 「ドキュメンタリー、力強さと危うさと 映画『Black Box Diaries』から考える」『朝日新聞』2025年4月3日
※2 想田和弘「ドキュメンタリー映画と倫理的責任 性被害サバイバーでも映画監督として免責されない」『週刊金曜日』2025年3月26日
※3 那田尚史 「セルフ・ドキュメンタリーの起源と現在」『YIDFF DoxBox#26』
※4 伊藤詩織・山口敬之裁判資料 「甲第64号証」
※5 木村正人「『酩酊状態で意識がない伊藤詩織さんの同意がないまま性行為に及んだ』元TBS記者の不法行為に賠償命令」『YAHOO!ニュース』2019年12月18日
※6 レジス・アルノー 「海外記者が考える『伊藤詩織映画』争点の落とし所」『東洋経済ONLINE』、2025年3月12日
※7 「もしレイプ被害にあったら…伊藤詩織さんに聞く、せめて知っておきたいこと」『女子SPA!』 2017年11月26日
※8 「当事者として語ること 『Black Box Diaries』監督ステートメント」
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丁寧な考察ありがとうございます。私は、2015年4月4日の未明に伊藤さんが山口敬之氏から「君は合格だよ」のお墨付きをもらったと思ったのに、TBSのプロデューサー採用には正式な面接あ必要だとメールで告げられて「くそ爺、ワシントン支局長なら、正式面接無しでプロデューサーに採用しろよ、これじゃ…