#8. 連載最終回──故意の立証
私とBBDの経緯
昨年2月──伊藤詩織さんの映画が米アカデミー賞にノミネートされていたのに日本での上映は未定として議論が白熱していた頃、私は同作品が海外でどのような説明の上に流通をしているかに焦点を置いて作品を論じていた。
なぜなら、「海外では高い評価」という1行は、その作品を語る上で、どんな記事であっても外せない必須の情報となっていたからだ。別にそのことがおかしいと言っているのではない、その到達点の高さ、稀有さを考えれば、それは当然必要な情報だ。
しかし、評価とは「どのようにそれが得られたものか」という透明性を含めて評価の意味は存在する。仮に、「欧米社会ではこれは許容される行為である」と監督が考えているならば、「なぜ」そのことを海外のインタビューで、隠してきたのか。(あるいは「お茶を濁して」きたのか?少なくとも、2025年の1月まで)。
それこそを問いたいと思っていたのは、結局はその作品は、海外での強固な評価という後押しがなければこういった議論化すらしていないと思ったからだ。なぜそれだけその作品の「是否」が騒がれるか、是の要素として、日本人のドキュメンタリー作品として未達の領域である「米アカデミー賞候補」にまでそれがあがっているという点を外せるわけがない。これがもし、国内の単館で公開された作品で、地元で論争を呼んでいる程度なら、こんな注目はされるわけがない。そして、この事象をここまで読み解く価値があるのも、それが社会的にどれほどの存在感を持って刻まれた作品であるかという前提事実を外しては、説明などできないように。国際的な評価という点が作品を位置付ける一つの社会的な情報と化しているからこそ、その評価のメイキングが問われるのは、当然のこと。
そんなわけで当時は映画チームの宣伝や流通の手法という部分にフォーカスし、「表現の中身」とはやや異なる違う部分から作品を論じていたのだが、私が中身の部分──特に防犯カメラと捜査官Aの音声について──を論じることから線を引いていたのは、それについて論じるほどには私は元の事件のことを十分に知らないと思っていたからだった。……という話は、#1でした通り。
そんな理解状態であった私が裁判記録に手を伸ばしたのは、今年の5月、出版社からこのテーマで本を書かないかという話があったからであった。本一冊書くのであれば、さすがに作品の中身に触れずに書いても、意味があるものにはならないだろうと思ってのことだった。
その頃、そこに何かくすぶるようなものがあるのではという見当などを持っていたわけではなく、単に事件の論争点やその判決が社会的にどんな意味を持っていたのかを理解し(どんな意味を持っていたのか、というのは伊藤氏が性被害を実名顔出しで告発した初めての女性ではないということは、少し調べればすぐにわかる話であったため。では伊藤氏の性被害・告発行為とは社会史的にどう位置づけられるのか、という理解が必要と考えたので)、こういう事件であったと臆さず語れるようになるという目的でしかなかったのだが、裁判記録を読み込むうちに、映画の話と元の事件の話は、もしかして「同じこと」なのではないか、と思え始めていた。
「壁の形」が 違うだけ
同じことというのは、「壁となるものの形」が変わっただけ、だったのではないかということだ。壁とは、自分からは見えない視界にある事実や情報を、人は判断材料にすることはできない、ということだ。そして、「壁」が何でできているのか、ということ。
事件の時、壁はプライバシーと裁判所の地理的な壁だった(検事は、たとえ憤慨したとしても、個別の事件に対して公にコメントをすることをしなかった。また東京地裁に行かねば検事の説明音声の書き起こしは見ることができない)。
映画の時、それは上映を先行させた海外と日本の言語的障壁や、地理的な遠さだった。どちらも伊藤氏の迫真の「語り」だけが、その壁を超越することができた。
① 自分の事件を、どう「ジャーナリストとして」世の中に伝えたか
② 性被害とその告発を生きた日々のことを、「ドキュメンタリー監督として」どう作品化させたか。
③ 映画作品を、どう説明したか。(映画のPRとして/映画監督として)
3つのことを、「ジャーナリストとして」、あるいは「ドキュメンタリー監督として」、あるいは「宣伝する立場だから」と、その都度の立場的な肩書を考慮して論じたり、それぞれを別々に語る意味はないと思う。その本質は、いつもとてもよく似ているからだ。
映画がワールドプレミア(世界へのお披露目)を迎えてから、伊藤監督は、数々の海外のインタビューで、「なぜ日本では上映予定がないのか」について質問を受け、「それくらい日本で性暴力のテーマについて語ることは難しい」「依然として政治的にセンシティブなトピックだから、映画館や配給会社はリスクを恐れて上映できない」などと、文化や社会の問題として説明を繰り返してきた。(参照)
作品の抱える問題について出演者の許諾や権利処理の問題には一切言及せず、女性差別の文化と性暴力に関する議論をタブーとする社会の問題、政治的に「その事件がセンシティブである」という影響に偏った説明に始終する監督の姿は、映画内で、事件が不起訴となった司法解釈に触れず、権力による捜査介入と総理大臣の絡んだ隠蔽の可能性だけで作品を描く姿に、重なって見える。そして、元をたどれば、検事から丹念な説明を受けているにも関わらず、「検察からは何も教えてもらえない」と言い切ってきた姿とも。
そこから言えることは、その話者は、自分に都合の悪い事象固有性を、一般論(文化的特徴や、実在する社会問題)による説明ですり替えることがある、ということだ。
「不起訴の理由を教えてもらえない」は、その最たる例だろう。それは日本社会で一般的な問題であるため、そう嘆いてみせれば「然もありなん」と受け入れられるが、それは実際には、伊藤詩織さんのケースに存在した問題ではなかったことは、伊藤詩織さんが録音(のちに裁判所へ提出)した音声記録から、明らかである。
「検証しない」をオリエンタリズムと笑えるか
映画が日本で上映されない理由について、伊藤氏の説明が日本語圏と英語圏で異なるという検証的な提起が記者会見で俎上にあげられてからもなお、伊藤監督の言葉に決して疑問符を投げることをしないBBCやニューヨークタイムズには、国内ではオリエンタリズムという批判の声が上がった。
しかし、それを日本社会は、冷笑できるのだろうか?
「真実はここにある」と銘打ち、ノンフィクション本として出された『BlackBox』(2017刊行)は、自由報道協会の大賞を授与されたが、それがいつかというと、2018年である。2018年とは、まだ民事裁判の一審の判決すら出る前のことだ。検事録音が明らかになったのは控訴審(高裁)でのことであり、2018年の当時は私がしたような分析は不可能だったであろうが、係争中の事件に関して、なぜそれが自由報道協会の大賞に値すると判断できたのだろうか。
ところで、受賞の数年後、22年に高裁が当該書籍をどう評価したのかというと(伊藤氏の書籍上の記述ら二十数箇所は虚偽であり、名誉毀損・プライバシーの侵害であるとした山口氏の反訴を受けて)、その判決文の中には「不法行為は成立しない」と判断しながらも、山口氏が争点とした記述・表現について、「正確さを欠いていると言わざるを得ない」「真実とは認められない」と述べる評価が点在する*(いずれも私の指摘した検察の対応に関する要約・描写に関するものではなく、山口氏の指摘した別の箇所について)。
*補足メモ
「正確さを欠いていると言わざるを得ない」と記されたのは、「ぐったりして抱えられていく私」「足が地についておらず」「前のめりのまま、力なく引きずられ」と記されたホテルの防犯カメラ映像に映る様子であるが、判決文は、「正確さを欠いていると言わざるを得ない」ものの、「介助を得ることなく単独で歩行することができないとの趣旨を表現したもの)として,許容限度を超えて不相当に誇張されているまでは認められない」「その重要な部分について真実であると認められる」とし、よって不法行為にはあたらないとしている。(控訴審判決文122〜123頁)
また、山口氏が挙げた警察が当初被害届の受理を拒んでいたという点は、「真実とは認められない」が、伊藤さんがジャーナリストとしての経験も知識もさほど持っていたとは言い難いため、そう誤解したとしてもやむを得ないとして、真実相当性(真実とは認められないけれど、真実と思い込む状況下にあった)が認められている(控訴審判決文91頁)。
つまり、その著書のファクトレポーティング性については揺らぎの大きな書籍に、そぐわない栄誉が早期に与えられた格好であることが後からわかっている本、ということだ。
しかし、伊藤さんは自由報道協会大賞を剥奪されたわけでも、返上したわけでもない。むしろ、裁判所がその書籍をそう評価したことなど、社会の誰が知っているだろうか。
メディアは、「伊藤詩織さん、主張に公益性認められる」「デートレイプドラッグの使用は認められず」というような、判決要旨の抜粋を多く出したものの、「伊藤著書、一部記述に正確さを欠くと裁判所に指摘」などという新聞やテレビのマスコミ報道など、私は見かけたことがない。
そして、伊藤さんのプロフィール文章(英語)によれば、その本は、自由報道協会の“ベストジャーナリズム賞”を受賞と記され(自由報道協会の大賞が、ベストジャーナリズム賞というべきものなのかはわからないが)、10ヶ国語に訳されていると綴られている。海外からすると、国内でそのような評価を正面から受けた、当事者ジャーナリストによる“ノンフィクション本”という「事実」は、「ジャーナリスト 伊藤詩織」の与信を支えるブロックの一つとなっていることは明らかだろう。
ところで、自由報道協会は、受賞の理由を、「被害体験や犯罪告発ではなく、性犯罪を取り巻く司法の問題などをジャーナリズムの手法で掘り下げ、提言している点で社会的広がりと意味のある作品に仕上がっている。一般投票において伊藤氏の作品に対する票が9割を超えていたことが、なによりそれを物語っている。」という理由を書き記している。
なるほど、一般投票という「大衆の評価」(リテラシーの低いオーディエンスの支持)という結果をもって、賞というお墨付きが与えられ、その箔によって、いつしかそこにある行為が実態とかけ離れたもののように装飾され、その額縁とともに世界へ輸出されていく──という流れは、映画作品がたどった道に、よく似ている。
故意の立証
ところで、書籍『BlackBox』は2層の技術的なレイヤーから織られている本であることも、その評価を分かれさせる理由の大きな一つであると思う。一つは伊藤氏固有の体験をストーリー形式で綴っていく部分で、いわゆるノンフィクションライターとしてのストーリーテリングの技術が活用される部分。そしてもう一層は、伊藤氏の体験に呼応する形で、日本社会に前例として存在する強姦判決や、比較制度論としての海外事例が広範に横展開される形でインサートされていく、いわゆる研究者的な能力が必要とされるレイヤーの二層である。
土台となるストーリーテリングの部分は「ジャーナリストとしての体験事実の抽出の正確性」が問われる部分だが、そこに関して言えば、その本は事実伝達性が高いとも、読者に「客観的に情報を差し出す姿勢で記されたもの」とも言えないだろう。(理由は#3〜#7回にて議論)
しかし、当該書籍に埋め込まれている研究者的な仕事の層を評価すれば、個人の体験に対していかに関連情報を肉付けしていったかというリサーチャーとしての仕事の華麗さは見事なものであるため(それは優秀なブレーンがいる場合、外付けしやすい要素であるが)、大前提の事実抽出部分──伊藤詩織さんの体験としてのストーリーテリングの部分──における不誠実さを知らなければ、同書を「社会的広がりと意味のある作品に仕上がっている」(自由報道協会の選評)と評価する人がいることも理解できる、のである。
それは言わば、“私の出来事”を「社会の問題化」する仕立てに長けた、世論を喚起する「瞬発的な告発力のある本」か、「検証に耐えられる本か」、という違いであるが──アクティビズムとしてよくできた本だったとしても、事実伝達性の質は乏しく、恣意的なストーリーの打ち出しの上に、社会問題という豊かな果実の房が取り付けられた場合──その「巧みな化粧」は、ジャーナリズムの根幹が空洞化した上であっても、「ジャーナリズムの評価」に値するのだろうか?
皮肉にも、伊藤さんに「無いもの」にされた検事の声──「わかっていて、やったか」。つまり、山口氏の故意を証拠で立証できるかが問題だ──と伊藤さんに丁寧に説明を重ねる検事の説明は、その抽象的な意味で、伊藤さんを照らすように見えるのである。
検事:「おそらく、立証できるのは、伊藤さんの意に沿わなかった、それは立証できると。それが直ちに準強姦罪とかね、強姦罪が成立する要素ではないというのが、難点。一番のポイントは、そこで。要するに「犯意」を立証しなさいっていうね、主観の問題をね、立証しなさい。しかも、ちゃんと証拠出しなさいって言われてるところが、もう検事からすると極めて難しい問題なの、この事件は。そこが裏付けられない。なんの証拠も持ってきてない。ある程度まで行けるかもしれないけど、ただ、裁判官が合理的な疑いを入れられない程度に、心証形成まではしてくれるだけのものは出ないという感じ。」
伊藤:「何についてですか?」
検事:「犯意について。」
伊藤:「犯意?」
検事:「犯意について。つまり、吐いて、山口がね、伊藤さんの合意なんか得られていないし、伊藤さん自身がそんなことを望んでもいないのに、性的な関係を持つことについて、それわかっていながら、そういう行為に及んだっていう立証。そこにはね、要するに、2人の主観がここに入ってきちゃうわけ。一つが女性の内心。(もうひとつは)、その内心を、彼が認識したかどうか。で、女性の内心は立証できるの。こういうふうに思ってました。それは女性が言えばいい話だし、その後、精神的な状態とか、まさに、次の日から仕事へ行けなくなったとかね。病院で精神的なところを相談してますとか、友達にも話してますと。そういうとこで証明はできる。今度、それが、あの一室の中で本当に正確に山口に伝わったかどうか。で。通常はそこで女性が記憶にあれば、それを話すので、そこが信用できるかどうかって話になると。で、このやりとりが、ずるいことに、(このケースでは)もう山口の話しか出ないの。で、山口が平気でうそついちゃえば、うそつける人間だとすると、それを検察がつぶすってことになるの。それは何をつぶすかというと、こういう証拠があるじゃないのと。だから、あなたが何言ったって、あなたは伊藤さんの本当のね、気持ちを分かってたじゃない、このときに、って」
(だが、そこでのやりとりが伊藤氏側に記憶がないと詰めるのに限界があり、女性の意思に反しているという認識が被疑者側にあったということを検察側が証明し切れたか疑わしいという結果になってしまう、と検事は説明している)
“わかっていながら、そういう行為に及んだ”を裏付ける証拠が出せるかが、故意の立証ができるかどうかだと検事は説明するのだが、故意の有無が争点となるのは、不同意性交だけでなく、情報撹乱における行為の解釈でも同様である。EU議会が2017年に発行し、広く世界の共通認識となったレポートによれば、情報撹乱を起こす“有害な情報”は「ミスインフォメーション」「ディスインフォメーション」「マルインフォメーション」に分けられ、それらを分けるのは、「故意」と「悪意」の有無と定義されている。
ミスインフォメーションとは、誤りではあるが、勘違いや誤解によって拡散される誤情報(つまり意図的でない誤情報)。
そして、意識的・意図的に作られた虚偽の情報は、ディスインフォメーションと定義される。
さらに、悪意を持って、害を与えるために流布された情報──言葉の切り取りやヘイトスピーチ、ハラスメントなど(その為情報自体は事実であることも、そうでないこともある)──は、マルインフォメーションである、と。
(発行者:総務省 情報流通行政局 情報流通振興課 15頁)
つまり、伊藤さんの性被害事件に関して、「不起訴の理由は明らかにされていません」や、「十分な捜査は行われず」「十分な理由も示されないまま、『不起訴相当』という処分が出てしまったといいます」という報道や本(※伊藤著書ではなく、伊藤さんのケースに言及する第三者による書籍等を指す)に散見する情報は、伊藤詩織さんという情報源を信じた結果のミスインフォメーション(誤情報)であるが、伊藤さんがメディアを通して口頭で広く流布した「検察からは何も教えてもらえなかった」という言葉は、実際には、不起訴判断の理由について丁寧な説明を受けていた事実と突合させると、ディスインフォメーション(ないしはマルインフォメーション←山口氏あるいは熊澤検事の視点に立てば)に該当するのではないか、ということだ。
実際には説明があり、伊藤さんがそれに対する理解を示す音声記録が残っていること、また伊藤さん自身が検察審査会への申立てや著書の執筆にあたって警察と検察との膨大なやりとりの書き起こしをすべて整理したと発言している事実と突合させると、伊藤詩織さんが、それを「認識していた」という、本来は難しいとされる「人の認知の立証に必要な素材」が、そこにあるためである。
「大義」(性暴力に理解のない日本社会を変えなければならない)の中にある手法の「倫理的逸脱」は、許されるべきか。
その構図とその問いは、映画の時の、「良きこと」のなかでなかったことにされる問題は許されるべきか、と似ている。
まあ、最も私が映画が「良きこと」と思っているかというと、それは純粋な映画評である第2回・3回原稿で論じた通り、ではありますが。<了>
終わりに
・本連載はこれにて終わりです。無心を保つためSNSでの宣伝などもせずに淡々とupしてきましたが、サポートやメッセージを送って励ましてくださった方々、大変心の支えになりました。
・映画の公開に合わせてここまで世の中に今出しておきたいと思った部分を公開しましたが、本連載は書籍原稿の一部を先んじて切り出したものです。書籍の進捗状況に関しては、theLetterのニュースレターで状況をお届けしていくので、よければ登録をお願いします(無料)。
・本連載は検証性が高いため、調査報道として媒体にスポンサーしてもらいながらの執筆活動ができればよかったなと今は(深く)思うのですが、当時はそういう頭もなかった&ここまで難しい話になると思っていなかったため、いつの間にか採算性は度外視しての沼仕事となってしまいました。内容に公益性を見出し、寄付で応援したいと思ってくださる方はnoteのチップ機能などで活動をサポートいただけると嬉しいです。
・筆者は宣伝とSNSが苦手です。本連載のうち1回でもSNSで紹介・シェアなどしていただけると、経済的支援以上に大きな精神的なサポートになります。m(__)m
連載バックナンバー『BlackBoxDiariesとはなんだったのか』
・#0 書くことの喜びは書くこと以外で削られていく
・#1 物語の終わりに、事実が始まる。
#オープンザブラックボックス という要請に応えて
・#2 「評価の違いは文化の違い」は本当か──
米国ドキュメンタリー業界からの一考察
・#3 「BBDは前代未聞のドキュメンタリー」は本当か──
セルフドキュメンタリーという系譜からの一考察
・#4 伊藤詩織さんと検事の対話音声が時を超えて明らかにする事──
「逮捕が取り消され、刑事司法に問えなかった」のか?
・#5 「不起訴の理由」をジャーナリスト伊藤詩織氏が隠した理由
・#6 「被疑者の主観はなぜ重要?」性暴力を日本の刑法はどう裁くか
・#7 彼女が招いた「誹謗中傷」──作為とその余波──
・#8←今ここ
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グラシアス、マハロ、カムサ、Thank you!


素晴らしい記事をありがとうございました。本件について感じていたことが全て明瞭になり、そして彼女が最大限利用したナラティブの力を改めて感じもしました。司法報道の稚拙さは弁護士などの法曹も補わなくてはと思いますが、当事者には守秘義務があり、また裁判記録までみて発信する者はなかなかおり…