ナゾの甲子園監督、初出場で初優勝…“広島史上最強チーム”から50年、崇徳高を復活させた重要人物とは? 元カープの伝説的OB・山崎隆造の証言
伝説的優勝→低迷…なぜ?
部員ら最上級生は14人。最初から少数だったのではなく、「70、80人くらい」(山崎)の新入生が、猛練習で削がれ、研がれて生まれた精鋭だった。実力だけでなく、性格に一癖も二癖もある個性派集団は、試合となると自然と各々の仕事を完遂した。 「広島史上最強チーム」とも称されたこの世代は、広島の野球少年たちの心をつかみ、2学年下の後輩たちが主力となった1978年春にも甲子園の土を踏んだ。 いよいよ崇徳に黄金時代が到来する――。誰もがそう思った。が、現実は異なった。 1978年春以降の甲子園出場は、1993年春のみ。夏にいたっては、山崎らセンバツ優勝チームで乗り込んだ1976年を最後に遠ざかる。2006年までに夏の広島大会決勝に6度進出しながら全敗。一時は最強と称されたチームは、いつしか“悲運”の象徴へと姿を変えた。 甲子園から遠ざかれば、OBたちの熱気も下がる。山崎が「僕の大反省でもあるんですが」と伏し目がちに続ける。 「甲子園への道はすんなり行かないよね、となり、僕自身もプロでやっていくのに精いっぱいで、現役が終わってからも(プロで)指導者をやらせてもらって。大変申し訳ないのだけど、“母校離れ”じゃないけど、気持ちの上で疎遠になってしまったんですね」 その中でひとり、ふつふつと炎をたぎらせる男がいた。先述の應武である。
優勝メンバー・應武が母校に帰還した日
2010年に母校である早稲田大を明治神宮大会優勝に導き、新日鐵君津(現・日本製鉄かずさマジック)時代から続いた監督生活に終止符を打った。その應武が崇徳のOB会長に就任する。2012年のことだった。 應武は真っ先に練習環境の改善を訴えた。生前、「学校に“異議申し立て”をしたんですよ」と、私にも熱弁をふるっていたものである。 「こんな狭いところで練習させるなんて、私立として条件が悪すぎるよ。田舎の私立でこれは『(甲子園に)出なくていいよ』って言っているように思える。おかしいだろって」 学校との度重なる折衝の果てに、2018年夏の広島大会終了後から應武が監督をすることになる。監督就任間もなかったころに取材へ赴くと、マネージャーと思われる部員と校庭の状況について打ち合わせていた。 「今日は(午後)6時にラグビーが終わって、そこからは全面使えます」 「サッカーはいないの?」 「サッカーとアメフトはいなくて、ラグビーが6時までです」 「じゃあ、全面使えるところからノックしよう」 夏で日没が遅く、他部が練習を早く切り上げたこの日は恵まれた方で、バックネットに向かっての打撃練習やベースランニング程度しかできない日もあった。甲子園優勝校とは思えぬ環境に、應武は憤っていた。 山崎が「その時々の理事長、校長によって考え方はそれぞれだと思うんですけど」と前置きをして、背景を語る。 「学校にある部活動が野球部だけではないのでね。バレーボール部が全国大会の常連だったり、野球部だけを特別扱いすることはできないというのが、学校の基本的な考え方だと思います」
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