いつも通りを、繰り返したい。
私はそう考えていた。このなんでもない日々が続けばいい、と本気で思った。
兄さんがいて弟がいて、三人で力を合わせて生きていく。
そんな日々が続けばいいと思ってた。
兄が先に独り立ちしていった。小説家になったと聞いた。物忘れが少しあるが、大丈夫だ、と言われた。
弟が、バイトに精を出すようになった。晩御飯も別々になっていた。
ある日、もう一人で暮らせるから、と弟が言ってきた。
そうか、とエミヤは答えた。
弟は静かに出て行った。
広い家に、一人だった。なので私も引っ越しをした。さすがに兄と分け合って払っていたマンションに住むほどお金の余裕はない。
「ただいま」
しん、と静まり返った静寂が聞こえた。
誰もいなくなった。
私は独りになった。
仕事をして、帰って、食事をする気もなく、紅茶を飲んで、朝起きて、ビタミン剤を飲んで、昼は栄養ドリンクで、食べ物が、喉を通らなくて。
気づいたら病院にいた。
弟と兄が深刻な顔をしている。私は余計な心配をかけてしまったな、と思った。
食事は相変わらず喉を通らなかった。
点滴が刺さってる。なんでだ。わからなかった。
煩わしくて取った。私は家に帰った。携帯も何もないからだ。
仕事先に電話をしたら、上司が少し声を詰まらせた。
君はしばらく休むべきだ、と言われた。なぜだろうと思った。
仕事は嫌いではない。定時に帰れるところだ。人となりも悪くない。
それでも上司は、しばらく休みなさい、とだけ言った。
そこまで言われて、わかりました、と私は答えた。
マンションを見渡すと、机の上に食事があった。
料理だ。なんであるのかわからなかった。
がたん、と音が聞こえた。玄関の扉が開いた音だった。
兄さんかな、と思った。
だがやけに荒々しい足音だった。
そして現れたのは見知らぬ男だった。
誰だ。
「エミヤ…」
男がこちらに近づいてきたので後ずさった。
なんだこいつは、なんでここにいる。
ここは弟と兄と私の三人の場所だ。
そうだ、料理は私が作ったんだ。
皆遅いからすっかり冷めてしまったじゃないか。
「…エミヤ」
林檎とも苺とも違う。血のような目だった。
「エミヤ、帰ろう」
なにを言っているのだ。ここが私の家だ。
ここがわたしの場所だ。
「エミヤ、帰ろう」
男がなおも言うので、わたしは後ずさって、ごん、となにかにぶつかった。背中を見た。電柱だった。
「エミヤ、な?帰ろう」
帰る?どこに?どこに帰る?独り?独りになった場所に?
「寒いだろ?あったかい場所にいくだけだ?な?」
男が、私に近づいてくる。
私は、わたしは、おれは、
「ランサー?」
ランサーはほっとした顔をした。
「なんでここにいる?ランサー、君はまた授業をサボったのか?」
まったく、いつもながら飽きれる。やれやれといった私を見て、ランサーがきゅ、と口を噤んだ。
すぐに笑顔になった。
「あぁ、またサボっちまってよ!エミヤはまーた先生に言われて俺のこと探してくれたのか?」
「当たり前だろう。お前がだらしないから、いつも私が苦労する」
「…っ、はっ」
ランサーが苦しそうな息を吐いた。
「そうだ、な!いつもありがとな!」
だがすぐ笑顔になる。ランサーが申し訳なさそうにするので、私は仕方ないと言わんばかりにため息を吐いた。
「なぁエミヤ、外じゃ寒いから中に入らないか?」
ランサーが私の手を握った。私は自分の手を見た。手首を見た。
包帯が巻かれてる。
なぜだ。いつ怪我をした。なんで包帯が巻かれてる。待て、私はここでなにをしているんだ。裸足だ。寒い。服装は、布切れ一枚だ。寒いはずだ。
あぁ。
ランサーの目を見て私は微笑んだ。ランサーはほっとした顔を見せる。周りを見れば息を切らした弟と、兄がいた。ランサーに似た男が二人それぞれ側についてる。
「ランサー」
「ん?帰るぞ、エミヤ」
「ランサー」
「寒いだろ?背負ってやるから」
「ランサー」
「どうした、エミヤ」
「どうして死なせてくれない」
凍りついた、という表現がまさしく正しい。
そうだ、私は、ランサーと付き合うようになった。なんで付き合ったのかわからないが、とにかくランサーと付き合うようになったから皆独り立ちをしていった。
私とランサーが暮らしやすいように。
しばらく二人で暮らしていたが、ランサーが帰郷することになった。一週間さようならだな、と言われた。
結果だけを言えば、ランサーは一週間では戻らなかった。手紙が来た。別れてほしいと、書いてあった。
そういうことか、と私は納得した。
納得したのでマンションを引き払ってアパートに引っ越した。
一人の部屋は寂しかった。辛かった。泣き叫びたかった。できなかった。
次第に食事が喉を通らなくなった。そうしてとうとう倒れたのだ。
それだけならまだよかった。
倒れた理由は、手首を深く切り刻んだからだ。
ランサーと別れてから、私はがりがりと肌をかきむしるようになった。
次第にそれでは足りなくなっていった。
ザックリとナイフで切った先から血が、血が、ランサーの色が流れていく。
あぁ、最初からこうすればよかったんだ。
一人は嫌だ、と言った私に、独りにしない、とランサーは言った。
根気強く私に言い聞かせた。私は根負けした。
信じた。
信じてしまった。
暖かいものが、ずっと側にあるんだと。
信じて、裏切られた。
「なぜここに君がいる?」
「エミヤ、」
「別れたいと手紙をよこしたのは君だろう?」
「エミヤ、話を、」
我慢できなかった。
私は、咆哮した。
訳のわからない言葉をわめき散らした。手首を掻きむしろうとしたので、ランサーがその手を掴んで、暴れまわる私を押さえ付けた。正確には抱きしめられている。
アーチャーはただ呆然と見るしかなく、兄は決して目をそらさなかった。
程なくして、見知らぬ男の一人が私に近寄ってきた。押さえ付けた腕に注射針が、打たれて、力が抜けていく。
私の意識は闇の中に消えていった。
「…悪い」
ランサーが謝ると、エミヤの兄が、こちらが言うべきことだ、と言った。
医師の免許を持っているキャスターが、肩をぽん、と叩いた。
やせ細ったエミヤの体を見て、ランサーはこの時ほど己の境遇を恨んだことはない。
ランサーの家は、有り体に言えば、貴族の出自だ。そんな出自だから、厄介なことは多々あった。あったが、あのことだけは許せそうになかった。
手紙はランサーに己の娘をあてがう為に親族が調べ上げでやったものだった。あの手紙は筆跡を似せて送ったものだった。ランサーは怒り狂って親族を罵倒し、両親には絶縁を申し出た。
このことに両親は一切関わってなかったが、ことの重大さを知った両親は、最初こそ引き止めたが、最終的には、好きにしなさい、とだけランサーに言った。
何度も連絡を取ろうとするも、電話は繋がらず、大家に聞けばマンションはすでに出払った後。
親族の後始末、家のことの整理、さらには両親の説得をして、一ヶ月後、いざ日本に戻った時にはなにもかも遅かった。
エミヤが自殺未遂した。
それが全てだった。たまたま様子を見にきた弟のアーチャーが見つけてパニックになりながらも救急車を呼び、なんとか一命をとりとめた。
だが、脳に重大な障害が残った。
記憶の混濁が激しかった。
ある時は大学のころになり、あるときは中学生。
社会人になったと思ったら、突然小学生になる。
ランサーが、全て俺が面倒を見る、と言い切った。
その通りに、ランサーはどんなエミヤをも受け入れた。
大学のころに戻ったらその通りに、小学生になったら近所のお兄さんに、中学生のときは家庭教師に。社会人のときは同僚として。
さっきみたいになったら、暴れるエミヤに殴られようが叩かれようが抱きしめた。
愛している。
それだけが理由だ。どんなエミヤも愛しかった。愛したいと思った。エミヤが自殺して死んだのなら自分も死のうとさえ思ったくらいだった。
愛している。
愛しているから、抱きしめた。
冷たい体だった。
ランサーはエミヤを抱き上げて、公園の脇に止めてあった車に乗り込んだ。
運転はキャスターだ。
オルタはエミヤの兄が運転する車に乗った。アーチャーもそちらに乗る。
車が走りだした。
ランサーが嗚咽を漏らしながら泣き出した。
キャスターは聞いてないふりしかできない。
愛している。愛している。愛してる。
エミヤ、エミヤ、俺のエミヤ。
俺のことを信じてくれたエミヤ。
独りにしないと言う言葉を信じてくれたエミヤ。
エミヤ、エミヤ、愛してるんだ。
エミヤ、こっちを見てくれ。
俺を見てくれ。
また笑ってくれ。
一緒に食事をしてくれ。
エミヤ、なぁ、エミヤ、答えてくれ。
俺を愛してると、言ってくれ。
エミヤ。
ランサーは、エミヤと暮らす小さな家に着くまで、泣き続けた。
朝起きたら、ベッドで寝ていた。
私は起きて、台所に向かう。冷蔵庫にはたくさん食材が入っていた。
さて作ろう。
作って、なんとか食事を取ろうとして、やはり食べれなかった。
全部ゴミ箱に捨てた。
シンクに食器を入れて、栄養剤を棚から取る。
錠剤を水で流し込む。
少し眠くなってしまった。
ベッドに戻って寝た。
ゴミ箱から、料理を取り出す。
そのためだけにゴミ箱は殺菌と消毒もされている。
一番最初、普通に残飯の中から出して食べたために腹を壊したからだ。キャスターが殺菌と消毒を必ずするようになった。
俺は全部取り出して、皿に戻して、手を合わせた。
「いただきます」
エミヤが、召し上がれ、と言っている気がした。
ぐちゃぐちゃなのに、美味かった。
また作ってくれ。メモにして残した。
翌日、私はメモを見つけた。誰の字かわからなかった。
私はそのメモを捨てた。
いつも通り食事を作る。
だが食べれない。
またゴミ箱に捨てようとした。
そこで、昨日の残飯がないことに気づいた。なんでだろう。
まぁいい。
私はまたそこに捨てた。