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【FGO士弓企画】Antinomy/Novel by ちくわぶ

【FGO士弓企画】Antinomy

28,548 character(s)57 mins

FGO士弓webアンソロジー企画参加作品。
企画の詳細は企画用記事をご参照ください。
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企画に参加いただいた執筆者のみなさま、並びに本企画を応援いただきお楽しみいただいたすべての方々に心より感謝申し上げます。

版権元:Fate/Grand Order、Fate/stay night 
注意事項:腐向け(士弓)、ねつ造、設定改変、独自設定、重大なネタバレ、原作程度の暴力表現・流血表現

リミゼロを装備することで宝具(無限の剣製)の威力が上がるエミヤという存在について考えていたらこういう話になりました。
FGO原作にて楽しかった組み合わせのキャラたちも友情出演していますので他キャラとの絡みが苦手な方はご遠慮ください(カップリングは士弓のみです)。

本作をもちまして1か月弱続きましたFGO士弓webアンソロジー企画はひとまず終了となります。
10/9COMICCITYSPARK11にて記念誌を発行予定ですが、こちらはwebで公開済のものと一切内容は変わりませんのでお求めの際はご注意下さい。記念誌に関する詳細もこちらをご参考ください<illust/58791814>。
完売しました。ありがとうございました。

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 無限を内包するというのは、無二を手放すことと同義である。エミヤは自己のイメージという限られた世界に於いて全ての武具を再現するという特徴を有するサーヴァントであり機構であったが、それは同時に他の英雄の誰もが有する“たった一つ”を持たないということでもあった。
 そう。英霊エミヤは宝具を持たない。ただ、その人生の象徴に宝具と名をつけてもいいのならば、彼が有する稀有な心象風景だけがそう呼ぶのに相応しかった。
 ――固有結界、『無限の剣製』。
 自己暗示の究極系。現実を理解した上で現実を否定し、世界を空想で塗り替える大魔術。キャスター適性を持たないエミヤがこれを使えるのは彼が負う守護者という役割によるところが大きいというのは本人曰く「皮肉が効いている」ことであるが――ともあれ、英霊にまで至ったところで男の手に残る象徴など何もないというのが結論だった。
 衛宮士郎は担い手にはなり得ない。当然、作り手に至ることもない。彼の本質はいつだって内包することにのみあって、磨いてきたのはその空想を現実に零れさせる方法だけだった。
 空の手だからこそ、全てを投影できるのだと。あの炎の夜を越えた瞬間から、それが自分に与えられた真実であるのだろうと納得していた。ゆえに何も握れぬこの両手こそをよしとした。それは正当な英雄の誇りとは大きく異なるものとはいえ、確かにエミヤの矜持であった。

 英霊エミヤを象徴付ける武具などない。
 それは最も忌むべき事実であり、同時に唯一抱ける誇りである。そのはずだ。そのはずだった。
 少なくともあの剣を目にする時まで、エミヤ自身が何よりも、その事実を信じていた。



 人類史の殆どが焼却されていても、このカルデアにはまだ人々が生きている。生きているのだから食事とて摂るし、そこに娯楽を見出だそうとするのも、この停滞した時間の中で至極当然な心の働きであるのだろう。
 それにしてもサーヴァントまでもが食堂を利用しようと押し掛けてくるのは理解に苦しむと思いつつ、食材は自力で調達してきているのだから無下にはできない。国籍も時代もここまで違えば味の好みも千差万別で、彼らを満足させるよう腕を奮うのは悪くない刺激になった。
 自分では頑なに認めないものの料理を趣味として他人を喜ばせることを生き甲斐とする男は、見たこともないような食材を捌いて調理して各人に合わせて提供するという怒濤の日課を終わらせてわかりにくくも満足していた。海賊連中がどこからか掠めてきた良質な茶葉を使ってアフタヌーンティーまで提供できたのだから、些かやり過ぎな感もある。
 時間的にはそのまま大人数用の夕食の準備に取りかかってもいいところだったのだが、ポジション争いに爪を光らせるメイド服のバーサーカーに追い出されては大人しく厨房を譲るより他あるまい。良妻メイドポジションなど争う気は全くないという反論が通じる相手ではなかった。
 しかしそうするとどう時間を使ったものか。マスターはサーヴァントたちを引き連れていずこかに飛んでいる最中であるようだし、エミヤがたまに手を貸しているロマニもそのナビゲートに専念しているところだろう。日々カルデアの維持のために働く職員たちの手伝いでもしようか、ととりとめもなく考えながら足を進めていた。
「…………」
 が、その足がピタリと止まる。
 上機嫌とは言わないまでも、食堂の笑顔に悪い気はしていなかったエミヤの機嫌が急降下する。彼を先輩と慕うマシュが見れば、嫌悪の限りを現したその態度に戸惑いの声をあげていただろう。
 廊下の先、前触れもなく。一人の青年の姿がそこにあった。朝露に濡れた竹林を思わせる清廉な出で立ち。紅より鮮やかな赤の短い髪の下の黄金の瞳が、揺らぎの一つもないままこちらをまっすぐに見つめている。
「またか。礼装の分際で……」
 普段のエミヤならまず吐かない暴言だった。進行方向の男以外に誰も聞く者がいないのをいいことに、吐き捨てるように零したエミヤは青年からの眼差しに睨み返して止めていた歩みを再開した。長い脚の歩幅は大きく、乱暴な足取りですぐに和装の青年の前にたどり着く。
 灰と琥珀の視線が交差する。横一線な身長差。身に纏う武装も肌の色も表情も何もかも異なる二人は、見据える瞳の金属質な輝きだけが符丁のように一致していた。
 ――――有限、零点突破。
 無限と拡大を是とした英霊エミヤとはおよそ正反対に位置すると言っていい概念が彼だった。
 それでも本来のエミヤは、対極にあるということだけで相手を忌み嫌うような男ではない。生き方も選択もそれぞれであり、広い視点で俯瞰したときにそういう概念が存在するのは全くおかしなことでないからだ。自分の対極存在を認められぬほど狭量ではない。
 だから、ただそうであるという概念であるだけならば、エミヤは気にも留めなかった。
 収斂の極致として抽出されたヒトガタが、吐き気がするほど見覚えのある男の形をとらなければ。――その男が、度々何かを語るように自分の前に現れなければ。
 頭痛がする。全の選択は一の棄却であり、一の肯定は全の否定である。彼らは同時に存在するべき概念ではなかった。それでも出会ってしまったのなら、全霊を賭して相手を否定するか、排斥しあわないよう距離をとってやり過ごすしかないだろう。
 それを、何を好き好んでか、こういう風に自分が一人の時に限って何か言いたげに姿を見せる。始まりがいつかはもう覚えていないくらいの頻度だ。その瞳が凪いで見せるほど、エミヤの精神は荒れていくようだった。
 カルデアの特殊な魔力供給システムが故に半ば受肉した状態であるサーヴァントたちとは違い、概念礼装は本来無形のものである。持ち主があえてそう望まぬ限り、仮の姿すら象ることはない。何せ実体を得る意味がないのだ。
 概念礼装とはその名の通り、那由多の事象から昇華された『概念』を抽出し、術者に都合のいい『礼装』としたものである。突き詰めれば道具であった。そこに意思も意味もない。
 ……意思はない、はずだ。
(下らない)
 そう言い聞かせねばならないほどに揺らいでいる自分の脆弱さに、エミヤは内心で吐き捨てた。
 剣は言葉を持たず、魂を持たず、意思も持たない。ただ振るわれるだけの道具だ。何かを伝えたいように思える眼差しも妄想だ。いや、そもそもにして、自分の前にだけ都合よく現れる男の姿こそが幻覚かもしれん。
 頭を振って鈍痛を振り払う。和装の男の方には一瞥もくれず、ただ進行方向になる通路の先だけを見て、止めた歩みを再開した。一歩もすればすれ違う。礼装は何も語らず呼吸すらないまま、エミヤを追って振り返ったように思えた。
 その姿を見ることもなく、硬質な足音だけを響かせて前を見たまま歩み去る。食いしばった歯がギリと音を立てた。
 ……頭が痛む。


 魔女の習性というべきか、その女魔術師に宛がわれた部屋はその近未来的な外観に反して傍目にわかるほどの異界と化していた。敵であれば神殿に籠った古代の魔女に何を企んでいるのかと思いも巡らせただろうが、今や味方で女を突き動かす執念も弱い。
 エミヤはドロドロという擬音でも与えられそうな魔力を垂れ流す扉を前に、横に備え付けられた呼び鈴を躊躇なく押した。ピンポーン、と軽快な音が鳴ったのが外からでもわかる。一拍置いて騒々しく走り回る足音が続き、それも終わるとようやく、
「……何かしら」
 と低い声がインターホン越しに返ってきた。
「急にすまない、少し頼みがあってな。王女殿の口に合うかはわからんが、手土産なども持参してみた」
 カメラに映るよう手にした包みを持ちあげる。
 スピーカーの向こうでは長らく沈黙が続いたが、しばらくすると施錠を示すランプが赤から緑に切り替わった。
「何の用だか知りませんが、わざわざ借りを作りたいというなら貸しましょう」
 相変わらずな物言いでの了承の意に苦笑しつつ、許されるがままエミヤはメディアの私室へのドアをくぐった。

 中は存外に普通であった。怪し気な魔女の鍋もなければフリルの散りばめられた人形なども見当たらない。
 代わりにというべきか、部屋の隅に置かれたそう大きくもない箱がやたらと存在感を放っていたが、エミヤはそれに一切触れずに勧められた椅子に腰を下ろした。隠された魔女の作品など触れたところで碌なことにならない。
「……それで、頼みの内容を聞きましょうか」
 手土産である焼き菓子の包みを開ける暇すらなく、ちょっとした挨拶も飛ばして単刀直入に切り出される。それにエミヤは喉奥だけで少し笑った。根はどうあれこの女の振る舞いは悪女のそれだが、こういう話が早いところは嫌いではない。
 何にせよ用件だ。後で対価を求められるとわかっていて来たのはメディアの魔術師としての腕を見込んでであり、不本意ながらもこちらの事情をある程度知られているからであり、平然と対価を求めてくるような後腐れのない性格にある種の信頼を置いているからだった。それでも自分の無様な近況を赤裸々に語る気にはならない。
 改めて問われて一瞬悩んだエミヤだったが、結局決めて来たとおりに誤魔化しながら話を進めることにした。

「つまり、道具に心は宿るかどうか、という質問かしら」
 それなりの時間をかけた説明を一言に圧縮されたが、概ねその通りであったのでエミヤは腑に落ちないながらも頷いた。
「あなた、魔術の心得もあるはずではなかった? 魔術師にとってはそんなもの愚問中の愚問よ。道具だろうが物語だろうが、万物に心は宿り得る。私も最近手持ちの人形が厄介なことになったくらいだし……」
「人形?」
「……いえ、なんでもありません。とにかく、モノにだって志向性は現れるし、それが神秘を宿すならなおさら。むしろ魔術礼装なんてものであれば、そうならないための対策が必要なくらいだわ」
「では、あってはならない意思が芽生えるようなことがあれば、システムの方に不備があると?」
「管理者側からしてみれば不備でしょう。とはいえ必ずしも『悪』ではないと、私は思いますけどね。道具への愛着も持てないようでは魔術師としては三流です」
 弟子を諭す師のような口調に不満はあったが、助言を求めて訪ねてきたのは自分であるのでエミヤは殊勝に沈黙を守った。それに気をよくしたのか、頬杖をついたメディアは愉快そうに唇を吊り上げる。
「……何がおかしい」
「いいえ? 迷い悩みは人の子の特権かしらと思ったまでです。それよりも、先ほどの話について気になるのなら、私よりもここのドクターあたりに聞くのがいいでしょう。カルデアの魔術は独特ですし、『概念礼装』の仕組みについてはあちらの方が詳しいでしょうから」
 ニヤニヤと笑いながら言う。一言も話題にあげていない概念礼装を話題に持ち出すあたり、何かしらを察せられているのだろう。したり顔で腹が立つ。
 が、文句も言えないエミヤは沈黙したまま不躾とわかって席を立った。用件は終わりだ、話が早いことだけは結構。
「助言痛み入る。持参したのは焼き菓子だが、一人で食べるには多いだろうから誰かとわけて食べるといい」
 言いながら出口の方へと歩み寄る。退出の間際振り返ると、メディアは適当な相槌を打ちながら渡した包みを広げようと手を伸ばしているところだった。それを確認したエミヤはニコリと笑って言う。
「君の好みを考慮して作ったので、もう一人、全く同じ好みの彼女と茶会でもして分けるといいんじゃないか? では」
 メディアがこちらの意図に気づく前に背を向けてサッサとスライドドアから廊下に出る。
「ンな……! あの娘と茶会など――!」
 誰を指しているのか察したメディアが血相を変えて立ちあがったのがわかったが、それよりも自動でドアが閉まる方が早かった。
 ここで自分を追ってくるほど行動的な女ではあるまい、と悠々とした足取りでドクター・ロマニのいそうな中枢部へと足を向ける。
 過去の自分を知られる決まりの悪さもこれでお相子だ。同じ場所に同時に召喚されているメディアの気まずさには同情しないでもなかったが、悪逆非道を気取る魔女には丁度いい意趣返しだろうと鼻を鳴らした。


 ――まただ。
 足を止めた。黒いブーツが硬質な床を叩く。
 メディアの私室からの移動中であった。移動したのは大した距離でもない。その途中、よく知る男が知らない装いで、エミヤの進む先を塞ぐように立っている。
 なんともタイミングのいいことだ。確かに、まるで意思でもあるかのような。
「……聞いたか? 私か貴様か、どちらのせいかは知らんが何にせよエラーの産物だそうだ。修正を依頼すればこの頭痛とも貴様の不愉快な面ともおさらばだな」
 忌々しそうに言う。言って、対話でも求めるような自分のくだらなさに吐き気がした。
 歯を食い縛っても誤魔化しようもないほど頭が痛む。エミヤは気休めとわかって額に手をやった。その白い髪が乱れるほどに握り締めても、内側からの鈍痛をかき消すことすらできやしない。もう終わった過去が、自分なりに整理したはずの男が、なぜここに来てこんな姿で俺の前に現れるのか。
 ……かつて。贋作でも構わないと理想を追った。
 一度叩き割ったはずの古い鏡を前に、血に塗れて泥に足を沈める道程でも構わないのだと信じられた。どうあれ、そういう人生だったのだと納得したのだ。これしか持たない自分の身を、それを極めた己を、誇る気持ちは零ではなかった。
 それを。わざわざ掘り返して。可能性などを突きつけられて、そんな形にも至れたのだと思い知らされて。
「……何が言いたい」
 黄金の瞳はただ見つめるのみだ。だけどよくわかった。それは恐らくエミヤだけに許された共感だった。
 こいつは何かを伝えたがっている。魔術師の道具として抽出されて個を削りとられても、我を失わず無理を通そうとしている。そういう男だ。愚かで、現実を知らず、挫折を認めず、世界の真理すら否定してみせると息巻く若造のことを、エミヤは誰よりもよく知っていた。
 ……そう、知っていた。だが、同時に何よりも理解しがたかった。赤いままの髪、灼けていない肌、色彩に満ちた両の眼、その手に携えた一振りの剣――エミヤの持ち得ない全てを保ったまま、収束に至った完成形。
 その生命の息吹を感じさせないしなやかな鋼が、エミヤの詰問に応じるように手にした刀を差し出した。
 努めて意識しないようにしていたソレも、こうされては否が応にも認識せざるを得ない。武具と見れば取り入れようとする強欲な内界が、意識を介さぬまま反射的に精査の目を走らせた。
 理念、骨子、材質、技術、経験、年月――――剣という存在に欠かせぬそれらが、脳髄よりももっと深く、心象そのものに叩きつけられる。
 瞬間、耐えきれず立てた爪がついに頭皮を破ったが、エミヤはそれに気づけなかった。頭痛はいよいよ強くなり内部から破裂でもしそうなほどに固い頭蓋を叩いている。ぐうと喉の奥で唸った。平衡を見失ってふらついた体を壁に押し当てて支える。凪いだ瞳は少し困ったようにこちらを見ているような気がしたが、視界に入れるのも辛く落ちた前髪で視線を遮った。俯いたまま血を吐くように叫ぶ。
「私にそれは投影できない! 何を伝えたくてもオレはおまえを理解できないんだ!」
 悲鳴じみて割れた声が硬質な廊下に反響する。
 意思あるものならば捨て置いておけないほどの悲痛な叫びだった。それを真正面から受けて、青年の姿をした礼装が一歩エミヤへと足を踏み出す。
 それを視界の外で察して、エミヤはぞっとした。耐えられない、否定せねばと咄嗟に思う。自己を確立し保とうとする、生物としての本能だった。
「やめてくれ……」
 泣き言か、懇願か。あるいはどちらでもあっただろうか? 馬鹿げた話だ。こちらはサーヴァントであちらは礼装だと言うのに。
 だがエミヤの紛れもない本心だった。それを聞き届けたのか、床しか写さない視界では男がどう応えたのか確認できなかったが、峠を越えたように少しずつ和らぐ頭痛から、彼がエミヤの嘆願のとおりに姿を消したのだと察せられた。知らない間に荒れていた呼吸に肩が忙しなく上下する。不快な汗をかいていた。肩を預けた通路の壁に沿って、そのままずるりと座り込む。
 わかっている。認めたくなかっただけだ。あの礼装に感じる苛立ちは、本当は『嫉妬』という形をしていた。羨望でもいいだろう。届かない星に手を伸ばして泣く子供と変わりない。打ちのめされて手当たり次第喚いているだけの惨めな醜態だ。
 込み上げる嘔気に背が丸まる。崩折れるがまま額をつけた床の冷たさが優しく感じられた。
 わかっている、わかっているんだ。あれは衛宮士郎の完成形だ。剣を起源とした男は、あの終着に至れるのだ。


 ――だけど、彼を完成形と認めてしまったのなら。
 俺は今ここで蹲る己を、一体なんとすればいいのだろう?
 


 さすがに蹲ったままではみっともなかろうと上体だけは起こしたが、どうにも立ち上がる気力が湧かずに壁に側頭部を預けたまま座り込んでいた。冷えた光沢の壁が冷たくて気持ちいい。今の格好も十分みっともないことはわかっていたが、広いカルデアの数ある通路のひとつにすぎないここで、早々誰かに出会うこともあるまい。
 そんなことをぼんやりと考えていたのだが。タイミングよく近づいてくる足音の反響がエミヤの耳に届く。間隔、重量からして成人の男性のものだろうか。誰が相手だろうがこんな醜態を晒す気はとても起きない。
 ひき攣れた喉での一呼吸ののち、無様に震える手を壁について支えとして立ち上がった。
(笑えるな)
 情けない。未熟だろうが申し分ないマスターに恵まれ、潤沢な魔力の供給も受けておいてこのザマだ。呆れを超して笑いが出る。
 英霊エミヤ。この現界においてオレに求められている役割はそれだけだ。ならばどうあっても、英霊としての振る舞いを捨てるわけにはいかない。そう暗示して目を塞ぎ、努めてゆっくりと息をする。壁から手を離して何束か額にかかる前髪をかきあげた。
 虚勢だろうが震えが収まる。頭痛も吐き気も拭いきれないが、しゃんと立てるだけ上等な部類だろう。
「…………げ」
 エミヤが装いを正した数秒後。背後の廊下にたどり着いたのだろう気配が嫌そうに声をもらした。不本意ながらも聞き慣れてしまったその声に舌打ちをする。
「誰かと思えばテメエかよ、アーチャー」
「はっ。ケルトの戦士は挨拶の礼儀も知らぬと見える。……ご機嫌麗しゅう、ランサー殿」
 声色に存分に皮肉を織り込んで振り返る。彼の予想に違わず、廊下の先から歩み寄るのは青い装いのランサーだった。エミヤの挑発に不快げに眉を寄せている。
「人を侮辱しねえと息ができねえのか貴様は? 相変わらず腹立つ野郎だぜ」
「これは失礼。君のような古代人に礼節を説いたところで無駄だったな」
「……なんだ、ぶちのめされたいだけだったか」
 戦闘狂いなところがある男だ。怒って見えても冷静さを失わないあたりが癇に障るが、挑発に乗りやすいのは今のエミヤには好都合だった。
 先に手を出されれば応戦する理由もできよう。先程の幻覚のせいで珍しく乱暴な気分でいるのをエミヤは自覚していた。相手がこの男であるのならば遠慮もいらない。本気の殺し合いは不可能でも、本気の戦闘ができれば少しは気も紛れるだろう。
 隠しもしていないエミヤからの敵意に触発されたのか、狙い通り俄に殺気だったクー・フーリンが廊下を近づいてくるのを待つ。
 しかし、
「――――ひでえ顔してやがるな」
 槍の間合いまであと数歩。身構えたエミヤだったが、クー・フーリンの興が殺がれたような声にうかがっていた機を外される。
「なに?」
「テメエの面だよ。よくそれでオレに喧嘩を売る気になったもんだ」
「何の話だ? 君の取り柄は槍を振るうことしかないのだから、慣れない舌戦などしては今に舌を――ッ!」
 挑発を途中で止めて切れかけた集中を引き戻した。ランサーのクラスに恥じない速さで朱槍が現れ一歩踏み込まれる。
 立ち回りの制限される廊下ではランサーの攻撃は突きに限定される。フェイントを入れたつもりであるならくだらないなと、想定通りの軌跡で迫る穂先を備えていた干将・莫耶を投影して反らす。
 ――いや、反らそうとした。
「ぐっ…………、!」
 エミヤにとっては最も慣れた投影。呼吸するより簡単に落とし込めるはずの設計が、予期せぬノイズに蹂躙される。瞬間魔術回路がズタズタに切り裂かれるような激痛が襲ったが、上がりそうになる悲鳴はなんとか噛み殺した。
 脳髄を焼かれると錯覚するほどの頭痛が襲った。それに思考を乱されながらも、混乱を抑えて後退のために床を蹴る。反らせないなら避けるしかない。だが全身をバネのようにしならせた一撃の伸びはエミヤの想定を越えており、このままでは貫かれるのも予想できた。
 ――投影を。
 何よりも信を置く戦闘理論が唯一解を導きだす。お前はかつての小僧とは違う。今やこの魔槍ゲイ・ボルクと切り結べるだけの宝具を作り出せるではないかと、死に物狂いで身に付けた心眼が告げている。
(できるはずだ)
 英霊の座なんてものにまで至って、昇華された技能を失うことなどありはしない。最も使い込んだ中華剣。手指の延長になるまで振るい続け共に血に塗れたあの剣を、今さら俺が見失うはずがない。
 ――現実を空想で塗り替える大禁術、固有結界。エミヤの扱う投影とは正確には魔術ですらなく、その空虚な心象に写り込んだ起源が零れ落ちただけのものに過ぎない。実像の投影ではなく虚像の再生であるのだから、求められるのは現実を否定する傲慢さと揺らがない強情さだけであった。
 亀裂水波、陰陽合一。探すまでもなく刻み込まれた設計と思想に寄り添って手を伸ばす。落とし込むだけの、息をするより容易い行程。エミヤの生涯を賭して刻み込んだ手順、その根幹を成す幻想を――再度遮る刀身があった。
 神経と同化した魔術回路が宿主たる身に牙を向く。暴走した魔力が内側から体を焼く激痛に、エミヤは自分の喉が悲鳴を上げたことに気づくのが遅れた。無様な声を飲み込んで、四散しかける意識をかき集めて迫る朱槍を注視する。理性とも本能とも分けられた戦闘のためだけの機構が、経たず穿たれる自分を幻視した。
 そこまでわかっていてもどうしようもない。今の自分に防ぐ手段は残されていない――――。

 パタタ、と重みのある液体が硬質な床を叩いて音を立てた。
 ゲイ・ボルクはエミヤの心臓の直前で、ブレの一つもなく寸止めされている。流れる血は、裡から大小様々な剣を生やしたエミヤの両腕から途切れることなく落ちていた。
「……やれやれ。なんでこう面倒事ばかり引き当てるかね、俺も」
 乱れた呼吸のまま手負いの獣のような眼光で睨み付けてくるエミヤの殺気を受け流して、クー・フーリンは息を吐いた。



「おい、ドクター」
「ぅゎはいっ! なにかな!?」
 ドアの開閉音にも気づかずウトウトしていたロマニ・アーキマンは、かけられた声に素っ頓狂な返事とともに立ち上がった。労基法の存在しない人理機関で馬車馬のごとく働き尽くしているドクターの些細な休息であったが、それがカルデア唯一のマスターをナビゲートする途中と知られれば謗りは免れまい。
 と、わかりやすく挙動不審なドクターを無視して、クー・フーリンはさっさと厄介ごとから解放されるため引きずってきた荷物を押し付けた。
「よし、後は任せたぜ」
 人懐こい、気持ちのいい笑顔である。ロマニは思わず頷きそうになったし、預けられた成人男性大の荷物から血臭がしなければ「じゃ!」などとにこやかに手を挙げて退室するクー・フーリンをそのまま見送っていただろう。
 ――しかし荷物は血を滴らせる人間で、より正確には弓兵クラスの真名エミヤというサーヴァントだった。
「ちょちょちょちょっと待ったぁ! どういうこと!? 急患!? 説明を要求します!」
「やめろ鬱陶しいひっつくんじゃねえ! 餓鬼じゃあるまいしあとは本人から聞きやがれ!」
「本人からって言われても……」
 腰に抱き付いたロマニを引きずって無理矢理出口に向かうクー・フーリンに言われて、思わず放り出してきてしまったエミヤを振り返る。
 いいように運搬されたことに怒っていいはずのエミヤは、ロマニに背中を向けてダラダラと流血したまま机を支えに立ち上がろうとしていた。多数の切っ先が飛び出たスプラッタな手に体重をかけているので、彼が力を込める度にボタボタと床を汚す流血の勢いが増す。
「あなたはマスターのナビゲートに戻ってくれ、ドクター。子細問題ない」
 どう見ても問題だらけのエミヤはそんなことを言いつつゆっくりと立ち上がった。片足に不自然に体重が寄っており、よく見れば庇われている方の左足のブーツが踵の上辺りで斬られているのがわかる。医師免許も有するロマニの優秀な頭脳が、脳内カルテに『アキレス腱断裂の疑い』などと綴った。
「少々躾のなっていない犬を相手に手間取っただけだ。あとで狂犬病のワクチンだけ用意していてくれ」
「……それだけやられてまだ懲りねえのか? 今の貴様とやりあう気はねえよ、ここまで連れてきてやったんだから大人しくコイツの治療でも受けやがれ」
 サーヴァント二騎の殺気に囲まれたロマニは涙目だった。クー・フーリンに出口前を陣取られていなければ早々に逃げ出していただろう。
 言葉だけ聞けばエミヤの負傷はクー・フーリンのせいということになる。だがロマニのところにまでエミヤを連れてきて押し付けようとしているのもまたクー・フーリンだ。
 何が何やらわからない。よっぽど説明を要求したかったが、こういうとき頼りになるはずのエミヤは今だかつて見たことがないくらい殺気立っていた。
「黙れ狗が、余計な真似をしてくれたな……!」
「……うるっせえな、しつけえぞアーチャー」
 クー・フーリンの手に朱槍が現れる。戦闘経験など皆無なロマニであってもこのままではただでさえ流血沙汰なのが大惨事に発展することが容易に想像できた。
 なんとかせねば。しかし英霊二人の仲裁なんてできるはずがない。ロマニは速やかに備え付けのマイクに飛び付き館内放送のスイッチをオンにして泣きついた。
「き、緊急事態ー! 急患、急患です! 誰でもいいから助けにきてぇーっ!」



 いつぶりの経験だろう、と白いシーツを撫でながらエミヤは思った。こんな風に寝台に横になるなど記憶を掘り出すのに苦労するくらい久方ぶりである。
 実体化してようがサーヴァントと言うのは幽体にすぎない。十分な魔力供給がされている限りは睡眠とは無縁であるし、ほとんど残っていない生前の記憶を浚ってみても上等な寝台に横たわる記憶はあまり残っていないようだ。
「……さて。君が黙秘権を行使するのでクー・フーリンさんとメディアさんに聞き取り調査を実施した結果、大変な問題が起きていると判明しました」
 ベッドサイドの椅子に腰かけたロマニが畏まって言う。エミヤにもその二騎のサーヴァントがガラス越しの部屋に呼びつけられているのは見えていた。全館放送などされたせいで話が大事になっているのがわかってひたすらに憂鬱だ。両腕を中心に執拗に巻き付けられた包帯が重い。
「まとめると『投影魔術が使えない』、ということらしいけど……。これのどこが『子細問題ない』って言うんだい、まったく。足の怪我とかはちょっとやり過ぎだけど、無理矢理にでも連れてきてもらってよかったよ」
 足の怪我とはクー・フーリンにやられた分を指していた。回路の暴走での負傷は腕だけであり、それ以外の腱だとか大腿だとか脇腹だとか首筋だとかの傷の数々はゲイ・ボルグにしてやられたものだ。
 会話に合わせて回想していく内、いいようにされた自分の無様を思い出してエミヤの眉根が自然と寄った。黙ってやられたわけではなくこちらも使い物にならなくする気で肘を折ったりしてやったのだが、さっさと自分で治していたのがまた腹立たしい。
「彼の乱暴なやり方には引き続きウチの最強ナースからお説教いただくとして――肝心の君の方だけど。正直言って予想外なんだ。療養中のところ悪いけど、当事者である君の意見も聞きたい」
 言いながら洋服のポケットに手を入れ、二枚のカードを引き出して見せる。
「『リミテッド/ゼロオーバー』と『投影魔術』。確かに同じ人物が象徴として選ばれているようだし、それは君に似た人のようだ。だけど、同一存在のパラドクスはこのカルデアにおいては起こり得ない。これくらいの重複は概念摘出の設計段階から予想されていたことだからね」
 嫌というほど見知った顔が二枚、備え付けの机の上に並べられた。
 写真のような、ただそこにあるだけの絵。エミヤは強烈な頭痛のことを思い出したが、今カードの中の男を視界に映してもただ不愉快なだけで痛みも吐き気もなかった。
「概念の摘出は一見無作為に見えるけど、実は大前提として作為的な選択を経ている。オリジナルの聖杯戦争が『クラス』という枠組みに落とし込むことによって英霊召喚の奇跡を成したように、カルデアにおいては抽出する概念をあらかじめ指定しているわけだね。で、この前準備にはうちのスタッフのみんなの尽力が必要なわけだけど、この作業はゼロから始めるよりも何かとっかかりを用意して、そこから展開していく方がやりやすいんだ。使えるものはなんでも使うっていう方針から、カルデアに来てくれたサーヴァントの皆を元にしている場合も結構あるし、一度摘出に成功した概念を元にする場合だってある。新規の概念だってもちろん積極的に模索してはいるんだけどね。手間と資源と根気とやる気と閃きと根性がいる作業だし、なにしろ人手が足りなくて……」
「――ご高説痛み入るが、ドクター。それを聞いても私は力になれないのだが」
 普段はそう見えないが、ロマニもやはり探求と研究に生きる魔術師・研究者なのだろう。遮ってまで話を進めたいわけではなかったが、放っておけばまだ続きそうな説明にエミヤは黙秘を破って口を挟んだ。
「あっと、ごめんごめん。怪我人にする話じゃなかった。――まあとにかく、概念礼装の作成において姿を借りている人物っていうのは実のところ限られているし、それが例えば英霊自身となることもある。そして本来、礼装と英霊の重複くらいならシステム的にも論理的にも矛盾は生じないはずなんだ。少なくとも同じ英雄の別の側面が同時に召喚されることよりはよっぽど自然に則しているよ」
 同じ英雄の別の側面、と言われてエミヤは思わずガラス向こうに小さく見える二人を見た。暴力まじりの説教を食らい不服そうにしているクー・フーリンも、巻き添えを食らって迷惑そうにしているメディアも、別クラスだったり同クラスだったりで『違う自分』が同時に存在しているサーヴァントだ。
 同じような顔が並ぶ光景の奇妙さに比べれば、礼装の見目が似ていることくらい大した問題ではないのだろう。エミヤにもその理屈はよくわかった。
 ならばこの背反は、理屈ではないのだ。
 仮に相手が生きた人間でも礼装でもサーヴァントであろうとも、あの刀を持つ衛宮士郎が存在するという事実だけでエミヤを根底から覆すのに十分だった。だけどそれが他人に理解を求められるような論理ではないとわかっているので、エミヤも語る言葉がない。
「結論から言うと、同一存在への修正力というのはこのシステムにおいて働かない。まあ修正をかけてくる世界の方がそれどころじゃないっていうのもあるかもしれないけどね」
「……そうだな。さらに言うと私自身が守護者であり、修正の対象からは外れている。今回のコレに修正力が関与していないのは私も保証しよう」
 コレ、と言って包帯まみれの左腕を軽く持ち上げる。
「うん。意見が合致したところでようやく話を初めに戻すんだけど。君は今回の事件は何が原因で、どうすれば解決できると思う? 投影魔術も固有結界も正直に言って専門外だ。ダ・ヴィンチちゃんにもあとで聞いてみるつもりだけど、やっぱり本人が一番詳しいだろうからね」
 問われて答えに窮した。いや、原因の返答そのものは簡単だ。「贋作者でない衛宮士郎などあり得ない」という一言で事足りる。エミヤの心象に写ってしまったあの男のあの一振りを、エミヤ自身が信じられず受容できていないから、投影に支障を来している。
 となれば思い当たる解決策はどちらかの排斥しかない。少し前のエミヤなら、かの礼装の棄却を訴えたのだろうが――。
「悪いがドクター、私はもう直せない。解決策というのなら、私という分霊を一度削除して再召喚することをオススメする」
 サラリと。
 事の重大さに反して本当になんの未練もなく言われた言葉に、ロマニは理解が及ばないのかキョトンと目を丸くした。



 マシュ・キリエライトはカルデアの廊下を走っていた。重い盾を携えたまま、先導するマスターの背を追って。
 知らせを受けてからレイシフトの時を除けばずっと走り通しだ。ハッハッと息が切れる音は前を行くマスターから発せられていたが、常のようにそれを労る余裕はマシュにもなかった。
 ロマニからの常にない真剣な様子の通信に曰く。『エミヤくんに重大な問題が生じている』と。
 あのわかりにくくわかりやすいくらいにお人好しで面倒見のいい英霊のことを、マシュは心底から尊敬していた。エミヤ先輩という呼称が、彼女のエミヤに対する心証を表している。
 その彼が、自らの消滅を進言するほどの事態が発生しているのだと聞けば、マシュは冷静ではいられなかった。恐らく前を走る彼女の『先輩』も、同じように思っているだろう。
 医務室まではそう遠くない。走り通した甲斐もあってか、マシュ自身何度もお世話になってきた消毒薬の匂いが染み付いたエリアに辿り着くのはすぐだった。目的地のドアが開ききるのも待たず二人慌ただしく転がり込む。
「ドクター、エミヤは?!」
 つんのめりかけて俯いた視線を戻しながらマスターが叫ぶ。マシュも同時に顔を上げて室内の様子を目に映すと、
「騒々しいな。病院では走るなと教わらなかったのか、マスター」
 芳醇な紅茶の香り。人理焼却を回避するために日夜戦うマスターを思って焼き上げられた菓子の甘い香ばしさ。備え付けのテーブルには、レース製のテーブルクロスまで敷かれている。
「ええーっと……? エミヤ?」
「いかにも私はエミヤだが。おかえり、マスター。何はともあれ手を洗って身辺を清潔にせねば、看護師殿を怒らせるぞ」
 手洗い場を省略してきた自覚がある二人はギクリと肩を強張らせた。バレればただでは済むまい。
 ほら、と促す落ち着いた声に押されて、くぐったばかりのドアへ舞い戻り通路を戻った。二人並んでジャブジャブと入念に手を洗う。
「……なんか、思ったより元気そう?」
 不可思議そうに首を捻ったマスターと鏡越しに目があって、マシュはなんとも言えず同じ方向に首を傾けた。

「とんでもない! 全然元気じゃないよ。一番酷い腕の怪我も治りきってないし、他のところだって痛むはずだ」
 でも僕が言っても聞かないんだよ、と切なそうにロマニが肩を落とす。
「すまないな、ドクター。だがおかげさまでほとんど直ったようなものだ。少なくとも、私のせいで無用な心配をかけた主人の帰還を床上で迎えねばならないほどの重傷ではあるまい」
「うう……笑顔の下の怒りを感じる……。しょうがないじゃないか。マスター思いなのは結構だけど、こんな大事隠し通せるわけないだろう」
 未だに状況が読み取れず紅茶を振る舞われるがままのマシュたちを置いて、向かいに座ったロマニと立って従事に徹するエミヤが軽快に言葉を交わしている。
「あの……ドクター。状況の説明を求めたいのですが」
 可愛らしい小皿に並べられた焼き菓子の数々に思わず手を伸ばしそうになるのを堪えて尋ねた。緊急事態であるのなら口の中でホロリと崩れる幸せな甘さに頬を緩めている暇などないのだ。
「うーん、一言で言うと――」
「少し猛犬とのストレス解消が行きすぎて医務室騒ぎになっただけだ。君たちが気にするほどのことは何もない」
 何やら言いかけたロマニに被せて目を眇めたエミヤが言う。
「……ちょっと、エミヤ君。往生際が悪いよ」
 昼行灯なロマニにしては珍しく、本当に不満そうな低い声が零れ出た。しかしエミヤも同じくらい不機嫌な様子で、
「あなたが話を大きくしたんだろう。私個人の問題にマスターを巻き込む必要性を感じない」
 こちらも珍しく突き放したような態度だ。しかし険悪な空気と言うには、ロマニの空いたカップに追加の紅茶を注ぐエミヤとモグモグとクッキーを消費するロマニの二人はあまりにミスマッチだった。クッキーを食べるのを我慢しているマシュにはロマニが羨ましくも腹立たしくて仕方がない。
「……よくわからないけど。エミヤに問題が起きてるのは確かなの? だとしたら個人がどうとか関係ない。カルデアみんなの問題だと思うから、話してほしい」
 誘惑されるマシュとは打って変わって、空腹中枢をダイレクトに刺激する香りを意にも介さず真っ直ぐな視線で言うマスターに、やや顔を赤らめつつマシュも改めて背筋を伸ばした。ドクターの緊張感のなさに釣られている場合ではない。
 エミヤは正面から見上げられて、瞬き二回ののち気まずそうに顔を反らした。ロマニ相手にはよく回っていた軽口が途端に途切れる。
「はあ。ホントマスターにばっかり素直なんだから……。僕の立場は一体……」
 誰とも視線を合わさず黙り込んだエミヤに代わって、やるせなそうに呟いたロマニは咳払いを一つ。一転、真剣そうに口火を切った。
「僕が代わりに説明するよ。要は、エミヤくんが投影を使えなくなったていうのが問題なんだ」



 場所は変わって、魔女の部屋。
「この私をここまで巻き込んで……。貸し一つじゃ足りないわよ。覚えてなさい、坊や」
「同感だぜまったく……。俺はそろそろ関係ねえだろマジで」
 メディアがこの場にいない相手に向けて怨念混じりに呟くと、マスターの後ろにマシュと並んで立つクー・フーリンが苦々しく同意した。
 珍しい頼みに答えてやればこの有り様だ。日頃食堂をおいしく利用しているものとしてのちょっとした恩返しのつもりだったのだが、こうなるとわかっていればメディアは決してドアは開けなかっただろう。
「というわけで、エミヤは『もう直らないから放っておけ』だなんて言うんだけど。メディアなら何かいい方法を思い付くんじゃないかなって」
 サーヴァント二騎の不満をまるっと無視をして身を乗り出したマスターが言った。
 内容はともかく魔術師として頼られるならそう悪い気もしない。しかしなるほど、後ろで不貞腐れている槍兵が同席させられるにはいよいよ関係ない話になってきていて、メディアは多少同情した。元を辿れば野蛮な行為をとったがゆえの自業自得なので、手助けはしてやらないが。
「何度も言わせないでちょうだい。あんなデタラメな魔術を投影だなんて言い張るのは世界中探したって彼一人です。あの投影モドキでは自分のイメージの強固さが根幹となるそうだから、本人が無理だというのならそれは絶対に不可能でしょう」
 不可能事であっても、十分な魔力があって自分で可能だと信じられれば贋作であれ達成できてしまう無茶苦茶な魔術だ。ならば本人が不可能だと判断している限りどんな簡単な投影であれ不可能だろう。
「そこがよくわからないんだ。原因がコレだっていうのは聞いたけど、ドクターが言うには同一存在の相互矛盾は起こり得ないって話だし。なんで礼装のせいでエミヤが戦えなくなるなんて事態になるの?」
 コレ、と礼装を取り出しながら言う。机の上に置かれたカードの中では、メディアにとっても見覚えのある青年がまっすぐこちらを見つめているように見える。
 もちろんこれは錯覚だ。カードの図柄は不変である。しかし意思の存在を思わせるだけの淀みを感じるのも確かだった。間違いなく、この中には『なにか』がいる。
 エミヤも、カードの中の赤毛の青年も、メディアにとっては知らない人物ではない。どこかの戦争に参加した分霊が持ち帰った記録は今ここに現界している彼女も十分承知している。奥に無言で立つクー・フーリンもその辺りは変わらないようで、机上の小さな四辺形に目をやって小さく鼻を鳴らしていた。
 あなただって事情を知っているのは変わらないのだから少しは説明しなさいよこの役立たず、と思いつつも口に出さず、マスターへの返答を優先する。
「通常はあり得ざるべきもの。それを受容できないままに取り込んでしまったせいでエラーが起きているんでしょうね」
「あり得ざるべきもの……?」
「少なくともあの坊やにとって、という話になるけど。そうね、お嬢ちゃんの前に、自分と全く同じ見た目なのに、誰かを守ることなんて欠片もせずそこの槍兵みたいに攻めることしか考えない人物が現れたらどうする?」
「あ、はい! 私ですか?」
「おいこらキャスター、喧嘩売ってんのか」
「あら、あなただって守るばかりで攻勢に出ない自分がいれば気味が悪いでしょう? いいとか悪いとかではなく、『真逆の性質を持つ自分』という存在を論じるためのただの例えよ」
 殺気はないので軽いじゃれあいだったのだが、傍目には険悪に見えるメディアたちのやり取りに慌てたようにマシュが答えた。
「ええっと、そうですね。私も結果的にマスターの守護になるのであれば前にも出ます。しかしマスターが後ろにいるのに守護を放棄してしまう自分というのは、想像ができないというか、許しがたいというか……」
「そう。自分だからこそ認めがたい・許しがたいっていうものの究極が、あのアーチャーにとってはそこの礼装ということなんでしょう」
 わざわざ手土産まで持参して相談しに来たエミヤを思えば、メディアの推論はほぼ正解そのものだった。
 しかし彼の心象風景は彼だけのものであり、結局のところ何が起こっているのかはエミヤ本人以外にわかりもしないし解決することもまたできない。メディアやクー・フーリンがこの問題の解決に乗り気でないのもこれが理由だった。
「だから言ってるだろうが。全部アイツ個人の問題だし、とすればテメエの始末くらいテメエでつけさせるべきだってな。外野が何を言おうが無駄だぜありゃあ」
「同意見というのも癪ですが、彼に何を言おうが無駄だというのは私も賛成するわ。彼の魔術は全て自己で完結している。他人が手を出したところで録なことにならないでしょう」
 対面に腰かけるメディアと背後に立つクー・フーリンの双方に諭されて、マスターはしばし唇を噛んで黙り込んだ。ここでメディア達を薄情ものだと糾弾するのは筋違いだということくらいは理解してくれているらしい。
 エミヤを説得し投影を取り戻させるというのは、マシュ・キリエライトに盾を捨て敵との戦いに狂えと命じるくらいの無茶である。そこを承知せねばこの問題に関わることもできないし、承知したところでどうしようもないことに気づくだろう。
「……メディアたちの言うことはわかった。そういうことなら、当事者の方で解決するしかないのかもしれない」
「先輩! しかし、それでは――」
 重く発したマスターの言葉に、控えていたマシュがギョッとして腰掛けるマスターの肩に手をかけた。当事者たるエミヤ当人が手の施しようがないと断言しているのだ。解決を任せるというのは、事態を諦めるのと同義である。
 そんな従者の呼びかけに、しかしニコリと微笑んだマスターは机上の概念礼装を拾い上げ、
「今の話だったら、ここにいる彼も『当事者』でしょ? 責任持って、なんとかしてもらおうよ」
 ……なるほど。
 確かに、道理にかなった話ではある。全く未熟なマスターであるが、こういう発想は悪くない。
「事態が悪化する可能性もあるけれど――可能性に賭けるんでしょうね、あなたなら。いいでしょう、マスター。そういうことなら知恵を貸します」
 下手をすれば本当にあの赤いアーチャーが使い物にならなくなるが、そこを賭けられるのがこのマスターの強みであろう。
 不敵に笑い頷く年若いマスターに応えて、メディアはフードの下で妖艶に微笑んだ。



 広い、何もないだけの空間。
 つなぎ目すら曖昧な白一色の広大な半球。その内側の磨かれた平面部分にエミヤは立っていた。自分の赤い装束がひどく場違いに感じる。
「我がマスターはなかなかギャンブラーだな。私にはどうも、追い討ちになるとしか思えんが」
 苦い声で言うエミヤの優秀な瞳の先には、カードの置かれた台だけがあった。およそ五十メートル。これしきの距離ではエミヤの目にとっては目の前に置かれているとそう変わりない。小さく切り取られた額面の中の赤い髪も琥珀の瞳も何もかも気に入らず、エミヤは視線を外して、半球でいう球面に位置する遠いカメラの方へと目をやった。
『異常があればすぐ中止するよ。元を正せばリミテッド/ゼロオーバーに何か言い分があるのが始まりのようだから、そこを確かめて来てほしい』
 インカムからマスターの声が響く。今エミヤにはインカムだけでなく、バイタル確認のための機器がいくつか装着させられていた。意味を成すとは思えないが、止めるほどの理由もない。
 こんな荒療治に出るよう吹き込んだのは、十中八九魔女の仕業だろう。今もモニタとマイク越しに事の顛末を観察しているはずだった。エミヤを散々痛めつけてくれたクー・フーリンもマスター命令でつき合わされているはずで、今更やつら相手に繕うほどの矜持もないが、あえて無様を晒さねばならないというのはあまりいい気はしない。
 それでも、役立たずの英霊を無意味に養うよりかは、無茶でも解決の可能性に託す方が建設的で合理的だろう。個人としての感情はともかく理性としてはマスターの決定に賛同していた。だからこそ、エミヤはこうして演習場に一人立っているわけであるのだが。
 視線を戻す。細い円柱がつき出るように見える台の上、白いばかりの空間に染みのような色味が差している。
 生物ですらない、しかし無機物というわけでもない。
 お互いよくわからない存在に成り下がったものだな、と思う感傷の馬鹿らしさに瞳を閉じた。不思議と、あれだけの頭痛は治まっていた。
 演習場は閉鎖空間だ。扉を閉ざされれば空気の出入りはなくなり、無風になる。だけどその『当たり前』を忘れ去って、エミヤはまず乾いた風と鉄の香りを幻覚した。
 暗く閉ざした視界の向こう、あの日の炎に似た赤がちらつく。


 なすべきことも、できることも。
 今も昔も、結局自分にはこれしかない。
「――I am the born of my sword.」
 姿を変え、名を失い、理想すら一度見失い、それでも変わらなかった八節の呪文。
 世界への宣言に見えるそれは、本当はただ人生の反芻に過ぎなかった。
「Unknown to Death. Nor known to Life.」
 エミヤに残された最後の『魔法』。
 かつて魔法使いに憧れて、――いや、今もずっと憧れ続けている男に、褒美のように授けられた大禁術。
「So as I pray,」
 生涯の結実。人生の象徴。
 誰とも重ならない、英霊エミヤだけに許された宝具。
「Unlimited blade works.」
 無限の剣製。
 喰らうように剣を宿す、エミヤ■■■の心象風景。


 ――ふと、あの礼装に描かれた人ならどんな呪文を唱えたのだろうと。
 そんな幼い疑問が頭を過ぎった気がしたが、拡大し反転していく風景にかき消え、エミヤにもわからなくなった。



 祈るように閉じていた目を開く。
 乾燥した空気は、熱せられ立ち上るように吹き荒び砂粒を運んで頬を叩いている。
 生者の絶えた赤い世界。剣だけが寄り添う見慣れた光景の先、当たり前のように男が一人立っていた。
「……よう。久しぶりだな」
 はにかんで言う。白い羽織が荒風にはためくのを見て、似合わないなと目を細めた。
 この男は、もっと生き物の満ちた気配がする。緑深い竹林、朝露で濡れた落葉、森の奥に現れる清廉な湖畔、緩やかな風に揺れる満開の桜の下。そういうところの方が、彼にはきっと似合っている。
「私は、君のような人間との面識はなかったように思うがね」
 するりと自分の口から零れたいつもの口調に、エミヤ自身が安堵した。
 呆けていた気を引き締めて身に付けた計器類を確かめてみたが、やはり機能はしていないようだ。当然マイクへ呼びかけても返答はない。
 文字通り世界が違うのだから届く方が奇妙な話だ。予測していた事態だったのでエミヤはさっさと切り替えた。
「……それよりこの距離はなんだ。話しにくいんだが」
 少し声を張り上げる。男の姿は現実の演習場と同じように、エミヤより四、五十メートル先にあった。とても談笑に興じるような距離ではない。
「む。仕方ないだろう、近づくとアンタ苦しそうだったじゃないか」
「あの時とは状況が違う。本当に反発するしかないのなら、距離を開けようが変わらず私の頭は痛んでいただろうし、とっくにこの空間は瓦解しているだろうよ」
 あれだけの醜態を晒しておいて今更よく回る口だと呆れる自分もいたが、文句を付けられている側の男はそのエミヤのセリフにすら何か眩しいものを前にした時のように目を細めた。
 ……調子が狂う。エミヤの一挙一動に息を詰めてまで胸を震わせる相手の態度に、落ち着かなくなって口を閉じた。首ごと視線を背けてみたが追ってくる視線は振り払えず、諦めて向き直り男の方へと一歩を踏み出す。
 踏み出した足は、エミヤの願い通りに震えの一つもなくしっかりと荒廃した大地を踏みしめた。ざり、と慣れた音が響き、間もなくそれが二つ分重なった。こちらを真っ直ぐ見据えたまま、概念礼装の彼が同じように足を進めている。
 飢えも渇きも錯覚である身のはずなのに、喉が渇いて仕方がない。あってないような唾を飲んで無理矢理喉を上下させたが、気休めにもならなかった。手も足も震えていないのが奇跡のようだ。その奇跡の代償に、吐息だけは隠しきれず震えている。
 この目で見て、構造も理念も年月も全てを心の裡に落としこんで、それでも目の前の男とその一振りが俄には信じがたかった。こんな男は存在してはならないと根幹が悲鳴を上げていて、しかし写し身たる肉体はついに一言の呻きすら漏らさず、互いに相手を目前にして立ち止まった。背丈はちょうど同じくらいで、見下ろすことも見上げることもなく、背を向けることも背中を追うこともない。
 真正面から、全くの対等で、嘘のような邂逅を果たしている。認めがたく否定したいと叫ぶ自分が確かにいるのに黙りこんでしまったのは、きっと彼のこの瞳が原因だった。
 ――讃えるように、すがり付くように、慈しむように、愛おしむように。それは子供のように純真で、陰りも曇りもない憧憬だけを詰め込んだかのような輝きだった。
 羨んでいたのはこちらの方だというのに、こんな視線を送られてなお「おまえが疎ましく妬ましい」などと言えるほどエミヤは恥知らずではない。そうすると皮肉も罵倒もうまく思い付かず、会話に適した距離にまで詰めたというのに乾いた唇は接着されたかのように閉じたまま動かなくなった。
「その……傷は大丈夫なのか?」
 そこに、助け船のように問いかけられる。
 精悍な顔立ちと立ち姿に似合わず、言葉も口調も少年のそれだった。それはエミヤが記憶する衛宮士郎のものとほとんど変わりなく思えて、少し安堵して張り付いた口を開いた。
「傷そのものよりももっと大きな問題が生じているからこんなことをする羽目になっているのだが。そもそも心配なぞ今さらだ、人を傷物にしておいて」
「キズモノ、って……。おまえ、そういう言い方はやめておけよ」
 エミヤは投影が封じられサーヴァントとしての働きを全うできなくなった自分を傷の入った刀剣か何かに例えて言ったのだが、何故か男はそれに過剰反応していた。誤魔化しのつもりなのかゴシゴシと擦る頬が赤く見える。
「? そう妙なことを言ったつもりはないが」
「……いや、なんでもない。アンタが俺との間にあったことを何も引き継いでないってことはよくわかっている。今のは俺が気にしすぎだった。忘れてくれ」
「おかしなやつだな……」
 皮肉でもなんでもなく率直に思ったまま呟いた。畳み掛けるように気にするなと言われても気になるが、「いつまでもガキのまんまじゃあるまいし」と独語してかぶりを振った男はそれで切り替えたようなので掘り返すのは止めておく。
「ダメだな。あんたに逢える奇跡があったらもっと言いたいことがあったはずなのに、どうにも言葉にならない。――とりあえず、変わりがなくて安心したよ」
「……水を差すようで悪いが、私には君に関する記憶も記録も何もない」
「そうか。自分で言うのもなんだけど、おまえと別れてから結構変わったからな、俺」
 見違えたって意味だと受け取っておくよ、などと本当に嬉しそうに頬を緩める。
 エミヤはただ困って眉根を寄せた。身に覚えのない憧れを向けられることほど据わりの悪いものはない。少なくともエミヤの主観に於いて、目の前の男の方がよほど存在として完成されているのだからなおさらだ。
「ごめん、困らせるつもりはないんだ。あんたと別れるまでの俺は本当にただのガキだった。覚えてないのも無理はないってわかってる」
 エミヤには、こことは異なる世界――おそらくは正史と呼ばれる冬木において召喚されて聖杯戦争を戦った記録がある。その中で衛宮士郎と出会ったことは、記録と呼ぶには抵抗があるくらい色濃くこの分霊の持つまやかしの思い出を彩っていた。
 であるならば、あの衛宮士郎のどれかが、目の前のこの完成形に至るというのだろうか? 当の本人がそう語る以上事実なのだろうが、エミヤにはとても信じがたかった。見目がよく似ただけの他人と言われるほうがよほど信じられる。
 納得がいかない様子のエミヤに、概念礼装の男は眉尻を下げた。外から見るものがいたならば、色違いなだけの同じ人物が、困り顔で向かい合っているのに鏡像でも見た心地になったのかもしれない。
「正直あんたがここまで俺を受け入れてくれないとは思ってなかった。俺の方は全然平気だしな。下手に苦しませて悪かった、頭痛はもう大丈夫なのか」
「くどいぞ。苦しんでまでわざわざお前と会話になど勤しむものか。君こそ、人の都合もお構いなしに姿を見せたのはそれなりの理由があったんだろう? そちらの言い分を聞いてこいとのマスター命令だ。聞くだけなら聞いてやる」
 ――少しの虚勢を張ったが、幸い男には気づかれなかったようだった。
 痛みがないのは嘘ではない。エミヤ自身拍子抜けするくらい、彼との対面は苦痛を伴わなかった。
 それにも関わらず、呼吸一つすら意識せねば上手くこなせないほどに緊張している。エミヤが生涯をかけて勝ち取った投影行程を上塗りし、宝剣魔剣すら収めた剣の荒野のすべてを凌駕して立つ眼前の男の存在に未だエミヤは圧倒されていた。
 それは屈辱であり、痛みを伴う歓喜だった。絶対に至らぬものとして切り捨てた結論が、かつて袂を別ったはずの自身の側面が、『剣』という答えを提げて己を懐かしんでいる。
 エミヤの心中は荒れていた。彼を否定し、別存在として定義し、この丘から永遠に葬り去って二度と思い出さぬよう封じるべきだと唱える臆病で堅実な理性と、無謀な誘いを持ちかける強欲な本能がせめぎあっていた。
 裡に渦巻く獣が、見苦しく瞳をぎらつかせて囁く。
 おまえはあのうつくしい剣を、手にしてみたくはないのかと。
「――言い分か。なんだか大層なことになっちまったけど、俺が言いたかったのは単純なことなんだ」
 理想の極致、収斂の概念にまで達した男は自身の功績に全く無頓着にのんびりとした声で言った。携えた刀を無造作に持ち上げる。
「言いたいことというより、ただ見てほしかっただけかもしれない。……本当に、俺はそう大した人間じゃないんだ。あんたへの当てつけのつもりで、こうして一振り鍛え上げた。これは俺の人生と存在のすべてになったけど、逆に言えばそれだけだ」
「……それだけ、などと」
 呻くように呟く。
 相手が誰であろうと――それを作り上げた当人であろうと、この剣を軽んじられるのは耐えがたかった。
「あんただって似たような物言いするだろ? 俺は、英霊にはなれなかった。生涯も理想も全てくべて、手に残ったのはコレだけだ。俺にはこれしかない。おまえにこの世界しか残らなかったように」
「……同じなものか。この固有結界すら、守護者となったから展開できるようになったものだ。オレには自分で手にした何かなどただの一つもない」
「またそういうことを――」
 男はムッと眉を寄せたが、すぐにやめてゆっくりと頭を振った。
「やめよう、水掛け論だ。俺たちはもうどうにもならない固定された存在同士だし、だからこそ憧れるしかないものだってあるだろう」
 謂わば隣の芝だ。手に入らないものに限って、美しく輝かしく思えてしまうのは人の性なのだろう。
 彼がエミヤに憧れを抱くというのはやはりエミヤには納得しがたいことであったが、堂々巡りになることには同意できたので険しい顔のまま頷いた。
 不思議な感覚だ。同じ背丈、同じ顔立ち、同じ体格、同じ起源。だけど今こうして全く別の存在として対面している。
 エミヤの象徴である広大な丘は一つの世界であり、リミテッド/ゼロオーバーが持つのもそれと同じだけの質量を有する唯一の剣であった。ベクトルを真逆に同じだけ突き進んだ到達点同士が、鏡に写る互いの姿を羨んでいる。
 その鏡面の先、赤い髪の男がまた眩しげに目を細めて手を伸ばした。彼の手から離れた刀が切っ先を下に落ちて音もなく地面に突き刺さる。
「言いたいことも、伝えたいことも一つだけだ。これをおまえに預けたい。作られるだけ作られて一度も振るわれなかった可哀想な剣なんだ。あんたなら、きっとうまく使ってくれるだろう?」
「……君は忘れてしまったようなので教えてやるが、私が扱うのは全てが贋作だ。何を託されたとしても、それそのものを振るうことはない」
「わかってるさ。だけど、贋作だろうがなんだろうが、俺の剣は俺の剣だ。『贋作が真作に劣る道理はない』。そうだろう? アーチャー」
 どこかで聞いたようなことを、と思いつつエミヤは何も言わずに口を閉じた。
 言い訳は止めよう。オレたちは否定するか受け入れるかのどちらしかない。そして――本当はもうずっと前から――エミヤの心は決まっていた。
 いつだってそういう人生だ。どこへ行っても、この魂はきれいなものに手を伸べるのを止められない。
「……簡単に言ってくれる。いいだろう、精々使い潰してやることとするさ」
 言葉はいつも通りに、表情すらも完璧に取り繕う。
 死にたくなければやめておけと言う理性の制止を振り切って、エミヤは剣に手をかけた。
「――――っ!」
 触れた点から炎が走る。サーヴァントとして再現された肉体を走る魔力回路を逆流していくような、あるいは神経と一体化したそれをまるごと引き出されていくような、存在を塗り替えられる感覚がする。
 起源と概念は完全な等号を示し、この瞬間、エミヤは握る剣であり、握られた刀こそが丘の主であった。境界線をつけられず、『剣』という概念へ収斂されゆく世界が軋んだ音を立てる。拡大と収縮という相反する性質が接点を得て融合され、矛盾を引き起こしていた。
 自分が折り畳まれ圧縮されていく想像を絶する苦痛にエミヤが一言も漏らさずにいたのは、ひとえにこちらを見つめる一対の瞳があったからだ。腹立たしいことに視線には心配げな様子すら垣間見えた。
 よりにもよってこの男の前で、これ以上の無様を曝してたまるかという意地だけで歯を食い縛る。

 ――衛宮士郎にとっての強さとは、いつだって軟弱な自分を斬り殺す己自身だった。できないことも勝てない敵も振るえない剣もありはしないという強固なイメージ。それが虚勢であっても、他でもない自分自身が信じるのなら最強の自分こそが真実になる。それがすべてで、それだけが支えであった。
 ゆえにエミヤは、一切の不純がない完璧な剣に心を震わせる自らをまず殺した。全てを捧げて鉄を鍛ち続けた男の生涯を称える自分を、人の身のまま完成形に至った奇跡を喜ぶ自分を殺す。少年のように憧れる己などただ邪魔なだけだ。 
 英霊エミヤは錬鉄の英霊。すべての剣を内包する傲慢で強欲で果てのない世界こそがエミヤの象徴だった。
 かつても今も、空の両手こそをよしとした。こうして誰かの剣を握るために――その思いに寄り添うために――この手はいつだって空けられているのだ。
 握りを強くする。背反する互いの生きざますら飲み込んで、いつものように、不敵に笑った。
「この程度で私を見返そうなど、やはり貴様は未熟者だな」
 向かい合う青年が目を丸くする。そうして恐らく、彼にとっての『アーチャー』の面影を英霊エミヤに写し見て、くしゃりと顔を歪ませた。
「……そっか、これでもまだ足りないか。やっぱりアンタは、変わらないな」
 下手くそな笑顔を浮かべる声が濡れている。
 それを聞き届けて、アーチャーは静かに剣を引き抜いた。


 顕わになる刀身が夕焼けに似た赤光を反射して涼やかに煌めく。
 『剣』という概念の結晶。収斂の証は、担い手を得て閉じ込めた概念を滲ませる。
 それは乾いた風に乗り、赤い世界を拡散していく。
 漂う火の粉は一際輝き空へと大きく立ち上る。
 軋む音は歓喜の産声に変わっていく。
 錆び付いて眠るすべての贋作が一度大きく脈動する。
 世界が生まれ変わる。


 錬鉄場に、火が灯る。





「いやー、一時はどうなることかと思ったけど。なんだかんだで丸く収まったようでなによりだよ」
 エミヤ君の紅茶もいつもよりおいしく感じるなあ、とロマニがだらしなくソファーの背もたれに体重を預けている。その向かいに座ったマスターとマシュも、手間のかかった焼き菓子の数々に黙々と舌鼓を打っていた。エミヤは茶会の席の傍、黙って給仕に徹している。迷惑をかけた手前、行儀の悪さを指摘するつもりはない。
「うんうん。エミヤの能力は向上して、リミゼロも霊基変還されずに済んで、おいしいお菓子まで食べられて! いいことずくめだね」
「先輩、むぐ。エミヤ先輩のお菓子が、むぐむぐ、おいしいことには全面的に同意しますが、まだ快復されたわけでは、むぐむぐむぐ、ありませんので、あまり喜び過ぎるのはどうかと。というか、リミゼロとは?」
「リミテッド/ゼロオーバー。長いから略してリミゼロ」
「なるほど……。咄嗟な呼び掛けにも対応可能な合理的なコードネームかと」
 頷きながらもクッキーに伸ばす手が止まっていないマシュを見てエミヤは苦笑した。
 回路に焼かれた腕はいいとして、他の回復阻害の呪い付きの傷は完治までもう少しかかりそうだが、こうしてお詫び代わりの製菓をするのに支障があるほどではない。マシュの配慮はありがたいが、この傷をこさえてくれた当人に感謝の気持ちを込めた激辛麻婆豆腐を用意して差し入れて一戦交えてくるくらいには余力があった。
「しかし、固有結界の先にはあの程度の通信機器じゃ届かないんだなあ。勉強になったよ。正直あれ以上の機器はマスター用のやつしかないんだけど……改良しなくっちゃ……」
 ぐだっとしたままロマニが独り言のように言うと、マシュが神妙な顔で「そうですね」と同意した。話を聞きながらフィナンシェを咀嚼したマスターも大きく頷く。
「バイタルだけは見れていたから無事なのはわかってたんだけど、変動も大きいし何が起こっているのかわからないしハラハラしたよ。――ところで、結局中で何があったのかは教えてくれないの?」
「またその話か? 聞かせるほど面白みのある話でもない。やつの言い分を聞いて折りあいを付けてきただけだ。あまり詮索好きなのも嫌われるぞ、マスター」
「その躱し方が余計に気になるんだけどなあ……」
 エミヤの返しに彼のマスターはやや不満そうにしたものの、それ以上は聞かずにティーカップを傾けた。
 素直に引き下がった主人に、逆にエミヤの心が痛んだ。隠したいのはひとえにエミヤの羞恥心がゆえである。騒動を巻き起こした張本人として、本来は説明責任を果たすべきなのだろう。エミヤが第三者としてここにいたのならば、この期に及んでの往生際の悪さを追求したに違いなかった。
「……すまないな。代わりに、次のレイシフトの際には君のために尽力すると誓おう。かけた迷惑に値するだけの働きを期待していてくれ」
「おお、頼もしい一言! ということは、礼装はリミゼロのままでいいの?」
 妙な略され方をされることが決まったらしい概念礼装に思わず笑った。呼びやすいか呼びにくいかで言うなら、確かに呼びやすくはある。このマスターに掛かれば大英雄だろうが王であろうが関係なしにこの調子で、そういうところがマスターがマスターたる所以だろう。
「そうだな、そうしてくれ。これを外したらうるさいやつがいる」
 チラリと視線を部屋の隅にやりながら言う。「うるさいやつって……?」と疑問が増えた様子のマスターたちが座る机を挟んだ向こう側だ。
「……なんだよ。さっきから至って大人しくしてるだろ?」
 エミヤに並ぶほどの体躯に育った和装の男が、不満そうに口を尖らせている。確かに、どんどん消えていく菓子の数々を恨めしそうに見つめる視線以外は静かにしてはいる。
 大人しくしているとはいえ通常なら気づかないはずはない部屋の端の存在に、しかし室内の誰一人として気づいていなかった。
 まあ、つまりはそういうことだ。全く厄介なモノに憑かれたものだ、と思いつつ口には出さず、本当は相談すべきことなのだろうが相談もしない。エミヤにしか見えずエミヤとしか話せない男というのは率直に言って邪魔だったが、害はないのだから無理に排斥する必要もないだろう。
 長い間捨て置かれて子供のように拗ねている大の大人に笑いを噛み殺しつつ、エミヤの台詞に首をひねったままのマスターを誤魔化すためにティーポットを手に取った。
「ところでマスター、おかわりはいかがかね? 気分を変えたければ、ハーブティーなども用意できるが」
 問うとぱっと顔を明るくしたマスターから「いる!」と威勢のいい要望が返ってきた。恐縮しているマシュに気にしないよう笑いかけ、準備のために一旦退室する。

 今の時間の厨房なら人気は少ない。浮遊霊一人に餌付けするくらいなら人目を盗んで可能だろうが――。さて、おあずけを食らっていた男はエミヤの機転に気づいてついてくるかどうか。
 そんな賭けにもならないことを思いつつ廊下を歩く。どこを歩いても見分けがつかないよく似た作りの通路だ。
 不意にエミヤは、同じような廊下でリミテッド/ゼロオーバーを前にしたことを思いだした。あの頃と比べると付き纏われている現状はむしろ悪化しているのだが、悪くないなどと感じている自分の変わり身の早さに自分で呆れる。
 だけど、悪くない。悪くない気分なのだ。
 いつまでこの奇妙な状況を隠し通せるかはわからないが、それまでは些細な秘密を楽しんでしまっても構わないだろう。
 腑抜けたことを考える自分をどうしても嫌えずに、エミヤは誰もいない廊下で一人穏やかな息を吐いた。背後からは、エミヤが錬鉄の極致として認めてしまった存在の気配が迫っている。
 追いつかれる前に緩んだ顔を引き締めた。精々しかつめらしい、衛宮士郎を否定していたころの自分を取り繕う。
 人類を救うなんて大事を果たそうというのだ。マスターの一声で矢とも剣ともなり果てる我が身であるが、少しの楽しみくらいはあっても罰は当たらないだろう。こんな奇跡のような出会いがあったのだから。
 そんな女々しい思いを一人で抱いて、エミヤは内心とは真逆な表情のまま、追いついたリミテッド/ゼロオーバーへと振り返った。

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