論理雑感講義
論理哲学論考を読んだうえでこの章に触れて欲しい。この章では哲学的な思索が試作として露わになります。言語的明晰化の限界問題や語りうることと語りえないこととの間を思念して知と情意を噛み砕いていきたいと存じます。
一、言語的明晰化の限界問題
まず哲学的な問題として、言語的明晰化の限界がどれほどの限界なのかが問題になっていることが挙げられます。私は日本語で文章を書くことが多く、その際に現場の英語で伝わることはほぼありません。日本語では英語の役割を果たすということがほぼできません。逆に英語で文章を書く際には、日本語で伝わることもほぼありません。英語には英語のニュアンスがありますが、日本語のニュアンスを持つ英語はないといってもよいでしょう。日本語で語る際に英語で語らなければならないこともほぼなく、日本語で十分である説明も多くあります。しかし語りうることに関して言語の代用性を導入するとき、日本語ではなく、あるいは日本語だけではなく英語でも語りうる妥当性が問われます。言語の代用可能性を導入するとき、一においてどれだけ多言語で語りうるか、という考え方がイデオロギーとして現前化します。このイデオロギーをとおして多言語理解といったものも価値を帯びてくる可能性があります。この言語の代用可能性の妥当性を判断する基体というものも懸念されえます。誰かが日本語だけではなく英語で代用的に語り、その妥当性の理由説明を巷に公開することが読者の多言語理解に繋がる。語りえないことというのは日本語がそれ自体だと考えられるとき、英語でも代用可能性があるかが問われます。日本語では語りえないけど英語では語りうる、という事態も中にはあると考えられます。逆に英語では語りえないけど日本語では語りうる、という事態もあると考えられます。例えば、日本語には「狸」という語がありますが、英語には「狸」という意味の単語がありません。英語ではおそらく「狸」という語を語りえないと考えられます。せめて「tanuki」と書いて表現しようとするものなのかもしれません。
二、知と情意
「狸」を英語で語りうることは不可能である、と知ることが大切です。そのうえで英語の至らなさを情意として感じる。語りえないこともあると情意で感じる。言語代用性のエッジが効かないと情意で感じる。情意で感じたことを茶の侘び寂びと擬えてみる。侘び寂びの寂びが言語の不完璧性を表意する。


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