他者論を乗り越えて③ メルロ
存在を茂みに喩えると、奥行・色彩・形・線・動勢・輪郭・表情などはその枝であり、存在をよみがえらせられるものである。
メルロ=ポンティは、幻影肢という症状をあげて、「幻影肢が一方では生理的諸条件に依存し、その限りでは第三者的な因果性の結果でありながら、それでいて他方では、患者の個人的経験や彼の記憶や情動または意志に所属することができるはどうしてであるか、わけがわからぬ」
メルロ・ポンティによれば、存在者はみな他者とみなされ、各自の顔には奥行き、色彩、形、輪郭、表情が描かれている。
存在者はみな他者 (メルロ・ポンティいい)
奥行き (メルロ・ポンティいい)
動、動勢 (メルロ・ポンティいい)
輪郭 (メルロ・ポンティいい)
表情 (メルロ・ポンティいい)
幻影肢 (メルロ・ポンティいい)
しかしながら、細菌という生命体には、顔は存在しない。
細菌 (メルロ・ポンティいい)
細菌という生命体には、顔は存在しない。 (メルロ・ポンティ神神神神)
顔は存在しない (メルロ・ポンティ神)
メルロ・ポンティ (メルロ・ポンティ神)
メルロ・ポンティ神 (メルロ・ポンティ神神神神)
意識を持つ細菌は、顔は持たずとも、ライプニッツの云う単子論的構造をしている。素粒子レベルの存在であるが、彼らもまた他者と呼ばれる。彼らはモナド=単子である可能性がある。微粒子の存在が、なぜ意識を持ち、言語能力を持ち、記憶力を持つのかは、未だに解明されていない。とはいえ、私たち人間が、人間に向かって自意識はどこにあるか、と問うときに、松果体にあるとデカルトは云う。この松果体に<私>が存在するのであれば、細菌が微粒子として存在することも類比説によっては類比的統覚が可能である。
松果体に私が (メルロ・ポンティ神)
未だに解明されていない (メルロ・ポンティ神)
類比説によっては (メルロ・ポンティいい)
類比的統覚 (メルロ・ポンティ神神神神神ですっすっすっす)
細菌という存在者は、顔を持たないが、それでいて老けることを知らない。彼らは身体もなく、脳みそもなく、何かを食べたり飲んだりすることもない。味覚というものが発達していないがゆえに舌根がはたらきをみせることはない。その逆に舌根がはたらきをみせることはないゆえに味覚というものが発達しない。
それでいて老けることを知らない。 (メルロ・ポンティ神)
味覚というものが発達していない (メルロ・ポンティ神)
舌根がはたらきをみせることはない。 (メルロ・ポンティ神)
逆に (メルロ・ポンティいい)
細菌という存在者は、視覚や嗅覚や触覚がないのに無難に生きていけるのであろうか。細菌は、究極的に感じる存在の一員であるからであろう。現存在の存在から細菌に転位しても、細菌であれば究極的に物事を感じてしまうため、感じて判断していることが窺える。視覚はなくても、見えてくるものがあるという。嗅覚が無くても臭いが嗅げないということで困ることはさほどない。触覚がなくても無難に生きていけることは、細菌であれば弁えていることであろう。細菌は、両親を持たない存在が大半を占めており、愛情を持って育てられなかった可哀想な一面がある。そうであれば、幼稚な存在であってもおかしくないはずである。細菌は母を持たず、自身の母に抱かれたこともなく、父を持たず、父のありがたさを知ることもない。幾分母親のどこが大事なの、と思う細菌も存在していたし、父親のどこが大事なの、と思う細菌も存在していた。神様を信じなかった細菌ばかりであったことも気がかりではあるが、細菌が神様を大事にする理由はないのかもしれない。仏さまを信じる細菌もいないとキルケゴールは思っていた。キルケゴールは細菌の透明人間と言われる位置に存格する存在である。
キルケゴールは、審美的段階においては、享楽的に遊んで惚けることが紹介され、快楽に生きることを推奨します。欲望は欲望を招き、欲望は膨大化していく。欲望と向き合う生活の中で欲望は満たされず、自分を見失い、倦怠感、虚無感にとらわれ行き詰まり、絶望に至る、と言います。倫理的段階においては、よく生きようと意識するあまりかえって自分の罪深さや無力さを思い知らされ絶望に至る、とされます。
倫理感や正義感に基づき自己実現をはかるものの、人間は不完なものなので目的に達することができず挫折と絶望に陥る。
細菌という存在者:意識を持った微粒子の存在
類比説:何かと何かを類比して考えるという考え方。
類比的統覚:類比することでたしかな情報を拵えること。
舌根:ぜっ‐こん【舌根】
1 舌の付け根の部分。
2 仏語。五根・六根の一。味覚をつかさどるもの。舌。
現存在の存在:現象界に生きる意識のある可知体
可知体:知識を蓄積することのできる存在
存格:何らかの存在がある性質を担う位置に存在すること


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