「暑い……」
梅雨が明けた途端に、夏が本気を出してきたらしい。
商店街から家までの帰路、慣れた道がいつもよりも遠く感じられるほど、容赦ない暑さにへろへろになっているのを自覚する。
強い日差しとアスファルトの照り返しはぐんぐんと体温を上昇させ、まさに文字通り、滝のような汗が滴っていく。
「はっ!8月も始まったばかりだと言うのに、もう泣き言とはな」
すぐ隣、せせら笑いととともに頭上から降ってきた台詞にムッとして顔を向ければ、汗一つ掻いていない澄ました横顔がそこにあった。
「……なんでアンタ、んなに涼しそうなんだよ?」
歯噛みしながら睨みつける俺に、呆れ顔でアーチャーはのたまった。
「私はサーヴァントだぞ。この身は魔力で編まれたものだ。その気になれば、環境に合わせて代謝を制御することなど容易い……いや、そもそも、魔術師ならば自分の肉体の制御は基本中の基本ではなかったか?」
アーチャーの指摘に、むぐ、と思わず喉が詰まったような音が出てしまう。
こんな時だけ勘の良い奴は、それだけですぐに察したらしい。
ははーんと半目になった顔は、すぐにニンマリと人の悪い笑みを形作った。
「そういえば、我がマスター氏は強化と投影しかできないんだったな。いや、すまん。私とした事が失念していたよ」
こればっかりは言い訳することでもないので、口を尖らせながらも認める。
「へっぽこで悪かったな!どうせ俺は半人前だよ!
でもな、俺がこうだってことは、これ、お前だって通ってきた道なんだからな!」
せめてもの反論にと返した言葉に、アーチャーは何やら思う所があったようだ。
「……」
考え込むように黙り込んだ。
「アーチャー?」
「……確かにな。オレも生前、海を渡ってしばらくは気候の変化に苦労したものだ。すっかり忘れていたな……」
俺の言葉が呼び水になったらしい。
アーチャーは、自身の過去に関連する事柄をいくつか思い出したようだった。
生前の記憶なぞ摩耗しきった、が口癖のこいつがこんな風に過去を語るのは珍しい。
しかも、かつての未熟な自分を卑下するでなく、懐古するように目を細める姿に頬が緩む。
俺は、この暑さにほんのちょっぴりだけ感謝する事にした。
ただのエゴだと分かっているけれど、共にある今だけは、僅かでもこいつに人間らしく過ごして欲しいと密かに望んでいるのだ。
それは、こんな何気ないやり取りや、生活に関わる雑事など、ごくごく些細な日常の積み重ねでいい。
そして、今も。
食材と日用品の買い出しに、こうして連れ立って行くのも日課となった日々。
他愛のないじゃれあいのような会話も、剣呑な喧嘩じみた応酬も、時折こいつが見せるようになった険のない表情も、何もかもが貴重な得難い瞬間だと噛み締めて、過ぎてゆく毎日を思う。
そして、ほんのかけらでも、この男の中に何かを残せたらいいと願ってしまうのだった。
──とはいえ、やはり暑いものは暑い!
ぽたぽたと足元に落ちる汗を見ながら、このまま溶けて無くなってしまいそうだ、と馬鹿な事を考え始めてしまう。
不意に頭上に影が差した。
え、と思って見上げれば、大きな黒い蝙蝠傘が太陽を遮ってくれていた。
「生憎、小洒落た日傘などはストックになくてな。だが、直射日光を避けるだけでも多少は和らぐはずだ」
どうやら、日傘がわりの傘を投影してくれたってことらしい。
つまり、奴のあの荒野にはこんなものまであるってことなのか?いや、もしかしたら、他の日用雑貨なんかも?
まあ、こいつならあり得るかもしれない……。
無数に突き立つ有名無銘な剣たちの傍らに、積み重ねられ蓄積されていく、どこか場違いな日用品たちを思わず想像してしまう。
それは、物にあふれたあの土蔵を俺に連想させた。
ガラクタばかりの雑然としたあの場所が、それでも俺は好きだった。
おそらくは、こいつも。
いや、いまはそれよりも、こんなふうに俺を気遣ってくれるこの男の行動を素直に喜ぼう。
「ありがとうな、アーチャー。助かる」
なので、ストレートに感謝を伝えた。
「!」
アーチャーは一瞬だけ面食らったように目を丸くすると、すぐに顔を逸らして俺を置いて歩き出した。
俺の手から荷物を奪い、代わりに傘を押しつけて。
今度は俺がぽかんとする番だった。
肩を怒らせるように両手に荷物を掲げ、早足で歩いて行く背中を眺める。
これってもしかして──?
「何してる?さっさと戻るぞ!」
アーチャーは俺が立ち止まっている事に気づくと、足を止めて肩越しに振り返った。
その顔が嫌そうに歪む。
「貴様、何をニヤついてる?気持ち悪いぞ」
「え?あれ、そうか?」
どうやら無意識に顔に出ていたらしい。
「そういうお前こそ、なんか顔赤くないか?らしくない事したんで、照れてるんだろ?」
「ばっ!こ、これは暑いからで……」
「サーヴァントは代謝をコントロールできるんじゃなかったっけ?」
今度はアーチャーが詰まる番だ。
むぐぐ、と反論できず悔しそうに唸っているアーチャーに追いつくと、横に並ぶ。
「なあ、アーチャー」
「なんだ!」
「暑いんで、早く帰ろうぜ!」
ニヤリと笑いかけると、早足で抜き去る。
「貴様……!」
アーチャーを置き去りに、傘を担いで帰路を歩く俺の足取りはいつしか軽くなっていた。
暑いし、汗は相変わらず止まらないけれど、いまは少しだけそれを楽しむ余裕がある。
「士郎!」
呼びかけに振り返ると、予想に反して静かな顔をしたアーチャーがこちらを見ていた。
「今夜から鍛錬の項目を増やすぞ。主に肉体の制御に関する魔術だ。まだ早いかと後回しにしていたが、いずれにしろ必要になるのなら早いも遅いもないだろう」
「アーチャー……」
「これに関しては凛よりも私の方が適任だろう。彼女は優秀過ぎて、こういった基礎さえできない落ちこぼれの指導には荷が勝ち過ぎる」
「落ちこぼれ」
「異論が?」
「……ないです」
俺の返事に満足げに頷くと、アーチャーは再び歩き出した。
横に並ぶのを待って、俺も歩き出す。
日差しはまだ高く強い。
足元に落ちる傘の影も、隣を歩くアーチャーの影も短く濃い。
この暑さはまだまだ当分続くだろう。
それさえも積み重ねる日常の一つとして、こいつと共に過ごしていきたいと、改めてそう思った。
END