人生はいつだって先が見えないものだ。その後の生き方を左右するような重大な出来事が、ある日、何の前触れもなく訪れることだってある。人の人生を預かる身として、そんなことは十分に理解しているつもりだった。だが、そんなのはただだの思い上がりに過ぎなくて、俺は向かってくる危機に何もできない小さな人間なんだってことが、今頃になってわかってきた。守るべき大切な人が壊れてしまった後に。
「難儀だなあ…」
思わず漏れていた俺の独白は、殺風景な部屋の隅へ吸い込まれていく。生きるのに最低限のものしかないようなこの部屋を、俺はいつまでたっても好きになれない。
「んん……」
「なんじ…?」
無骨な部屋に似合わない艶っぽい声で、俺は現実に引き戻される。言葉の意味を無理やり嚥下して、6時。とだけ答えると、彼女はもたげた首を静かに下ろして、また眠りについた。
★
アイドル、緋田美琴の引退から、3年が経とうとしている。引退の理由とされた体調不良の原因はストレス性のパニック障害。引退時の美琴の症状は、素人の俺から見ても異常だった。最後まで活動を続けることを願った美琴を説得する心苦しさを上回るほどに。
美琴との同居の理由はなんだったのだろうか。そんな記憶が薄れるほどに、俺は彼女との共同生活に慣れ切ってしまった。ステージから離れた彼女の症状は回復してきていて、ここ最近は発作が出ることもほとんどない。俺との生活は、彼女にとって良いことなんだと自分を納得させる。
俺にとってはどうなんだろうか。彼女との関係は共依存に近い不健全なものなんだろうか。それとも、自分が彼女を追い詰めてしまったことへの罪悪感を埋め合わせようとする代償行為なんだろうか。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと考えごとをしてただけだよ」
「そう、なら...」
彼女のしなやかな指が俺の裾を捉え、ソファの一角へと誘う。そして、最初からそこにあるはずのもののように、俺の肩へとしなだれかかる。
上目遣いで俺を見る彼女は今にも壊れそうで、俺にはそれが、たまらなく魅力的に見えた。
「朝食はなにがいい?」
「......」
「親子丼でも作ろうか?」
「……ありがとう」
美琴の欲求への関心の薄さはアイドル時代から目を引くものだったが、今ではその傾向が極端になってきている気がする。彼女から食事の話が出ることはほとんど無いし、服や化粧品にも興味を示さない。
放っておけば死んでしまう。そう思わせるだけの危うさがあった。
★
「ほら、美琴、できたぞ」
「……うん」
美琴をテーブルに着かせると、俺はコーヒーでも淹れようと席を立った。
湯を沸かしてキッチンから戻ってくると、美琴はゆっくりと親子丼を口へ運んでいた。その姿はなんとなく愛らしくて、美しい光景だった。
そして、ふいに、彼女の頬をつたう涙に気付いて、俺は息をのんだ。
「美琴……それ……」
「あれ……なんでだろう………嬉しかったから、かな…?」
おずおずと言葉を紡ぐ彼女の頬に、大粒の涙が次々に伝っていく。
次の言葉を発しようとする彼女を、俺は強く抱き締めた。強く、強く抱き締めた。
ふたりが溶け合って、ひとつになってしまうぐらいに強く。
超好き