「辺野古のこんな無謀な工事はやめてくれっていう意味で…」 同志社国際高校「転覆死亡事故」が我々を苛立たせる理由

6:16 配信

東洋経済オンライン

■「不慮の事故」というよりも「人災」

 沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設現場周辺で発生した抗議船転覆事故で、高校生を含む死者が出たことが大きな波紋を呼んでいる。

 平和学習の一環として見学に訪れていた高校2年生の女子生徒と船長が死亡するという、取り返しのつかない事態となった。事故当時、現場付近は波浪注意報が発表されており、海上保安庁は「高波」が原因の可能性があると分析。明文化された出航基準がなく、安全配慮義務が十分に果たされていなかった疑いが指摘され、3月20日には、第11管区海上保安本部が船の運航団体「ヘリ基地反対協議会」の事務所などに業務上過失致死傷容疑で家宅捜索に入った。

 また、修学旅行を企画した同志社国際高校側の責任を問う声も高まっている。平和を学ぶための学習の場所が、突然全員が海に投げ出されて、溺れて命を落とすような危険な場所となったことに対し、学校側の危機管理があまりにもお粗末だったからである。

 高校が3月17日に開いた記者会見では、そもそも人を乗船させるのに必要な事業登録の有無を把握しておらず、生徒や生徒の保護者に「抗議船」という言葉で説明せずに、「戦争、基地反対を唱えている方々が乗ったりしている船」などと伝え、保護者からの同意なども取っていないことなどが明らかになった。

 なお、転覆した「平和丸」「不屈」の2隻は、前出の「ヘリ基地反対協議会」という新基地建設に反対する市民団体が運航しており、普段は工事の監視や抗議に使用していた。

 現時点でこれまでの話を総合すると、予測不可能な「不慮の事故」というよりも、「人災」の可能性が高まってきているといえるだろう。

■抗議活動家による「死者の政治利用」

 このような事件の実態解明に向けた追及と並行して、死亡した女子生徒の取り扱いについて気になる動きがあった。それは、あたかも亡くなった女子生徒が「基地建設工事に反対する抗議運動の犠牲者」であるかのように示唆するコメントが現れてきていることである。

 抗議活動を続けている女性が新聞社から受けた取材で、「思いはきっと、『辺野古のこんな無謀な工事はやめてくれ』っていう意味で辺野古に来ていただいたと思うんですね」と述べたことは、まさに「死者の政治利用」そのものであり、より厳密には「殉教の政治学(Martyrdom Politics)」という概念で言い表せる主張である。

 「殉教の政治学」は、特定の人物の死を「殉教」として神聖化し、それを政治的な動機付けや集団のアイデンティティ形成、あるいは既存の体制への抵抗や支持の強化に利用するプロセスや戦略を指している。

 政治学者のアンドリュー・R・マーフィーは、単なる「死」が「政治的殉教」へと昇華されるには、3つの要素が必要であると提唱している。「不自然な死」、「神聖化」、「継承」だ(以下、Theorizing Political Martyrdom: Politics, Religion, Death, and Memory/Political Theology Volume 24, 2023 - Issue 5)。

 「不自然な死」は、国家権力による暴力や自発的な自己犠牲など、非日常的な状況下での死のことをいう。「神聖化(Consecration)」は、その死を日常的な文脈から切り離し、「大義のための犠牲」という崇高な意味を与えるプロセスであり、物語(ナラティブ)の構築が不可欠となる。

 3つ目の「継承」は、構築された殉教の物語を、記念碑、儀式、メディア、教育などを通じて次世代や広範な大衆へ伝えていくこと、犠牲者のパッケージ化を経た「時を超えた伝承」を意味している。

 今回の事件に適用すると、「不自然な死」は、基地建設工事に反対する抗議船に乗って見学をした生徒たちを、「社会運動の一環において図らずも犠牲になった人々」として、活動家から認識されている点に集約されている。

 もちろん、生徒たちは学習コースの1つとして見学していただけであり、抗議活動に参加していたわけではないだろう。だが、抗議活動をする側からすれば、見学はその活動と密接な関係にある。自分たちの思想への理解を求めるだけでなく、「若者が見学に来ているという事実」自体が、活動に正当性を与える材料になるからだ。

 そして、死者の言葉として「辺野古のこんな無謀な工事はやめてくれ」というメッセージを表明することは、あまりに直接的な「神聖化」そのものであり、女子生徒がまるで「大義のための犠牲」になったかのような印象を与えている。

■「悲劇」を運動の正当化や動員に利用する手法

 おそらく今後、追悼行事と称して女子生徒の死が「抗議運動を正当化する犠牲者の象徴」として用いられる恐れがあるだろう。これは非常に危ういスタンスだ。「何が間違っていたのか」という反省のきっかけを失わせる懸念があるからである。

 「殉教の政治学」というフレームで眺めると、似たようなバージョンが過去にも起こっていることが分かる。2024年6月に同じく辺野古新基地の建設現場で発生した「ダンプカー事故」である。

 辺野古の工事車両の出入り口で、抗議活動をしていた女性と、それを制止しようとした警備員の男性が土砂を搬出するダンプカーに接触。男性が巻き込まれて亡くなり、女性が重傷を負うという凄惨な事故となった。

 映像や目撃証言によれば、抗議者が車両の前に飛び出し、それを止めようとした警備員が巻き込まれた形であり、いわば抗議活動側の「危険な戦術」が直接の引き金になった事故でもあった。

 しかし、一部の活動家やメディアは、「そもそも政府が強引に工事を進めなければ、こんな事故は起きなかった」「警備体制に問題があった(国に責任がある)」という論調を展開した。

 要するに、亡くなった警備員への哀悼よりも、「強権的な工事が生んだ悲劇」という文脈で語り直され、抗議活動の正当性を強化するための「象徴的な事件」という物語(ナラティブ)が生まれたのである。

 「殉教」ではないが「広義の犠牲」という解釈の下、このような責任転嫁が行なわれた。社会運動において、自らの失策や暴走によって生じた悲劇を「体制側の暴力」や「社会の構造的欠陥」にすり替え、運動の正当化や動員に利用する手法は珍しくない。

■物語(ナラティブ)の誘惑とその作用について

 今回の事件でも、事故発生直後の海保の対応について、SNSで「反対派を敵視する海保が速やかに救助したか検証が必要だ」との識者の意見が投稿され、救助が遅かったことが被害を招いたかのように受け取れる見解が示されている。

 なぜか。理由はシンプルだ。まず、「自分たちの理想のために仲間や一般の人々が被害に遭った」という事実に耐えられないため、外部(体制)に悪の根源を求める心理がある。認知の不協和の解消と呼ばれる現象だ。

 次に、運動内部のミスを認めると、運動そのものの正当性が揺らぐことになる。そのため、死を「殉教」「大義のための犠牲」に昇華させることで、運動を神聖不可侵なものへ書き換えるのだ。

 これは右翼や左翼という党派性・イデオロギーを問わず、どのような社会運動にも共通して起こり得る「犠牲者の政治利用」であり、当然ながら国家は、常にそれを意識的に行なっており、それがもたらす効果にとても敏感である。

 マスメディアもその影響を受けるとともに、自身もまた積極的に物語(ナラティブ)を作り出す機能を担っている。実際、センセーショナルなものが反響を呼びやすいという力学の中で、自分たちの思い込みや危険性への内省は麻痺しやすくなる。

 わたしたちは、物語(ナラティブ)の誘惑とその作用について、冷静に受け止めながら「悲劇」の消費のされ方を見ていく必要があるだろう。

真鍋 厚 :評論家、著述家

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最終更新:3/24(火) 6:16

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