甲子園優勝からガラリ低迷…崇徳は“なぜ強くなった”のか? 広島の私立、専用球場、寮の完成…崇徳OB・山崎隆造が証言する、他界した“ある熱血監督”の話
センバツ初優勝から50年…変化
1976年センバツ初出場初優勝の代は、應武だけでなく、エースだった黒田真二も2020年に鬼籍に入った。12人が存命の優勝時の3年生メンバーは、個性派集団らしく「センバツの応援に行く、行かない」で二転三転している者もいるという。 彼らの優勝は奇跡性があった。山崎ら好選手たちが偶発的に崇徳に集い、恵まれているとは言えない環境にもかかわらず能力を高め、謎多き指揮官である久保和彦の“豪運”までも味方につけ、頂点を極めた。 そこから50年後にセンバツに出場するチームには再現性がある。奇跡を起こしたOBたちの情熱的なサポートによって生まれた環境がある。その中心に應武がいた。 母校に携わるようになり、いつのころからか、應武の口癖となった言葉があった。現野球部の横断幕にも掲げられる「ALL崇徳」である。選手、指導者、学校、OB。すべてが一枚岩となることで、強い組織が完成する。 應武の後を継いだ藤本は、監督室にある在りし日の笑顔を収めた遺影を見やったとき、「應武監督が生きておられたら、何を言われるだろうか」と思いを巡らせる。藤本の胸の奥に應武は生きている。
「まだまだ、と言われるでしょうね」
33年ぶりのセンバツ出場については、應武から労いがあるのではないか。私がそう投げかけると、藤本は首を横に振った。「『まだまだじゃな』と言われると思います」 この話を山崎に伝えると、「ははっ!」と笑った後、盟友として補足した。 「想像つきますね(笑)。素直に喜ぶと思うんですけど、それだけじゃなく素直にけなしもするというかね。『まだまだ』と言うでしょうね。今回の出場は大きなことだけど、これがゴールではない。あのときに作り切れなかった黄金時代であり、常勝軍団を作るためのスタートに立ったところだよ、と」 2018年夏、生前の應武が、複数の部でごった返した崇徳の校庭の片隅で、熱っぽく語っていた言葉を思い出す。 「校歌が歌えない指導者でいいのかって。本当の情熱がないのに指導ができるのか。自問自答したら、やっぱり母校じゃないとダメだなって」 この春、天国で勝利の校歌を口ずさむ應武の姿が目に浮かんだ。
(「甲子園の風」井上幸太 = 文)
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