アニメ『グノーシア』ラストの「不敵な笑み」は何を意味するのか?ゲームとの違いが生むメタフィクション構造

ニヤリと微笑むのは視聴者に向けて、か

※購入先へのリンクにはアフィリエイトタグが含まれており、そちらの購入先での販売や会員の成約などからの収益化を行う場合はあります。 詳しくはプライバシーポリシーを確認してください

※この記事にはゲームおよびアニメ『グノーシア』のネタバレが含まれる。

TVアニメ『グノーシア』が最終回を迎えた。筆者は原作ゲームのファンなのだが、どうしてもひとつ気になっていたことがあった。

ゲーム版『グノーシア』の特徴として重要なのが、「ビデオゲームでしか描けないラストシーン」である。それゆえに素晴らしい作品といえるのに、それをアニメにするとはどういうことなのか。

アニメ版『グノーシア』。画像はアニプレックスYoutubeチャンネルよりキャプチャー

ついにその答えが得られたわけだが、結論からいえばアニメもゲームと同じような収束の仕方をしている。ただし、「ビデオゲームを映像化するとはどういうことなのか」と示すような内容になったのが興味深い。

改めて書くが、この記事にはゲームおよびアニメ版『グノーシア』のネタバレまみれになるのでくれぐれも注意して読み進めてほしい。

ゲーム版は「ビデオゲームらしいメタフィクション」

ゲーム版『グノーシア』(2019年)

まずは『グノーシア』の基本設定をおさらいしよう。

本作では、宇宙船内に「グノーシア」と呼ばれる存在が紛れ込む。グノーシアは人間を消滅させる脅威であり、これを排除しなければならない。

グノーシアをコールドスリープさせるため、人々は議論してあやしい人物を見つけ出す。ルールとしては、いわゆる「人狼ゲーム」ものとなる。

ゲーム版『グノーシア』(2019年)

そして、主人公とセツというキャラクターは「銀の鍵」なるものを持っており、ふたりはそのせいで延々とループを繰り返している。議論を何度もしつつ、そのループから脱出することが大きな目的となる。

ゲーム版はメタフィクション構造をかなりうまく活用している。物語の流れとしては次のようになる。

1:プレイヤーが作品に介入する(ゲームをはじめる)

2:主人公キャラクターとプレイヤーが二重存在になり、世界でエラーが発生する

3:それを回避するために、セツが銀の鍵を利用して別次元へ移動する

4:セツを救うために、プレイヤーが別セーブデータに介入

5:介入により、セツの銀の鍵を処理することに成功

6:セツが主人公(≒プレイヤー)に感謝を述べるようなことを語る

『グノーシア』の世界がおかしなことになっているのは、主人公が二重存在になっている(同じ次元に同一人物がふたりいる)からである。その原因は、そもそもプレイヤーが『グノーシア』というゲームを立ち上げたからだ、と解釈できる。

ゲーム版『グノーシア』(2019年)

その問題はセツが解決できる。ただし、セツは別の次元でループし続けることになるため、ハッピーエンドとはいかない。

そこでプレイヤーは別のセーブデータでセツを追い、すべての問題の解決を図る。……といった流れになっている。このあたりは過去にコラムを書いているので、そちらも参照してほしい。

ところで、ビデオゲームの特徴はインタラクティブであること、つまりプレイヤーが操作して作品に介入できることだ。

主人公の最後の情報についてもゲームのほうがうまく設定を処理できている。ゲーム版『グノーシア』(2019年)

インタラクティブであることをうまく活用したゲームは傑作と呼ばれうる。「ドラゴンクエストV」でビアンカかフローラを選ぶといったものは有名だが、キャラクターに名前をつける行為に価値が生まれたり、あるいは意味のないボタンを押す行為がプレイヤーの記憶に強く残ることすらある。『グノーシア』も同様の作品といえる。

一方、アニメではそういったことはできない。はたしてどう変更したのだろうか?

アニメ版はゲーム準拠だが、同じにはなれない

アニメ版主人公の「ユーリ」。画像はアニプレックスYoutubeチャンネルよりキャプチャー

結論からいえば、アニメ版も基本的な流れは同じである。ただし、プレイヤーが存在せず、ユーリというキャラクターが主人公として存在するがゆえの変化はある。

ユーリはプレイヤーではなく登場人物なので、別のセーブデータ(次元)にアクセスすることはできない。よってユーリは電脳化した意識の集合体「グノース」になることで、別次元に行ったセツを追いかける。

二重存在の問題は、別次元にいるユーリの身体に意識だけを乗せることで解決する。ユーリによると電脳化した意識体はそのうち消えるため、諸々の問題も解決するらしい。

このように、設定こそ違えどエンディングはほぼゲーム準拠である。ただし、最後の最後にユーリが不敵な笑みを見せる。これが謎を呼び、視聴者たちがどういう意味なのか考察しているわけだ。

不敵な笑みにはいろいろな可能性が考えられるものの、筆者はこれを「アニメをメタフィクション構造にするための仕組み」だと考えている。

メタフィクションにするための傍観者へのサイン

ゲーム版『グノーシア』(2019年)

ビデオゲームはメタフィクションが得意である。それは前述のように、プレイヤーが存在して、かつ作品に介入できるからだ。

この事実は、ゲームの中の世界から見ると超常的なことである。セーブデータをまたぐことはわれわれにとって当たり前だし、キャラクターを殺したり生かしたりするのも(システム上で許されていれば)お手の物だ。だが、そんなことができる人物が現実にいてはたまらない。

いわばプレイヤーは超越者といえる。そして、ゲーム作品はメタフィクション構造によって、プレイヤーを作品に巻き込むことができる。プレイヤーが作品に組み込まれると、現実と虚構の境界線が曖昧になり、そのゲームが単なる作り物以上のものだと感じられるのだ(舞台やコンサートで最前列に座ると異様な興奮を覚えるのと似ている)。

もしアニメ版において似たような仕掛けを用意するのであれば、視聴者が超越者だと感じられるような仕組みが必要になる。しかしアニメの視聴者はあくまで傍観者であり、作品に介入するような超越者とはまた異なる。

アニメ版『グノーシア』ではSQの設定周りもゲームと同じ。やはり主人公の差異がポイントとなる。画像はアニプレックスYoutubeチャンネルよりキャプチャー

つまり、それに対する答えがあの不敵な笑みではないか。ユーリの笑みを認識するのは視聴者だけであり、明確に謎を突きつけている。『グノーシア』の物語においてあまり意味がなく、視聴者だけが認識できる謎であり、これによってメタフィクション構造を目指したのではないだろうか。

あの不敵な笑みの解釈はさまざまなものが考えられる。意識体になったユーリが消えるからすべて解決すると言った話がウソだったのかもしれないし、あるいは自己を犠牲にして世界を救うことに対する皮肉めいた笑みなのかもしれない。

ただ、そのどれが正解なのか考えても判断材料がないので、おおまかな推察にしかならない。重要なのは「ユーリが視聴者に不敵な笑みを見せている」事実であり、ユーリが第四の壁を壊そうとしているように見えることそのものではないか。

介入者にも傍観者にもなれるビデオゲームの強さ

アニメ版では、ゲーム版にあったジナの特殊イベントなど回収されていない部分もある。ゲーム版『グノーシア』(2019年)

アニメ版『グノーシア』はおおむね好評のようで、筆者も良い作品だと考えている。ゲーム版と同じようで違う作品として魅力があるといっていいだろう。

一方で、ビデオゲームの「プレイヤーがいるメタフィクション構造」には強い力があるのだと再認識した。

アニメ版『グノーシア』は人狼パートでわかりやすい説明に注力していたり、あるいはそもそも人狼パートをカットしがちだが、実際のところゲーム版ではそこを一番プレイすることになる。

そして実際にループを体験し、何度も繰り返すことで物語が進み収束に向かう。プレイヤーが遊ぶからこそ意味がある体験が、ビデオゲームの重要な価値なのである。当たり前だが、アニメとはまた異なる媒体なのだ。

一方で、ただ鑑賞する行為に近いビデオゲームにも名作・傑作と呼べるものはいろいろあるだろう。そのあたりも受け入れられるビデオゲームの懐の深さが、この遊びの強みといえる。

なぜゲーマーはビデオゲームを遊ぶのか? それは当事者になれるから、というのがひとつの答えなのかもしれない。

※購入先へのリンクにはアフィリエイトタグが含まれており、そちらの購入先での販売や会員の成約などからの収益化を行う場合はあります。 詳しくはプライバシーポリシーを確認してください
In This Article

グノーシア

2019年6月20日
  • Platform / Topic
  • PS Vita
  • Nintendo Switch
コメント