他者論を乗り越えて② ハイデガー
一、レヴィナス
レヴィナスはわれわれは他者の悲痛の顔を覗いたとき、こちらも悲しくなって悲痛の顔をする、というパターンを考慮していた。他者は顔である、という言葉の意味は、「レヴィナスいい」という意味である。他者は顔である、という説は少々言いすぎているように感じる。他者の顔は大事だけれど顔のみを取り上げるのでは冗長であろう。他者は顔と身体と心と脳の結合体……という風に現状の概念をあらゆる角度から敷衍していくことも考えられる。自己が他者の何かを大事にするというときに、無意識に顔を一番大事にすることは往々にしてありうる。顔がすべて、という語の意味は、「レヴィナスいい」という内容である。顔がすべて、であるかのようにわれわれは日常生活を繰り返す。日常生活には他者の顔を見て第一印象で恰好良いと受け取ることの愉しみと苦しみがある。自分より恰好良いという印象があるときは、嫉妬心が湧くことがあり、自分より恰好良いわけではないという印象があるときには、優越感に浸ることがある。顔が恰好良いからといってその顔の面で得しかしないのではないか、という問いがあるが、そうとは言い切れない。顔が恰好良いと嫉妬されて微妙な展開になりかねない。顔が恰好良いわけではないからといってその顔の面で得をしないのではないか、という問いがあるが、顔が恰好良いわけではないなら親しみやすいと思われる傾向にあるであろう。日常生活において顔が普通だとかイケメンだとかいう言葉遣いがあるが、顔が普通なら顔の面で嫉妬されないし文句も言われない。イケメンであれば嫉妬心を抱かれるか好好印象を抱かれるかの瀬戸際であろう。普通の顔にもメリットはあるし、イケメンにもメリットがある。顔を整えたいと思う方が整形で顔立ちを変化させることを企図する場合が少なくないが、整形はしてはいけない、という観点から言えば、整形は間違いであることが窺える。レヴィナスは整形によって顔立ちを変化することを推奨するわけではない。顔がわれわれにとって身近で深淵なものだと考えるのである。妻が夫の顔ひとつ見れば、体調や気分に気付くことが考えられるように、妻は顔立ちを大事にしていることが窺える。妻は顔という外的基準軸と心の声を聴くという内的基準軸によって夫の容態を摘みとる。夫の容態は、顔に現れ、心の声として反映される。夫の容態に気付き、把捉する妻にとって、近所の人の容態に気付くこともしばしば可能である。「あの人は哲学をしている」という思惟を自然にすることのできるセンサーというものを哲学者は持っていることがあり、哲学者は哲学者と共鳴を共有する。哲学と何か、という命題を他者が理解していないことも詩人は感知する。詩人は、世の中の情勢に敏感であり、人の心に気付く敏捷性を持っている。詩人の能力の高さというものに哲学者も驚かされる。詩人は詩人の感性を感性的に把捉するとともに、詩人は妻の敏捷性にも感性的に把捉する。哲学者は詩人と同一性のある存在であることがあり、哲学者かつ詩人と呼ばれることも懸念されうる。哲学者の役割としては、他の哲学者の思想を究明することにあって、他の哲学者の生い立ちを研究することではない。哲学者や詩人の生い立ちを研究するのは専門家、あるいは歴史家の役割である。専門家は詩人の詩の思想や詩人の生い立ちを研究するのが本来のあり方であり、歴史家もそうした詩人の生い立ちを研究する。哲学者も歴史家と同様に哲学的背景を追及することはあるが、歴史家のように生い立ちを研究することは必ずしも世にみられるわけではない。学校の全教師においても歴史家とは研究の幅が格段に異なる。
二、ハイデガー
人間を現存在の存在、そして世界─内─存在と位置付けたハイデガーは、透明人間を視野に入れずに『存在と時間』を著した。私見ではあるが、林の透明人間も現存在の存在であり、世界─内─存在であることが懸念されうる。世界の内に存在する存在者を世界─内─存在と呼ぶが、どこからどこまでが世界のあり方なのかという区切りが難しいことが懸念されうる。この宇宙空間ではなく他の宇宙空間に存在している存在者があれば、第二世界─内─存在とか世界─外─存在といった表記で語られうることも懸念されうる。宇宙空間はいくつあるかが判然としていない。サボテンのように宇宙が玉付きで組みされていることも懸念されうる。宇宙が宇宙を作り、宇宙が壊れては宇宙が発生することがあるのではないかという疑問がある。原宇宙はどのように出来て存在者はどのように出来たのか、という問いがある。原宇宙は無限の過去からあったものであり、過去に対し決め付けようとした存在者のせいで出来たのではないだろうか。その存在者のうち一人は私の知り合いで、私のせいで宇宙が出来たのだろうか、とあった。宇宙が出来た理由は存在者の特殊相対性理論というわかりやすい行為によると考えられる。


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