他者論を乗り越えて④ スピノザ
他者論と言えば私だ (スピノザいい)
スピノザは神即自然という定立を打ち出し、すべての存在は神と同一であると説いた。ということは、他者もみな神と同一なのである。自己の家族、近所の方々、国境を越えて外国に住む方々は、みな神であるというのである。また、すべての存在のうちの消しゴム、輪ゴム、チラシ、楊枝棒といったものもみな神性があって存在するというのがスピノザの理論的概説であろう。
定立を打ち出し (スピノザいい)
すべての存在は神と同一である (スピノザいい)
神性があって存在する (スピノザいい)
楊枝棒 (スピノザいい)
全存在は神と同一である、と一見違和感を感じざるをえない説を唱えるところに、彼の魅力がある。目の前の自販機にも神性があるのであって、神性のあるものは主に威光を放っているように見える。空き缶ひとつをじっくり眺めてみるとよいであろう。そこには輝きや威光といったものがあることが導出できるはずである。輪ゴムにしても、燦燦と威光を感じることができるはずである。輪ゴムの黄金のような茶色感といったものを鑑みれば、輪ゴムには神性があるということを受け入れることは難しくないとわたくしは考える。紅茶にしても、光沢を放ちながらコップを揺するとき、心地よい揺らぎとなって現前する。紅茶の美的性質というものをロック的に考えれば、第一性質は、色合いの良さであり、第二性質は、紅茶の味の具合であることが窺える。第三性質を加味してみると、紅茶を鋳造する技術的方法が挙げられる。
全存在は神と同一である (スピノザいい)
一見違和感を感じざるをえない (スピノザ神)
自由意志というものをあり得ないと主張したスピノザであるが、これはケースバイケースである。猫のすべては自由意志があるが、犬は自由意志を持たない。このように猫にはあって犬にはない、という点を抑えていただきたいのである。鳥や兎には自由意志はない、という二点もわたくしは考えた。猫は能動的、ということを意識することがあるという。スピノザは、「自由とは能動的である」と説いたが、まさに「能動的な猫は自由」なのである。いかんせん、スピノザは能動的な猫を考慮していたわけではなかったように思われる。なぜなら、猫を見つけ、猫の自由意志について考慮していれば、能動的な猫を見出すことができたはずであり、実際、彼は猫に遭遇していなかったからである。
二、おくらばせながらスピノザの汎神論
スピノザが汎神論を主張するのは、絶対神という唯一の不動の動者があるという信仰心に基づくものである。アリストテレスが不動の動者を信仰したように、スピノザも絶対神を信仰したのである。両者の存在は同一神であることも懸念される。そして、唯一神の全世界に蒔いた神性が加味されるとき、神が全自然に宿る、という表記になるのである。すべての自然に神が宿る、というのは、神道の八百万の神々の着想と似通う側面がある。神々が八百万も存在している、というのであれば、汎神論気味な一説がこの考え方であろう。
【神性】
神の性格。神の属性。
心。精神。
汎神論 (スピノザいい)
絶対神という唯一の不動の動者 (スピノザいい)
おくらばせながら (スピノザいい)
本質追求の努力は意志によって目標とされる。この意志によるコナトゥスの実践が、自己の人生を彩っていく。神性のような性格になれたなら、自己は神と同等の人格となることであろう。
第三、聖コナトゥス
コナトゥスのもっと素晴らしい概念である、わたくしの考案した「聖コナトゥス」という概念がある。聖コナトゥスは正コナトゥスとも言い換えられる。正しく自己努力に基づいて本質を発揮することが「正コナトゥス」も発揮である。「正コナトゥスの素晴らしい発揮」が「聖コナトゥス」の発揮である。「正コナトゥス」を「正しい自己保存力」と解釈する手案もあるという。単に「コナトゥス」を「自己保存力」と解釈する方が非常に多くみられると思われる。正しく自己保存力を発揮するには普段から何かを一生懸命やってみる、その守破離の「守」をとことんこなしてみる。そして新しい自己の考え方を編み出して「破」を実践する。そこに自立の段階というものがあるが、ここでは自立を意識しないでいる。成功も創造も意識しないところにコナトゥスが介入してくる。涅槃を意識していないのに涅槃に至る。このように覚った存在者は求めなくても運命の小舟に乗って手に入れてよいものを手に入れる。これを純粋で神性的なモチベーションと称することができる。
第四、神性
神の属性という名の神性はどうすれば私たち現存在の存在に受け与かることができようか。「破」を実践するところに神性があると視る考え方もあるはずである。このとき、「破」を実践しようと意識していないのにもかかわらずスムーズに「破」の境地に立つことができるのは、神性を持つからである。


コメント