今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。
ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。
死なずにすんだという喜び
昭和20年8月15日、天皇が終戦を告げる玉音放送に、悔しさよりも嬉しさを感じたと回想する人も少なくない。
大戦末期のフィリピンで激戦をくぐり抜け、さらに台湾の基地から沖縄方面の敵艦隊に向け、5度の特攻出撃から生還した零戦搭乗員・杉田貞雄さん(旧姓小貫、当時19歳。一飛曹。戦後工場経営)は、8月15日、全機特攻の命令に、台湾・宜蘭基地で6度めの出撃準備を完了したところで作戦中止を告げられ、戻った防空壕でラジオを聴いた。
「玉音放送は、雑音が多くてよくは聞き取れませんでしたが、戦争が終わったことは理解できた。そのときのみんなの表情がね、頬が緩んでピクピクしてるんですよ。それを表に出さないように我慢してる。戦争に負けたのは理屈では口惜しいけど、死なずにすんだという喜びがどんどん湧いてくる。みんな悔しいフリはしていますよ。デマ宣伝にだまされるな!そうだそうだ!戦闘続行!なんて言いながら、頬が緩んでる。身体がよじれるような、踊り上がりたいような喜びが内から湧いてくる。戦争に負けた悔しさとこれとは、とりあえず別ですよ。人間の生存本能じゃないでしょうかね」
と、杉田さんは率直な感想を吐露している。海軍の特攻隊は、「索敵攻撃」、つまり敵艦隊を探しながら飛行し、見つけたら突入するという方法をとることが多く、予定海面に敵艦が見つからなければ帰還することが許されているから、杉田さんのように何度も出撃を繰り返しながら生還した人はめずらしくない。
「ただいまより特別攻撃隊員を募集する」
「諸君は空の神兵である。ただいまより特別攻撃隊員を募集する。我と思わん者は一歩前へ出よ」
第二航空艦隊司令長官福留繁中将の訓示に、一瞬、その場が凍りついた。ぎらぎらと対照が照りつける滑走路に整列した搭乗員はみな、顔は前を向いたまま、目だけをキョロキョロさせて周囲の様子をうかがっていた。そして数秒。沈黙に耐えかねた誰かが前に出ると、それにつられて全員が、ぞろぞろと重い一歩を踏み出した。フィリピン・クラークフィールドのアンヘレス基地。爆弾を抱いた飛行機による体当たり攻撃が恒常化しつつあった昭和19(1944)年10月末頃のことである。杉田さんも、雰囲気に引きずられて一歩前に出た。「しまった!」と思ったが、もう後戻りはできなかった。
「ありがとう、ありがとう。だが、これでは志願者が多すぎて選びようがない。いずれ選考の上連絡するから、ひとまず宿舎に帰って休むように」
と言って、福留中将はハンカチでそっと目頭を押さえる仕草をした。
杉田さんは大正15(1926)年、宮城県に、鉄道員の次男として生まれた。軍艦に憧れて海軍一般志願兵を受験するも、試験官の勧めで飛行兵志望に切り替える。そして昭和18(1943)年6月、村人の盛大な見送りを受けて、乙種飛行予科練習生(特)、通称特乙の二期生として岩国海軍航空隊に入隊した。「特乙」とは、乙種予科練合格者のなかから比較的年長の者を選んで速成教育をほどこすために新設されたコースである。杉田さんもすさまじい詰め込み教育に耐え、わずか9ヵ月後の昭和19年3月には戦闘機搭乗員として実戦部隊に配属される。